without a trace

ヤマザキ、フリーターを撃て!

マッドマックス

2006-05-31 04:23:39 | 映画
 映画「マッドマックス」

 監督:ジョージ・ミラー。出:メル・ギブソン。79年。オーストラリア

 もう時間ないしこれでいいやと借りてみた。久しぶりの見直しと言っても小学生の時以来だと思う。狂い咲きマックスが暴走族とバトルする映画。メル・ギブソンのデビュー作でこの人は親がベトナム戦争に行かせたくないって事でオーストラリアに移住した一家らしい。監督のジョージ・ミラーは医学部出てて救急車に乗ったりして本物の事故を研究してこの映画を作った。ボス以外はリアル暴走族、スタントマン8人中3人重症2人死亡というちょっと無茶しちゃいました映画。

 舞台は数年後のオーストラリア。おそらく製作金がないから近未来じゃなくて数年後なんだろう。暴走族は我が物顔で爆走している。もちろんここはオーストラリア、日本と違って暴走族は蛇行運転なんてしようものなら次の町に行く前に日が暮れてしまう。だから常に全力爆走。警察官のマックスは日夜クズどもと戦ってる。主食:オージービーフですみたいな肉食野郎ばかり。族の名前は「ナイトライダー」とかいうデヴィッド・ハッセルホフ系だぜ。ボスは蝿が顔に止まってても気にしない男の中の男。

 マックスは敏腕で彼だけなぜかパトカーで一人行動。いかれたナイトライダーのメンバーをぶち殺してマイホームへ帰還する。サックスをなぜか吹く奥さんとかわいい赤ん坊という幸せ一家だ。海沿いの落ち着いた家に住んでいる。シャワーは三日ぶりだぜなんて言ってるオージーワールドが展開だ。化け物のマスクをかぶって奥さんと遊んでる。誰もが抱える人間の二面性を静かに映し出す。

 警察署じゃ車を拾ってきたパーツで改造して600馬力のカスタムカーを作ってる。スピードを出す以外何も考えてなさそうな素敵な車。一方の族どもは西部劇みたいにみんなでバイク乗って田舎町を我が物顔。村の男をバイクで引きずって遊んでる。ナウい車に乗ってるカップルを見つけるや斧片手に襲い始めたりとやりたい放題だ。

 ネタバレ


 カップルは襲われるも男は逃亡し女は淫売なので起訴されないのだ。裁判所のチビメガネが出てきて人権がどうたらこうたら。黙れ山の手野郎とどっちが暴走族かわからない警察にそんな言葉は届かない。

 なんだかんだで白バイ隊員が殺されてしまう。親友だった彼は横転した車ごと焼かれて焼きビーフだ。それで仕事が嫌になったマックスは休暇で一家揃って旅に出る。既にここで彼は復讐度30%くらいになってるんだろう。そこに奥さんの親戚の家で遊んでると襲われてしまう。マックスは頭の鈍い男と森を捜索中に奥さんと赤ん坊はひき殺される。そしてマックスはもはやデスウィッシュ復讐100%モード。警察署のカスタムカーを盗んで暴走族を皆殺しに行く。

 最後が面白くて、おいらは悪じゃなくて精神分裂なんだよと言うチンピラを車に手錠で足を繋ぐんだ。車はもうすぐで爆破してしまう。そこにノコギリを置いて手錠か足切断で分裂か選びなと去っていく。なんか「SAW」っぽい。あれには医者もいたしジョージ・ミラーへのメッセージだったのか。

 カワサキに乗ってる暴走族ども、なぜか剣道してる警察とネタ部分が面白い。そんなことやる必要あるのかっていうスタントや妙に弱い敵などB級映画ぽいのがまた良い。子供の頃はあんなに恐かったのに今見ると笑えるのはなぜだろう。
 ★★★

