[注釈]
*mais il n’y avait pas de nations : familleよりも広がりのある集団にnationという言葉が当てられています。といっても、les premiers hommes の時代であることを念頭に、peuplesという言葉とともに、「民衆」としてみました。
*la loi...n’est pas moins sacre’ pour e^tre d’institution humaine. : 否定のニュアンスを持ったmoinsがもう一度否定されている訳ですから、「それでも…だ」institution humaine 「人が作った決まり事」ではあっても、どこか聖なるものの命じる響きがあるということでしょう。もちろんこの時代、ルソーはフロイトの「トーテムとタブー」の理論など知る由もありません。
[試訳]
なんだって。それまでは人類は大地から生まれていたというのだろうか。男女が結ばれることもなく、誰もわかり合うこともなく、子々孫々は続いて来たというのだろうか。そうではない。様々な家族集団は存在した。けれども、民衆と呼ばれるものはいなかったのだ。それぞれの家庭固有の言語は存在した。けれども民衆の言葉などはなかった。結婚は存在した。けれども恋愛などなかった。それぞれの家族集団はそれだけで自足し、その唯一の血によって受け継がれていたのだ。子供たちは同じ親から生まれ、ともに大きくなる。やがて少しずつ気持ちを通じ合う術を覚える。歳とともに男女の差が際立ってくる。本能に従うままに結ばれることができた。情熱はなくとも本能があり、好みはなくとも慣習があった。兄妹のままに夫となり、妻となることができた。*
*初期人類の男たちは姉妹を妻としなければならなかった。最初期の素朴な風習にあっては、こうした慣習は問題なくくり返されていた。それほどに、それぞれの家族集団は孤立して暮らしていた。もっとも初期の民衆が集うようになってもそうであった。ところがこうした慣習を禁じる法は、それが人間の決まり事であっても聖なるものであった。人間の取り決めを、様々な家族間の関係によってしか見ない人々は、この最も重要な側面を見落としている。狭い集団内のやりとりが男女の間で必然的に生む家族において、ひと度かくも聖なる法が心に響き、その意義を訴えることを止めてしまえば、人間の間に礼節はもはやなくなり、もっとも恐るべき風習が人類を滅ぼすこととなるであろう。
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普段より一週遅れのブログの更新が、さらに一日遅れて今日12月20日となってしまいました。ごめんなさい。
今しがた、四階のベランダに洗濯物を干して来たのですが、今朝の岡崎市内の外気は肌に痛いように冷えていました。クリスマス寒波などという言葉も気象情報では耳にしますね。
ところで、先日、確か昨年みなさんに紹介した大澤・橋爪『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の続編ともいうべき、「Thinking O」011号(左右社)「やっぱりふしぎなキリスト教」を興味深く読みました。とくに対談「近代社会のなかのふしぎなキリスト教」が勉強になりました。一部引用して、ご紹介しておきます。
p.44「今日は(...)特に、法や社会契約とキリスト教について、『ふしぎなキリスト教』をずいぶん補うことができたのではないか、と思います。近代社会というのは、われわれが未だその中にいる社会のことですが、それは、「キリスト教の影響を脱した」という顔をして、実は、最も強くキリスト教を支えとしている社会です。」
私たちが今を生きるこの社会についての理論的な礎となっている、ホッブス、ロック、そしてルソーの思想と、キリスト教との関係が論じられています。機会があれば是非一読下さい。
さて、ぼくは、年末年始にひさしぶりにドストエフスキー『白痴』を手に取ってみようかと思っています。というのも、『三田文学』に掲載された座談会「昭和文学ベストテン・評論編」(http://www.mitabungaku.jp/)で小林秀雄『「白痴」について』が多くの評者によって取り上げられていたこと、またその後長年気になっていた山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」(『文学のプログラム』講談社文芸文庫)を読んだことも、きっかけとなりました。それに、大学時代、小林批評に精通していた友人のSが、小林の同書を一読することを強く勧めてくれていたことなども、近頃なっかしく想い出しました。
そんなわけで同書を読む前に、まずはドストエフスキー作品に、ほとんど三十年ぶりに挑んでみようと思い立った訳です。みんさんはどんな年末年始をお過ごしでしょうか。どうかよいお年をお迎え下さい。
新年は1月5日(土)までに新しいテキストをお手元にお届けします。13年は、フェルメール作品をめぐる一文から読み始めることにしましよう。Smarcel
