[注釈]
* un fondement obscur, a` chercher du co^te’ de l’inconscient : 「無意識の側に探求すべき、定かでない根拠」名詞 + a`+ inf.「…すべき~」ex. Elle a rien a` faire aujourd’hui.
* Freud a de confiance (...) adopte’… : de confiance 「安んじて」。フロイトは当時の社会科学の知見を、いささか無批判に自身の理論構築の出発点としていた、ということです。そして、その例示が、 Il a admis sans critique que...と Il n’a pas discute’ non plus l’ide’e … と二つ掲げられています。
* la parente’ par consanguinite’ e’tant << biologique >>, est aussi plus naturelle... : この aussi はMoze さんの解釈で正しいと思います。「また」ぐらいの意味です。
* quand il montre les rapprochements a` faire entre … : ここの a` faire も、un fondement a` chercher と同じと考えられます。
[試訳]
しかしながら、こうした問題にフロイトが取り組まなければならなかった真の理由は、後に「超自我」の問題となるものに、フロイトがますますぶつかるようになったためである。道徳的意識の判断には理由の定かでない根拠、無意識の側に求めなければならない根拠がある。そうした判断は説明や正当化の必要もなくなされる。そうした点で道徳的判断はタブーと同じである。「未開の」人々もタブーを説明できないからだ。同様に、強迫神経症患者も自分たちの強迫観念がどんなものであるのかを理解することが出来ない。
フロイトは、当時社会科学の分野で一般的に認められていた公準を疑いなく(けれども、実際のところは軽々に)議論の前提としていた。例えば、父系に因る血縁関係こそが「生物学的」であり、他の血縁関係よりもより自然であり、したがった、時間的には、父系血族がトーテミズム体制よりも先行するはずであると、なんらの検証もせずに認めていた。また、民族学者が研究対象としている同時代の未開人たちを、先史時代の人類のように看做し、子供たちを原始社会の状態といっしょにしてしまう考え方に疑いを持つこともなかった。けれども、餅屋に戻り、古くからの慣習と強迫神経症のある種の特徴を比較する段になると、フロイトは誰をも追随することはない。そして、この領域にこそフロイトの貢献の最も堅固な部分がある。
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今回は難しかったようですね。試訳を参考の上でまた疑問点などありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。
丸子さん、お帰りなさい。夏のパリを楽しまれたようですね。Tram 懐かしいです。そうでした。新しい路線を使うと、 Cite' Universitaire にも行けちゃうのですね。ぼくは留学当時パリ近郊の Clamart という町に住んでいて,Issy から一駅、Les Meulineaux まで、まとまった買い物をする時などによく Tram を使っていました。ここ何年かは,寒い時期にしかパリに滞在していないので、あの夏の陽射しを忘れてしまいそうです。
次回は,p.147. Mais est-il...までとしましょう。
* un fondement obscur, a` chercher du co^te’ de l’inconscient : 「無意識の側に探求すべき、定かでない根拠」名詞 + a`+ inf.「…すべき~」ex. Elle a rien a` faire aujourd’hui.
