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   Farsideの過去ログ。

フォーガットン

2005-11-30 | 映画の感想 は行
◆9歳だった息子、サムの事故死から14ヶ月が過ぎても、その悲しみを乗り越えることが出来ないテリー(ジュリアン・ムーア)。マンス医師(ゲイリー・シニーズ)のカウンセリングを受けていたとき、テリーは自分の記憶の混乱に気づく。はじめはささやかな思い違いかと思えた記憶の混乱は、テリーの周りでどんどん広がっていく。夫の記憶から消えた息子の存在。新聞から消えた事故の記事。消えていくのはサムに関する記憶ばかりではなかった。自分と周囲の人間の記憶がずれていく。自分という存在の記憶が、最愛の夫からも友人からも消えていく。狂っていくのは世界か、自分か。行き場を失ったテリーが最後にすがりついたのは、同じ事故で娘のローレンを亡くしたアッシュ。アッシュの中からもテリーの記憶は失われていたし、ローレンとサムが一緒に遊んだという記憶も、ローレンの存在さえも消えてしまっていた。だがアッシュは、記憶から消えたはずの[娘の死]以来、自分でも理由が分からないままに酒浸りの日々を送っていた。彼は心のどこかで娘のローレンを覚えているはず。そう信じて、テリーは必死にアッシュの記憶を呼びさます。最初はテリーを気違い扱いしていたアッシュも、ついにその記憶を取り戻す。その二人、ただの市民でしかないテリーとアッシュを拘束しようとする国家安全保安局。自分たちが大がかりな陰謀に巻き込まれたことを確信した二人は、子ども達の事故死そのものが嘘だったのではないかと疑い、追跡の手をかわしながら真相を探りはじめる。そんなテリー達が見た[現実]は、想像を絶するものだった。二人を取り巻く世界を支配していたのは、悪夢としか思えないほど圧倒的な[力]だったのだ。


◆ずれていく過去・抹消される記憶など、要するに記憶の改竄を扱った設定は決して目新しいものではない。『トータル・リコール』『カンパニー・マン』『イグジステンズ』、ラドラムの『暗殺者』、『ビューティフル・ドリーマー』、京極夏彦の『塗仏の宴』。あげればきりがないほどだ。物語にリアリティを与えようとするなら、記憶の改竄を受ける人間が少なければ少ないほど現実的になる。主人公の記憶のみの改竄、あるいは、事件の鍵を握るほんの数人だけの記憶の改竄。本作の場合はちょっと違う。


 つまらない映画なら、私は積極的にネタバレをするタイプの人間。だが、これはちょっと迷う。劇場公開時はずいぶんと酷評されたようだし、観ていて「肩すかしに終わった」と感じる人も多いだろう。確かに劇場で観るのはちょっと辛いが、DVDのレンタルだからコストもたいしてかかっていないし.....。TVシリーズの『X-FILE』が好きだった私としては、TVの2時間スペシャルだと思って観れば許せる範囲。話の中身も、『X-FILE』そのものだ。
 本作の場合、テリーが疑似記憶・疑似体験の迷路にはまりこんだというオチがいちばんオーソドックスな展開なのだが、そこは観客の予想を外してくれる。良くも悪くも説明不足、謎を残してすっきりしない終わり方。これを楽しめるかどうかは、もう純粋にその人の好みの問題だろう。あえてオススメはしない。


映画の中身とは関係ないが、タイトルは、「フォーガットン」じゃなく、せめて「フォガットン」にして欲しかった。

がんばっていきまっしょい DVD Collector's Edition

2005-11-27 | 映画の雑記
 私の大好きな映画『がんばっていきまっしょい』のDVDは、CDケースサイズの初回版、トールケースの価格改訂版、期間限定の廉価版が発売されていたが、内容は全て一緒だったと思う。一枚のDVDに本編・メイキング・監督インタビュー・予告編・主題歌・静止画といった特典が入っているもの。私が持っているのは初回版だが、今回発売になったコレクターズ・エディションを買って比べてみることにした。最初は画質チェックのつもりだったのだが、つい引き込まれてその世界に埋没してしまった。玉川湖のシーンでは映像の美しさにため息。


 2005年の9月に発売されたコレクターズ・エディションは二枚組。一枚目は映画本編のみで、HDマスター、旧版では2chステレオのみだった音声も、5.1chサラウンドが追加された。画質・発色共に、見て分かるほどはっきりした差がある。旧版を何度も何度も観ていた私にとっては、どちらの発色が好みか微妙なところだ。
二枚目の特典ディスクに収録されているのは、このために新規に撮影された、ヒメ・リー・イモッチの三人による8年ぶりのロケ地訪問の旅。それから、悦ネェ・ヒメ・リー・イモッチ・磯村監督の撮り下ろしインタビューと、けっこうな数の静止画。活動休止中の真野きりなは参加していない。一部、映画のメイキング映像も混じってはいるが、基本的には撮り下ろしの映像だ。
 リー役の千崎若菜(旧:葵若菜)がもの凄く綺麗になっていてびっくりとか、女優業を休止中で久々にメディアに出たヒメ役の清水真実がちょっとセクシー系に変わっていたりとか、8年の歳月が如実に表れていてびっくり。そういう意味での面白さはあるが、映画の特典映像としてはあまり意味がない。雨の日に行われたロケ地巡りは、撮影時とはまるで違った雰囲気の映像になってしまう間に合わせの企画だ。お好み焼きの「ふる里」が移転したことなど、知らなくても良いこと。どうせだったら、ヒメ・リー・イモッチ・磯村監督によるコメンタリートラックでも付けた方が、映画の特典としては意味があっただろう。特典部分に関する限り、コレクターズ・エディションよりも旧版を買った方が絶対にいい。なぜ、メイキングなど旧版で使われていた特典映像を収録しなかったのか、この作品のファンとしては理解に苦しむ。


