◆残酷なトラップに満ちたCUBEの中で、出口を求めて動き続ける人々。監視室のモニターでその行動を監視し、記録をつけるウィンとドッド。CUBEでは、本格運用に向けて各種のデータを集めるために、志願した被験者たちを使って実験が繰り返されていた。先輩で上級技術者のドッドはモニターに映る光景にも無関心で、極力何も考えないように日々を送っていたが、経験の浅いウィンにはそれが出来なかった。資料によれば被験者達はいずれも死刑囚で、死刑よりはいくらかでも生存の可能性があるCUBEでの実験に参加したことになっているし、本人がサインした同意書も揃っている。だが、被験者はCUBEに送り込まれる前に一切の記憶を消されているため、自分がなぜそこにいるのかも、そこがなんなのかも知らないままに死んでいく。目的も知らぬまま、それを淡々と記録する毎日に疑問を感じて罪の意識にかられるウィンは、先輩のドッドにCUBEや実験についての疑問をぶつけようとするが、ドッドはまるで取り合おうとしない。逆に、疑問を持っていることが上層部に知れれば、次に目が覚めた時はCUBEの中かも知れないと警告してウィンを黙らせる。
新たに送り込まれたレインズという女性の被験者が気になっていたウィンは、ドッドに隠れて彼女のファイルを調べ、そこに同意書がないことに気づく。このシステムの目的は何なのか、そもそも、この膨大なファイルは本物なのか。自分達が信じてきたことは正しいのか。
◆CUBEシリーズの三作目にして完結編だという本作は、一作目の『CUBE』の前日譚。監督は二作目の『CUBE 2』に引き続きアーニー・バーバラッシュ。ヴィンチェンゾ・ナタリが監督した一作目のような衝撃はないが、謎が明かされていくぶん、二作目よりも面白い。ついでにいうと、二作目の『CUBE 2』はかなり設定の違う物語なので、全くの別物と考えておいた方が良いだろう。
監視者としてCUBEの構造を知っているウィンがレインズを助けに内部に乗り込むというのは前二作にはなかった展開だし、第一作目を観た方なら、それなりに楽しめるだろう。ただ、CUBEが移動する立方体の構成であること、トラップが仕掛けられていること、それぞれにコードが記されていることは、前作を観た人なら最初から分かっているわけで、「CUBEの構造」に関しての謎はもう無い。三作目で「謎」として残っているのは、「誰が、何の目的でCUBEを作り運用しているか」だけだ。一作目の前日譚である本作では「誰が」の部分はある程度描かれているが、DVDのパッケージにある『CUBEの秘密が全て明かされる』というアオリ文句は偽りだ。一作目のオープニングにつながる展開で、確かに完結させる構成になってはいるが、CUBEの目的は謎のままで、観客の想像に任せる形になっている。CUBEが生まれた背景や理由をすっかり知ってスッキリしたいという方には、モヤモヤがたっぷり残るだろう。まぁ、もともとがメッセージ性のある映画ではないので、背景についてはどうでも良いのかも知れないが、自分なりに考えてみた。ここから先は、わずかな断片を元にした私の想像なので、何の根拠もないことを最初にお断りしておく。
CUBEの世界は、近未来のアンチユートピア。そしてCUBEの目的は、不穏分子の処刑と高級官僚の娯楽を兼ねたものではないかと思う。専横的な国家体制では、高級官僚が実質的な支配者となって強権をふるう。秘密警察が生まれ、密告・拷問・非公開の処刑が行われるようになっていく。長く続けば腐るのが、権力を持った人の常だ。というか、人の器で扱える権力の大きさは、本来とても小さい。ローマの闘技場で奴隷同士を戦わせたり猛獣と戦わせたりしたように、暇と大きすぎる権力を持つと、人は暇つぶしに人命をもてあそぶようになる。権力者達は、不穏分子と見なされた者達(あるいは密告された者達やランダムに選ばれた者達)を利用して、娯楽と支配のための警告を兼ねたシステムを作ったのではないか。