[注釈]
古めかしい比喩を使うと、この文章の後半、レコードの針が少し後戻りして、すでになぞったメロディーをまたくり返すようなところがありましたが、いかがでしたか。ひとつだけ補足しておきます。
*ce qui apparai^t comme antagoniste aux esprits binaires : 「敵対するように見えるもの」とは、: 以下の l’autonomie....et l’insertion communautaire. です。とすると、この文脈では、binaires という言葉は、余分なように見えます。
[試訳]
ではモラルの問題はどうでしょうか。ライシテ精神にとって、モラルの源は人類学的 - 社会学的なものです。社会学的と言うのは、共同体と連帯がともに倫理の源泉であり、社会でよく生きるための条件であるからです。人類学的と言うのは、どんな人間主体も自らの中に二重の論理を抱えているからです。ひとつは、自己中心的な論理であり、文字通り主体を世界の真ん中に据え、「自分が第一」に導く論理です。もうひとつは、「わたしたち」の論理です。つまり、新生児にも芽生えている愛と共同体への欲求であり、それはやがて家族、所属集団、党派、祖国において成長してゆくものです。
私たちが現在生きている文明においては、この古来からの連帯が荒廃し、自己中心的な論理が過剰に発達し、「わたしたち」集団の論理が衰えてしまっています。ですから、教育に加えて、連帯の大らかな政治が広がらなくてはなりません。そこには、若者、少年・少女を対象とした連帯の市民サーヴィスや、困窮や孤独に救いの手を差し伸べる連帯の家の創設などが含まれるでしょう。
このように、政治の喫緊課題のひとつは、一見すると敵対して見える二元的な精神、つまり、個人的な自律と共同体への参入を、あらゆる手段を使って同時に育むことだと分かって来ます。
ですから、先に見たように、知と思想の変革は最優先課題であり、必要なことですが、私たちの時代の生死を決するような諸問題に立ち向かうための、あらゆる再生、政治的な革新、まったく新しい道を切り開くには、それだけでは十分ではありません。
お分かりのように、今始められるのは、根本的であると同時に喫緊の諸問題に対する知識を導入することによる教育の改革であり、私たちひとり一人がそれぞれ、個人として、市民として、人間として、そうした問題に取り組まなければならないのです。
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ここでもモランによってくり返されていましたが、「連帯」という言葉は、日本の政治家は、特に保守的な政治屋たちは口にしませんね。「公教育」によって市民がつながることを、政治を生業とする人たちはどこかで怖れているのだろうか、と時に思えたりします。
ここで「公教育」としたのは、モランの言うl’e’ducation publiqueのことです。つまり、公的資金によって営まれる教育という意味ではなく、やがて市民となる子供たち・若者が社会に参入し、そして社会を動かすための教育と言う意味です。私たちが教育に手間を惜しまないのは、教育を受けた者がその者一人分の食いぶちを稼げるようにするためではなく、まして日本国のGDPを押し上げるためでもないはずです。そうではなく、内田樹(たつる)流に言うと、私たちがその者に託した知恵や知識を、その者がまたあらたな他者に手渡すことによって、社会がより柔軟に、そしてより丈夫に編み込まれてゆくからです。そんな公につながるリレーのために、私たちは教育に時間もお金も惜しまないのです。その意味では、教育とはすべからく公教育であるはずで、l’e’ducation publique のpubliqueも本来は余計な形容なのかも知れません。
さて、次回以降 Pierre Bonnard <<La plage a` la mare’e basse>>をめぐる一文を読むことにします。同作品は以下で見ることができます。
http://www.vontobel-art.com/resources/8445.jpg
テキストはこの週末までにお届けするようにします。Shuhei