仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

「大津皇子」 生方たつゑ

2007-06-12 11:43:15 | 讀書録(一般)
「大津皇子」 生方たつゑ
お薦め度:☆☆☆☆ /
2007年6月4日讀了


1978年9月20日初版發行(角川選書)

歌人・生方たつゑによる、大津皇子の評傳。
「評傳」の定義については知らないが、これは、大津皇子を描いた歴史小説と云つてもよいだらう。
客觀的な事實を説明するといふよりは、むしろ著者の大津皇子に寄せる思ひが傳はつてくるやうな、作品だ。

大津皇子といへば、天武天皇と大田皇女との間に生まれた皇子で、本來ならば、皇位繼承の第一候補となる筈の皇子であつた。
しかし、母、大田皇女が若くして亡くなり、その妹である鵜野讚良皇女が天武の皇后になつた時から、彼の運命は定まつたといへやう。
皇后となつた鵜野讚良皇女は自分の生んだ皇子、草壁を皇位につけたいと思ふのは當然だらう。
まして、天武が亡くなり、自らが持統女帝として皇位についたとなれば、なほさらだ。
かくて、大津皇子は持統帝にとつて目の上のたんこぶとなつたのである。

しかし、人物としては、誰の目にも、草壁よりも大津のはうが數段大きかつたやうだ。
「懷風藻」は、大津の人物を「状貌魁梧、器宇峻遠」と評し、その死については「嗚呼惜しき哉」と若すぎる死を傷んでゐる。
また「日本書紀」では、「詩賦の興り大津より始まれり」と記されてゐるやうに、我國で漢詩が興つたのは大津皇子からだと書かれてゐる。
つまり、「文武兩道」をその身で顯してゐたと云つて過言ではないやうだ。

大津が優秀であればあるほど、持統にとつて大津は邪魔になつた。
そして、つひに、中大兄皇子が有馬皇子を謀殺した如く、持統は自分の腹を痛めて生んだ草壁を皇位につけるために、大津皇子を謀殺した。
しかし、皮肉なことに、持統がそれほどまでに皇位を繼がせやうとした草壁皇子は、大津の死のわづか3年後に病死してしまふのである。


大津皇子の辭世の歌。
「百傳ふ磐餘の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱りなむ」
(ももづたふ いはれのいけになくかもを けふのみみてや くもがくりなむ)

その死に際して、妃の山邊皇女は、裸足で大津に驅け寄り、ともに死んだと云はれてゐる。
何とも哀しい話ではないか。
しかも、山邊皇女は、天智と常陸娘との間の皇女であり、常陸娘の父はあの有馬皇子謀殺の片棒を擔いだ蘇我赤兄だといふから、因果は巡るもの。

大津の墓は、一度は馬來田に作られたが、いくばくもなく、二上山に移された。
どうやら、「大津の墓に鬼火が炎える」といふ噂がたつたらしい。

大津の死を痛む、姉・大伯皇女の歌は、弟への思ひがよむ者にせつせつと傳はつてくる。
「うつそみの人なる吾や 明日よりは二上山を兄弟とまた見む」
(うつそみのひとなるわれや あすよりはふたかみやまをいろせとまたみむ)
「磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど 見すべき君が在りといはなくに」
(いそのへにおふるあしびをたおらめど みすべききみがありといはなくに)

合掌。




大津皇子

角川書店

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