少年

2006-05-30 02:23:55 | 映画
 映画「少年」

 監督:大島渚。出:渡辺文雄、小山明子。69年

 実際に起きた当たり屋一家の話。今でもこういう儲け方をしてるって人の話はたまにニュースになる。わざと車に轢かれて示談金をふんだくるっていう人たち。この一家の父親は戦争で左肩を負傷してる傷痍軍人だ。本人は働かないで奥さんと子供に当たり屋をさせている。轢かれたら父が出てきて相手から金をふんだくるのだ。家もなく全国を周っていくというどん底の生活だ。

 舞台は四国の高知。主人公の男の子は一人友達もなく墓の周りを走ってる。一人で遊び、怪我をしても誰もいなくて一人泣いている。母親は継母で血は繋がってないので一緒にいるだけ、幼い弟に一生懸命言葉を教えてる。実の父の渡辺文雄はアンソニー・ウォンに似ていて人肉饅頭にしてきそうな勢いだ。だから少年とちゃんとしたコミュニケーションをとるものはいない。彼はどこにも居場所はなく一人で会話してるような子だ。

 母親は帽子を買ってやると少年に仕事をさせる。できないなら無理しなくても良いと言った途端に後ろから押してる。なんとか10歳の少年は当り屋デビューしていく。同じ町でやってると捕まってしまうので四国を出て尾道へ向かう。あの「東京物語」の古きよき町だ。船で瀬戸内海を渡りながら弟に話し掛けてる。海は世界中に繋がっていて海中には怪獣がいるんだぞと言ってる。彼には怪獣がいて欲しいんだ。何もかも壊してくれる怪獣が。

 学校も行けないし繁華街をブラブラしてるとカツアゲされてるのを見る。弱そうな少年は殴られて蹴られて金をむしり取られてる。それをじっと見ていた少年は事の後に近づくと弱い少年にぶっ飛ばされる。彼の大事な帽子は水溜りの中へつっこまれてしまう。暴力は弱者に対して連鎖されていく。少年はじっと耐えるだけ。そこで母親が来て彼の大事な帽子は投げ捨てられタクシーに踏まれていく。彼の大切な世界は常に踏まれるのだ。

 母は妊娠するも当り屋なんで生めない。中絶費用を稼ぐために少年は車に轢かれていく。自分の生まれてくるはずの弟か妹を殺すために自分の体を犠牲にするのだ。耐えられなくなった彼は高知に帰ろうと家出するも金は足りない。海で一人「家族ゲーム」をしながら泣いている。

 それから一家はどんどん日本海側を北上していく。太平洋じゃなくて日本海というのが「砂の器」チックでいいよね。厳しい海に厳しい気候、一家の運命のような厳しさ。母は子供を中絶するふりをして産婦人科から出てくる。それを見ていた少年に怒る「私を継母だから嫌いなんだろう、お前はあのオヤジの子だからクズだ。オヤジより悪党だ」とヒステリックに殴る。何も言わない代わりに腕時計を買ってもらう。少年の時計の時間は変えられても運命の時間は決して変えられないのだ。一家は北上して北海道へ。やっぱアウトローは北海道の寂しさが似合う。

 ネタバレ


 日本最北の稚内で海を見ている一家。もはや海の先はないんだ。カタギに戻って大阪で再起しようと決意する。しかし夫婦は子供の取り合いで喧嘩になってしまう。母親の血が雪だらけの真っ白な地面に染まり、少年は自分の体を時計でむしって自傷しようとしている。彼は明らかに父の血を出そうとしてるのだ。怒った父は彼の腕時計を放り投げる。それを取りに行った弟を避けた車が事故。乗ってる少女は死んでこっちを見つめている。車なんかに乗ってる勝ち組少女と住んでる世界の違う負け組少年が出会ったのだ。死体と見つめあう少年。少女の赤い長靴を少年は持っていく。

 父親は裸になって銃弾の貫通した体を見せて怒る。おれは戦争で傷ついたのにお前は腕一本さえも折ってない、それでも貴様は働いてるつもりなのかと。このオヤジはどう見ても戦争に対しての怒りが抑えられなくて家族にも負わせようとしてる。
 少年は長靴を持って出て行くんだ。雪だるまを作って弟と眺めてる。あの雪だるまは宇宙人なんだ。車も恐くないし泣かないし怪獣を倒してくれる。その宇宙人を泣きながら壊していく。誰も助けてくれない壊してくれないバカヤロバカヤロー。

