フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

フレデリック・ ヴァームス『誰かを思うこと』(1)

2015年07月08日 | Weblog

[注釈]
 *présence à soi-même, aux autres et au monde modifiée par une autre présence : 初恋によって今までの存在のあり方に変化が生じることが述べられています。
 *instrusion : Mozeさんの「おせっかい」というのは名訳ですね。
 * cela ne signifie rien d'autre,… :cela は<<penser à quelqu'un>>を指しています。

「思考は他者ととも生きる」
 ある日おばあ様が著者に言った。「お前は恋しているね。」思春期に初めて覚える情感。つまり感覚が異変し、ひとりの他者の現れによって、自分自身と、多くの他者と、世界への向き合い方が変容する。それでも、そのひとりの他者はここにはいない...。そんな孫の初めての気持ちの揺さぶりを、おばあ様が一目で捉えたのだった。でもどんなふうにして? いったい何によって彼女は、ヴェルレーヌが言ったあの「恋の炎という名の新しい動揺」を著者のなかに見逃さなかったのか。また、どうしてわざわざそのことを孫に告げたのか。思いやりからかだろうか、それともなにか口を挟むためだろうか。その両方だろうか。哲学者である著者は、数十年の時を隔てて、ともすると平凡に見える、この昔の出来事に立ち返っている。彼の狙いは自叙伝ではなく、「誰かを思うこと」とは何であるのかを分析することである。フレドリック・ヴァームスのこの新たな試論を読み、私たち読者はすぐに理解することだろう。それはつまるところ、ただ単に「思考すること」に他ならないということを。ここにはいない他者に思いを馳せることによって、思考はその領野を拓くのである。この結論に至る道程には工夫がこなされ、教えられることも多い。
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 Mozeさん、Akikoさん、訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。

 Mozeさんのおっしゃるように、<<Penser à quelqu'un>>を読んでみるのもいいですね。深いプールの底を思わせるような、濃い水色の表紙の手に取りやすい装丁になっています。
 先日、沖縄慰霊の日の前日に義理の祖母が亡くなりました。百三歳でした。戦中満州で男の子を二人亡くされ、まだ小さな娘三人を連れて、戦後の混乱の中を本土に帰国した経験をお持ちでした。そんなお話を直接聞く機会には結局恵まれませんでした。
 そんなことがあった少し前から、大岡昇平『靴の話 戦争小説集』(集英社文庫)を読み、今は小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み進めています。後者はシベリア抑留から生還した著者の父への聞き取りをもとにした、いわばオーラル・ヒストリーです。あとかぎより少しだけ引用しておきます。
 「父の足跡は、本人が意識していなかったにせよ、同時代の日本社会の動向に沿っている。(...)本書で記述した人物は、高学歴の都市中産層ではない。その点でも、本書は「記録されなかった多数派」の生活史である。(...)人間は、ある程度の揺らぎや偏差をふくみながら、同時に全体の構造に規定されている。本書で私が描こうとしたのは、父が個人的に体験した揺らぎと、それを規定していた東アジアの歴史である。(...)本書の意図は、一人の人物という細部から、そうした全体をかいまみようと試みたことである。」(p.385-87.)
 歴史に対して無知で、その流れに対する繊細な感度を欠いた人々が、この戦後70年に楔を打ち込もうとしている今、大した意図もなく、自然と手が伸びだ二冊。けれどもけっして忘れられない読書となりそうです。
 さて次回は<<Tu me surprends toujours>>までの試訳を7月22日(水)にお目にかけます。Shuhei


2 コメント

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誰かを思うこと 2 (misayo)
2015-07-14 10:46:50
こんにちは、みさよです。前回はテキストを送って頂いていることに気がつくのが遅れて、お休みしてしまいました。急に暑くなって、頭がボーとして訳文もよく考えずに作ってしまいました。間違っていたら、いつもの事ながらごめんなさい。

