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   Farsideの過去ログ。




 近年増え続けている重罪犯のパターンが二つある。


 一つは、「刑務所に入りたい」「死刑になりたい」といった、『刑罰を目的とした犯罪』。もう一つのパターンは、「誰でもいいから殺してみたかった」とか、「むしゃくしゃしたから通行人を殺した」というもの。いうなれば、『犯罪を目的とした犯罪』。


 「刑務所に入りたい」という理由の場合、刑期を終えて出所した人間が舞い戻る例が多い。前科三犯で57才の人間が出所して仕事を探しても、雇う人間はいない。刑務所に戻れば食うには困らないと、それだけの理由で無関係な女子高生を刺して重傷を負わせた犯罪者もいる。もちろん、こういった事件で命を落とした被害者もいる。


 常習的犯罪者は、覚醒剤などのドラッグ経験者が多い。脳神経系をダイレクトに破壊する薬物の乱用者は、若くして痴呆症になる可能性が極めて高い。実際、50代で痴呆症になり、自分が何の罪で収監されているのか、自分が誰なのかすら分からない受刑者がたくさんいる。もちろん、懲役を果たすだけの能力はない。結局、刑務所が税金による犯罪者のための無料介護施設の役割を果たす。刑期を終えて出所しても、痴呆症の前科者を引き取ろうという親族はいない。あとは死ぬまで税金で面倒をみてもらえることになる。正確に言うと、死後の葬儀までが税金負担で行われる。我々納税者よりも、犯罪者の方が国家の待遇は遙かにいい。少なくとも受刑者は、返して貰えない年金を払わされたり、ガソリンを買う度に誰かの宴会代を払わされたりはしない。


 『刑罰を目的とした犯罪』である場合、刑罰は犯罪の抑止力ではなく、動機、推進力となってしまう。「刑務所に入りたい」「死刑になりたい」という目的で犯罪を犯す人間は、刑務所の外に出れば必ずまた重罪を犯す。この国における重罪とは、税金や年金を何十兆円かちょろまかすことではなく(それらは決して罰せられることはない)、人を襲って大けがをさせるか、あるいは殺してしまうことだ。一人の人間として考えてみた。こういった人間を自分の住む町に解き放ちたいのかどうか。駅のホームで、理由もなく突き落とされて死にたいのかどうか。私の答えはもちろん「No」だ。再犯率の高さを見れば分かるように、重罪犯の更生は理想論でしかない。まして、『刑罰を目的とした犯罪』や『犯罪を目的とした犯罪』を犯す人間の更正を求めることはほとんど不可能に近い。それらはすでに、人としての規範の外にいる存在だからだ。人の社会に人でないものを放つのは、とても危険なことではないか。言うまでもないが、「人」とはDNAの配列を指す言葉ではない。心のあり方を指す言葉だ。


 刑務所出所者の再犯率の高さを口にしたとき、死刑反対派や人道派の人々は、「社会に更正を支援するシステムがないからだ」という。確かに、出所者が無料で利用できて衣食住を税金でまかなう施設を作り、出所者全員にそれぞれの適正にあった仕事を斡旋し、国家がその保証人になってやれば再犯率は下がるかもしれない。もっとも、私は犯罪など犯さず真面目に法を守る納税者だが、家賃も食費も服代も自分の給料からきちんと払っているし、仕事も自力で見つけたし、国家に保証人になっていただいたことはただの一度もない。


 私は死刑賛成派だが、何でもかんでも死刑を適用せよとは言わない。ただ、人の社会に人でないものを解き放つのはどうかと思う。法の厳罰化や適用年齢の見直しも必要な措置だとは思うが、我々はもっと、根本的な部分を考え直すべき時代に来てしまったのじゃあないだろうか。犯罪者とは、本来「罪を犯した人」を指す。罪は犯しても、まだ人なのだ。だが近年報じられる、残酷で理解に苦しむ犯罪の中には、とても人の世界の同朋が犯したとは思えない事件が少なくない。彼らを、それらを、人として扱って良いものなのかどうか。


