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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

夏休み前の読書報告

2008年07月30日 | Weblog
 post-scriptum ふうにつぎの Lecon の予定を書いておきます。
 今年度前期に読んで特に印象深かった本は,愛敬浩二ほか『対論 憲法を憲法からラディカルに考える』(法律文化社)と、大澤真幸『<自由>の条件』(講談社)の二冊です。
 前者は法学者とそれ以外の分野の社会科学者とのかなり白熱した討論をまとめたものです。とくに第II部「愛国心と教育」と題された、法学者西原博史と社会学者北田暁大との対談が大変面白いものでした。安倍政権以降の教育改革と若者をモンスター視する社会のつながりなど,示唆に富む議論に知的な興奮を覚えました。
 また後者、これも社会学者大澤真幸の浩瀚な著作は、資本主義が隆盛を極めているはずの現代において、本来であれば社会に充溢しているはずの「自由」がどこか影が薄く,人々に実感されないメカニズムを浮き彫りにし、現代においてなお可能な<自由>の条件を追求した野心作です。ぼくの知る限りでは,この書物の本格的な書評は書かれていないように思うのですが,興味のある方は,『群像』7月号に掲載された大澤真幸・松浦寿輝の対談「他者なき時代の自由」を是非ご一読下さい。新作の宣伝も兼ねた、著者自らによる本の紹介となっています。
 この大澤の最新作に導かれるようにして,じつはここのところフロイトの著作をぱらぱらと読み返しています。フロイトの作品はこの教室でも一度扱ったことがありますが,それで、Rentre'e scolaire 以後しばらくは、今一度フロイトの思想を振り返るために,ラカン派の精神分析家 Octave Mannoni << Freud >> (Seuil,1968)を読むことにします。
 この調子だと残暑も相当厳しくなりそうですが,みなさんまたよろしくおつき合い下さい。
 smarcel

Merci professeur ! (2)

