フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

アニー・エルノー、ジュリア・クリステヴァほか「欧州の女たちは、それぞれの住まいでひとつとなっている」

2020年04月13日 | 外国語学習

 今こうして閉じこもっている私たち一人ひとりの住まいから、何世紀にもわたって、暮らし、家族を養ってきた空間から、現在は仕事を済ませ家族の面倒を見に帰る場所から、私たちは各国政府とEU指導者に宛ててこの手紙を書いています。

 これはお願いではなく、私たちの要請です。私たちみんなに襲いかかっているコロナウィルスの蔓延という惨状に対して、国ごとのエゴイズムを抑えて、ヨーロッパはひとつになり、連帯し、責任を負わなければなりません。私たち女たちは、常に大きな力で事にあたり、家族をまとめ、食事を用意し、心を配ってきました。先の大戦でもそうでしたし、今日でも変わりはありません。男たちとともに、病の蔓延に向き合っているのです。実際今この時も、多くの女たちが遂行可能な仕事に関わっているのです。

 戦争直後とは違って、今女たちはここにいます。男たちと同じ数だけ、私たちも望んでいるのです。私たちの歴史に刻まれながらも、その経験においては長きにわたって顧みられなかった、願いと価値に沿って、再建が果たされることを。この疫病が思いがけず私たちの生活の中心に据えたのは、人々のからだであり、家族であり、人々のつながり、孤独、健康、世代間の、経済と人間の関係でした。ヨーロッパがこの悲劇に正面から向き合うことに成功するとすれば、それは、こうした価値が、これまでは主に「私的な」領域にとどめ置かれていた価値が、今、公的な価値へと変わった。そのことによるはずです。そうした諸価値が、病の拡散と戦い、勝利を収めつつある、と私たちは信じています。

 欧州は、これらの価値に、女たちの力と能力に基づいて再建されなければなりません。こうした価値を最優先した大きな計画に参画しなければなりません。女たちはそれぞれの家で、この共通の思いのもとひとつになっています。(Le Monde, 2020.4.10.)


ル・クレジオ「グレタ・トゥーベリ 地球の重さ」

2019年09月27日 | 外国語学習

J.M.G.ル・クレジオ「グレタ・トゥーンベリ  地球の重さ」

 (2019.3.19. リベラション紙)

  彼女の顔はおなじみになった。17歳にもならない若者らしく、生真面目なあの子はじっとカメラを見つめ、落ち着いた声と完璧な英語で原稿を読み上げる。女の子らしい三つ編みが丸い頬を縁取り、その眼差しはひるむことなく私たちをじっと見ている。背筋を伸ばして、長い腕の彼女は、どこか体操選手のようでも、中学校の生徒会の代表のようでもある。私たちの地球は今、自然資源の浪費と数々の動物種の消滅によって脅かされているのだが、彼女はその地球を守るための運動のもっとも信頼できる闘士となった。彼女は大物の大人たち、各国の代表や企業の指導者、銀行の頭取たちによって招かれ、COP24で発言も求められた。COP24とは、ポーランドのカトヴィツェで開催され、政治家や環境問題の専門家たちを招いた、とても閉鎖的なあのクラブのことだ。大人たちは大いに議論を交わしたが、これといったことは実行に移していない。彼女の演説はわかりやすい。ことさら誇張した言い回しをしたり、役にも立たない統計や、できもしない約束の後ろに身を隠すこともない。民衆をおだてて、支持者を集めることもない。彼女が訴えるのは、ただこういうことだ。私たち、大人たち、責任ある地位にある人々、エゴイストで貪欲な、私たちの世界の指導者たちは、何もしてこなかった。未来の子供たちは、間違いなく私たちをクビにするだろう、と。もっと恐ろしいことを彼女は言う。20年、30年後には、私たちはもうそこにいない。でも彼女はまだそこにいて、今度は彼女が、未来の子供たちから愛想を尽かされるだろう、と。この地球は、ひととき貸し与えられたもので、私たちのものでない、ということを忘れていた私たちを、穏やかな、落ち着き払った声で彼女は糾弾する。私たちには彼女の声が聞こえているだろうか。彼女の現れる前にも、呼びかけていた声に、私たちはほとんど耳を貸して来なかった。シアトルのインディアンの酋長ルミが、州知事から彼らの土地を買おうと提案されたときに答えた言葉を、私たちは聞かなかった。「そもそも私たちのものでないものを、どうやって売るというのでしょうか ?」私たちは、アルド・レオポルドやベルトランド・ラッセルら、科学者たちの警告にも耳を傾けなかった。ミツバチが姿を消すようになったら、私たちももう数ヶ月の命でしょう、といったアインシュタインの警告も私たちは聞くことはなかった。