* Freud a de confiance (...) adopte’… : de confiance 「安んじて」。フロイトは当時の社会科学の知見を、いささか無批判に自身の理論構築の出発点としていた、ということです。そして、その例示が、 Il a admis sans critique que...と Il n’a pas discute’ non plus l’ide’e … と二つ掲げられています。
* la parente’ par consanguinite’ e’tant << biologique >>, est aussi plus naturelle... : この aussi はMoze さんの解釈で正しいと思います。「また」ぐらいの意味です。
* quand il montre les rapprochements a` faire entre … : ここの a` faire も、un fondement a` chercher と同じと考えられます。
[試訳]
しかしながら、こうした問題にフロイトが取り組まなければならなかった真の理由は、後に「超自我」の問題となるものに、フロイトがますますぶつかるようになったためである。道徳的意識の判断には理由の定かでない根拠、無意識の側に求めなければならない根拠がある。そうした判断は説明や正当化の必要もなくなされる。そうした点で道徳的判断はタブーと同じである。「未開の」人々もタブーを説明できないからだ。同様に、強迫神経症患者も自分たちの強迫観念がどんなものであるのかを理解することが出来ない。
フロイトは、当時社会科学の分野で一般的に認められていた公準を疑いなく(けれども、実際のところは軽々に)議論の前提としていた。例えば、父系に因る血縁関係こそが「生物学的」であり、他の血縁関係よりもより自然であり、したがった、時間的には、父系血族がトーテミズム体制よりも先行するはずであると、なんらの検証もせずに認めていた。また、民族学者が研究対象としている同時代の未開人たちを、先史時代の人類のように看做し、子供たちを原始社会の状態といっしょにしてしまう考え方に疑いを持つこともなかった。けれども、餅屋に戻り、古くからの慣習と強迫神経症のある種の特徴を比較する段になると、フロイトは誰をも追随することはない。そして、この領域にこそフロイトの貢献の最も堅固な部分がある。
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今回は難しかったようですね。試訳を参考の上でまた疑問点などありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。
丸子さん、お帰りなさい。夏のパリを楽しまれたようですね。Tram 懐かしいです。そうでした。新しい路線を使うと、 Cite' Universitaire にも行けちゃうのですね。ぼくは留学当時パリ近郊の Clamart という町に住んでいて,Issy から一駅、Les Meulineaux まで、まとまった買い物をする時などによく Tram を使っていました。ここ何年かは,寒い時期にしかパリに滞在していないので、あの夏の陽射しを忘れてしまいそうです。
次回は,p.147. Mais est-il...までとしましょう。
いずれにせよ、フロイドの研究が、彼自身の立脚地点とした科学的真理からさらに前進したのは、はじめてのことではない。現代の民族学からみれば、フロイドが依拠していた当時の民族学を批判することはできるが、それは、言ってみれば民族学の中の問題である。本質、すなわりエディプスコンプレックスによる禁止と、それにともなう幻の世界の問題はトーテミズムの放棄または反駁によって始められていない。
トーテムが定めた二つの禁止(トーテムを殺してはならない、同じトーテムに住む相手と性的関係を持ってはいけない)は、「エディプス」の禁止と相応している。おそらく、トーテミズムが民族学者に十分な成果をもたらしたのは、彼ら固有のエディプスコンプレックスの賜物である。いずれにせよフロイドは、この皮肉な方向転換をすることができなかった。彼は、あらゆる習慣を説明することのできるエディプスの普遍的性格を確認することに満足している。しかし、彼自身を納得させられるのか?
ノーベル賞作家の作品を原文で読んだということがとてもうれしいです。その機会を与えてくださったsmarcel先生にあらためて感謝いたします。迫力ある海の描写を思い出します。
いずれにせよ、フロイトの研究が、彼が根拠とする科学的真実よりずっと先まで進むことはこれが最初ではなった。今日の民族誌学は、彼がよりどころとした古い民俗誌学を批判できるだろうが、それは言わば民俗誌学者間の問題だ。本質はオイディプスの禁忌であり、それに伴う幻の世界の問題なのであって、トーテミズムを見捨てたり反論することによって打撃を受けることはない。
いわゆるトーテムズムの二つの禁忌(トーテムを殺してはならない、同じトーテムに属する血縁者と性的関係をもってはならない)は、オイディプスの禁忌と一致する。たぶん、トーテミズムが民俗誌学者にこれほどの成功をおさめたのは、彼ら自身のオイディプス・コンプレックスによるのだろう。いずれにせよフロイトはこの皮肉な逆転をすることは出来なかった。彼はすべての慣習を説明することのできるオイディプスの普遍的な性質を認めて満足していた。しかしそれだけで説明できるものだろうか。
