フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ロラン・バルト『明るい部屋』(5)

2016年01月27日 | 外国語学習

[注釈]
une valeur morale, une valeur supérieure, une valeur civile. : 母が優先させたのは、大仰な価値ではなく、ささやかなune valeur civile だった、と読みました。

[試訳]
 けれどもこれらの母の写真の中にはいつも特別に、大切に守られた場所があった。それは、母の目の明るさだった。なるほどそれは、このまなこが発する光、色彩が写真に残す痕跡、母の緑青の瞳に過ぎなかった。でもそれはすでに、母を母として特徴づける本質、大好きなあの面立ちの精髄へと私を誘う一種の媒介であった。それから、これらの写真の一枚一枚は、それがどんなに不完全であろうと、母が写真に「撮られる」度に感じていたに違いない感情を、そのまま表していた。つまり、頑なに拒むことも「態度」になることを恐れて、母は写真にその身を「預けていた」。母はレンズの前に立つという(避けようのない)試練を見事に乗り越えていた。それも「慎ましやかに」(かといって芝居がかった耐え忍ぶ態度や、仏頂面をすることもなかった)。それというのも、母はいつも精神的な価値や、高尚な価値より、市民としての価値を尊ぶ術を心得ていたから。私とは違って、自分の姿がどう写ろうと母はあたふたしなかった。自分の姿を予め「こうと決めてかかる」ようなこともなかった。
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 凍えるような寒さも、近畿・東海ではこれで峠を越えたようですね。misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。

 このあとバルトは、あの「温室の一枚」と決定的に出会うのでしたね。この続きを、ぼくも春休みにでもまた読み返してみようと思います。
 この「教室」で何度となく取り上げた『イデーの鏡』の著者Michel Tournier が亡くなりました。天寿を全うしたかに見える、フランスの現代作家を代表していたTournierを偲んで、今再び同書を次回のテキストとします。この週末にはまた改めておしらせします。Shuhei


ロラン・バルト『明るい部屋』(4)

2016年01月13日 | 外国語学習

[試訳]
 ある写真を前にして「これはもうほとんど母だ!」と言ってしまうことは、まったく別の写真を手にして「これは全然母ではない」と言うより辛かった。「もうほとんど」とは、愛というひどい制度の言わしめることだけれども、それはまたがっかりさせる夢の決まりごとでもある。だからこそ私は夢が嫌いなのだ。私は頻繁に母についての夢を見る(夢を見るのはいつも母のことだ)、それでもそれが母そのものであったことは一度もない。つまり夢の中では、母はときおりいくらか場違いで、過剰なのだ。たとえば妙に明るかったり、なれなれしかったり。母がそんな風であったことは一度もないのに。もっというと、私はそれが母であることは「わかっている」のだけれど、母の特徴を「認める」ことはないのだ(いったい夢の中で私たちは「見ている」のだろうか、それとも「わかっている」のだろうか?)。母についての夢は見るけれども、母を夢見ることはない。そして今写真を前にしていて、夢においてと同様に、同じ努力、シジフォスに課せられたような同じ仕事を果たさなければならない。その本質に向かって、身を傾け坂を登るのだが、その本質を見つめないうちにまた坂道を転げ落ちる。そして再び身を起こすのだ。
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 misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。今回も、ぼくから付け加えることは特にありません。試訳をご覧になって疑問に思うことがありましたら、また気軽にお尋ねください。
 比較的温暖だった今年のお正月をみなさんどんな風にお過ごしだったでしょうか。前回ここで金時鐘(キム・ジジョン)さんの著作を紹介しましたが、大晦日には辺見庸x高橋哲哉の対話『流砂の中で』(河出書房新書)を読みました。
 お二人の対談を読むのはこれで三冊目となります(『私たちはどのような時代に生きているのか』(角川書店)、『新 私たちはどのような時代に生きているのか』(岩波書店))。その中で序文として書かれた辺見さんの言葉が、いつものように重く心に残りました。
 「これから到来する(すでに到来している)未来が、どのようなものでないかと言うのは、いささか勇気をようする。(...)どのような時代ではないかは、主たる除外の対象に「平和」をあげたにひとしい。それはとりもなおさず新たなる「戦争」の予覚をかたったということだ。」(p.10)
 2011年の震災の直後だったでしょうか。以前ここで、辺見さんが日本を襲うことになる大地震と原発事故について『朝日ジャーナル』誌上で(「標なき終わりへの未来論」)予見していたことに触れたことがあります。私に予知能力などあるはずはなく、ただ「無能者の目」で時代をじっと凝視する中で見えてくるものを、怯まず言葉にしているだけだ、とおっしゃる辺見さんの言葉は、残念ながらことの本質を外してはいません。そんな厳しい自覚を持って、2016年を息継いででゆくことにしようかと思っています。
 それでは、次回はこのバルトの文章を読み切ることにましょう。27日(水)にその部分の試訳をお目にかけます。Shuhei