 彼女の行動はいたってシンプル。その行動が当たり前のものであるとき、いつもそんな風に簡素でなければならないかのように。金曜ごとに子供たちにストライキを呼びかけた。子供たちのストライキは懐疑的な人々の冷笑を誘った。ほほ笑んで人々はご丁寧にこう言い添えた。珍しいし、楽しそうだね、と。大人たちの冷笑に立ち向かうために、だから、彼女、グレタには勇気が必要だった。それでも、彼女はテレビに、様々な新聞や雑誌に、真剣な表情や優しい顔立ちで現れて、怒りを秘めた声で私たちに訴えた。私たちは、慌てふためいて行動し、憤り、闘いをはじめ、私たちの暮らし方、世界と、私たちと共生している動物たちとの関係を変えなければならない、と。季節や昆虫や鳥がなくなりつつあること、いくつもの海が干上がり、サンゴ礁が白化し、地球の自然に少しずつ広がる、こうした聞き逃しようもない「沈黙」に私たちは怯えなければならない、と。こうしたすべては、都市の、人間たちの馬鹿騒ぎの、大地と森の豊かさの行き過ぎた搾取の、犠牲になったのだ、と。

 心に与えられた一撃を、震えを、どうして私たちは感じずにいられるでしょうか。私たちがやって来なかったこと、壊されるままにしてきたもの、あえて目をそらしてきたもの、私たちのエゴイズムによる冷笑的な態度を思うなら、未来に対する郷愁で胸がいっぱいにならないでしょうか。あの子の声が聞こえないということがあるでしょうか。いったいどうして私たちは、これほどまでに未来の世代に対する責任を忘れおおせることができたのでしょうか。気候変動のもっとも大きな影響を被る人たちが、その破壊に加わったこともなければ、生産の利益を受け取ることもなく、私たちが食糧貯蔵庫を必要以上にいっぱいにしたために、その同じ人々が腹を空かせて死んでゆく。いったい、どうしてそんなことを許すことができたのでしょうか。

 そんなことはひとときの危機であり、私たちの失敗に終わった闘いや、いい加減さ、打ち砕かれた夢の数々で一杯になった屋根裏にやがて消えてゆく、と考えることはできなないのです。

  彼女、グレタ・トゥーンベリは諦めなかったのです。若さゆえの切迫さと、子供特有の本能に根ざした科学に裏打ちされて、彼女は演壇に登り、私たちが聞きたくもないことを語る。議会、政治家たち、世界の有力者たちの前でお手製のパネルを掲げる。彼女は、自分のために、自分の世代の、また、これから生まれてくる子供たちのために、さらに人間を越えて、私たちの地球全体のために語る。その姿は、はかなくも高貴で美しい。彼女の声に耳を傾け、理解しょう。恐らくは今なら間に合う。


