[注釈]
*Drame refait... : midoriさんの疑問に答えることにもなりますが、drame が無冠詞なのは、前述された内容のいわば同格となっているからでしょう。つまり、生存者の眠れぬ夜にふたたび訪れる悪夢のような記憶、その思い出そのものがdrameだと述べられています。見落としがちですが、refait は過去分詞形、dormirentは単純過去形がとられています。
この後の内容にもかかわってきますが、アランは惨劇(悲劇)とは、出来事そのものではなく、記憶であり、物語であると考えているわけです。これは、哲学者大森荘蔵の「想起は記録や報告にではなく詩作に似ている。」(『時間と自我』)という主張と通じるものがあります。
[試訳]
こうした大規模な海難事故からの生還者は恐ろしい記憶をとどめている。円窓に聳え立つ氷山の絶壁が映る。一瞬どうしていいか分からなくなりながらも、つぎの一瞬には希望が兆す。すると、おだやかな海に大きな船体が照らし出される光景が浮かぶ。船体前部が沈む。突然あらゆる照明が消える。たちまち千八百人の乗客の叫び声が上がる。船の後部がタワーのようにせり上がる。機械類が凄まじい音とともに前方へ滑ってゆく。そしてついにこの巨大な棺が、ほとんど波を立てることもなく海に沈んでゆく。夜の寒さが人々の孤独を領してゆく。そのあとは、凍え、絶望。しかしついに救いの手が差し伸べられる。生還者たちの眠れぬ夜ごとに、惨劇はこうしてくり返される。そこでは多くの思い出は今や結ばれ、それぞれの情景は不吉な意味を帯び、一編の悲劇が構成される。
……………………………………………………………………………………………..
(ご挨拶が遅くなりましたが)midoriさん、そしてmasaakiさん Bienvenus !しばらくぶりの「新入生」うれしく思います。
Mozeさんがアランの文章のリズムに触れられていましたが、みなさんのそれぞれの訳文にも整ったリズムを感じました。それぞれが『幸福論』の新訳を編めるのではないかと思わせるほどです。次回は rien senti. までとし、14日(水)に試訳をお目にかけます。
ところで、この場でその名を話題にするのは、はじめてでしょうか。松浦寿輝という詩人・仏文学者・作家は、野球少年がイチロー選手に憧れるにも似て、ぼくの敬愛の、憧憬の対象です。そして、ぼくが古井由吉の愛読者であることは、ここで何度か述べた通りです。その二人の対談がここ20年ほどの間に何度か重ねられていて、その都度見逃すことなく読んできました。
そのお二人の最新の対談が「群像」12月号に掲載されています。その中のこんなやり取りには大いに刺激されました。松浦がこう言葉を向けます。
「今の時代、どうも「読む」という行為自体が危機にさらされていると思うんです。」最近の学生[註 東大の大学院生のことだと思われますが]の情報処理能力と論文などの生産性の高さに舌を巻きながらも、こう続けています。「しかし、どうも身体にこたえるほどまでに執してものを読むということ、古井語でいうと粘りですか、その粘りがなくなっているような気がしてならないんです。」
古井「原文の文章ごとの呼吸の長さ、それから口調の上り下がりは読み込むことでしか身につきません。情報だけでは幾ら研究書を読んでもわからない。」
そのあと松浦がこう引き取ります。「『読む』という体験をいちばん生々しく教えてくれるのは文学なんですよ。」古井の小説などは一二度読んだだけでは読み切った気持ちにならないと述べ、こう締めくくります。「そういう貴重な読書体験を味わわせてくれる小説は、ほとんど古井さんのものだけになってしまったような気がしています。」
翻って今回のみなさんのアランの訳を読んでみると、それぞれしっかり「身体」で読んでいるのがわかります。アランのリズムに寄り添っている。
フランス語という言語が、この極東の地の生活の中、どこかでみなさんの支えとなっていることを願ってやみません。Shuhei
*Drame refait... : midoriさんの疑問に答えることにもなりますが、drame が無冠詞なのは、前述された内容のいわば同格となっているからでしょう。つまり、生存者の眠れぬ夜にふたたび訪れる悪夢のような記憶、その思い出そのものがdrameだと述べられています。見落としがちですが、refait は過去分詞形、dormirentは単純過去形がとられています。
この後の内容にもかかわってきますが、アランは惨劇(悲劇)とは、出来事そのものではなく、記憶であり、物語であると考えているわけです。これは、哲学者大森荘蔵の「想起は記録や報告にではなく詩作に似ている。」(『時間と自我』)という主張と通じるものがあります。
[試訳]