 大阪で再起するも一家は逮捕される。少年は護送されながら海を見てる。少年はただ泣いて見つめている。窓越しから見えるのは海であって死体の女の子だ。真っ白な雪景色の中に染まっている赤い血。もちろんこれは日の丸を表してるんだろう。

 メッセージ性は時代もあるんで恐ろしく強い。難しい映画ばかり作ってるイメージだけどこれは判りやすかった。父は戦争という不条理の中で負った決して消せない記憶を押し付けてるんだ。戦争責任を誰のせいにもできず、高度成長の波にも乗れないドン底ピープル。
 つげ義春なんかもそうだけど古きよきどん底ピープルが描かれる。「モジュレーション」て映画で印象的だったのはデトロイト・テクノがなぜ発達したかで言ってたたのが「どん底の負け組だらけのこの町じゃ、自己表現だけが現実逃避だったんだ」
 大島渚も成瀬巳喜男も若い頃に父親を亡くしてるらしい。この人たちのヒューマニズムとかここら辺かなり興味深い。
 大島渚鑑賞6本目。★★★1/2

女の座

2006-05-28 02:05:25 | 映画
 
 映画「女の座」

 監督:成瀬巳喜男。出:笠智衆、高峰秀子、杉村春子。62年

 笠智衆もいるし小津安二郎リスペクト的な作品だ。というわけでまたもや小津さんホラーが登場するのか。家族が崩壊していくプロセスが淡々と描かれる。登場人物が多すぎて前半つまらないんだけど後半たたみかけてくる。母子家庭息子、ニート、生娘とこの監督らしい登場人物だ。
 
 大黒柱だった爺さんが倒れることによって一家に集う子供たち。死ぬかと思いきや笠智衆なので死なないのだ。葬式という儀式が起こるのかと思って集まった一家は一安心だ。この一家は女がやたらと多い。長男は死んでその未亡人である高峰秀子が義理の両親の面倒を見てる。こりゃ小津映画の原節子そのまんまだ。中学生の息子がいるので再婚しない。再婚するってのは跡取りとなる男の子をこの家庭に残さないとならないのだ。他にも会社が潰れて働かないニート女、離れを建てて生花を教えてる草笛光子、ラーメン屋を経営してる次男、家賃収入で暮らす勝ち組の長女、それに九州に嫁いでいた娘夫婦も上がりこむ。わけわからないが、とりあえずよろず屋を経営してるこの家に大学なんて行ってる者はいない。だから高峰としては何とか一人息子に勉強して大学行って欲しいんだ。しかしこの息子は頭がよろしくないのだ。

 再開発で高速道路が通るのでこの家は潰れる運命にあるらしい。いかにも時代を反映させるこの監督らしい展開。大黒柱である笠智衆が倒れたこの家は社会から潰されていくという運命だ。子供たちはこの家が潰れれば金が入るってのがわかってる。ニート女は兄のラーメン屋で働くことにする。ニートからフリーターにステップアップだ。後は結婚というあがりだけ。
 結婚というあがりを選択しない草笛光子。もう30歳だけど男に興味はないという自立した女というより、私は人とは違うの系女だ。現代ならカフェとかワインにやたらと詳しそうだ。彼女は女の自立と結婚という狭間に揺れてるんだろう。だからか結婚もしていたよそ者である高峰秀子が嫌いなんだ。

 そこに母である杉村春子が再婚前に残してきた息子である宝田明がカッチョよく登場。外車のブローカーをやってるナウい男だ。両親は離婚して母親と別々になり、父は再婚するも継母と上手く行かずに父も死んだという経歴を持つ。そのロンリーウルフな経歴と顔を生かして女を騙して金を巻き上げてるのだ。高倉健みたいな利益がなくても戦う漢じゃなくてドンペリ入りまーすとか言ってそうな男。彼は母を知らずに育った男、この家にいる息子は逆に父を知らないという対極にある。宝田の父も詐欺師みたいな男だったようで同じような道を着々と歩んでいる。しかし実の母には知られたくない。