Bog du Monde の更新

2018年10月06日 | Weblog

 東海、関西地方でも、夏の名残のような蒸し暑さが続いていますが、みなさんお変わりありませんか。すっかり遅れてて提出された夏休みの宿題のようですが、ブログようやく更新しました。覗いていただければ幸いです。Shuhei

 http://kunoki2012.blog.lemonde.fr


Blog du Monde 更新

2017年11月06日 | 外国語学習

月に一度のはずが半年ぶりの更新となりました。お恥ずかしい限りですが、よかったらご一読ください。Shuhei

http://kunoki2012.blog.lemonde.fr/


ル・クレジオ「ニースに、痛みと怒りとともに」

2017年07月16日 | 外国語学習

 先日14日金曜日は、もちろんLe 14 juillet でフランス革命記念日なのですが、同時に昨年同日に起きた、86名の方が轢き殺されたニースの惨劇から一周年にあたる日でもありました。この地では午前中から様々な追悼式典が行われたのですが、以下に拙訳を掲載した、昨年同月19日に発表されたル・クレジオの文章が、その式典の中であらためて朗読されました。

 ル・クレジオという作家は思入れのある文学者ですし(この教室でも何度か教材として彼の文章を読みましたね)、何よりもニースはぼくにとって、パリ近郊の町とともに、忘れ難い経験を積んだ土地です。そんなわけで、ここに拙訳を試みて見ました。

原文は以下で読めます。

http://www.lepoint.fr/societe/le-clezio-a-nice-avec-douleur-et-colere-19-07-2016-2055411_23.php#site

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ル・クレジオ 「ニースに、痛みと怒りとともに」(Le 19 juillet 2016, Le Point)

 

 私はニースで生まれ育ちました。私がニース以上によく知るところは、多分ほかにはありません。この都市のどの通りも、どんな町も、どんな外れも知っています。それがどこに位置するかもわかっていますし、かつてはそこに足を運びもしました。そこのどんな細部も、それが確かにその場所であり、他のどの場所でも起こりえない、ほんのささいなことも知っています。プルムナード・デ・ザングレは、私のお気に入りの場所ではありませんでした。私はその界隈の出身ではありません。そこは私には、あまりに美しいし、あまりに豪奢なのです。私が好きだったのは、子供時代のことですが、漁船のマストであり、地中海の向こう側からやってくる、赤ワインや血の色のコルクを積んだ、古びて錆びた運搬船でした。それからもちろん、コルシカからやってくるフェリー。当時は観光客や自動車の他に、牛や馬も積んでいました。ラ・プロム。ニースの人々は、ちょっと気取りながらも親しみを込めてそう呼ぶのですが、それは散歩道というよりは、むしろ浜辺で、二人連れのホットパンツを履いた女の子たちがそぞろ歩き、男の子はズックをつっかけ、ペダロが駆け抜ける。地下にはピンポン台とともに、小さなバーカウンター。17歳だった私は、今となっては信じられませんが、そこに通っては、観光客を気取っていました。

 それでもラ・プロムにも歴史があったのです。あの著名なイギリス人たちの作った歴史が。19世紀中ばサボワ公国の時代に、ニースに暮らす人々の貧しさに心動かされたイギリス人たちは、カゴいっぱいの砂利とパンを交換して、この地の人々を助けようとしたのです。イギリス風の見事な計らいです。その慈善に屈辱が加わることはありませんでした。その砂利は、海沿いの道路の建設に活かされ、それがラ・プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)となったのでした。

 ニースでは、その後、海を背景にして、数々の悲惨な出来事もありました。第一次大戦前、ロシアからやってきた若い女性が、ここで初めて大人の経験をし、画家や作家になり、高らかで、自由で、きらきらした青春を送ろうと夢みていました。そしてこの地で23歳で結核のため亡くなりました。彼女の名はマリ・バシュキルツェフと言います。遊歩道には今でも松の木の陰に石碑があり、彼女がここに来て、海を前に本を読み、夢みたことを告げています。ほとんど時を同じくして、ポール・ヴァレリーがニースに住み、モディリアーニが歩行者専用の見事な並木道を歩いていました。けれども二人があの若いマリを見かけることはありませんでした。東に向かってもう少し行った先に、私の祖母の友人で、シャルル・パテで組み立て工をしていた女性が城壁に建てられた小さな家のひとつに住んでいました。工場主は当時働いていた従業員のためにそこを借り受け、カリフォルニアならぬ、ニースのサンタ・モニカにするつもりでした。祖母の友人はカブリエルと名乗り、毎朝小さな部屋を後にすると、カモメの見守る中冷たい海に飛び込みにゆくのでした。著名なアメリカの俳優たちがニースにやってくる時代、ルドルフ・ヴァレンティーノやイサドラ・ダンカンの時代でした。