人々が互いに殺し合い、残酷なトラップに殺され、やっとたどり着いた出口で絶望を味わわせるというCUBEは、安全圏にいる権力者にとっては観て楽しむ娯楽を兼ねた処刑方法。そして、CUBEの存在を知る一般の上級官僚などにとっては、「いつかCUBEの中で目を覚ますかも知れない」という恐怖が、命令への絶対服従を促す力になる。実際、同じ方法論で統治を行った支配者は、歴史を顧みれば珍しくも何ともない。もっとも、制作サイドがそこまで考えていたとは思えないが.....。
新たに送り込まれたレインズという女性の被験者が気になっていたウィンは、ドッドに隠れて彼女のファイルを調べ、そこに同意書がないことに気づく。このシステムの目的は何なのか、そもそも、この膨大なファイルは本物なのか。自分達が信じてきたことは正しいのか。
◆CUBEシリーズの三作目にして完結編だという本作は、一作目の『CUBE』の前日譚。監督は二作目の『CUBE 2』に引き続きアーニー・バーバラッシュ。ヴィンチェンゾ・ナタリが監督した一作目のような衝撃はないが、謎が明かされていくぶん、二作目よりも面白い。ついでにいうと、二作目の『CUBE 2』はかなり設定の違う物語なので、全くの別物と考えておいた方が良いだろう。
監視者としてCUBEの構造を知っているウィンがレインズを助けに内部に乗り込むというのは前二作にはなかった展開だし、第一作目を観た方なら、それなりに楽しめるだろう。ただ、CUBEが移動する立方体の構成であること、トラップが仕掛けられていること、それぞれにコードが記されていることは、前作を観た人なら最初から分かっているわけで、「CUBEの構造」に関しての謎はもう無い。三作目で「謎」として残っているのは、「誰が、何の目的でCUBEを作り運用しているか」だけだ。一作目の前日譚である本作では「誰が」の部分はある程度描かれているが、DVDのパッケージにある『CUBEの秘密が全て明かされる』というアオリ文句は偽りだ。一作目のオープニングにつながる展開で、確かに完結させる構成になってはいるが、CUBEの目的は謎のままで、観客の想像に任せる形になっている。CUBEが生まれた背景や理由をすっかり知ってスッキリしたいという方には、モヤモヤがたっぷり残るだろう。まぁ、もともとがメッセージ性のある映画ではないので、背景についてはどうでも良いのかも知れないが、自分なりに考えてみた。ここから先は、わずかな断片を元にした私の想像なので、何の根拠もないことを最初にお断りしておく。
CUBEの世界は、近未来のアンチユートピア。そしてCUBEの目的は、不穏分子の処刑と高級官僚の娯楽を兼ねたものではないかと思う。専横的な国家体制では、高級官僚が実質的な支配者となって強権をふるう。秘密警察が生まれ、密告・拷問・非公開の処刑が行われるようになっていく。長く続けば腐るのが、権力を持った人の常だ。というか、人の器で扱える権力の大きさは、本来とても小さい。ローマの闘技場で奴隷同士を戦わせたり猛獣と戦わせたりしたように、暇と大きすぎる権力を持つと、人は暇つぶしに人命をもてあそぶようになる。権力者達は、不穏分子と見なされた者達(あるいは密告された者達やランダムに選ばれた者達)を利用して、娯楽と支配のための警告を兼ねたシステムを作ったのではないか。人々が互いに殺し合い、残酷なトラップに殺され、やっとたどり着いた出口で絶望を味わわせるというCUBEは、安全圏にいる権力者にとっては観て楽しむ娯楽を兼ねた処刑方法。そして、CUBEの存在を知る一般の上級官僚などにとっては、「いつかCUBEの中で目を覚ますかも知れない」という恐怖が、命令への絶対服従を促す力になる。実際、同じ方法論で統治を行った支配者は、歴史を顧みれば珍しくも何ともない。もっとも、制作サイドがそこまで考えていたとは思えないが.....。