*mais il n’y avait pas de nations : familleよりも広がりのある集団にnationという言葉が当てられています。といっても、les premiers hommes の時代であることを念頭に、peuplesという言葉とともに、「民衆」としてみました。
*la loi...n’est pas moins sacre’ pour e^tre d’institution humaine. : 否定のニュアンスを持ったmoinsがもう一度否定されている訳ですから、「それでも…だ」institution humaine 「人が作った決まり事」ではあっても、どこか聖なるものの命じる響きがあるということでしょう。もちろんこの時代、ルソーはフロイトの「トーテムとタブー」の理論など知る由もありません。
[試訳]
なんだって。それまでは人類は大地から生まれていたというのだろうか。男女が結ばれることもなく、誰もわかり合うこともなく、子々孫々は続いて来たというのだろうか。そうではない。様々な家族集団は存在した。けれども、民衆と呼ばれるものはいなかったのだ。それぞれの家庭固有の言語は存在した。けれども民衆の言葉などはなかった。結婚は存在した。けれども恋愛などなかった。それぞれの家族集団はそれだけで自足し、その唯一の血によって受け継がれていたのだ。子供たちは同じ親から生まれ、ともに大きくなる。やがて少しずつ気持ちを通じ合う術を覚える。歳とともに男女の差が際立ってくる。本能に従うままに結ばれることができた。情熱はなくとも本能があり、好みはなくとも慣習があった。兄妹のままに夫となり、妻となることができた。*
*初期人類の男たちは姉妹を妻としなければならなかった。最初期の素朴な風習にあっては、こうした慣習は問題なくくり返されていた。それほどに、それぞれの家族集団は孤立して暮らしていた。もっとも初期の民衆が集うようになってもそうであった。ところがこうした慣習を禁じる法は、それが人間の決まり事であっても聖なるものであった。人間の取り決めを、様々な家族間の関係によってしか見ない人々は、この最も重要な側面を見落としている。狭い集団内のやりとりが男女の間で必然的に生む家族において、ひと度かくも聖なる法が心に響き、その意義を訴えることを止めてしまえば、人間の間に礼節はもはやなくなり、もっとも恐るべき風習が人類を滅ぼすこととなるであろう。
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普段より一週遅れのブログの更新が、さらに一日遅れて今日12月20日となってしまいました。ごめんなさい。
今しがた、四階のベランダに洗濯物を干して来たのですが、今朝の岡崎市内の外気は肌に痛いように冷えていました。クリスマス寒波などという言葉も気象情報では耳にしますね。
ところで、先日、確か昨年みなさんに紹介した大澤・橋爪『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の続編ともいうべき、「Thinking O」011号(左右社)「やっぱりふしぎなキリスト教」を興味深く読みました。とくに対談「近代社会のなかのふしぎなキリスト教」が勉強になりました。一部引用して、ご紹介しておきます。
p.44「今日は(...)特に、法や社会契約とキリスト教について、『ふしぎなキリスト教』をずいぶん補うことができたのではないか、と思います。近代社会というのは、われわれが未だその中にいる社会のことですが、それは、「キリスト教の影響を脱した」という顔をして、実は、最も強くキリスト教を支えとしている社会です。」
私たちが今を生きるこの社会についての理論的な礎となっている、ホッブス、ロック、そしてルソーの思想と、キリスト教との関係が論じられています。機会があれば是非一読下さい。
さて、ぼくは、年末年始にひさしぶりにドストエフスキー『白痴』を手に取ってみようかと思っています。というのも、『三田文学』に掲載された座談会「昭和文学ベストテン・評論編」(http://www.mitabungaku.jp/)で小林秀雄『「白痴」について』が多くの評者によって取り上げられていたこと、またその後長年気になっていた山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」(『文学のプログラム』講談社文芸文庫)を読んだことも、きっかけとなりました。それに、大学時代、小林批評に精通していた友人のSが、小林の同書を一読することを強く勧めてくれていたことなども、近頃なっかしく想い出しました。
そんなわけで同書を読む前に、まずはドストエフスキー作品に、ほとんど三十年ぶりに挑んでみようと思い立った訳です。みんさんはどんな年末年始をお過ごしでしょうか。どうかよいお年をお迎え下さい。
新年は1月5日(土)までに新しいテキストをお手元にお届けします。13年は、フェルメール作品をめぐる一文から読み始めることにしましよう。Smarcel