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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Bog du Monde の更新

2018年10月06日 | Weblog

 東海、関西地方でも、夏の名残のような蒸し暑さが続いていますが、みなさんお変わりありませんか。すっかり遅れてて提出された夏休みの宿題のようですが、ブログようやく更新しました。覗いていただければ幸いです。Shuhei

 http://kunoki2012.blog.lemonde.fr


「私たちもあの子を見殺しにした」(2)

2015年10月07日 | Weblog

[注釈]
 *conjuguer avec les obstacles… : いろいろ調べてみたのですが、本来ならここで書き手はconjuguer以外の動詞を使うはずではなかったのか、と勘ぐっています。命からがら海を渡ってきても、今度は陸地で、東欧を中心とした国々が設けた障害を「かいくぐらなければ」ならないのだ、というふうに読めました。ここについて、何かご意見があればまた聞かせてください。
 *nous avons tout à gagner : 文字通りは「手にすべきすべてがある」ということですから、試訳にあるように訳しました。

[試訳]
 難民たちは救命ボートで海に漂うあらゆる危険とすでに向き合ってきたのに、今度はその到着を阻止しようとする国々が設ける障害をかいくぐらなければならない。彼らを殺すのは、嵐や飢えや渇きだけではなく、うち建てられる壁や有刺鉄線や日常化している人狩り、そして私たちすべての無関心である。私たちは、彼らに提供される生活物資(食料、水、仮設テント)が私たちの元から持ち去られるものであるかのように、すべての避難民を迎え入れることを恐れている。しかしながらすべてのヨーロッパ諸国のなかで協働して組織されるべき人道支援は、通連管のようにはまったく組織されていない。彼らを同胞として相応しく迎え入れれば、私たちには何一つ失うものはないにもかかわらず。一刻も早く彼らを受け容れるよりは、同胞が死んでゆくのを座視することを選ぶほどに、私たちはお互いを怖れているのだろうか?
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 misayoさん、Mozeさん、shokoさん、訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。そしてshokoさん、パリ便りありがとうございました。ちょうど先週末から今週にかけて教室でla Nuit blancheについて学生たちに話したところでした。長くて寒い夜長を楽しむための様々な工夫をフランスの人々は持っていますね。東海地方の夜も随分と過ごしやすくなってきました。ぼくも先週末は映画『岸辺の旅』を見、ピーター・ゼルキン(あのルドルフ・ゼルキンのご子息です)のピアノの音色を楽しんできました。
 それから、今年生誕百年を迎える作家・批評家のロラン・バルトの今最良の入門書と思える『ロラン・バルト』(中公新書)を読みました。第一人者による良質のガイドブックです。この年内には再度バルトの文章を読むことにしましょう。
 それでは、次回はこの文章を読みきります。28日(水)に試訳をお目にかけます。Shuhei


フレデリック・ヴァームス『誰かを思うこと』(2)

2015年07月22日 | Weblog

[注釈]
 *Nous penserions à nos amis, (...) comme nous pensons à des objets : 前者が条件法現在形になっていることに注意してください。
 
[試訳]
 通常、それが明白な誤りであっても、こう考えて差し障りなさそうである。つまり、「他者に思いを馳せる」ことは「思考すること」のじつに様々な可能性の中のひとつのあり方であると。私たちは、友のことを、両親のことを、子供のことを、身近にいる人々のことを、上司のことを、同僚のことを考えるのみならず、敵のことを、ライバルのことを、競争相手のことを考える。それは対象が何かの物であっても、風景であっても、何であっても同じであろうと。精密に、繊細な筆致で、フレデリック・ヴァームスは、それがまったくの誤りであることを説明する。誰ひとりとして全般的に「他者に」思いを馳せることはない。私たちが思うのはいつも特定の「誰か」である。そうすると、こうした思いは必然的に具体的な姿をとることになる。すなわち「君のことを考える」とは、そこにひとりの人間の姿を思い描き、かぼそい声を、笑みを、思わず漏れた咳を耳にすることである。思考は誰でもない他者ではなく、単独性に、あの人に捉えられている。つまり思考とは、言葉や眼差しや肌合いなども含んだ、あるスタイルにかかわるものなのである。