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どちらにしても、フロイトの研究が、拠り所としていた科学的真実より抜きんでていたのはこれが初めてではなかった。現代の民族誌学はフロイトが支持していたかつてのトーテム主義を批判しているようで、これは言うなれば民族誌学者同士の争いである。要するに、エディプスの禁忌とそれを伴った幻想の世界の問題はトーテミズムの放棄や反駁によって始まったわけではないということである。
いわゆるトーテム的な二つのタブー(トーテムを殺してはならない。同じトーテムに属する相手と性的関係を持ってはならない)はエディプスの禁忌と一致する。おそらく、トーテミズムが民族誌学においてこれほど成功を収めたのはその特有のエディプス・コンプレックスのせいであろう。いずれにせよフロイトはその皮肉な方向転換をすることができなかった。全ての習性に対して解釈を可能にするエディプスの普遍的な特徴を指摘するに留まっていた。しかし、彼自身、説明がついていたのであろうか。
今回の課題は、文法的にはあまり難しくは感じませんでしたが、内容的に難解な部分がありました。
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いずれにせよ、フロイトの仕事が、彼が基礎としていた科学的な真実より先に進んでしまうのは、初めてのことではない。今日の民族誌学はフロイトが論拠としていた以前の民族誌学を批判することもある。それは、いわば、民族誌学の間での問題である。オディプスの禁止とそれに付随する幻想的な世界の問題はトーテム信仰の廃止やそれへの反駁によって傷つけられたりはしない。
いわゆるトーテム的な二つの禁止(トーテムを殺すな、同じトーテムに属するパートナーと性的な関係を持つな)はエディプスの禁止に対応する。トーテム信仰が民族誌学者のもとでこれほどの成功を収めたのは、おそらく、彼ら自身のエディプスコンプレックスのためである。フロイトはいずれにせよ、この皮肉な急変は出来なかった。全ての習慣を説明できるエディプスの普遍的な性格を確認することで満足している。しかし、それ自身が説明できるのだろうか。
フロイトは本当に難しいですね。仕事の都合で来週の提出ができないので早いのですが、提出させていただきます。
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フロイトは歴史的(先史時代の)根拠を見出そうとした。彼はある寓話を空想してみた。それは、ある日息子たちが彼らの原初の父を殺し、食べてしまう。その結果、「有罪性を土台とした」新たな社会的組織が出来上がる、というものであった。この説話はフロイトの感情面に大きく影響した。フロイトはこの説話に大いに満足したが、出版の段になると突然の激しい恐怖にかられるほどであった。
この説話の客観的真実性は容易に確認された。フロイト自身、このおとぎ話は必要ではないが、想像上の観念もまた役に立つと認めていた。ここで読者は「狼男の症例」の精神分析の場にいて分析中にされる質問が自分に跳ね返って聞こえてくるような気になるようである。フロイトが信条として客観的な真実性にこだわりたいのであれば、その理由は驚くべきものであった。つまり、原初の人間は抑制がなく、行動する代わりに幻想を抱く必要がなかったというものである。
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いずれにしても、フロイトの研究が、彼の立脚する科学的真実をはるかに凌ぐものであるのは初めてではない。今日の民族誌学は、フロイトが拠り所にしていた過去の民族誌学を批判するかもしれないが、それは言うなれば民族誌学者の間の事柄である。大事なこと、オイディプスの禁止やそれに伴う幻想の世界の問題は、トーテミズムの放棄や拒否によっては取りかかることはできない。
いわゆるトーテミズム的な二つの禁止(トーテムを殺さないこと、同じトーテムに属する相手と性的関係をもたないこと)は、オイディプスの禁止に相当している。おそらく、トーテミズムが民族詩学者の間でもてはやされたのは、自らのオイディプスコンプレックスのためである。フロイトは、どうあってもそんな皮肉な堂々巡りなどはできなかった。フロイトは、あらゆる慣習を説明することができるオイディプスの普遍的な性質を認めて得心する。しかし、その性質それ自体を説明できるだろうか?
さて、今回も内容がいまひとつ、はっきりしませんでした。ce retournement ironiqueなどはそのままにしか訳せませんでした。
いずれにせよ、フロイトの仕事がそのうえに科学の真実よりも重大な結果をもたらしたのは、初めてではなかった。今日の民族誌学は、フロイトが拠り所とした
その上に以前の民族誌学を批判し得る。それは謂わば民族誌学者らの間での一つの問題なのである。それらを伴ったエディプスコンプレックスの禁止や幻覚の世界の問題という本質的なことは、トーテミズムの放棄あるいは反論によって始まらない。
トーテムとして信じられている二つの禁止事項(トーテムを殺さない事、同じトーテムに属するパートナーと性的関係を持たないこと。)はエディプスコンプレックスの禁止に関連がある。おそらく民族誌学者の目にはトーテミズムは多大な成功を収めたというのはまさに彼ら固有のエディプスコンプレックスが原因なのではないだろうか。フロイトはともかくこの皮肉な方向転換をする事は出来なかった。彼は全ての習慣を説明できるエディプスコンプレックスの普遍的な特質を証明したことに満足した。しかし、それ自体で説明のつくものであろうか。