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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

「日本から発せられた黄信号と赤信号」(1)

2011年04月20日 | Weblog
 [注釈]
 
 * parti vert significatif : ここの significatif は、qui signifie clairement ということですので、「はっきりと環境保護を前面に押し出した政党」ということです。
 * L'explication de cette absence ne'cessiterait certainement de prendre en conside'ration de nombreux e'le'ments... Repe'rons parmi ceux-ci la pre'sence d'un sentiment.… : 日本に事実上緑の党が存在しない理由は、本来なら多くの要素を勘案して説明しなければならない (ne'cessiterait certainement ここの条件法現在に気をつけて下さい)。ここでは、そのなかから(parmi ceux-ci)、「ある感情や本能的な智恵」に注目したい、ということです。
 * On sait ici... On a ici : ici は、日本を、on は、日本人を表していることに注意が必要です。つぎの段落の nous en avons.. notre source... pour nous は、「私たち西洋人は」というニュアンスが感じられます。
 * cet e'pisonde : しばらく地球上にいた人類が消滅したこと。
 * sa re'cente survenue : 「自然が受入れたお客」ですから、すなわち人類のことです。
 * c'est une alerte verte : これは、次回以降扱う alerte rouge と対になっています。もちろん、vert --> rouge と警報の段階が上がりますから、une alerte verte は、「黄信号」と訳したらよいでしょうか。
 * c'est une toute autre affaire : autre とは、日本人の自然観とは「まったく別な」ということです。
 * un grand repre'sentant : parti vert significatif と、ほぼ同じことをくり返しています。

 [試訳]
 
 自然は、人類が制御しうると言い張れるわけもない、その恐るべき力を私たちすべてに思い出させた。日本には緑の党は事実上存在しない。その理由を説明するには、複合的に結びついた多くの要素を考慮しなければならないことは確かだろう。そうした要素の中でここではある感情、もっというと、経験によって培われた本能的な智恵を指摘しておくことにしょう。つまり、自然とは、もっとも強力な力であって、人間は塵に過ぎない、という考え方だ。
 地震、津波、時には台風などによって、愛すると同時に怖れもする自然と、私たちはつき合ってゆかなければならない。この地球から人類はあるいは消滅されかねないことも日本人にはわかっている。最近の議論によると、自然それ自身が自己破壊に手を貸していると考えられることも示唆されているが、むしろ自己破壊に勤しんでいるようにさえ見える、ぞっとするような印象さえ受ける。くわえて、人類がたとえ消滅したとしても、自然があとを継いで人類亡き後の歴史が書かれうるだろうことも、わきまえられている。そもそも何十億年もの間人類がいないのが自然にとっては当たり前だったのであり、その後人類という新参者のやりたい放題に自然は耐えて来たのだから。
 自然の側に立つことは、必ずしも人類のためであることを意味しない。自然が災害によって人類に敬意を促すのは、自然が無敵であるからこそであり、それは黄信号である。なるほど温暖化は人間活動がもたらしたものではあるが、自然の方は将来氷河期を迎えることも可能であろう。私たちの側が自然を必要とし、また自然は私たちの命の源であるからという理由で自然を大切にするのは、またまったく別のことである。たしかに自然は私たちにとって無害なものではないが、日本では大きな勢力とはなっていない緑の党が専心しているのは、そうした自然に対してである。
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 先日、後輩のCくんから3月15日発売の「朝日ジャーナル」に掲載された辺見庸さんの論考のコピーをもらいました。「標なき終わりへの未来図」と題されていました。昨夏の酷暑、熱中症で亡くなった老人Aのことを、辺見さんは文章冒頭で語っています。死後遺体の直腸を検温したところ、39度もあったという、電気も停められたアパートの一室で死んだ老人についてです。
 「熱中症は気候変動の温暖化によるものでもあるけれども、つきるところ、貧困の問題であり階級問題そのものであった。直腸熱三十九度の闇は、昨夏すでに、階級間の矛盾が今後さらに拡大するだろうあきらかな徴として、老人Aの下腹部から世界に放射状にひろがっていたのだった。それに心づく者、感じる者は、けれど少なかった。」(p.7)そして、氏は絶望的な予兆を明かしています。もちろん、この文章が綴られたのは(おそらくは不自由な身体で、携帯電話の小さなキーをひとつひとつ確かめるように打ち込まれた言葉)、大震災の前であることまちがいありません。
 「貧しい者はよりひどく貧しく、富める者はよりいっそうゆたかになるだろう。すさまじい大地震がくるだろう。(...)テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。」(p.12)
 以前、不自由な身体をおして来阪されたおりの講演で、辺見さんは「沈思」という言葉をくり返しておられました。これらの言葉は、けっして予言などではありません。辺見さんが沈思する中で、その予兆をしっかり捉え、「心づかれた」のです。私たちは、そうした正確な、繊細な感覚を、思考を、持ちえなかっただけなのだと思います。
 他には、宇野常寛「『次ぎの50年』を設計する 『戦後』を正しく『忘れる』ために」を大変興味深く読みました。これは、先日紹介した小熊英二の主張にもつながる論考で、つまるところ、もう高度成長の夢は忘れようということです。歴史を知らず、あるいは知らない振りをして、したがって社会の変化にも鈍感なままに「あたらしい」、「元気な」を連呼する政治家たちは、みな「三丁目の夕陽」をいまだに夢見ているのです。
 この号の「朝日ジャーナル」、ぼくは古書も扱っているアマゾンで入手しました。
 さて、次回はde'nonce cette collusion. までとしましょう。5月4日(水)に試訳をお目にかけます。次次回は、わずかに残ったこの文章に何かおまけを付けて課題とします。
 Shuhei

ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(4)

2011年04月06日 | Weblog
 [注釈]
 
 * d'autre chose appartenant a` l'infiniment extensif. : l'infiniment extentif 「無限に伸びゆくもの」= une substance indivisible 少し図式化すると、こういう構図になります。
 l'extentif ; substance ; e'ternel ; universel ; intemporel <--> instantane'ite' ; effets fugitifs ;local ; e'phe'me`re ; temporel
 * a` la fois de la perception me'ticuleuse (...) et d'une confirmation de cette percetion... : a` la fois A et B 「AとBと同時に」ただ、ここは難しくて、できれば元の英文を知りたいところです。
 大気という「被い」には、モネ本人の繊細な知覚と、「それと同時に」そうした一個人の知覚 cette percption を支えている、彼方 lieux sans adresse からの力が認められる、と言いたいのだと思われます。ただ、recue がどう働いているのか、果たして必要なのか、などがよくわかりませんでした。
 * de'ja` parfaitement imprime's. : ここは、アイリスを描くことの難しさ、つまり、どんなに完璧にその花弁の一枚一枚を描いても、その独自の運動、une manie`re particulie`re d'ouvrir はなかなか捉えきれない。そして、その運動までもを司っているのが、あのune substance なのでしょう。
 
 [試訳]
 
 モネは、自らが捉えようとつとめていた「瞬間」のことをしばしば話題にしていた。大気も無限に延長する不可分の実体の一部であるのだから、それは、そうした瞬間を永遠へと変えてしまうことになる。
 ルーアンの大聖堂の正面を描いた何枚もの絵画も、移ろいやすい光りの効果の証言であることを止めて、無限に延長するものに属する他のものたちとの応答のやり取りとなる。たとえば、大聖堂を「包み込む」大気は、モネの大聖堂に対する微細な知覚を含むと同時に、どこともしれないところからやって来た何かによって、そうした知覚が信認されたことも孕んでいる。
 積み藁を描いたいくつもの作品も、さまざまなものに呼応している。夏の暑気に満ちたエネルギーや、草を食む雌牛の四つの胃袋、川のきらめき、海の岩場、パン、髪の房、呼吸する皮膚の毛穴、ミツバチの群れ、脳みそ…などに。
 モネをふたたび訪れてみて、展覧会に足を運ぶ人々にその作品の中に見てほしいと思ったのは、限られた場所の、つかの間の証言ではなく、普遍的な、無時間的なものに開かれたさまざまな地平である。これらのどの作品にも見られる彼方は、時間に属するというより、延長に属するものであり、郷愁を誘うものであるより、隠喩的なものである。
 アイリスは、モネのお気に入りの花のひとつだった。描くのにこれほどの力量を要求される花は他にはない。その花びらを完全に描いてみせても、アイリスは実際独特の仕方でその花弁を開くからだ。その花々は、まるで預言のように、おだやかであると同時に人を呆然とさせる。おそらくは、だからモネはアイリスを愛していたのだろう。
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 4月3日日曜日の夜、今回の大震災を扱ったNHKのテレビ番組を二番組二時間続けて観ていました。突然襲われた災難に、堪え忍び、あるいは立ち向かっている人々の姿を、こちらは暖かい部屋でただ映像を通して見ているだけなのですが、だらしないことに、涙を抑えて画面を見つめ続けることは出来ませんでした。
 前回、小熊英二『私たちはいまどこにいるのか』(毎日新聞社)を紹介しました。そこには、冷戦時の、ある意味恩恵を受けた高度成長、そしてグローバル資本主義モデルの成功体験が、もう通用しない段階にこの社会がさしかかっていることを語った明晰な言葉が綴られていました。この本はもちろん大震災前に書かれたものですが、私たちの社会の有り様を今一度見つめ直す必要を説いていました。
 その主張と響きあう論考をご紹介しておきます。
 http://www.counterpunch.org/karatani03242011.html
 批評家の柄谷行人が、自身の出身地を襲った阪神淡路大震災と、その後に日本社会の取った進路を再考し、今次の大震災を経て、これから私たちが考えるべきことを示唆しています。
 
 それでは、次回からは、東京在住のフランス人が今回の大災害について綴った文章を読むことにします。週末にはテキストをお届けします。

 首都圏に在住のshoko さん、明子さん、雅代さん、ウィルさん、いろいろご不便、ご心配がつきないでしょうけれど、落ち着いた日常を取りもどせる日が早く来ることを祈っています。
 Shuhei