 私的な省察日記
 
 こうした具体的な状況を仔細に見てみると、思考することがただ知性に限った出来事ではないことがまず理解される。感情や、感覚、情動、欲望と無縁な思考などはない。官能も心理も記憶も身体性もが、思考には織り込まれている。現実に、愛や憎しみや、喜び、悲しみ、希望や恐れを伴って「誰かを思うこと」は、あらゆる思考のモデルであり、原型でさえあることが、ページを追うごとに明らかになる。他者とかかわることが、不可欠の要素であるのみならず、原初の状況であるという意味において、思考の発生条件であることが明かされる。他者はまた思考を活性化する。なぜなら、いつまでも生き生きとして予見不能の他者は、思考を超え、私たちが他者に対して抱く思考にけっして還元されることがないからだ。「いつだって君にはハッとさせられる」
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 misayoさん、Mozeさん、暑い中訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。
 前回ここで触れた小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み終えました。小熊のいつもながらの旺盛な仕事ぶりに違わず、岩波新書としては大部の、四百ページに届こうとする著作でした。でも端正な文章と、平成を挟んだ戦後のある部分は、このぼくも共にした同時代であり、飽きることなくページを進めることができました。
 その「あとがき」にもあるように、どんなに突出した人物であっても、どんなに平凡な市民であっても、それぞれに時代の構造に否応なく組み込まれつつ、そこからの偏差もひとり一人の特異な人生として生きている。そのことを、この決して小さくない新書を通して、まざまざと追体験するることができました。戦後70年にふさわしい良書でした。
 それでは、すこし変則的になりますが、テキストの残りすこしの部分の試訳を29日(水)にお目にかけて、夏休みとします。
 最後になりましたが、暑中お見舞い申し上げます。またCaniculeの毎日が続きすが、どうかみなさんお身体には気をつけてください。Shuhei



フレデリック・ ヴァームス『誰かを思うこと』(1)

2015年07月08日 | Weblog

[注釈]
 *présence à soi-même, aux autres et au monde modifiée par une autre présence : 初恋によって今までの存在のあり方に変化が生じることが述べられています。
 *instrusion : Mozeさんの「おせっかい」というのは名訳ですね。
 * cela ne signifie rien d'autre,… :cela は<<penser à quelqu'un>>を指しています。

「思考は他者ととも生きる」
 ある日おばあ様が著者に言った。「お前は恋しているね。」思春期に初めて覚える情感。つまり感覚が異変し、ひとりの他者の現れによって、自分自身と、多くの他者と、世界への向き合い方が変容する。それでも、そのひとりの他者はここにはいない...。そんな孫の初めての気持ちの揺さぶりを、おばあ様が一目で捉えたのだった。でもどんなふうにして? いったい何によって彼女は、ヴェルレーヌが言ったあの「恋の炎という名の新しい動揺」を著者のなかに見逃さなかったのか。また、どうしてわざわざそのことを孫に告げたのか。思いやりからかだろうか、それともなにか口を挟むためだろうか。その両方だろうか。哲学者である著者は、数十年の時を隔てて、ともすると平凡に見える、この昔の出来事に立ち返っている。彼の狙いは自叙伝ではなく、「誰かを思うこと」とは何であるのかを分析することである。フレドリック・ヴァームスのこの新たな試論を読み、私たち読者はすぐに理解することだろう。それはつまるところ、ただ単に「思考すること」に他ならないということを。ここにはいない他者に思いを馳せることによって、思考はその領野を拓くのである。この結論に至る道程には工夫がこなされ、教えられることも多い。
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 Mozeさん、Akikoさん、訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。