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 私は普段、家ではアルコールをほとんど口にしない。呑みたくなったらどこかの店へ行くわけだが、そういうときには、できれば静かに黙っていたい。ヘッドフォンで自分の好きな曲だけを聴きながら、静かにぼんやり呑んでいたい。私の場合、一人でいること、放っておいて貰えることは贅沢なことなのだ。そういう人間だから、照明を落とし気味のバーで、カウンターのすみっこで地味にしているのが一番落ち着く。半分目を閉じたような状態で、一杯ずつ違うものを呑む。その種のバーにはいろいろな種類のお酒が並んでいるので、あれやこれやと呑み比べているうちに、自然と種類だけは憶えてしまった。以前は甘党だったので、基本的にはカクテル専門だった。リキュール類には相当に詳しいつもりだが、実はメジャーなカクテルはほとんど飲んだことがない。メジャーなものはジントニックぐらいしか呑まず、もっぱらショートスタイルのオリジナルをデッチあげようと、あれやこれやと混ぜ合わせるのが楽しい。すっかりかわいげが無くなってしまった点を除けば、色水遊びをしていた保育園の頃と大差ない。我ながら、嫌になるほど成長の無い男である。


 いろんなバーをのぞいてみたが、私のように珍妙な組み合わせで酒を呑むへんてこりんなお客さんには出会ったことがない。まぁ、人様に迷惑をかけてるわけじゃなし、珍妙な呑み合わせだろうと非常識なレシピだろうと、本人が楽しければそれでいいと思っている。このあたりも、砂場のすみっこで自分にしか分からないオブジェを作って遊んでいた頃から変わらない。我がことながら、つくづく成長のない人間だ。場所は砂場からバーに昇格したが、これはこれで自己完結した遊びだと思っている。オリジナルのカクテルでも結構成功作ができたし、出費がむやみにデカイことさえ気にしなければ、それなりに楽しいものだ。


 一人でバーに来る人間には、二種類のタイプがいる。「一人になりたい人間」と「一人ではいたくない人間」だ。私のように一人になりたい人間は、二時間でも三時間でも平気で黙っていられる。だが、そういう人間は少数派のようだ。眺めていると、バーテンダーやお店の人と話をしに来る人間が多いように思える。もちろん、それは悪いことじゃない。それもお店が提供する重要なサービスの一つなのだから。問題は、店が忙しくなったとき。話し相手になってくれていたバーテンダーが他のお客さん達と話をしているとき。そんなときに節度を守っておとなしくしていられるのなら、一切問題はない。ここで節度を守れず、イライラし始めるような人間はバーのお客さん失格。一人でいることに耐えられないのなら、誰かと一緒に来ればいい。一緒に来る誰かがいないのなら、そもそも一人でバーになんか来なければいい。砂場には砂場のルールがあるように、バーにはバーの不文律がある。精神面での成長がウンザリするほど乏しい私が言うのも何だが、世の中には、この種のバーのお客さん失格、というか大人失格が掃いて捨てるほど存在する。たとえば、静かな時間を楽しむバーのドアを荒っぽく開け、「ああ、胸くそ悪い」と大声を出しながら入ってくる男。席に座る前から愚痴が始まり、ひたすら愚痴だけを言い続ける。そんなとき、私はヘッドフォンをきちんとはめ直し、ボリュームを上げて騒音を隠す。とりあえず、自分の世界から締め出しておけば邪魔にはならない。私はただ、静かにしていられたらいいのだ。


 そうそうあることではないが、バーでいきなり、今まで会ったこともない人から話しかけられることがある。話を聞いてみると、私が相手に気づいていなかっただけで、同じタイミングでバーカウンターにいたことは何度もあるらしい。一人になりたくてバーにいる私は、当然ながら他人に全く興味がない。音楽で外界を遮断して、好きなものを呑んでぽわ~んとしているのだ。隣に竹内結子が座っていたって気がつかないだろう。偶然バーで顔を会わせたとしても、5回や10回ではまず気づかない。こちらは全然気づいていなくても、珍妙な呑み方ばかりしている私は悪目立ちして、人の記憶に残ることがあるのだろう。おかげでこうして話しかけられるのだが、幸いなるかな、私に話しかけてくる方の多くは節度のある大人だった。私は別に人間嫌いじゃないし、人と話すのも好きだ。しかしまぁ、わざわざ一人になりたくて来た場所で乏しい社交性を振り絞るハメになるのは、正直言って厳しい。言っとくが、私は決して楽しい話し相手ではない。精一杯アンテナを広げて、失礼のない範囲で言葉を返すのだが.....。これはこれで結構疲れる。年に一人程度なら文句は言わないが、月に三人、四人となれば、ただでさえ乏しい私の社交性はあっさり底をつく。ほんと、三月は疲れることが多かった。今後はバーに行く回数が減りそうだ。


