[注釈]
*C'est (...) ouvert a` toutes les ide'ologies. : 一部の人文科学の極端な反生物主義を問題にしています。ここでいうide'ologie とは、生物学的事実を顧みない偏向と結びつきかねない思想的な立場ということでしょう。ouvert の意味するところは、qui n'est pas prote'ge', abrite' となるでしょうか。
*la construction sociale de l'identite' sexuelle des individus. : ここは大切なところで、sexualite' は、所与の、生物学的な事実ではなく、社会的に構築されたものである。そうしたなりたちが、人類学において一層明らかになる、ということです。
*une re'ce'ptivite' sexuelles des femelles quasi permanente : quasi permanente は、「ほとんど常時」ということでしょう。ヒト以外の他の種では、交尾・繁殖が季節やなんらかの大きな周期に左右されることがあるようです。
[試訳]
生物学的な性は染色体によってはっきりと決定されている。雌は哺乳類ではXX(同形型)であり、雄はXY(異形型)である。ところが、鳥類では逆で、雌がZW、雄がZZとなっている。極低い確率で性別が不確定な違った型の個体が生まれる。
そこにおいて、一部の人文科学が物議をかもしている。それは、極端な反生物主義を理由に、私たちが性に関して生物学的にはもっとも性別の顕著な種のグループに属するという、この生物的な事実を認めようとしない。それは科学的に見てお粗末な議論であるし、哲学的な観点から見ても馬鹿げているし、どんなイデオロギーにもつながりかねない。(生物学的な)性の向こうにセクシュアリテは存在する。つまり、個体をさまざまな性的な関係に導く多様な、自在な行動が存在する。幸い、一部の人文科学は、とくにセクシュアリテ、個体の性的同一性の社会的な構築に関して、進化主義人類学と共同している。
私たちの種は、雌側の性のほとんど恒常的な受け入れ態勢と、性行為と生殖の断絶によって特徴づけられている。同じことは、私たちにもっとも近い類人猿にも見られる。セクシュアリテは愛情関係のみならず、闘争の解決や侮辱や服従においても介入する。
………………………………………………………………………………………………………………….
misayoさん、明子さん、Mozeさん、shokoさん、訳文ありがとうございました。皆さんには、少しやさしすぎる文章かもしれませんが、あと二回よろしくおつきあいください。
ところで、今は日本を代表する現代作家となった村上春樹ですが、ぼくは、高校生の頃に図書館で、群像新人賞に輝いた『風の歌を聴け』を同誌で読んだきりでした。たしかその前年に同賞を受賞したのが、当時高校生だった中沢けい作の『海を感じる時』だったと記憶しています。その後、ぼくのまわりでも、村上の数々の長編小説を読み続けている知人は数多くいましたが、ぼくは村上作品と出会うことはありませんでした。
前回少し触れた、山梨旅行への車中で村上春樹『走ることについて語るときにぼくの語ること』(文藝春秋)を読みました。これは、マラソン・ドキュメンタリーの体裁を取った、著者自身の言葉を借りれば、一種の「メモワール」です。自身の資質を冷静に見据え、その資質を、才能を、十全に活かす努力を怠ることなく、三十年以上に渡って日本の文学界の第一線を走り続けてきた村上の逞しい姿勢には、教えられることが数多くありました。
実は、同書を手に取ったきっかけは、内田樹が若い人々を念頭に置いたブック・ガイドでこれを薦めていたからです。興味のある方は、こちらもご覧下さい。
http://blog.tatsuru.com/
それでは、次回は、Francois Hetier). までとしましょう。11/9(水)に試訳をお目にかけます。
Shuhei
*C'est (...) ouvert a` toutes les ide'ologies. : 一部の人文科学の極端な反生物主義を問題にしています。ここでいうide'ologie とは、生物学的事実を顧みない偏向と結びつきかねない思想的な立場ということでしょう。ouvert の意味するところは、qui n'est pas prote'ge', abrite' となるでしょうか。
*la construction sociale de l'identite' sexuelle des individus. : ここは大切なところで、sexualite' は、所与の、生物学的な事実ではなく、社会的に構築されたものである。そうしたなりたちが、人類学において一層明らかになる、ということです。
*une re'ce'ptivite' sexuelles des femelles quasi permanente : quasi permanente は、「ほとんど常時」ということでしょう。ヒト以外の他の種では、交尾・繁殖が季節やなんらかの大きな周期に左右されることがあるようです。
[試訳]
生物学的な性は染色体によってはっきりと決定されている。雌は哺乳類ではXX(同形型)であり、雄はXY(異形型)である。ところが、鳥類では逆で、雌がZW、雄がZZとなっている。極低い確率で性別が不確定な違った型の個体が生まれる。
そこにおいて、一部の人文科学が物議をかもしている。それは、極端な反生物主義を理由に、私たちが性に関して生物学的にはもっとも性別の顕著な種のグループに属するという、この生物的な事実を認めようとしない。それは科学的に見てお粗末な議論であるし、哲学的な観点から見ても馬鹿げているし、どんなイデオロギーにもつながりかねない。(生物学的な)性の向こうにセクシュアリテは存在する。つまり、個体をさまざまな性的な関係に導く多様な、自在な行動が存在する。幸い、一部の人文科学は、とくにセクシュアリテ、個体の性的同一性の社会的な構築に関して、進化主義人類学と共同している。
私たちの種は、雌側の性のほとんど恒常的な受け入れ態勢と、性行為と生殖の断絶によって特徴づけられている。同じことは、私たちにもっとも近い類人猿にも見られる。セクシュアリテは愛情関係のみならず、闘争の解決や侮辱や服従においても介入する。
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misayoさん、明子さん、Mozeさん、shokoさん、訳文ありがとうございました。皆さんには、少しやさしすぎる文章かもしれませんが、あと二回よろしくおつきあいください。
ところで、今は日本を代表する現代作家となった村上春樹ですが、ぼくは、高校生の頃に図書館で、群像新人賞に輝いた『風の歌を聴け』を同誌で読んだきりでした。たしかその前年に同賞を受賞したのが、当時高校生だった中沢けい作の『海を感じる時』だったと記憶しています。その後、ぼくのまわりでも、村上の数々の長編小説を読み続けている知人は数多くいましたが、ぼくは村上作品と出会うことはありませんでした。
前回少し触れた、山梨旅行への車中で村上春樹『走ることについて語るときにぼくの語ること』(文藝春秋)を読みました。これは、マラソン・ドキュメンタリーの体裁を取った、著者自身の言葉を借りれば、一種の「メモワール」です。自身の資質を冷静に見据え、その資質を、才能を、十全に活かす努力を怠ることなく、三十年以上に渡って日本の文学界の第一線を走り続けてきた村上の逞しい姿勢には、教えられることが数多くありました。
実は、同書を手に取ったきっかけは、内田樹が若い人々を念頭に置いたブック・ガイドでこれを薦めていたからです。興味のある方は、こちらもご覧下さい。
http://blog.tatsuru.com/
それでは、次回は、Francois Hetier). までとしましょう。11/9(水)に試訳をお目にかけます。
Shuhei