 Mozeさんのおっしゃるように、<<Penser à quelqu'un>>を読んでみるのもいいですね。深いプールの底を思わせるような、濃い水色の表紙の手に取りやすい装丁になっています。
 先日、沖縄慰霊の日の前日に義理の祖母が亡くなりました。百三歳でした。戦中満州で男の子を二人亡くされ、まだ小さな娘三人を連れて、戦後の混乱の中を本土に帰国した経験をお持ちでした。そんなお話を直接聞く機会には結局恵まれませんでした。
 そんなことがあった少し前から、大岡昇平『靴の話 戦争小説集』(集英社文庫)を読み、今は小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み進めています。後者はシベリア抑留から生還した著者の父への聞き取りをもとにした、いわばオーラル・ヒストリーです。あとかぎより少しだけ引用しておきます。
 「父の足跡は、本人が意識していなかったにせよ、同時代の日本社会の動向に沿っている。(...)本書で記述した人物は、高学歴の都市中産層ではない。その点でも、本書は「記録されなかった多数派」の生活史である。(...)人間は、ある程度の揺らぎや偏差をふくみながら、同時に全体の構造に規定されている。本書で私が描こうとしたのは、父が個人的に体験した揺らぎと、それを規定していた東アジアの歴史である。(...)本書の意図は、一人の人物という細部から、そうした全体をかいまみようと試みたことである。」(p.385-87.)
 歴史に対して無知で、その流れに対する繊細な感度を欠いた人々が、この戦後70年に楔を打ち込もうとしている今、大した意図もなく、自然と手が伸びだ二冊。けれどもけっして忘れられない読書となりそうです。
 さて次回は<<Tu me surprends toujours>>までの試訳を7月22日(水)にお目にかけます。Shuhei


ドミニック・ドゥ・ビルパン「戦争の精神に抗して」

2015年02月18日 | Weblog

 ドミニック・ドゥ・ビルパン「戦争の精神に抗して」
 今日三つ目の敵となっているのは、他者を排除する態度です。フランスは日を追って次第に身をこわばらせています。指導者たちの言葉はますます分裂へと、排除へと傾き、危険な同一視がいたるところで生まれています。歴史の教えに従えば、堤防が決壊した時、国は崩壊の危機に瀕するのです。私たちが暴力を引きつけてしまったのは、私たち自身が分裂し、力を失い、内向きになっていたからです。国が傷つき、血を流していたからです。[ウルベック氏の新作をめぐる]文学論議や党派的なデマゴギーが示すように、問題は他者から、何ものかの侵入から、想定されうる政治の交替から、私たちを救うことではなく、私たち自身から、私たちの諦念から、衰退をどこかうっとり眺める私たちから、自殺行為にも似た西洋中心主義の誘惑から、自分たちを救い出すことなのです。
 試練のとき、私たちひとり一人には果たすべき義務があります。責任を持って、熱狂せず、手をとりあって行動しましょう。民主主義の模範を示すことによって見返してやりましょう。本来の私たちの姿に、対話と文化の力と教育と平和を信じる、共和国の民へと戻ることにしましょう。
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 先日もお話ししたように、パリとその郊外で惨劇があったその翌日にドゥ・ピルパンが書いた文章です。この時点で、彼が、現首相バルスが議場で「戦争」という言葉を口にしたのを耳にしていたのかどうかわかりませんが、''Je suis Charlie''という合言葉で、フランスの街路が群衆で埋め尽くされる以前に、元首相がこうした言葉を連ねていたことに、ぼくは心うたれました。
 misayoさん、NIさん、訳文ありがとうございました。今回も、ぼくからとくに付け加えることは何もありません。NIさんの訳から推察するに、フランス語をかなりしっかり読める方ですね。来年度4月からは「教室」の更新の頻度は月一回程度になりそうですが、今後ともよろしくおつきあい下さい。
 お知らせが遅れましたが、昨年春からFRENCH BLOOM NET でもフランス語読解の講座を持っています。ここ三回ほどは、以前この教室で「要旨」のみ扱ったAlain Badieu の恋愛談義を教材に使いました。興味のある方は以下もまた参考になさって下さい。
http://www.frenchbloom.net/type/tips/3795/
 また、重要だと思われる新聞記事などについては、Twitter 上で@hiokiのユーザー名で時々紹介しています。こちらも覗いてみて下さい。
 ここ東海地方でも陽射しには春のきらめきが確かに感じられるようになりました。それでもまだしばらくは「春は名のみの」でしょうが、どうかみなさんお身体に気をつけて花の季節をお迎え下さい。また桜の頃にお目にかかりましょう。Shuhei