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◆1978年、岐阜県。山あいの町で養鶏場を営む沢田家では、久しぶりに三姉妹が顔を揃えていた。もうじき結婚式を迎える長女、幸枝(川村ゆきえ)。家を出て美容師の仕事に打ち込んでいる次女の幸子(岩佐真悠子)。陸上部で頑張っている高校二年生の三女、真弓(飛鳥凛)。
 真弓は、この春卒業して東京の大学へ進学する陸上部の先輩(真山明大)に思いを寄せていた。同じく陸上部に所属する幼なじみの親友達に後押しされて、先輩の第二ボタンを貰えた真弓。一年たったら、先輩と同じ東京の大学に進むつもり.....。


 幸枝が結婚して家を出た直後、事件は起こる。養鶏場の主な取引相手であるマーケットの息子、かつて幸枝に思いを寄せていた男が沢田家に忍び込み、幸枝と間違えて真弓を襲った。一命を取り留めたものの、顔に重傷を負った真弓。悲鳴を聞いて駆けつけた母は男に命を絶たれ、猟銃を持って駆けつけた父(斎藤洋介)が男を射殺。幸せだった沢田家は、一夜にして悲劇の一家になっていた。だが、運命はもっと残酷だった。
 正当防衛とはいえ、ほぼ唯一の取引先の息子を射殺したことで、成り立たなくなった養鶏場。母が死に、妹・真弓が重傷を負ったため、面倒をみるために新婚の姉・幸枝は沢田家に戻ることになり、離婚が囁かれるようになる。顔の傷をマスクで隠し、けなげに高校に通う真弓を待っていたのは、面白半分の無責任なウワサと「お岩」という酷い陰口だった。辛い毎日を送る真弓にとって唯一の支えは、東京に行った先輩との文通。手紙の中でだけは、真弓は今まで通りの明るい女の子でいることができた。ともすれば潰れてしまいそうな毎日の中で、懸命に頑張ろうとする真弓。だが、そんな真弓を周囲の人々は裏切っていく。苦しむ真弓の視野に一瞬表れては消える謎の影。それは、赤いコートを着た長い髪の女の姿をしていた。女の影に怯える真弓の周りで、次の悲劇が起こる。


◆これはホラーか?


 本作は、2007年に公開された白石晃士監督・佐藤江梨子主演の『口裂け女』の[続編]という位置づけでアナウンスされているが、実際には全く関連のない物語。前作が「口裂け女がなぜ生まれたか」をオリジナルのアイデアで作り上げたものだったのに対して、本作は巷間で流布されている話をまとめる形で脚本にしたものだ。そこまではいい。「口裂け女」というメジャーな素材を使って様々なシリーズを作るというのは悪くない発想だ。ただ、前作は確かにホラーだったが、この『口裂け女 2』はホラーじゃないのだ。あえて呼ぶならサイコスリラーに近い。どこで撮影が行われたのかは分からないが、78年という時代の雰囲気を良く出していたし、予想以上に出演者達の演技も良かった。これで脚本が良ければ、きちんとホラーとして成立しただろうに.....。100分ほどのこの映画は三つのパートから成る。1978年の岐阜県で養鶏場を営む両親と三姉妹の幸せそうな様子を描くのに約30分。そして、沢田家の不幸を描くのに、おそらく45分ほどかけている。正直、これは長い。サイコスリラーとしてはそれでもいいのかもしれないが、観客が期待しているのはやはりホラー作品だろうと思う。


 この物語は、主人公の真弓とその家族をひたすらいじめ続けるという残酷物語だ。逆恨みや人違いで人生を狂わされ、それでもけなげに生きる女の子を裏切り、あざけり笑う周囲の人間達の姿は、見ていて非常に気分が悪い。ホラーとしての怖さが無く、しかも非常に後味が悪い。監督は、TVホラー系の番組を作っていた寺内康太郎。同じ男が、女の子を不幸のどん底に蹴落とすような物語を喜々として撮っているのかと思うと、メンタリティを疑いたくなるぞ。


 前作の『口裂け女』に続いて、今回も知らずに舞台挨拶の回を買ってしまった私は、映画が始まる前に30分もイライラするような思いをするハメになった。今回は劇場側がサクラを入れなかったようで、シネコンの180席の小さな筺ながら、空席がかなり目立った。プレスの取材が入っていたので、非常にみすぼらしい舞台挨拶がメディアに載るのだろう。これは完全に劇場側のミスだ。
 舞台挨拶があることは、私もチケットをネット予約した際に気づかなかった。私は学生時代ずっと映画館でバイトをしていたので、この種のマイナーな映画の舞台挨拶には下準備が必要なことはよく分かっている。劇場側の告知・宣伝は極端に不足だったし、プレスが20~30人も入るのであれば、価格設定を変えるとかプレゼント形式で招待券を出すとか、もっと集客努力をすべきだったのだ。舞台挨拶の司会を務めた売れないお笑いコンビも、場の寒々しさをいっそう増していた。馬鹿げた演出に趣向を凝らすヒマがあったら、客席を埋める努力をすべきだったろう。