 私が通い始めた時代ラ・プロムは、耳目をひく有名人が度々訪れる場所ではもはやなく、億万長者もあまり見かけなくなっていました。むしろそこは、退職者の集まる心地よい場所で、近代的な建物のバルコンで日向ぼっこをしながら、花祭りやカーニヴァルの行列を楽しみにしているのでした。それでも、日によっては嵐の散歩道となり、高波が石を、カフェのガラスや海沿いの豪華ホテルの入り口に投げつけることもありました。夏の夕べには、フォンタンと呼ばれる変わり者が、様々な言語で、世界の新たな境界について演説を打ち、地図を描いてみせるのでした。フォンタンがあまりうるさくなると、警官が境界の別の方から彼を排除にかかるのですが、結局男は戻ってくるのでした。こうしたことはみんな昔話です。それでも、私にとっては、街のこの界隈こそが、エグゾティスムと素朴な日常の間の、跳ねっ返りの青年期と成熟した諦念の間の、変わらぬ本質なのです。

 ニースに降りかかった、あのおぞましい、筆舌に尽くし難い犯罪、この地を襲い、祭の最中、数知れないも無垢の散歩者を、子供連れの家族を殺した出来事は、二つの意味で私を打ちのめしました。ひとつには、私はかつてしばしばそこを訪れていたからです。大勢の人にもみくちゃにされずに花火を見せるために、娘を肩の上に乗せて。そしてもうひとつには、こうした罪なき人々を殺すことで、殺人者は私たちにとって大切なもの、暮らしを、破壊し、切り刻み、葬ってしまったからです。それは迂闊な人が想像してしまうような、豪奢と虚栄に満ちた舞踏(パバーヌ)ではなく、普通の暮らしのことです。いつもの楽しみ、国民の祝日、砂浜でのありふれた恋の物語、耳が痛くなるような叫び声をあげる子供たちの遊び、ローラースケートを履いての散歩、高齢者の長椅子でのうたた寝、潮風に髪を乱しながらのヒッチハイク、夕景の写真。惨劇がここに、闇雲に乱入し、肉体も夢も打ち砕き、薔薇色の染まる雲に、最後に打ち上げられた花火の大輪の残像が目にまだ残っている子供たちを殺戮してしまったのです。

 この街にこんな大きな傷口を残した殺人者は呪われなければなりません。トラックごと人並みに突っ込み、親たちの腕に抱かれた子供たちを轢き殺した奴は、その時何をのぞみ、何を考えていたのでしょうか。最後に静寂が戻る前に、犠牲者の叫び声の中に奴は何を聞いたのでしょうか。犯人はこれ以上を生きることを望んでいなかったのですから、この世界が滅びること、それを奴は望んでいたのでしょう。これこそ私たちが拒絶しなければならないことです。それは困難なことであり、ひょっとすると、できないことかも知れません。私たちはいかにすれば、虚無の帳を遠ざけて、もう一度暮らしを取り戻せるのでしょうか。どうすれば私はマリの松を見、ガブリエルの真っ青な早朝を取りもどせるのでしょうか。どうすればこの傷口を閉ざすことができるでしょうか。2016年7月14日のあの夕べ、ラ・プロムでなぎ倒された無辜の人々の記憶が、私たちが助けてくれるはずです。そのことを信じるために、私たちは日本人のように思い描かなくてはならないでしょう。ひと群れの蝶のように、彼らの魂は今も海の彼方の空を漂っていると。