Nicolas Grimaldi : Le bonheur

2015年01月22日 | Weblog

[注釈]
 misayoさん、ウィルさん、Akikoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。これくらいのテキストが大きな間違いなく読めたら、それは、フランス語の論理がしっかり辿れているということです。何も付け加えることはないのですが、ひとつだけ。
* Ne dit-on pas en effet… : ここれは否定疑問文ですから、意味としては、「幸福」と「幸運」を結びつけている具体例として上げられています。「…と言うことはありませんか?」そんな感じです。

[試訳]
 ひとり一人にとってそれ以上に大切なものはないのに、これほど謎に満ちたものもない。幸せになりたくない人など一人としていないのに、幸せとはどういうものなのか誰もよく知りもしない。だからこそ、このたったひとつの問題を考えることが、ながらく哲学の存在理由となったのです。たぶん幸福というこの概念の主要な難しさのひとつは、歓びの観念と、幸運(好機)の観念を、つまるところ、偶然の観念を結びつけとしまったところにあるのでしよう。実際、宝くじやカジノでひと儲けした人のことを、あの人は勝負運があった(ケームにおいて恵まれていた heureux)と言わないでしょうか。ついている人だと。それでも、当たり前のことですが、勝負運があっても恋において不幸なひとは、本当には幸せでない。そうすると、二種類のかなり異なった幸福があることになります。ひとつは運に依存し、まったく外的な何かを手に入れることであり、他方は、完全な、内的な充足と重なるため、何らかの外的な原因とはまったく独立して、それを求めることが出来るのです。前者は成功にかかわる幸福であり、後者は要するに完全に満ち足りた感情であるため、ただそれを味わうだけでそれ以上何も求めることはないのです。
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 PCのトラブルなどもあり、結局一日遅れとなってしまいました。申し訳ありません。
 Mozeさんに指摘してもらった通り、すこしは新年らしいものをと思いこのテキストを選んだのでしたが、年が明けて一週間してフランスの地が惨劇に見舞われ、みなさんもご存知の通り、世界中の衆目を集めることとなりました。あれから二週間。フランスでの暮らしが長い飛幡さんの以下のレポートが、今回の事件の背景・経緯などに詳しく触れられています。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0119pari
 そして、この教室でもこの問題を次回扱うことにします。哲学者のEtienne Balibar がLiberation に寄稿した論考を読みましょう。今回の事件に強い衝撃を受け、フランスを案じる便りをすぐに送ってくれたという加藤晴久先生の手紙の引用から始まる文章です。
http://www.liberation.fr/debats/2015/01/09/trois-mots-pour-les-morts-et-pour-les-vivants_1177315#zen
 長い物なので、バリバールが論じた三つのキーワードのうち、最後の言葉 Jihadをめぐる段落のみを訳してみて下さい。
 その部分の試訳は2月4日(水)にお目にかけることにします。

 近畿・東海地方は比較的暖かな「大寒」でしたが、寒さはまだまだこれからですね。みなさんどうかお身体には気をつけて下さい。
    Bonne lecture ! Shuhei


ニクラ・グリマルディ「幸福」について - 『私の哲学入門』より

2015年01月07日 | Weblog

 Bonne Anne'e a` tous !

 みなさんあけましておめでとうございます ! 今年も「フランス語読解教室」を通してフランス語の読解力を高めて下さい。

 新年は以下の文章を扱います。

http://www.philomag.com/les-idees/bonheur-par-nicolas-grimaldi-10147#.VJvNdn2ct0s.email

 ... rien d'autre a' de'sirer. までの部分の試訳を21日(水)にお目にかけます。

 Bonne lecture et bonne soire'e !   Shuhei


Annie Ernaux:Ecrire la vie (4)

2014年11月26日 | Weblog

[注釈]
* ceux qui suivent : この photo-journal のあとに、<<Les armoires vide's>>, <<Une honte>>などの作品が続いていますから、ceux=textes となります。