 この物語の主人公・真弓を演じた飛鳥凜は新人だと思うが、演技も堂に入っていたし、エンディングテーマもしっかり歌っている。なかなか多才な女の子なのだが、役柄のせいか新人であるためか、舞台挨拶ではちょっと地味な印象だった。スクリーンではそれほど背が高く見えないが、実際は結構長身で手足が長い。役柄では高校二年と三年を演じているが、本人はまだ16才。成海璃子などの例外を除くと、普通は役柄よりも実年齢の方が上でないと演技がついてこないものだが、変化の多い真弓役をきちんとこなしているのは立派。はじけるような明るい役柄など、今後はホラーに限定されない活躍を期待したいところ。余談だが、78年という時代の雰囲気を良く出していたこの映画の中で、唯一気になったのが真弓のスカートの長さ。他の子に比べてちょっとサービスしていたようで、そこだけは絵的に浮いていたように思う。
 長女と次女を演じた川村ゆきえ・岩佐真悠子は、いずれもグラビアアイドル。とりあえず綺麗な子を揃えておけば、という安直なキャスティングかと思ったが、二人とも演技が良いのにはびっくり。グラビアアイドルというのは水着で写真を撮るのが仕事かとばかり思っていたが、この二人に関しては違うようだ。大人びた長女・幸枝を演じた川村ゆきえはまだ22才、妹思いでしっかり者の次女・幸子を演じた岩佐真悠子はまだ21才。しっかりした演技には感心してしまった。グラビアの仕事はまだまだ続けるのだろうが、できればホラー系の映画出演を期待したい。これまた余談だが.....。二人ともスクリーンでは美人なのだが、舞台挨拶の印象はまるで違う。川村ゆきえは、どこにでもいる目立たない女子大生といった雰囲気で、映画の幸枝と同一人物だとは到底思えないほど地味。突っ込みが来そうな微妙な発言になるが、見ようによっては子育て中のお母さん風でもある。岩佐真悠子の方は、スクリーンの中では1978年(昭和53年)という時代に溶け込んでいたが、舞台挨拶ではデコデコないつもの雰囲気。うん、女性は化けるものである。


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端くれでも私は男。
口が縦に裂けても理由は言えないが、
思わず祝杯を上げてしまった今日、この日。


そう、やっぱり人生は野菜スープ。
次はもっと、おいしくなるはず。



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一人で今夜はスープを作ろう
会えないワケ
あなたのウソ
人づてのあのウワサ
そう、猜疑心も、デリカシーも
鍋に入れて


手間ひまかけても、終わりは終わり


とびきりおいしいスープを作ろう
壊れた恋
明日のバネ
私らしい生き方
ね、虚栄心も、スキャンダルも
煮込んでやれ


隠し味になる痛みならいい


涙の数
愛の加減
レシピのない人生
そう、何をしても傷つくのなら
強火がいい


おいしいスープが出来上がるまで.....




時々無性に聞きたくなる、井上昌己の『人生は野菜スープ』。
私の場合、『人生は非常食』くらいかな.....




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◆5歳の時に母(ダイアン・レイン)が出て行き、飲んだくれの父と二人で暮らすデヴィッド・ライス(ヘイデン・クリステンセン)。おとなしい、冴えない高校生だった彼は、ある事故をきっかけにテレポーテーションの能力を発現させる。世界中のどんな場所へも瞬時に移動できる「ジャンパー」となったデヴィッドは、今までの生活を捨てて、勝手気ままな暮らしを始めた。銀行の金庫にテレポートすれば、金はいくらでも欲しいだけ手に入る。法律からも物理の法則からも解放された彼は、神のごとき力を手にして自堕落な日々を送っていた。だが、ジャンパーはこの世界に一人きりではないことをデヴィッドは知らなかった。そしてもう一つ、何千年も前から「ジャンパー」を探しだし、抹殺することを使命とする「パラディン」という組織の存在も。ある日、デヴィッドを追い続けていたパラディンのメンバー、ローランド(サミュエル・L・ジャクソン)が表れた。ローランドから辛くも逃れたデヴィッドは、高校時代に憧れていた同級生のミリー(レイチェル・ビルソン)との再会を果たし、何も知らない彼女と一緒にローマへ向かう。そこで別のジャンパー、グリフィン(ジェイミー・ベル)と出会い、全てを聞かされる。ジャンパーは見つけ次第殺されること、その家族と、秘密を知った者達も抹殺のターゲットにされることを。自分たちが生き残るため、そして、秘密を知ったミリーを守るため、二人のジャンパーはパラディンへの反撃を開始する。


