仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

阪神淡路大震災から14年

2009-01-17 15:08:08 | 日々雜感
今日の早朝で、阪神淡路大震災から丸14年が經過した。
あの強烈な搖れと家の柱・梁の軋む音は、いまだに何かの拍子に思ひだす。

當時は六甲アイランドの開發に携はつてゐたので、震災の翌々日には車で大阪から六甲アイランドに向つた。
43號線はTVで放送されたやうに、阪神高速の橋梁が落下してゐたので、途中で通行止め。
2號線を西に向つたが、澁滯でまつたく動かない。
東西に伸びる道路はどこも澁滯がひどく、南北に伸びる道路を使ひながら、少しでも澁滯の少ない道を搜した。

業平橋のあたりで、1・2階が座屈したマンションがあつた。
1階は下駄履き駐車場になつてゐたらしく、車が建物に潰されてゐた。
東灘區に入ると煙がひどかつた。
まだ炎上してゐる建物も多かつた。
道路におほきな龜裂が入つてゐるところもあつた。
まるで戰爭映畫を見てゐるやうで、現實とは思へない光景だつた。

普段なら高速を使つて30分ほどで到着するのだが、あの日は丸一日かかつて、やうやく六甲アイランドに辿り着いた。
車の中にゐたにもかかわらず、喉が煙や粉塵でいがらつぽかつた。

私の自宅は幸ひ、外壁に微小なクラックが入つた程度で濟んだが、最寄驛の線路の南側一帶はかなりの被害を受けた。
中には完全に倒潰した木造建築も見受けられた。
自宅界隈は山を切り開いた宅地で、いはゆる「切り土」なので地盤が強かつたらしい。
ただし、水道とガスが止まつてしまつたので、1ヶ月半ほどは妻の實家に居候させて貰つた。

交通機關も寸斷され、大阪から六甲アイランドまで行くのに苦勞した。
初めの頃は、山の手を通つてゐて被害の少なかつた阪急電車を使ひ、六甲アイランドまで歩いた。
JRが住吉まで通るやうになつて、少し歩く距離が減つた。
阪神が近くまで走るやうになつて、歩く距離が減つてやうやく樂になつた。
電車を使ひ始めた最初の頃は、大阪から六甲アイランドまで片道3時間半かかつたものだ。
往復だけで所定就業時間になつてしまふ。

地震から2ヶ月たつても、神戸市の上空は黄ばんでゐた。
建物が倒潰した時の粉塵が殘つてゐるのだ。
ひとびとはみんなマスクをして歩いてゐた。
そのマスクも1日で黒ずんでしまふ・・・

大震災はとんでもない經驗だつたが、あの頃の自分を振り返つてみると、とてもエネルギッシュだつたと思ふ。
いま、もしまたあんな經驗を餘儀なくされたら、はたして今の私は乘り切れるだらうか・・・

けふはセンター試驗。
現役の受驗生は18歳。
震災當時は4歳か。
私が4歳の時といへば、東京オリンピックがあつた。
三宅兄弟やチャスラフスカ、ジャポチンスキーなど、私はかなり覺えてゐるはうだと思ふが、それでも記憶の彼方であることは間違ない。
とすれば、いまの受驗生にとつての阪神大震災も辛うじて記憶のかけらがある程度なのだらう。

多くの人が亡くなつた大慘事。
けふは阪神の眞弓監督も長田區で行なはれるライヴ・コンサートに參加するらしい。
亡くなつたかたへの追悼とともに、いかにして天變地異に備へるかをいま一度考へなければならないと思ふ。
ひとりひとりの備へと行政の對應システムの見直し。

さうだ、被災に備へてザックに必要なものを詰めておかなくては!

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『 「古代史」 封印された謎... | トップ | 【大相撲初場所】 7日目 : ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