[試訳]
 日記の抜粋は、選び取った写真に関連付けて載せることにした。人々が、場所が、とりわけそれらが撮られた歳月が表現されている写真にしたがって。そうした日記は決して写真の解説ではない。時には写真とほとんど同時期に書かれていることもあるけれども、大抵は写真の後に書かれた日記は。それは、時間に従って揺れ動く記憶を浮き彫りにし、私の人生の出来事に揺らめく仄かな光を投げかけてくれる。
 この写真日記は私の著作の「挿絵」ではない。そこには『場所』『恥』『ある女』『歳月』で私が描写した写真の何枚かが掲載されているだけだ。それは作家活動の解説でもなく、ただその始まりを表しているに過ぎない。これまで私が書いて来たものを書いた理由を明らかにしている。それには穴があって、囲いもないけれども、それに続くテキストとはまた別の真実を担ったテキストと考えるべきだと、私は思っている。
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 misayo さん、mozeさん、訳文ありがとうございます。いかがだったでしょうか。
 さて、これもサプライズなのでしょうか。来月また投票所に足を運ばなければならなくなりました。様々な分野の専門家が現政権に対して批判や激励の声を上げていますが、ただぼくが願うのは、この社会が、もうすこし風通しのいいものにならないかということです。「風?、そんなものなくたって、懐にわずかなお金があって、安手であってもそこそこの物が選べて買えれば、それで何が文句あるの ?」とアベノミクス推進者には言葉を返されるでしょうか。「景気」さえ上向けば、あとは難しいこと言わずにおまが下さい、という政治家には、この一票は託したくないなと思っています。
 それでは、今月中にはお約束した Patrick Modiano のテキストをご覧にいれます。

A biento^t ! Shuhei
 


Annie Ernaux:Ecrire la vie (2)

2014年10月29日 | Weblog

[注釈]
*un travail exigeant, une lutte que je tente de cerner... : Moze さんも躓いたという箇所ですが、まず生きることをいわば「転写」する作業があり、その作業の困難さも、テキストにおいて明らかにし理解すること。そんなことを語っているのだと考えられます。
[試訳]
 生きることそれ自体は何も語ってくれない。何も書き記してくれない。生は言葉を持たず、とらえどころもない。そのありのままの姿に寄り添いながら、尾鰭をつけず、歪曲もせず、生きることを書き記すとは、それをある形式に、文章に、言葉において書き留めること。それは、困難な作業に、戦いに、年を追うごとに身を投げること。そんな仕事に打ち込みながら、その作業をテキストそのものにおいて明確にしよう、理解しようとも務めている。以下の言葉は、若い時から私を支えてくれたプルーストの言葉だ。「悲しみとは、暗鬱な、嫌われものの僕(しもべ)で、人は彼らに辛くあたるが、それでもますますその支配にひれ伏してしまう。恐るべき、それでも交替の効かない輩で、地下に埋もれた道を使って、私たちを真実へ、死へと導いてゆく。」気がついてみると私は次第に、「悲しみ」のかわりに「書くこと」を使うようになっている。あるいは「悲しみ」とともに。
 ここに収録した作品の並びは、書かれた順番でも、発表された順でもない。それは子供時代から成熟へと至る生の流れに沿っている。最初に『空っぽの戸棚』があり、最後に『歳月』が来るのは時の流れのままであり、二作品の間も年齢を刻む構成になっている。そうすると創作の変遷を乱し、ほんとうは様々な時期に書いたテキストを不自然にまとめあげることになるのだが、そうしてみるとかえって、形式が多様であること、それぞれの声や文体がまたそれぞれの視点に対応したものであることなどが、人生の様々な時期を何度も反芻するうちに、よりはっきりとしてくる。
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 いかがだったでしょうか。先日ノーペル文学賞を受賞した Patrick Modiano について以下のような記事が出ていました。
http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20141029org00m040004000c.html
 misayoさんはモディアーノの愛読者でもあったのですね。misayoさんのようにフランス語で書かれた小説を読む層は、上記の記事にもあるように、ほんとうに寂れてしまいました。これは道具としての英語学習に人々が駆り立てられていることと密接に関係がありそうです。globalisation という言葉に煽られる前に、外国語を学ぶことの広がりと深さを一人でも多くの人に思い出して欲しいものです。そう言う意味でも、『さよならオレンジ』おもしろそうですね。
 それでは、次回はp.9 trente-quatre ans. までを読むこととしましょう。
 Bonne lecture !   Shuhei