木曽三川 ブラタモリ 2023.7
木曽川、長良川、揖斐川…3本の大河が集まる下流域で、人々はどのように暮らしてきたのか?
木曽三川公園のタワーから木曽三川や濃尾平野を一望し、薩摩義士を祀る治水神社へ。
行基寺では、隆起した海底の痕跡を発見し、感動した庭と絶景を満喫。
日本三大稲荷神社と言われる千代保稲荷神社で参拝したあとは、門前町では名物の串カツを堪能するなど、岐阜県の南部・海津市をマナビながら”ぶらり旅”。
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木曽三川の洪水と宝暦治水
この時期の雨は、都市用水や農業用水にとっては天からの贈りもの。しかし、時には雨も困った問題をおこします。降りすぎると川が増水し、氾濫してしまうことがあるからです。
木曽・長良・揖斐という三つの川の下流地域である長島町や桑名市は、古くから幾度となく繰り返される水害に悩まされてきました。
宝暦3年(1753)、この地域は洪水のため大きな被害を受け、江戸幕府はこれを機に、三つの川の治水工事を行うことを決定しました。
この地域の治水工事は、幕府も何度か行ってきたのですが、今回の工事は、これまでとは比較にならない程の大規模な計画でした。
翌宝暦4年正月、薩摩の島津家は、幕府からこの大工事を島津家で行うように、という通達を受けました。
今でいえば、鹿児島県が全額負担して、他府県の治水工事を行うことです。島津家は騒然としましたが、幕府からの命令です。
即刻、総奉行に家老の平田靭負が任命され、工事は開始されました。しかし、なぜ、木曽三川から遠く離れた島津家にこのような命令が下ったのでしょうか。
それは「御手伝普請」という、各藩の勢力を抑えるために用いた幕府の政策によるものだったのです。
たとえば、藤堂藩も度々、御手伝普請を命ぜられています。
寛保2年(1742)には、利根川筋の水路工事を命ぜられて約四万五千両の出費をしましたし、また、江戸城や日光などへも御手伝普請として赴いています。
中でも島津家は、財政が豊かであると思われていたため、幕府は、この工事を押しつけることで、治水工事の完成と島津家の勢力削減という一石二鳥の効果を期待したのです。
この工事による島津家の支出は約40万両、現在のお金に換算すると約 480億円。工事に参加した藩士約1千名、工事によって命を落とした者は約80名。
そのうち、幕府の役人たちとのいざこざで自殺した者が50名を超えていました。
この難工事を完成させ、水害の多かったこの地域に大きな恩恵を授けた平田靭負の墓は、桑名市八間通りの海蔵寺にあります。
輪中とは、一般的には堤防で囲まれた構造、あるいはその集落を意味する。
濃尾平野の木曽三川とその支流域にあたる岐阜県・三重県・愛知県の県境付近に発展しており、曲輪または郭・輪の内など輪中を意味する用語は多数存在する。
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