こうした大規模な海難事故からの生還者は恐ろしい記憶をとどめている。円窓に聳え立つ氷山の絶壁が映る。一瞬どうしていいか分からなくなりながらも、つぎの一瞬には希望が兆す。すると、おだやかな海に大きな船体が照らし出される光景が浮かぶ。船体前部が沈む。突然あらゆる照明が消える。たちまち千八百人の乗客の叫び声が上がる。船の後部がタワーのようにせり上がる。機械類が凄まじい音とともに前方へ滑ってゆく。そしてついにこの巨大な棺が、ほとんど波を立てることもなく海に沈んでゆく。夜の寒さが人々の孤独を領してゆく。そのあとは、凍え、絶望。しかしついに救いの手が差し伸べられる。生還者たちの眠れぬ夜ごとに、惨劇はこうしてくり返される。そこでは多くの思い出は今や結ばれ、それぞれの情景は不吉な意味を帯び、一編の悲劇が構成される。
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(ご挨拶が遅くなりましたが)midoriさん、そしてmasaakiさん Bienvenus !しばらくぶりの「新入生」うれしく思います。
Mozeさんがアランの文章のリズムに触れられていましたが、みなさんのそれぞれの訳文にも整ったリズムを感じました。それぞれが『幸福論』の新訳を編めるのではないかと思わせるほどです。次回は rien senti. までとし、14日(水)に試訳をお目にかけます。
ところで、この場でその名を話題にするのは、はじめてでしょうか。松浦寿輝という詩人・仏文学者・作家は、野球少年がイチロー選手に憧れるにも似て、ぼくの敬愛の、憧憬の対象です。そして、ぼくが古井由吉の愛読者であることは、ここで何度か述べた通りです。その二人の対談がここ20年ほどの間に何度か重ねられていて、その都度見逃すことなく読んできました。
そのお二人の最新の対談が「群像」12月号に掲載されています。その中のこんなやり取りには大いに刺激されました。松浦がこう言葉を向けます。
「今の時代、どうも「読む」という行為自体が危機にさらされていると思うんです。」最近の学生[註 東大の大学院生のことだと思われますが]の情報処理能力と論文などの生産性の高さに舌を巻きながらも、こう続けています。「しかし、どうも身体にこたえるほどまでに執してものを読むということ、古井語でいうと粘りですか、その粘りがなくなっているような気がしてならないんです。」
古井「原文の文章ごとの呼吸の長さ、それから口調の上り下がりは読み込むことでしか身につきません。情報だけでは幾ら研究書を読んでもわからない。」
そのあと松浦がこう引き取ります。「『読む』という体験をいちばん生々しく教えてくれるのは文学なんですよ。」古井の小説などは一二度読んだだけでは読み切った気持ちにならないと述べ、こう締めくくります。「そういう貴重な読書体験を味わわせてくれる小説は、ほとんど古井さんのものだけになってしまったような気がしています。」
翻って今回のみなさんのアランの訳を読んでみると、それぞれしっかり「身体」で読んでいるのがわかります。アランのリズムに寄り添っている。
フランス語という言語が、この極東の地の生活の中、どこかでみなさんの支えとなっていることを願ってやみません。Shuhei
朝日がマクベスの城に昇るとき、夜明けとツバメたちを見る一人の門番がいる。みずみずしく、単純で、清らかさに満ちた絵だ。しかし私たちは犯罪が起きたことを知っている。悲劇的な恐ろしさが、ここで絶頂に達する。同様に難破の記憶においても、それぞれの瞬間がつきまとうであろうことによって照らし出される。このようにして海の上に照らし出された静かでがっしりとしたこの建造物のイメージは瞬間のなかで確固としたものになる。記憶の中で、彼らが見るであろう夢の中で、私がそれについて作り出すイメージの中で。それは恐ろしい期待の瞬間だ。ドラマは今や一人の観客のために繰り広げられる。その観客は知っており、理解しており、分刻みの臨終を経験している。しかしまさにその行為の中に、その観客は存在しない。思考が欠如している。印象が光景と同時に変化する。より正確に言うと、光景というものはなくて、思いがけない認識のみがある。それは解き明かされることもなく、間違って関連付けられ、思考を飲み込んでしまう行為の認識だ。瞬間ごとの思考の難破。それぞれのイメージが現れては、消えて行く。事件がドラマを殺してしまった。死んでしまった人たちは何も感じない。
