フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Jean-Luc Nancy << Au ciel et sur la terre >>

2007年12月26日 | Weblog
Lecon 134 注釈と試訳

 [注釈]
 文章は平易なものでしたし,みなさんもしっかり理解されていたようですから,簡単な評釈を。
 ナンシーは子供の質問に二つの問題を見て取ったようです。ひとつは、神の「存在」の問題。これは,神は「ある/ない」という存在の問いを超越したものであると、文章の前半で答えています。
 それからもうひとつは、世界の「始源」の問い。これも、神を世界の創造主と規定すると、こんどは神以前の状態をどう考えるのかが問われなければならなくなる。その無限後退を避けるために,「神は存在しなかった」と答えているわけです。

[ 試訳 ]
 どうして神様は存在するのですか。またどんな風に存在するのですか。

 ああ。(あちこちで笑い) 今の質問での笑いですね。わたしはさきほど、神の存在の問題は問わないと言いましたが,それはあまりに難しい問題だからです。わかってもらえるでしょうか。
 あなたの質問には二つの面があります。まず、わたしが明らかにしようとしたのは,神は,特定の物や人のようには存在しないということでした。よろしいでしょうか。ですから、たとえわたしが、神はどこにも存在しないと言ったしても、同時に神はあらゆるところに存在するのです。キリスト教の言い方にならって「神は愛なり」と言ってもいいのですが、その愛も遍く存在すると同時にどこにもないのです。あなたにも好きな人がいるでしょう。お分かりのように、その思いはどこかにある物のようには存在しませんね。ハートを描いてカードを送ることは出来るかもしれませんが,それはあなたの思いの記号であって,あなたの思いではありません。つまり、そうした意味では神は存在しないのです。
 それから、あなたは神はなぜ,どのように存在するのかと問われましたが,あなたは大きな力を持った人格のようなものをすでに想定されていますね。でもその問題については,つまり、世界の創造については、わたしはまったく触れて来ませんでした。あなたが考えていたのは,その問題ではありませんか。そうですね。まさに、神を世界を創造した何者かとして思い描くと、世界の創造を、世界を作り上げることのように理解すると,例えばその水の入ったビンを作った人のように思い描くと、…。これはいい例ですね。このビンを作ったのは誰でしょうか。機械か,いくつもの機械、工場で働く人たちもそうでしょう。たぶん、少しの人手とたくさんの機械なのでしょう。神はそうなふうに世界を創造したと思い描くと、それはつまり、神はどこかに小さな脳を備えているにしても,巨大な機械であり,とりわけ、私たちが今乗っかっている巨大なトラックを作り出すほどの強力な機械だということになります。でも、そう考えてみてもまったくうまく行きません。というのも、直ちに次の問題を考えなければならないでしょうから。つまり、その機械は誰が作ったのか、と。そのために、三つの一神教いずれにおいても、創造の問題は最も熱く論じられる問題のひとつであり,創造の問題は、無からの創造の問題なのです。そのことをラテン語、イクス・ニヒーロの創造という言葉を使って人々は常に論じて来たわけです。つまり、無からの創造です。そのことは、神が物質を使ってのように、無から世界を作った巨大な機械である、ということを意味しているわけではありません。それはまさに、それ以前には何もないということを、世界はそこにあるということを言っているのです。世界がそこにあれば、そうすると、おそらくは少なくとも、神がいるか、神の問いがあるか,あなた方に語ったこと、つまり、宗教の可能性が、あるいは他のなにかがあるのです。けれども、わたしがあなた方に話して来たのは,まったく世界の創造の問題ではありません。
 興味深いのは,他の宗教、多神教においても、無からの創造というものはありません。そこにある何かが常にすでにあるのです。その何かをカオス、原質料と言ってもいいでしょう。あるいは、例えば、そこから流れ出た乳が世界を作ったという、原始の巨大な雌牛のことかも知れません。雌牛といい,その乳といい、それは世界の初期状態なのです。世界の制作者としての神も、世界を作り出す機械としての神も、思い描かれたものです。そうした想像は、今日わたしたちが世界について持っている知識を、かつての私たちが持たなかった間は、おそらく必要でもあり,避けられなかったのでしょうが。ですから、神は存在しなかったのです。神が存在したとして,神がいつからか存在し始めたとして、今度はそれ以前はどうなるのでしょうか。
**********************************************************************************
 今回はちょっと長過ぎましたね。ぼくも2時間ほどかかってしまいました。暮れのこの時期にみなさんしっかりした訳文をそれぞれありがとうございました。またどうか来年も懲りずにおつき合いください。
 来年2月に転居を予定していて、今年は渡仏が理由でしたが,今回も2月からは少しまとまったお休みをもらうこととなりますが、新年初 Lecon は11日(金)から始めることとします。それでは、どうかみなさんよいお年を。
 smarcel