2008年07月30日 | Weblog
[注釈]
 * C’est ce que montrent (...) nos agendas, (...) que la langue... : ふたつめの que は、parce que の省略された形と考えればよいでしょう。
 * Guillaume Apollinaire は20世紀に活躍した詩人。<< Le pont Mirabeau >> は、
  http://www.toutelapoesie.com/Le-Pont-Mirabeau-t5189.html
 に掲載されています。ぼくは Apollinaire のことはよく知らないのですが,Passent les jours et passent les semaines といったところに 、例の中世の詩句からのねじれた影響を感じないでもありません。社会的な営みによって区切られる時間と,淀むことなく流れる河の流れを前にして時間の不可逆性を詠じる20世紀詩人の詩は、なるほど対照的ですが,着想というのはなかなか複雑なものなのかもしれません。ミラポー橋については、Pleiade 版などを見れば、ひょっとしたらなにか註が見つかるかもしれません。気にかけておきます。
 * trois particularite’ : tout d’abord (...) ensuite (...) enfin というふうに順を踏んで日曜日という言葉の特徴が紹介されています。
 * Son ambiguie’ : 日曜日の「曖昧さ」がよくわかるような訳の工夫が必要でしょうね。
[試訳]
 日曜日
 あなたは何曜日から一週間は始まるとお考えですか。考えるまでもなく,月曜日,と答えるでしょうね。手帳を見ると一週間は月曜のページから始まっていますし,言葉からして、英語だと、土曜 - 日曜を対にしてウイーク・エンドと言いますし(一世紀以上も前からフランス語に定着した言葉です)、ケベックの表現も「週末」と言います。
 ところが、18世紀までは一週間は日曜から始まっていました。ギヨーム・アポリネールの「ミラボー橋」誕生のきっかけとなった、中世の詩の有名な一節をご存知でしょう。「土曜日で一週間は終わる」1694年アカデミー・フランセーズが辞書の初版を出したとき、月曜日を「週の二日目」と定義していましたが,今出版されている第九版ではつぎのような定義を試みています。「日曜日の翌日で、一般的に一週間の始まりの日と考えられているが、キリスト教の典礼に倣えば二日目の日となる」
 日曜日 dimanche という言葉には三つの特徴があります。まずはじめにその形態です。di が( lundi, mardi, のように )接尾辞ではなく,接頭辞として働いていますね。それから語源をキリスト教に持っています。月曜が月の日、火曜は火星の,水曜は水星の、木曜は木星の,金曜は金星の、土曜は安息の日です。けれども、日曜は、dia domenica, つまり「主の日」となっています。最後にその両義性です。主の日、つまり一週間は神のお勤めから始まるのですが,それはまた、主が一週間を終える休息の日でもあるのです。
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 もう10年近く前のことになりますが,東京大学の I という教師が、「とうとう東大にもドストエフスキーを知らない学生が現れた」という驚きを活字にし、ちょっとした話題になったことがあります。ぼくもつい先日、担当していた「西洋の文学」を受講している学生たちにジャン=ポール・サルトルの話をしましたが,若い学生たちはサルトルという固有名詞にもちろん初めて触れるのだ、という前提で授業を進める必要がありました。ですから、この「教室」には少しくつろいだ気分で臨めます。
 雅代さんのおかげで Apollainaire の詩を20年振りにひとり何度も朗読することができましたし,asaka さん、Moze さんの言葉に触発されて,『赤と黒』を小林正訳で夢中になって呼んだ高校2年(遅いですよね)の夏を思い出したりしました。でも、ぼくは、教師たちがどこかうれしそうに、学生たちの無知を話の肴に盛り上がるっている様子には嫌悪を覚えますが。
 さて、ここ大阪では気温35℃を超える「猛暑日」が珍しくなくなりました。もうひとつなにか別のランク付けが必要になるのではないか(つぎは「炎暑日」などとなるのでしょうか)と、余計な心配をしています。どうかみなさん、くれぐれもお身体にはお気をつけて下さい。それでは少し長い夏休みとなりますが、9月19日を rentre’e scolaire とします。どうかそれまでお元気で。またフランス語学習の近況報告など気軽に書き込んでいただければ幸いです。

Lecon 154 : Merci professeur ! (1)

2008年07月23日 | Weblog
 [注釈]
 * Ope’ration militaire odieuse... : ここが無冠詞なのは,kamikaze の同格的な説明だからでしょう、たぶん。ぼくも、冠詞に関しては勉強不足で,一度じっくり学び直さなければ,と思っています。
* Kamikaze renvoie a` une pe’riode sombre... : renvoyer は確かに他動詞ですね。ただここの目的語は「私たちを」ということでしょう。ex. Un aste’risque revoient aux notes... といった例と同じことです。

 [試訳]
 テロリストのテロ行為、とくに1992年以来多発している中東でのテロを指すのに、他の多くの言語と同様フランス語も、カミカゼという言葉を多用しています。
 私は自爆テロと言った方がいいのではないかと考えています。
 日本語のカミカゼとは、実際は兵士のことでした。彼らは終末戦に、絶望的な戦闘に仕方なく臨みながら、超自然的な加勢を頼んでいたのでした。カミカゼとは、カミ、すなわち神道では「神」を指す言葉と、カゼ、つま「風」とに分けられます。つまり「神の風」とは、13世紀、二度に渡ってモンゴルの船団の襲来を押しとどめた名高い大竜巻を思い出させる言葉なのです。
 それはおぞましく、無意味な、要するに無駄な軍事作戦なのです。それでも、軍による作戦であったのですから、カミカゼが一般市民を攻撃することはありませんでした。それに1945年8月14日正午、日本が降伏した時点でカミカゼは終わっています。
 カミカゼは、日本の暗い軍国主義時代を思い出させますが,日本はその時代を過去のものとしたのです。
 カミカゼという言葉は歴史の中に戻して、「自爆テロ」という言葉を使いましょう。というのも、なるほどこちらもテロリトスのテロ行為で、命を捧げるものですが,それが標的としているのは一般市民なのですから。それはまた別の悲劇なのです。
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 asaka さん、力の入った訳文ありがとうございます。またよろしくおつき合い下さい。実はasaka さんは、この教室の学生第一号。そういえば、あのサイトのデーターは、残念なことに失われてしましました。これもぼくのデジタルスキルの乏しさが災いしました。
 明子さん Bienvenue et bonne continuation ! 訳文は大変流麗で、かなり読める方ですね。またご専門の勉強の話など聞かせて下さい。
 西日本・東日本はこの暑さ続きですから,軽いものをと選んだ文章でしたが,みなさんにはやはり易しかったですね。もう一週 << Merci prosefesseur ! >> におつき合い下さい。なおこの本のサブタイトルは「フランス語を味わう番組」( Chroniques savoureuses sur la langue francaise) となっています。

