[注釈]
*le candidat socialiste : Francois Hollandeの言い換えです。
*la grande famille du corps des Mines : ウランを原材料とする核エネルギー開発は、フランスでは歴史的に鉱山局関係者が推し進めて来たということだと思われます。
* Qui va augmenter,…: quiは関係代名詞で、先行詞は前文のle prixです。関係代名詞と先行詞がポワン.を跨いでいるわけですが、新聞記事などで、こうした書き方時々見かけるようになりました。
[試訳]
1970年代以降、政党の左右を超えて原子力発電がコンセンサスを得て来たフランスにおいて議論が活発となっている。社会党の大統領候補、フランソワ・オランドは、5月6日大統領選で勝者となれば、フランスの発電量における原発の依存度を、2025年までに74%から50%に縮減すると公約した。原子力発電は政府と国民の支持が必要な「政治的」エネルギーだ。この二つの同意がなければ原発の将来にはたちまち暗雲が立ちこめる。
フクシマ以来言論も一枚岩ではなくなった。従来原発を巡る議論は「専門家」に、この場合鉱山グループ一大企業体によって、占有されていた。フランスでは1月31日に公表された会計院報告によって、まだ多く不明な点はあるにしても、原発関連の実際の費用が明らかになった。フクシマがきっかけとなってこうした透明性が取り戻され、それによって発電所の安全も強化されている。会計監査は繰り返され、保安機関からはいくつもの改善が要求されている。2011年12月初旬グリーンピースが二つの原子力発電所に侵入したことによって、絶対の安全など存在しないことも明らかにされた。こうしたすべてのことが原子力発電の代価の見直しへとつながった。その代価の大きくなったことを、どんな専門家ももう疑うことはないだろう。
しかしながら、こうした問い直しは別の問題を呼び寄せる。私たちはどんなエネルギーモデルへと向かうべきだろうか。というのも、いかにしても化石燃料への依存は減らさなければならないからだ。それは日ごと地球を暖め続け、もうこれ以上地球はそれに耐えられない。原子力発電はもう実現した夢ではなく、フクシマ以来その夢は現実において霧散してしまった。
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3月11日からひと月以上経った現在、原子力発電のあり方を根本的に問い直す声は、日に日に高くなり、広がっています。その声に政権与党はどう応えるのか。今はそれが問われています。
さて、前回お話ししたように今日は辺見庸『瓦礫の中から言葉を』(NHK新書)をご紹介します。
「多くの命が奪われた。そして多くの建物が壊された。これはまぎれもない事実です。しかし、言葉についていえば、この破壊、かぎりない破壊を表現する言葉を、わたしたちは、失うもなにも、ひょっとすると最初からもっていなかった、用意していなかったのではないか、とわたしは思いいたりました。」(p.57)
そしてけっして一様であるはずもない、ありのままの真実を見つめ、そうした多様な真理をそれぞれの言葉でとらえてみせる。そうしたことが大変困難になっている背景に、辺見はこの日本社会の変質を見ています。
「3.11直後の、まるですっかり入れ替わってしまったような薄気味わるい空気に、わたしは「戦時社会」を連想し、人びとは強制されなくても、自分で自分を抑圧し、みずから一方的な雰囲気に言語やビヘイビアを合わせ、集合的に無意識に統制されていくのだ、と思い知ったことです。二十一世紀における日本型ファシズムの一端をかい間見たように感じました。」(p.86)
そんなわたしたちの貧しい、不自由なことばの有り様を照らし出すような、自由闊達な、鮮烈な言葉の数々を、著者は私たちに差し出すのです。原爆の閃光に身を晒した原民喜『夏の花』、ソ連の強制収容所からの生還を果たした石原吉郎の詩、関東大震災後の東京を描いた川端康成「空に動く灯」等々。ぼくは、とりわけ、長年読み返すことのなかった原民喜の文章の瑞々しさに、あらためて目を見開かされた思いをしました。
もちろん、大病後にいくつもの文学賞に輝いた辺見さんの詩作品も同書には納められています。
さて、次回からはしばらく、プルーストが『失われた時を求めて』のエッセンスを語ったインタヴューを読むことにします。幸い、
http://www.youtube.com/watch?v=dhoqSH-VPaQ&list=HL1335309555&feature=mh_lolz
で、その朗読も聴くことができます。テキストは、週末までにはお届けします。
Shuhei