Jean-Luc Nancy のテキスト

2007年12月18日 | Weblog
 こんにちは、みなさん。次回,今年最後の Lecon 133 では、フランスの哲学者 Jean-Luc Nancy が子供たちに向かって語った講演文を読みます。
 テキストを希望なさる方は、smarcel までメールにてご連絡ください。
 なお、以前「教室」に投稿されたことのある方には、すでに添付ファイルにて同テキストをお送りしています。
 smarcel

Pierre Pachet << Devant ma me're >> (8)

2007年12月12日 | Weblog
 Lecon 132.
[注釈]
 * Apre`s une pe’riode de grande e’motive’, (…) c’e’tait comme si ces soucis (...) s’e’taient atte’nue’s : 時に取り乱しながらも外的世界と向き合おうとしていた母が、次第にその世界との接点を失ってゆくのです。
 * et que de’sormais elle re’sidait dans un monde (…) : que は、comme si の反復を避けるために使われています。ここも直喩表現です。

[ 試訳 ]
 感情が高ぶっていた時期があった。その頃母は泣き、時には取り乱し、あるいは厳粛な運命を受け入れるように、遠くない最期を(まぎれもなく命には限りがある)、埋葬の場所を、命を絶ってしまうことを、三人の孫娘に遺す指輪のことを考えていた。その後、生きることに、さまざまな出来事の成り行きに、生きてゆく上で欠かせないものに母を結びつけていた、そうした気掛かりは影をひそめ、あるいは消えてなくなり、それ以後母はもっと秘めやかな、母だけの世界に住まうようになった。まるでそこに居を移したように。母の世界に触れることはさらに難しくなった。母が抱く思いも、わたしが理解してた現在と結びついているのではなく、自閉的な、想像された現在と関係しているのだった。
 さらに、母の目はもうずいぶんと以前からほとんど見えていなかった。網膜の中心にできた染みのために視野は周辺部に限られ、人や物の全体的な姿は見えないのだった。今は耳も良く聴こえない。母が耳にする音はあまりに曖昧で弱められているため、視覚を補い、確かめ、正すことは出来ない。母の外界に対する関心が消えてゆくように、すべては消え入ろうとしていた。
*************************************************
 この教室で使う文章の選定ですが、なるべくおもちゃ箱をひっくり返したような、雑多な物になるように心が得ています。ただこれは、主催者の関心が四方八方に分裂していることの反映だとも言えそうですね。
 ウィルさん、cent-ral, per-sonne は、スキャナーをかけた時の不具合のためだと思われます。特に意味はありません。
 丸子さんのへの回答。me^me si elle parlait encore de choses qu’elle disait avoir vues (...),ou entendu :
「母が見たり聞いたりしたと言うことを話題にする時でさえ」avoir vu ou entendu というふうに選択関係にあります。entendu という過去分詞の直接目的補語は、先行詞の choses ですから、文法的には entendues とならなければなりませんよね。
 丸子さん、文法的な構文をしっかり把握した上で、論理の糸を過たずにたどるように努めて下さい。
 雅代さん、辞書のことですが、やはり基本的には新しい物がよいでしょう。白水社の Le Dico、最近改訂されたロワイヤル仏和中辞典などがお薦めです。
 さて、少しずつあわただしくなって来ますが、今年の締めくくりに、去年同様 Jean= Luc Nancy の講演文を読むことにします。用意でき次第、また添付ファイルとして送らせてもらいます。しばらくお待ちください。   smarcel


<< Devant ma me`re >> (7)

2007年12月05日 | Weblog
  [注釈]
* quelque chose en elle les lui disait, quelque chose qu’elle croyait e^tre autre que sa propre pense’e. : les = (des) choses qu’elle disait avoir vu (...) entendu ; lui = a` ma me`re
そして、その何かを、外的なものである autre que sa propre pense’e と、母は信じていたのです。
* ぼくも、最後の一行は少し考えました。Moze さんの訳に見られるように、s’humilier devant... 「…に屈する」という表現もありますが、思い切って「情けなかった」と訳してみました。
 [試訳]
 さらに当時、突然母に強い衝撃を与え、掻き乱し、気持ちを揺さぶる、現在時の、あるいは外的なさまざまな出来事もあった。けれども、母の関心を変わらず占め続けていた出来事は、彼女の記憶に、思考に、頭に由来するものであったことは、確認しておかなければならなかった。たとえ母がそうした出来事を、隣の部屋で見た、あるいは誰かが話していた、あるいはラジオやテレビで話題になっていた、とあいも変わらず語っていたにしても。もちろんわたしには分かっていた。そんなことはありえないと。そうした方面から母がそれらのことを知ることなどできないのであった。母の中の何かが彼女にそうしたことを告げているのに、母はその何かが、自分の思考とは別物であると信じているのだった。
 わたしは情けなかった。
*************************************************
 さて、次回はようやく『母を前にして』最終回です。p.39 最後まで読み通しましょう。
 みなさん、どうかあまり無理をなさらずに、大事になさって下さい。