アニーズ・コルツについて(5) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月27日 | 外国語学習

[注釈]

 *la camisole de force qu'elle leur impose.: Mozeさんの訳文を読んで気づかされましたが、ここのelleは凡庸なmétaphorisation と考えられそうです。

 *Elle qui <<découpe les mots...à l'image de la terre>>つまり、découper à l'image de…と読めます。

 

[試訳]

 アニーズ・コルツは影を纏い、謎を仕掛ける女性詩人である。また、叫びをもたらし、「宇宙をひび割れされた」詩人である。それは彼女の詩の力だ。その詩は、思いがけないメタファーの力で、あたかも内部で駆動するモーターのように、イメージを振動させ、ひっくり返し、メタファーが課す拘禁服の彼方にイメージを投げ放つ。見ての通り、アニーズ・コルツの詩は短い。念入りに彫琢された、ほとんど俳句のよう。まるでアフォリスムのようだ。一語一語が大切で、沈黙がうわべだけのものを飲み込んでしまっている。形容詞は追放され、修飾も必要としない。言葉はいわば原石でなければならない。かき集められ、世界に向かって放たれる。そうしてのみ、世界における存在が再構築される。

 けれども、結局のところ、アニーズ・コルツのあらゆる作品の主要テーマは、詩そのものではないだろうか。ひとつ一つの詩句が詩法となる。詩人は「大地に倣って/言葉を裁ち/血というパンを成す」死に膝を屈するように、アニーズ・コルツは言葉に従っているのだ。

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 misayoさん、midoriさん、ウィルさん、そしてMozeさん、最後の訳文ありがとうございました。

 今さらこんなことを書いて叱られそうですが、これが最後のテキストとしてふさわしかったかどうか…。行き当たりばったりのテキスト選びを反省しています。毎回、毎晩の献立を考える主夫(主婦)のように、あれこれ考えを巡らせるのですが、是非これはみなさんと読んでみたいというものが思いつくこともあれば、今回のようにテキスト間の連なりに安易にまかせてしまうこともあります。

 Mozeさんがcompterしてくださったところによると339回。12年ということなのですね。あと一回で340回だという中途半端加減も、ぼくにふさわしい気さえします。本当に長い間おつきあいいただき、ありがとうございました。十二年の間には、こんな凡庸な人間にもあれこれありましたが、この「教室」の運営を通して、みなさんに文字通り支えてもらった歳月でした。

 もしみなさんに外国語を読むことの豊かさをわずかでもこの場で味わっていただけたのなら、これに勝る喜びはありません。ここに訳文を寄せてくれたみなさんは、フランス語をそれぞれに味わう力を十分養っていらっしゃいます。これからもそれぞれの関心に合わせてフランス語を読み続けて欲しいと願っています。

 またお気が向くことがありましたら、みなさんにとって思い出深い、教室で扱ったテキストの話など、今後もこの場で聞かせてもらえたならと思います。

 ウィルさんの「同窓会」という言葉はinattendu、不意を突かれましたが、これまでぼくがどうも優柔不断で「オフ会」(今でもこうした言い回しをするのでしょうか?)も実現できずに来てしまいました。この夏の勢いが衰え、少ししのぎやすくなった頃に、是非一度みなさんとお目にかかりたいと思っています。名古屋あたりでどうでしょうか。

 以前お知らせしたように、フランス語で綴るブログは10月を目処に始めたいと考えています。また実際お目にかけられるようになりましたら、みなさんにもお知らせいたします。

 それでは、この週末よりいよいよ暑くなりそうですが、お身体に気をつけてよい夏をお少しください。それぞれが豊かな読書をこれからも続けられることを心より願っています。Au revoir, mes amis! A bientôt!    Shuhei


アニーズ・コルツについて(4) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月20日 | 外国語学習

[注釈]

 *les êtres les plus proches (...) se démultiplient,  「わたし」の最も身近な者たちが「普遍的な」存在となるという文脈ですから、dé+multiplier このdéは「強意」だと解釈しました。たった三人の身内が、その数を増やし、そして普遍的存在になるのだ、と。