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『マクベス』の中で、陽が城に昇る時、その夜明けとツバメを見ている門番がいる。冷ややかさ、素朴さ、純粋さに満ちた光景である。しかし、私たちは、犯罪が行われたことを知っている。悲劇的な恐怖がここで頂点に達する。同様にこの難破の記憶においても、どの瞬間もこれから起きることによって照らし出される。すなわち、海上にすっかり明るく照らされ、静かで堅固なこの大きな船のイメージは、その瞬間には穏やかなものであった。しかし、記憶の中や人々が見る夢の中、また私がいだくイメージの中では、その瞬間は、恐怖の待機の瞬間である。悲劇は、今や刻々と死ぬほどの恐怖を経験し、理解し、味わう観客のために繰り広げられる。しかし、出来事そのものにおいては、観客など存在しない。反省もない。印象は光景とともに変化する。そしてもっと言えば、光景などなく、ただ不測の、説明のできない、ばらばらの認識が、とりわけ思考を圧倒する出来事があるだけだ。どんな時も思考が難破するのであって、どのイメージも現れては消える。事件は悲劇をなきものにしてしまった。亡くなった人々は何も感じないのだ。
マクベスの中、城で夜が明けるとき、日の出とツバメを見る門衛が登場する。みずみずしさ、素朴さ、清らかさに満ちた場面だ。しかし、私たちは殺人が犯されたことを知っている。悲劇的な恐ろしさはここで頂点に達している。同様に、海難事故の記憶の中、一瞬一瞬は続いて起こることにより鮮明に浮かび上がっている。したがって、照明を受け、静かで頑丈な巨大な船体のイメージは、その瞬間、心安らぐものだった。生き残った人々の記憶の中、彼らがこれから見るであろう夢の中、私の持つイメージの中、それは恐ろしい次を待つ瞬間だ。今では惨劇は、刻々と最期を知り、理解し、味わう当事者に対し展開する。しかし、事態の進展そのものの中には当事者は存在しない。思考は停止し、光景とともに印象は変化する。そして、より正確に言えば、光景など存在せず、ただ、予想などできず、解釈不能で、うまく関係づけることのできない知覚があるだけであり、とりわけ思考を凌駕する事態の進展があるだけである。絶えず思考は沈んでいき、個々のイメージは現れ、消える。起こったことが惨劇を消滅させてしまった。命を落とした人々は何も感じなかった。
「質の高い課題」を探してくださる先生に感謝の気持ちをもちながら、訳を作っていました。spectable、actionなど、単語そのものの意味がつかめず、内容の理解ができなかったところもありますが、それでも「読む」ことのよろこびを感じました。
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マクベスの城の夜が明ける時、日の出とツバメたちを見ているひとりの門番がいた。爽やかですっきりとした、清々しい場面だ。だが我々は犯罪が起こったのを知っている。悲劇的恐怖はこの場で絶頂に達した。同様に、難破した時の記憶の中では、その瞬間の次に起こることが鮮やかに照らし出される。このように、すっぽりと照らされ、ゆったりと、またどっしりとして見える海に浮かぶ船の姿は、それだけをとれば安心感あるものだったが、過去の記憶や、生還者たちがみる夢、私が気にかけているイメージの中では、或る恐ろしいことを想起させる瞬間なのだ。刻一刻と迫りくる断末魔を経験し、理解し、味わったひとりの観客の目の前で、悲劇は今まさに繰り広げられている。だが同様のストーリーの中に観客は存在しない。思考することができないのだ。受ける印象は光景によって変わってくる。より正確に言えば、光景などなく、ただ、予期することも言葉にすることも関連づけることもできない感覚、とりわけ思念を満たす劇のプロットがあるのだ。一瞬ごとに思考は崩れ、残像が現れては消えていく。事件は惨劇すら鈍くした。死の恐怖を経験した者は何も感じなかった。
今年も先生にご指導いただきありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。
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感じる。それは思いを馳せることだ。そして思い起こすことである。誰もが大小様々な波乱のなかに同じものを認める。今まで知らなかった、思いもかけない急いた行動に注意が集中してしまい感情が疎かになっている。一生懸命出来事そのものを再構築してみようと試みるが何も分らず、何も予期せずに夢のなかにいるかのようだ。しかし、今や考えると恐怖が蘇り悲劇へと引きずられてゆく。死に至るまでの病を辿るとき、人はこのように悲嘆のなかにいる。そのとき茫然自失しそれぞれの瞬間の動きと知覚そのものになっている。たとえ他の恐怖や絶望のイメージを付与しようとしても、人が苦しむのはその時ではない。苦痛にあまりに思いを馳せる人が、人を泪させようその苦しみを語るとき、その行為のなかにはまだかすかな安堵が認められる。
とくに、死者の感情がどんなものであったとしても、死は全てを消し去ってしまう。私たちが新聞を開く前に、責め苦は幕を閉じてしまっている。彼らはもう苦しみから回復しているというこの誰にもなじみのある考えは、つまり人は本当に死後の世界を信じているわけではないと思わせる。しかし、生存者は想像のなかで死者の死ばかりを繰り返しているのだ。