◆世界各地でロケを行い、空間の裂け目にダイブして縦横無尽に飛び回るという設定を余すところ無く生かした映像は爽快で迫力満点。その部分は非常に出来がいい。だからこそ、これは酷く勿体ない映画だと思う。なぜなら、ジャンパーの存在はその行為にかかわらず[悪]でしかないし、それを狩るパラディンは[善]だからだ。


 主人公のデヴィッドは、テレポーテーションの能力を得て以来、盗みを繰り返して贅沢三昧に遊び回る犯罪者。彼が銀行から盗み出す金は、もとを正せば真面目な庶民が働いて貯めた金だ。ご町内のヒーロー、ご存じスパイダーマンは、その特殊能力で盗みを働き、贅沢三昧に遊び暮らしていただろうか。スパイダーマンは学業とバイトの掛け持ちで苦労し、恋に悩む普通の青年だったからこそ、観客の声援を受けられたのだ。
 銀行の金庫から金がなくなれば、進入経路が特定できない以上、内部の犯罪として疑われる者も出るだろうし、警備の責任をとらされる者も必ず出る。テレポーテーションによる盗みは、解雇者や無実の罪で投獄される被害者を必ず生み出し、多くの人間の人生を台無しにする犯罪なのだ。デヴィッドの能力を使って人を助ることが可能なシーンも出てくるが、冷笑するだけで一切人助けはしない。彼は常習的犯罪者であり、エゴで女の子を危険に巻き込み、助けてくれた仲間を殺そうとする。普通に考えると、こいつは人間の屑に近い。こういう犯罪者に感情移入しろと言うのは難しい。


 ジャンパーは、その神のごとき能力を使えば、盗みはもちろん、人も殺し放題。乗客を満載したジャンボジェットをラッシュアワーの都心に落とすことも簡単に出来るし、軍の武器庫から好きな兵器を好きなだけ持ち出せる。原発を爆破することだって簡単なのだ。
 バッグの中にマシンガンや神経ガスのサリンを入れて持ち歩いている人間がいたら、たとえ本人に使う気がなくても逮捕されるし、そういう危険な武器はは取り上げられる。個人が掌握できないほど大きな破壊力を持つことは、極めて危険な犯罪なのだ。これは社会の「当たり前」。普通の犯罪者は逮捕できるが、ジャンパーは逮捕どころが特定すら難しい。たとえ本人にその気がなくても、人の、というより社会の仕組みにとってあまりにも破壊力の大きな存在になり得る以上、潜在的には凶悪テロリストよりも遙かに危険な存在なのだ。ましてデヴィッドは常習的犯罪者。次の一線をいつ越えるかなど、誰にもわかりはしない。社会を守ろうと思ったら、こういう危険な犯罪者は抹殺するしかない。苦労しながら辛抱強くジャンパーを追い、社会のために命をかけて戦うパラディンは、正義の味方なんじゃないだろうか。正義の味方を敵に据えられても、観客は困るのだ。


 この物語を成立させようと思ったら、親元から逃げ出したデヴィッドが生活のために一度だけ銀行の金庫室から札束を盗み、それを使って独立するという設定にしないといけない。そして、以後は貧しくも心正しく生き、毎月少しずつでも、盗んだ金を匿名で銀行に返し続けるという演出が必要だ。これで、観客に主人公が犯罪者ではないことを伝えられる。そして、事故に巻き込まれた子供を救うために封印していた能力を使い、それをパラディンに発見されるという展開にすればいい。人を傷つけたくないために逃げ続けるデヴィッド、使命としてジャンパーを追うパラディン、そこに表れるもう一人のジャンパー。彼は面白半分に人を殺す犯罪者で、パラディンを返り討ちにしようとする。見殺しに出来ずにデヴィッドがパラディンを救い、犯罪ジャンパーを追うという形で協力する。まぁ、かなり無理のある設定だが、そうでもしないと映画が成立しないだろう。


 言うまでもないが、全ての映画の主人公が善人ではないし、もちろんその必要もない。ただこの映画の場合、客層は10代をターゲットにしているわけで、大人向けの物語ではない。中高生を相手にしたこの種の脳天気な映画には、それなりのお約束ってものがある。悪党が善人に勝っちゃっちゃマズイのだ。


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