 ふだんなら、こういった偽りの明証だけで十分のように思える。「他人のことを考える」とは、様々な方法があるなかで、ひとつの思考方法かもしれない。私たちは友達のこと、両親のこと、子供のこと、親戚のこと、先生のこと、あるいは同僚のことを考えるだろう。さらには敵のことや、ライバル、競争相手のことを考えるだろう。あたかも私たちが、物や風景や何であれ何かを考えるように。繊細さと正確さを持って、細やかな筆遣いで、フェデリック・ヴァームズは全くそうではないと教えている。だれも一般的に「他人」を考えはしない。人が思うのは、いつも特別の「誰か」なのだ。したがってこの思考は、必然的に具現化に行き着く。「私はあなたを思う」と言うことは、ある人の声や笑いや咳などの断片といった幻覚を生じさせると思われる。思考はひとつの特異性と結びついている。―この人であって、他の誰でもないのだ。その思考は、言葉や視線、肌などから構成されるあるスタイルの輪郭をはっきりとさせる。

私的な思索の日記

 こういった状況を探求することは、どんな考えも純粋に理解力の問題ではないことを教えている。どんな思考も感情抜きでは成り立たないし、感受性や感動、欲望なしではいられない。気持ち、愛情、記憶、肉体性もその中に織りこめられている。結局「誰かのことを思う」とき、愛や憎しみ、喜び、寂しさ、希望、恐れなどを伴い、次々と完全な思考の同じモデル、いや型にはまっていくことが明らかになる。他人との関係は、思考の本来的な状況を明らかにする。根本的状態という意味でと同様に、欠くことのできない要素という意味で、思考の本来的な状況を明らかにする。他人は思考を上回るがゆえに、思考を生き生きとさせる。予測できないがゆえに、生き生きとし、他人について人が抱いている考えを決して限定することもない。―「君はいつも私を驚かさせる」
Lecon317 (Moze)
2015-07-21 10:38:59
暑中お見舞い申し上げます。台風が去り、猛烈な暑さがやってきました。みさよさんのおっしゃるように、わたしもついぼーっとしてしまっています。Wormsについては今回初めて知りましたが、テキストの続きを読みますと、Bergsonの研究者のようで、なるほどますます関心が高まりました。
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普通ならこれくらいのあいまいな明証性で十分であろう。つまり「他者を思う」ことは、多くの可能性の中で、「思考」のひとつのありようだということができるだろう。私たちは、友人、両親、子ども、隣人、先生、あるいは同僚、さらに敵、ライヴァル、競争相手のことを物や風景その他何でもと同じように思うだろう。でもフレデリック・ウォルムスは、繊細さと明確さをもって、細やかな筆遣いで、まったくそうではないことを理解させる。一般的に「他者」のことを思う人は誰もいない。思うのは、いつも特別な「誰か」である。それゆえ、この思いは必然的に、具象化する。「ぼくがきみのことを思う」というのは、たたずまい、一節の声、笑い、咳を彷彿とさせるのだ。思いは単独性―この人であって他の誰でもない―にしっかり繋ぎとめられている。思いは言葉、視線、肌によって作りあげられたひとつのスタイルの輪郭を形作る。
この状況を探究することは、とにかく、いかに思うことは単なる理解とは違うのかということを教える。どんな思いも、愛情が欠けていたり、思いやりや感動、欲望が伴わないものはない。感覚、感情、記憶、身体性が思いの中に仕組まれている。事実、「誰かを思うこと」は、-愛と憎しみ、喜びと悲しみ、希望と不安とともに―あらゆる思考の典型、さらには原型としてしだいに明らかにされる。他者との関係は―必要不可欠な要素という意味で、また同時に基本的な状況という意味で―思考の根本的な条件のように思われる。他者はまた、思考に命を吹き込む。生きながら、それゆえ予測不可能なまま、他者についてもっている思考に決して収まらないことによって、他者は思考を超えるからである。「きみはいつもぼくを驚かすだろう」

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