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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

E. Morin (2) : En 2013, il faudra plus encore se me'fier de la docte ignorance des expert

2013年01月30日 | Weblog

 [注釈]
 

 古めかしい比喩を使うと、この文章の後半、レコードの針が少し後戻りして、すでになぞったメロディーをまたくり返すようなところがありましたが、いかがでしたか。ひとつだけ補足しておきます。
 *ce qui apparai^t comme antagoniste aux esprits binaires : 「敵対するように見えるもの」とは、: 以下の l’autonomie....et l’insertion communautaire. です。とすると、この文脈では、binaires という言葉は、余分なように見えます。
 
 [試訳]
 

 ではモラルの問題はどうでしょうか。ライシテ精神にとって、モラルの源は人類学的 - 社会学的なものです。社会学的と言うのは、共同体と連帯がともに倫理の源泉であり、社会でよく生きるための条件であるからです。人類学的と言うのは、どんな人間主体も自らの中に二重の論理を抱えているからです。ひとつは、自己中心的な論理であり、文字通り主体を世界の真ん中に据え、「自分が第一」に導く論理です。もうひとつは、「わたしたち」の論理です。つまり、新生児にも芽生えている愛と共同体への欲求であり、それはやがて家族、所属集団、党派、祖国において成長してゆくものです。
 私たちが現在生きている文明においては、この古来からの連帯が荒廃し、自己中心的な論理が過剰に発達し、「わたしたち」集団の論理が衰えてしまっています。ですから、教育に加えて、連帯の大らかな政治が広がらなくてはなりません。そこには、若者、少年・少女を対象とした連帯の市民サーヴィスや、困窮や孤独に救いの手を差し伸べる連帯の家の創設などが含まれるでしょう。
 このように、政治の喫緊課題のひとつは、一見すると敵対して見える二元的な精神、つまり、個人的な自律と共同体への参入を、あらゆる手段を使って同時に育むことだと分かって来ます。
 ですから、先に見たように、知と思想の変革は最優先課題であり、必要なことですが、私たちの時代の生死を決するような諸問題に立ち向かうための、あらゆる再生、政治的な革新、まったく新しい道を切り開くには、それだけでは十分ではありません。
 お分かりのように、今始められるのは、根本的であると同時に喫緊の諸問題に対する知識を導入することによる教育の改革であり、私たちひとり一人がそれぞれ、個人として、市民として、人間として、そうした問題に取り組まなければならないのです。
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 ここでもモランによってくり返されていましたが、「連帯」という言葉は、日本の政治家は、特に保守的な政治屋たちは口にしませんね。「公教育」によって市民がつながることを、政治を生業とする人たちはどこかで怖れているのだろうか、と時に思えたりします。
 ここで「公教育」としたのは、モランの言うl’e’ducation publiqueのことです。つまり、公的資金によって営まれる教育という意味ではなく、やがて市民となる子供たち・若者が社会に参入し、そして社会を動かすための教育と言う意味です。私たちが教育に手間を惜しまないのは、教育を受けた者がその者一人分の食いぶちを稼げるようにするためではなく、まして日本国のGDPを押し上げるためでもないはずです。そうではなく、内田樹(たつる)流に言うと、私たちがその者に託した知恵や知識を、その者がまたあらたな他者に手渡すことによって、社会がより柔軟に、そしてより丈夫に編み込まれてゆくからです。そんな公につながるリレーのために、私たちは教育に時間もお金も惜しまないのです。その意味では、教育とはすべからく公教育であるはずで、l’e’ducation publique のpubliqueも本来は余計な形容なのかも知れません。
 さて、次回以降 Pierre Bonnard <<La plage a` la mare’e basse>>をめぐる一文を読むことにします。同作品は以下で見ることができます。
 http://www.vontobel-art.com/resources/8445.jpg
 テキストはこの週末までにお届けするようにします。Shuhei
 


E. Morin (1) : En 2013, il faudra plus encore se me'fier de la docte ignorance des expert

2013年01月16日 | Weblog
 [注釈]
 
 *nous ne pouvons taxer...tout ce qui est dans les passions... : ここは部分否定となっていることに注意して下さい。
 *Nous devons revenir a` la source de …, celle de l’esprit... : 文脈からcelle = sourceと判断できます。
 
 [試訳]
 
 「今年も専門家の知ったかぶりに、今まで以上に警戒が必要でしょう」(1)
 
 私はここでとくにつぎのことを指摘しておきたい。公教育による知と思想の改革が今日まさに求められているということを。6000人の新たな教員の採用によって、私たちの時代の教育が知らなかった、根本的な、グローバルな問題 -- 人間の知識、自己同一性、人間の条件の問題や、地球規模で人々が往き来する時代の人間理解、様々な不信の衝突、そして倫理 --を扱う能力のある、新たなタイプの教員を養成することが可能となるでしょう。
 とくに倫理の問題に関しては、宗教的ではないモラルの教育が必要でしょうが、それだけでは十分ではありません。20世紀初頭のライシテ(非宗教性)は、進歩とは人類の歴史の法則であり、それには必然的に理性と民主主義の進歩が伴っているという確信に基づいていました。
 今日私たちが学んだことは、人類の進歩は自明でもなければ、後戻りしないわけでもないということです。私たちは理性の病というものを知っていますし、情念、神話、イデオロギーの中にあるすべてを非理性的だと言って非難することはできません。
 私たちはライシテの根本に、ルネサンスの精神の源流に立ち返らなければなりません。それは、問いを立て直すことであり、またかつの正解であったもの、すなわち理性と進歩をも問い直さなければならないのです。
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 まずは、予告に反してE.モランの文章を読むことになったことをお詫びしなければなりません。今回心づもりしていたクローデルの文章のように、容易に読み通せないフランス語の文章がまだまだあり、こちらの勉強不足を痛感させられます。
 ことは、日本語でも同じで、歌人塚本邦夫や、仏文学者というより文人という方が相応しい、杉本秀太郎の文章などを読んでいると、こちらの日本語の素養がただただ貧相であることを思い知らされて、頁を繰るのがときに辛くなることがあります。読む楽しみの裏に、読むことの悲哀を時としてヒリヒリと感じさせられます。
 ところで、Mozeさんがお聴きになったという、精神分析医+美術評論家+哲学研究者の鼎談、じつに興味深そうでした。またどこかで活字になることでしょう。活発な討論をこの目で追える日を楽しみにしています。
 さて、次回はこの文章の最後 citoyen, humain. までの試訳を30日(水)にお目にかけます。