 *A travers eux, les morts…; euxの説明がles morts sとなっています。

 *<<Un brocanteur>>, ce dernier: 「古物商」とは後者、つまり時間の隠喩です。

 

[試訳]

 最も身近な者たちの三位一体は、言葉にとらえられると、増殖し、骨抜きになり、やがて普遍的なものへと変貌する。その者たち、死者たちを通して、詩の内部に災禍の記憶が打ち建てられる。そうすると、詩人である「わたし」は、「彷徨う死者たちのモニュメント」に様変わりする。救いは彼方から、神のいないこの地上を逃れたところからやって来る。その救いにおいて、この世のひとつ一つの断片が「普遍宇宙の断片」へと変貌する。そのことを歌う詩が、アニー・コルツの最も美しい作品のひとつである。「わたしはあなたの口伝いに/宇宙の断片を口にする。/太陽も/足元の石も動かすことなく」アニー・コルツはこうして、何冊もの詩集を通して、ただ一冊の書物を記してきた。五つか六つのテーマが止むことなくその画布を織りなしてきた。いくども繰り返されるマントラのように、その響きは精神を解放し、精神は生と死の謎に、空間と時間の謎に密接に関わる。時間という「古物商」は過去を未来へと引き替える。「時間はそれに触れようとすると/顔面にわたしの遺灰を投げつける」

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 慌ただしかったにもかかわらず、misayoさん、Mozeさん、midoriさん訳文ありがとうございました。

 またフランスで惨劇が繰り返されました。日中エメラルドグリーの海を照らしていた眩いばかりの太陽が沈み、今度は賑やかな花火が夜空に、大輪の花をいくつも浮かび上がらせたその直後に、理性も感情も押し殺した盲目的に暴力によって、また数え切れないほどの命が踏みにじられました。

 パリよりも小規模ながら、路面電車に乗ればオペラハウスや数々の美術館に気軽に足を運べるニースが、この街の春がぼくは大好きでした。

 昨年11月のパリのテロで妻を亡くしたAntoine LérisがLe Monde紙に、亡き人を偲ぶ灯火のにおいに、時に吐き気さえ催すが、窓辺の蠟燭の火を絶やすことはできない。そのかすかな灯明はどんな暴力にも屈することがない。といった短い一文を寄せていました。また直後のLibérationの社説のNous sommes démunis.という直裁の言葉、いわば敗北宣言に、かえってフランス市民社会の強靭さを感じました。

 また夏がやってきました。暑中お見舞い申し上げます。

 次回が区切りとなりますが、27日(水)にこの文章最後までの試訳をお目にかけます。Shuhei


アニーズ・コルツについて(3) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月14日 | 外国語学習

[試訳]

 場、それはアニーズ・コルツの作品にくり返しあわられる主題にひとつである。そこには、神はいない。あるいは不在の神とともにあると言うべきか。やむことなく呼ばれ続けていても、この世には存在せず、むしろその拒絶によって存在している神。「どこに神はいる?(...)教会の壁には『不在』の手配書が貼られている。」神はまた、命よりも死を好む「屍体性愛者」である。それは疑いようがない。「神が私に触れようものなら/雷鳴を見舞わせてやる。」要するに、「人間という波頭に座礁した」神は「消え失せた。/最後のディアノザウルスとともに」神は親しげに呼びかけられている。あたかももう一度だけ目覚めさせなければならないかのように。それは、空の不在を神に統べてもらうためではない。「その十字架から降りてこい」と詩人は命じる。「わたしたちには薪がいるのだ/暖をとるのに」「この地のほかにどこにもこの世はない」のだから。しかしその他にもこの世を賑わす人々はいる。身近な人々だ。コルツの詩のどこにでも顔を出す。母、父、そしてあの人。この地上の三位一体。「わたしは使い果たした 父を/母を/恋人たちを(...)世紀の一度の出来事で/彼らを消尽させるには十分だった」「生誕という猛威」がこうして最初の叫びとなる。「母の乳房には/釘が詰まっていた」衝撃的な詩集『大地は黙る』(1999)は謎の母を歌う。「母は今でも生きている/わたしのからだの中で/けっして追い出してしまえない/いにしえの恐怖のように/わたしの乳となり母は わたしのからだを巡る/母はわたしの謎/冒涜的なおとぎ話」