新しいフランス語テキスト

2008年07月17日 | Weblog
 今週から夏休み前の2週間に渡って Bernard Cerquiglini << Merci Professeur ! >> を読みます。テキストをご希望の方は
smarcel@mail.goo.ne.jp
までご一報下さい。なお以前メールを頂戴したことのある方、あるいは教室に参加したことのある方には、すでにテキストをお送りしてあります。
 smarcel

Histoire de peintures (8) 注釈と試訳

2008年07月09日 | Weblog
  [注釈]
 * James Coleman intervenait... : intervenir は「介入する」という動詞ですが,こうした講演会やシンポジウムの場では、「口を挟む」つまり、「発言する」の意味で使われます。
 * le parcours transversal : あとに les chemins de traverse という言葉もでできますが,ダヴィンチ展が設えた「順路」のことでしょう。その順路のことを Elle suit un fil chronologique et the’matique とArasse は表現していました。
 * sur les appropriations de Coleman... : p. 253 に il s’approprie les œuvres du passe’ という文章もありましたね。つまり、過去の作品を自身の創作の糧として自分のものにすることです。
 * Coleman intervenait obliquement... : obliquement は、この文脈では traditionnelle ではない形で、ということです。
[試訳]
 最近おなじような経験が私にも起りました。ルーヴルでのレオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン展の折のことです。その催しに現代の創作家ジェームズ・コールマンが招聘されていたのです。コールマンはただ、ワンセットの5つのモニターを使っただけでした。極端に簡素な、謎めいた講演だったわけです。彼はただそのモニターに、会場には展示されていないレオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを映しただけだったからです。そして最後に一枚の絵と、実物大で原色の「最後の晩餐」が映し出されました。こうした仕掛けは展覧会の来場者を戸惑わせたに違いありません。現代の創作家を呼んで、それがレオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンとおなじ大きさだとしても,8 x 6センチの小さな画面にその作品を再生して、何の役に立つのでしょうか。コールマンが望んでいたのは、来訪者が自身の目を、作品の配置を、展覧会で導かれる順路を、そしてまた、展覧会には出品されなかったけれども、膨大な数のレオナルドの作品から選ばれた5作品の選択などについて、自問することであったのは間違いありません。人々が順路について,コールマンがレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を(大変恭しくではありますが,それでも)自分のものにしていることについて、ひとたび考え始めれば、展覧会によって紹介されたレオナルドとは別のレオナルドが姿を現すのです。展覧会はすばらしいものでしたが,それでもまったく伝統的なもので、時系列とテーマに沿って展開されていたからです。聖母マリア、寓意画、建築、肖像画…といった具合です。美術史の流れにそのまま沿った伝統的な分類でした。コールマンは思わぬ方向からその流れに介入し、芸術家の目によってこうしたカテゴリーを開いてみせたのです。彼が浮かび上がられたレオナルドは、展覧会の組み立てが準備していたレオナルドよりもずっと開かれたものです。美術史は芸術家の目から学ぶべきことがたくさんあるのではないか,と私は考えています。
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 Daniel Arasse のエセー(試論)いかがでしたか。実は彼の著作は邦訳があります。『モナリザの秘密』、『なにも見ていない』(ともに白水社)。今回扱った Histoires de peintures の邦訳が前者です。邦訳も参考にしましたが、細かいところでいくつか訳文に納得出来ないところもありました。それでも,全体としては信頼できる翻訳だと思います。これを機会に是非アラスの作品を読んでみて下さい。
 さて、大学も夏休み前の前期試験の準備で忙しくなって来ました。それですこし Pause をいただいて、次回の教材は 7月18日までお待ち下さい。もちろん、質問などは随時遠慮なく書き込んで下さい。
 それから、勝手ながら8/1からこの教室も夏休みとさせてもらって,後期は9/19からはじめたいと思います。
 smarcel