 以下ネタバレ

 草笛はそんなロンリー宝田を好きになる。告白して今にも飛びかかりそうな欲求不満全開モードだ。しかし宝田は未亡人高峰を愛してしまう。ここら辺に彼の悲しい生い立ちが滲み出ている。ここからこの映画は素晴らしい展開になっていく。
 自立から結婚に傾いた草笛としてはジェラシー全開、宝田としては世間知らず女は金だけ取って未亡人と自分の人生を取り戻すべくラブラブしたい、高峰はやっぱり息子のことがあるしそこまでバカじゃないので男を振るのだ。三角関係は簡単に崩れてしまう。町から去っていく男。

 家庭教師つけても成績が上がらなくて落ち込んでる一人息子。そこで小津さんホラー発動。突然この息子が電車に轢かれて死ぬ。ここで面白いのはなぜ轢かれたのかわからないんだ。
 母親という膜の中で大事にされて育った母子家庭息子が厳しい世間に耐えられずに自殺したか、あるいはロンリーな宝田あるいはジェラシーまみれの草笛が殺した可能性もなくはない。おれとしては殺人で宝田明が殺したと思った。列車を家族の象徴とするならば息子は家族に殺されたんだけども、息子は家族に対して悩んでるようには見えない。彼は中途半端に金持ってる自分が大学行かされて、頭良くても貧しい子は中学から働くのかと団塊白書な悩みを抱えてる。これは団塊世代が大学行ってもろくなことしないだろうから死ねという革命的メッセージなのかは謎だ。彼は自殺するほど自分の人生や生い立ちと戦ってるようには見えないんだ。しかし宝田は生い立ちと戦ってるんで殺害動機は高いと思うんだけどな。

 家族という共同体に対しての幻想みたいな視点がある。剥けばエゴの塊な人間が大人になるにつれて嫌でもディスコミュニケーションになり家族は崩壊していく。って考えると息子は家族という幻想にひき殺されたんだろう。

 家を高速道路にされないとわかった子供たちはスーパーにしよう、アパートにしようワイワイガヤガヤギシギシアンアンしている。老夫婦と未亡人の高峰は一緒に家を買って暮らそうと話してる。部外者の女だけが優しいっていう「東京物語」みたいだ。あの映画ほどの上手さはないけども、この老夫婦としてもあなたは自分のリアルな人生を生きなさいってほのめかしてるんだろう。もはや女の座はお開きしたが今日もちんどん屋は踊っているのだ。
 成瀬鑑賞16本目。★★★1/2

666号室

2006-05-26 01:41:24 | 映画
 映画「666号室」

 監督:ヴィム・ヴェンダース。ミケランジェロ・アントニオーニ、ジョナサン・デミ、スティーブン・スピルバーグ、ジャン=リュック・ゴダール。82年

 ヴェンダースがカンヌ映画祭で集った各国の映画監督に映画の将来を聞く。部屋に監督を一人放置して自由に語ってもらうというドキュメンタリーだ。タイトルだけ聞くとオーメン?と言いたくなるが全く関係ない。

 語りたがる人とそうでない人の差がはっきりとしてるように見える。スピルバーグを始めとするアメリカ人とゴダールやらヨーロッパ人の間にも映画の作り手の意識がかなり違う。アメリカ人はなんだかんだでハリウッドはそれほど衰えてないので産業について語り、ヨーロッパ人は映画自体について語っている。

 いきなりゴダール登場。この爺さん邦画はあんまり見てないけど「VERSUS」良かったとか「あずみ」の上戸彩に感心したとか言ってたような。見まくりじゃねえかと一人つっこんだ記憶がある。彼が言うにはテレビってのはCMがあったからこそ発展してきた。企業や政治という権力によって支配されてきた経緯がある。だから映画とテレビの違いは表現の自由ってのは大きいんだろう。映画ってのは大衆が支持してきたので反体制になったり逆になったりと、観客の望む世界がイメージとして映像化されて発達してきた。