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 misayoさん、Akikoさん、midoriさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。

 みなさん早々と訳文を作られて勉強熱心だな、と感心していたら、昨日の水曜日がお約束の日だっだのですね。来週が前回から2週間目の水曜日と思い込んでいました。暢気に構えていて、一日遅れの試訳となりました。ごめんなさい。

 散文に断片的な挟まれる現代詩。なかなか骨が折れました。モンペリエ土産の小さな詩集がこの記事につながったのですが、コルツの詩に親しんでいない身には雲をつかむようなところがあります。彼女の詩の翻訳もまだ無いようですが、いずれ日本でコルツが本格的に紹介される日を楽しみに待ちたいと思います。

 今月中にはこのテキストを読んでしまいたいので、変則的になりますが、次週20日にmes morts>>.までの試訳をお目にかけます。Shuhei


アニーズ・コルツについて(2) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年06月29日 | 外国語学習

[注釈]

 *l'ombre de la langue qui a tué l'homme.  l'hommeとはRené Koltz のことでしょう。

 *des mots qu'il suce avant de les cracher  sucer des mots et les cracher なくてはならないもののように sucer したあと、cracher。この時間関係を読み取ることが大切です。

 

[試訳]

 新たな言語で書かれた最初の作品『拒絶の歌』を、コルツはサミュエル・ベケットの言葉からはじめている。「沈黙は私たちの母なる言語である」。これ以後、記された、もうひとつの言語は、フランスの言葉をまとうことになる。激烈な言葉を。その激しい言葉の下に、夫を殺した言語の影が潜む。

 そして、その沈黙から、詩の再建がはじまる。まず詩人の復権が、再定義がなされなければならない。詩人とは、「それまでしゃぶっていたのに、やがて白いページの上で唾した言葉たちに詫びる人」。「荒くれた世界にさらに激昂を重ねたことを詫びる人」。詩に寄りかかって息をすることを学ぶ人。ページを背にした言葉に「傷ついた面」が隠れていることを見抜く人、となる。

 場もまた再構築しなければならない。詩はその時「私がその上を歩む海」となる。詩は「月の皮をむく」。大河は「仰向けに寝て、星座を見守る」。大海原は「家の前に腰掛けた翁」。「世界のゆりかごであり、墓場である」砂漠で、「すべては枯れ果てても、雨を待ってまた生まれ出ずる」。

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 misayoさん、midoriさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。詩的でなおかつジャーナリスティックな文章。易しくはありませんね。

 教室を閉めることについて、みなさんから本当に過分なお言葉を頂戴して恐縮しています。ただ、気がついてみれば十数年も続けていたことになります。その間にこの身に起きたあれこれを思えば、やはり、短くはない時間だったのでしょうね。みなさんにも本当に長い間にわたっておつきあいいただきました。

 どこかで切りをつけなければとここ数年考えていたのですが、ここで一度紹介もしたジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(In Altre Parole)を読んだことが大きなきっかけとなりました。アメリカ小説界で確たる地位を築いている作家ラヒリと、この自分を同列に扱うつもりは毛頭ありませんが、中年を過ぎてから、イタリア語にとりつかれ、ローマに移住し、そしてついには彼の地の言葉でエッセと掌編小説を紡いでいる彼女の外国語との取り組み方に、大きく影響されました。ぼくも、フランス語という異邦の言葉を思いのままに紡いでみたくなりました。