Histoire de peintures (7) 注釈と試訳

2008年07月02日 | Weblog
[注釈]
 * une approche anachronique : ana- は、「反対の方向に」を意味する接頭語で、また chronique は「時間の」という形容詞です。ですから、ここでは「時間の流れにとらわれない」と訳してみました。
 * une autre possibilite’ pour l’histoire de l’art : 既存の、アカデミックな美術とは「別の」という意味合いでしょう。
 * un moment donne’ : ここは、「とある時代に」ぐらいの意味です。
 * de’chiffrer cette œuvre a` l’inte’rieur de son temps : 文字通り,「その時代の内部で」、anachronique ではなく、ということです。

[試訳]
 以上が時代の流れにとらわれないアプローチです。私はマネから出発してティチアーノに至りました。今度はマネを忘れてティチアーノに集中し、それから再びマネに戻り、マネが何を見ようと努めたのかが一層良く理解できたわけです。これが、ある時代に作品が現れるその歴史的な過程に迫ろうとする、美術史のもうひとつの可能性です。マネがウルヴィーノのヴィーナスを見に行ったことには理由があります。この絵の中の何が、マネをして時代を遡らせたのでしょうか。芸術家は当然のことながら時代の流れに逆らうもので、過去の作品を自分のものとするのですし,それは芸術家の義務です。もし芸術家が過去の作品を模写し,あるいは恭しく引用するだけにとどまるのであれば、その人物は伝統的な画家でしょう。けれども創造者の特質とは,過去の作品を自分のものとた上でそれに別な形を与え,あるいはそれを消化し、そしてあらたな結果を導きだすことです。こんなふうに芸術家の視点をあらためて考察することは,美術史家にとって、自身の学問の枠を問い直す良い方法でもあります。芸術家は、私たちに見ることを教えてくれるのです。といってもそれは、私たちにも芸術家のまなざしを再び見出せると想像することではありません。そうではなく、ある芸術家の、とある過去の別の芸術家に対する、まったく思いがけない,独自な、個性的な、なにかを盗もうとするまなざしを、ある作品が示唆するその様を、私たちは考えることができるのです。そうしたまなざしが偉大な芸術家のものであれば,私たちは過去の作品について多くを教えられます。けれども、歴史家としては、その時代の内部で作品を読み解いてみせなければなりません。この場合で言えば,マネが何を見たかを突き止めるだけで満足をしてはいけないのです。まずティチアーノがいかにしてこの絵を作り上げたかを理解しなければなりません。
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 さて、次回は少し長くなりますが,このエッセーを最後まで読むことにしましょう。
 ウィルさんのご質問についでですが,文章の理解には、文章の「流れ」に乗ることが欠かせません。ただ、その流れは決して単調なものではなく,右に,左に時には蛇行し、またその流れが緩やかな時もあれば,勢いを増すこともあります。その多様な流れを作り出しているのは、言葉のひとつひとつの繋がりですから,個々の単語のニュアンスを正確に捉えることも大切でしょう。ただ、やはり大切なのは,全体の流れをとらえることだと思います。
 学習法としては,その「流れ」を意識しながら,ある程度まとまった分量の文章をくり返し書き写してみることをお薦めします。なかなか面倒な作業ですが,具体的な身体動作を伴う分、文章の理解は一層深まると思います。