 黒沢清だかが刑事物はなぜつまらなくなったかではみ出しアウトロー刑事がいなくなったからだと言ってた。常に大衆のお手本みたいな存在になってる。でも客としてはやっぱ「その男、凶暴につき」みたいなのが見たい。映画なんてのは負け組搾取産業じゃないのかと。昭和の日本は民度が高かったから、映画館には任侠、ロマンポルノ、残酷モンド、ハードコアポルノと大ヒットしてたようだ。人間の欲望なんて今も変わらないけどおそらく産業が細分化してるんだろう。

 スピルバーグは資本家中心の産業を嘆いてる。「宇宙戦争」なんかでも過去のリメイクに対する強いメッセージを感じた。あれは過去の埋まっているエイリアンという名の昔の映画が現代人を襲ってくる話に見えた。それと嫌でも戦わないといけない現代人の風刺というか。これは映画会社に対するメッセージなのか、スピルバーグって人ほど色々と語って欲しい人はいない。
 冷戦時代は資本主義も共産主義という敵対国がいたから企業も利益を社会に還元していた。今は新資本主義というか国家関係なくグローバリズムという名のもとに利益を一部の人間が奪っていく。そんな社会だから面白いのはインディーズから出てくると思う。某派遣会社の社長は言ってた「みなさん下流下流って言うけど、ベンチャーって下流から出てくるんですよ」

 登場する監督が嘆いてて以前から思ってたのはなぜそこまで映画館にこだわるのかってこと。おれが行かないのは金がないってのと、映像を戻したいから。そりゃ「マルホランド・ドライブ」でナオミ・ワッツの裸が出てきたら誰でも戻したくなるだろうっての。でも映画館の記憶ってのはなぜか強いんだ。
 二本立ての映画館に結構行ってた。今は知らないけど半券で出入り自由だったから弁当買ってきて食いながら見てたりする。客も空いてるから寝に来てる人とか堂々とタバコ吸ってるおっさん、映画が友達な時代に乗れてなさそうな青少年、そしてこういう映画館に特徴的なやる気のないバイトという素敵さ。なぜかここで見た映画は記憶に残ってる。
 なんか映画の感想になってないな。個人的に注目してるヘルツォークとファスビンダーがあまり語ってないのが印象的だった。
 ★★1/2

わらの犬

2006-05-25 02:41:06 | 映画
 映画「わらの犬」

 監督:サム・ペキンパー。ダスティン・ホフマン、スーザン・ジョージ。71年

 10代の頃にこの映画を見て凄まじい衝撃を受けた。どれくらい衝撃かというとこの監督の映画がその後に見れないくらいの恐怖を感じたね。まだインターネットもやってなく、こんなタイトルで暴力があるとは知らず基本的に「マッドマックス」なんかでもちびりそうになってたビビリ屋のおれとしてはトラウマ寸前だった。というわけでおれの中では今でもペキンパー=恐いの図式だ。なんとか久しぶりに見直してみる。愛がすべてなんていう世界には無縁な映画。

 イギリスの田舎に引っ越してきた夫婦。夫はアメリカ人で数学者、妻は美人でこの近辺の出身という幸せな夫婦。この時代のアメリカは人種問題、反戦、冷戦、犯罪、暴動ともめまくっていた。そういうしがらみを抜け出してイギリスの田舎で平和に暮らそうとして夫婦でやってきたのだ。奥さんはノーブラで乳首が服から浮かんじゃってる垢抜け女だ。こういった田舎町のしがらみを抜け出してアメリカに渡った人なんだろう。そんな夫婦は村の注目の的だ。

 パブに行くと足元見られまくり。スニーカーなんて履いてるぜヤンキー野郎めと。労働者階級の人間はわざとグラスを手で割ったりと露骨に煽る。酒、女、喧嘩というブルーカラー三大欲求を常に求めてるのだ。そこに気の弱そうなチビっ子ユダヤ系アメリカ人メガネお坊ちゃん登場。奥さんは若くて美人だしビッチ度も高い。しかも若い労働者の一人は彼女と以前に関係を持ってたことがあるのだ。ターゲットオン。