 どこかのブログに月一回くらいのペースで、由無しごとをフランス語で綴れればと思っています。亡くなった恩師のご子息が、幸いいつでも手を貸すよと言ってくれていて、できればこの秋からでも五十の手習いをはじめようかと考えています。

 また改めてご挨拶申し上げますが、そんな訳でこの教室を一旦閉じることにしました。

 次回は7月13日(水)にma fable profanée.>>までの試訳をお目にかけます。Shuhei


アニーズ・コルツについて(1) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年06月15日 | 外国語学習

[註]

 *les mots qui sortaient le faisaient dans l'autre langue  le はl'épouxだと考えられます。 

 *Qui, plus tard, deviendra poème  ここの関係代名詞の先行詞は、le refus でしょう。

 *ce que disaient Adorno…:ネット検索してもわかると思いますが、フランクフルト学派の中心人物であり、美学者・社会思想家のアドルノは、アウシュヴィツ後、詩を書くことは野蛮であり、不可能であると語ったのでした。

 *S'il est mort précocement, c'est que…  si + 事実, c'est que + その理由という構文です。

 *A.K. aurait pu, (...) en faire une arme de guerre…: Mozeさんのお考えのようにen は、de l'allemand となります。

 

[試訳]

 アニー・コルツ(1928年生まれ)の詩には見えない影がある。その影は、ひとつひとつの言葉の下に、その言葉からなる言語の下にかくれている。言葉は叫んでいる。「人生はおだやかな大河」ではなく、「殺戮」であると。この影にはある日の日付が眠っている。その日付が告げるのは、彼女の夫の死。なぜなら、彼が、夫ルネ・コルツがまだそこにいた時、表現された言葉は別の言語で夫を歌っていたからだ。三ヶ国語が使用され、作家はそのどれかを選ばなければならなかったルクセンブルクの別の言語で。1971年以前に出されたアニーズの初期作品を読んでいるものには、そのことがわかる。その時まで世界を描いていた言葉はドイツ語であった。けれども、1971年。ルネ・コルツの死が訪れる。その時居座ったのは影ではなく、沈黙であった。何年にもわたる沈黙であった。詩の拒絶であった。そして歳月が流れ、沈黙が破られ、その拒絶が詩と、歌となるのだった。別の言語を語るという拒絶。その時から、別の言語で書かれた十数冊の書物が世に問われている。フランス語で書かれた書物。なぜこうして国境は跨がれたのだろうか。その訳は彼女が沈黙したのと同じことだ。夫ルネ・コルツは占領軍ナチによって強制収容所送りとなったのだった。早すぎる夫の死は収容所送還という暴力によってもたらされたものであった。アドルノの言に反して、ポール・ツェランをはじめ、詩が可能であるのみならず、必要でもあったすべての人々と同様に、アニーズ・コルツは、ドイツ語をヒトラーのプロパガンダの毒牙から奪い取ることができたかもしれない。それをもって野蛮に対する戦争の武器となし得たかもしれない。しかし課せられたのは沈黙であり、そこに辛苦に向き合う言葉はなかった。

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 Akikoさん、midoriさん、お久しぶりです。

 また機会を改めてお話ししますが、実は、このテキストを最後に「教室」を閉じようかと考えています。読んでみると密度のあるテキストで、まだ数回以上かかりそうですが、それまでまだしばらく、よろしくお付き合いください。

 みなさんもご存知でしょうか、この6月5日にスイスでベーシック・インカム導入の可否を問う国民投票が行われました。結果は否決でしたが、同制度は民主党政権下の2009年頃、日本でも大変議論になっていた社会制度でした。少し懐かしい気持ちで、山森亮・橘木俊詔『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』(人文書院 2009年)を読んでいます。意外だったのは、この書物で討議されている内容が、あれから6年以上経った今でも、まったく古びていないことです。その後日本社会は、東北大震災を挟んで、本当に停滞、あるいは後退しているのだなと実感させられました。

 それでは、次回はen attente de l'eau>>.までの試訳を29日にお目にかけます。

 Shuhei