 奥さんはネコを飼ってて自分も子供のように振る舞ってる。構ってもらえないと黒板に書いてある難解な数式を書き換えてしまうような憎めなさ。お前は「リング」の中谷美紀かという展開だ。地元の労働者の若者たちは車庫の修理を頼まれてて家に出入りしている。夫婦の夜の生活もガキどもが覗いてる。まさに覗くという行為が映画そのものでいわばこの家で物語が展開されていくのだ。ここから本格的に映画になる。

 労働者たちは弱そうなホフマンを舐めまくってる。夫婦の飼ってるネコを殺してクローゼットに吊るのだ。犯人がわかっていながら彼らに証拠がないじゃないかと何も言えない夫。彼には下層階級と田舎のしがらみというノーフューチャー数式を理解できないのだ。しまいにはビールで乾杯なんてやってる。そこで彼らに猟に誘われる。仲良くなろうとノコノコと着いていく夫。銃を持たせて放置させてる間に若者は一人奥さんのいる家に入り込むのだった。。


 以下ネタバレ

 猟で鳥を倒すも、死体を持って我に帰ってそっと戻すホフマン。彼は残酷性と無縁の生活をしてきたのだ。そんな呑気なことをしてる間に奥さんは殴られて襲われてる。しかも徐々に受け入れてしまうっていう展開だ。夫は帰宅するももはやネコであった妻はいない。そこにいるのは呑気なバカ夫に失望した女である。彼女は何をされたか言わない。
 もちろんタイトルに犬という文字があるんでレイプもワンちゃんスタイルというオチ。そんで驚いたのはこの男の一人はおそらく動物か同性とやってるってのを暗示してる。かなり倒錯してるのが衝撃的だ。

 教会のパーティーに行くも奥さんは襲われた光景がフラッシュバックする。子供が遊んでるのとレイプシーンが交互に繰り返されるという異常さ。一方で女の子につい悪戯してしまうという障害者の変態がいて、またビッチな女の子が彼を誘って遊ぶ。そんな彼女を故意じゃなくて殺してしまう。

 殺してしまった彼を家に匿う主人公夫婦。変態野郎を渡せと怒り狂う労働者たちが家を取り囲む。しかしアメリカンなホフマンは渡さない。渡したら私刑で殺されるのは目に見えてる。何で彼を差別するのだ、どんなマイノリティーにも人権はあるはずだ、もはやアメリカンデモクラシー全開モード。家に入ったら訴えるぞと言ってる。金さえあれば誰かがやってくれるという感覚だ。助けにきた村の有力者も故意じゃなくて殺されてしまう。ここで話的には周囲の環境が二つの殺人を起こさせたんだろう。しかし戻れなくなった労働者たちはもはやノーフューチャーモード。投石したり放火してみたりとフーリガン状態。なんとか家に入り込んで三人とも殺そうとしてくるのだ。

 そこでついにホフマンぶち切れですよ。戦うことから逃げることは決してできないのだ。銃もないがマイホームに立てこもって理系脳を駆使して奴らを倒す。あれだけ平和派だった男がついに自己の暴力性に目覚めてしまう。ナードをなめんなよと容赦なくぶち殺していく。スローモーション階段落ち、中世グッズで殺すなど素敵なバトル。終わった時には家の中には死体と殺人者しか存在しない。

 なんとか助けた変態男を車に乗せて運転していくホフマン。車はカメラのこちらの方を向いている。「グッドウィル・ハンティング」の明るいラストと逆だ。イギリスとアメリカの車線は逆であり、彼の運命は夫婦の破滅は既に決められていたのだ。

 見直しても何もかもが異様な雰囲気で恐かったね。何が恐いかって見てる側が暴力にカタルシスを感じるんだ。こんなクズどもはぶち殺せって。時代は変わっても同じような問題、同じような曲が流れるというなんというか大英帝国アイロニーを感じる。そこにニューシネマ調な展開という傑作としか言いようがない。
 この頃のニューシネマ期のアメリカ映画は本当に輝いてると思う。若者は何かと負け組全開で自己破壊していくんだ。
 ★★★★1/2