 今回のコレクターズ・エディションの発売や、絶版になっていた原作単行本が幻冬舎から文庫本で再販されるようになったのは、言うまでもなくTVドラマ化されたからだ。私は、映画からTVへの安易なドラマ化自体はどうかと思う。だが、TVドラマを通じて映画に興味を持つ人や、原作を手に取ってみる人が多くいることも確か。これはこれで、良いことなのだろう。

ハリー・ポッターと炎のゴブレット

2005-11-19 | 映画の感想 は行
◆ご存知ハリー・ポッターシリーズの四作目。有名な原作の映画化なので、ネタバレを気にする必要はないと思う。原作をご存知ない方は、以下の感想でネタバレをたくさん書いているので、お読みにならないように。
 2時間半におよぶ映画(といってもラストの10分ぐらいは、長すぎるエンドロールだが)ながら、上下二巻のボリュームを映像化するには足りず、いくつかのエピソードは省かれたり整理されたりしている。やや端折ったとはいえ、原作の印象を損なうことのない忠実な映画化で、面白い作品になっている。前作『アズカバンの囚人』ではオオカミ人間のCGが子供っぽくて一部で失笑を買ったが、本作のVFXは迫力満点で、とても良い出来だ。冒頭のクィディッチのワールドカップの模様や、三大魔法学校対抗試合の課題として登場するドラゴンや迷路など、小説で読んだときよりも遙かに鮮烈な印象。特にドラゴンは『サラマンダー』などのちゃちなCGと違い、出色の出来だ。


 原作の読者には言わずもがなのことだが、ファンタジーとして始まったこの物語は、巻を追うごとにどんどん暗さを増していき、ダーク・ファンタジーの度合いを強めていく。本作でもすでに、小学生に観ることを勧めたくなるような話ではなくなっている。ハリー、ロン、ハーマイオニーの仲良し三人組が、ちょっとした思い違いや些細な嫉妬から仲違いをしたりする展開は、この手の物語の王道だから問題はない。ちゃんと仲直りをする限り、いくら喧嘩をしたって良いのだ。本シリーズ二作目にあたる『秘密の部屋』では、ロンの妹のジニーがヴォルデモートに操られてしまったり、ハーマイオニー達数人の生徒が間接的にバシリスクに睨まれて石化したりという展開がある。だが、ジニーはヴォルデモートの支配から解放されるし、石化した生徒達も仮死状態になっただけで、ちゃんと元通りになる。魔法の支配するこの世界では、子ども達の周りに危険はあっても直接の死が襲いかかることはなく、「ハラハラしたけどハッピーエンド」という終わり方が出来る。これはファンタジーの根元的なルールのようなものだが、本作では「ファンタジー」という世界を踏み外してしまっている。


 ダーク・ファンタジーの色彩を濃くしてきた本作では、ついにハリー達の仲間であるホグワーツの生徒、セドリック・ディゴリーが殺される。三大魔法学校対抗試合として選ばれたホグワーツの正式代表、勇敢で誠実な少年が、ただそこにいたというだけの理由でゴミのように殺されてしまうのだ。誰かを助けるために命をかけたのでも、劇的な展開で命を落とすのでもない。ただ邪魔だっただけだ。
 これは映画の感想なので、原作に文句をつけるのは筋違い。それは十分承知しているが、私はこの展開に強い違和感を感じてしまう。たとえば、ディゴリーが水晶の像にされた上に粉々に砕かれてしまったというような展開であったなら、魔法で元に戻すことも可能、という設定に出来たのではないか。魔法を万能にしてしまっては世界の論理基盤が崩れてしまうが、世界の三大魔法学校の校長と、各校の生徒、そして魔法省の面々や実力のある魔法使いが一同に会している状況なのだ。普通ならディゴリーを助けることは出来ないが、その全員の力を合わせることで救えるという設定にするとか、炎のゴブレットが持つ特殊な力と組み合わせることで助けられるとか、考えようはいくらでもあったはず。誠実な少年をあえてゴミのように死なせ、なんの救済の手段も与えなかった原作者の意図はどこにあるのだろう。


 原作を読まずに映画を観る人も沢山いるだろう。終盤のディゴリーの死で強い疑問が出てしまうのが、三大魔法学校対抗試合の性質だ。「子供が死なない」というファンタジーのルールをきちんと守っていてくれさえすれば、競技はいくら危険なものでも構わない。怪我をしても直せるし、危機一髪になってもちゃんと助かるのだからと、安心して観ていられる。ジェットコースターやバンジージャンプのような、「怖いけど安全」という楽しみ方だ。そのつもりで、ハラハラしながらも安心して競技会の三つの課題を観ていた観客は、ディゴリーの死で、自分たちの考えが間違っていたことに気づく。
この映画は、子供が殺されてもおかしくない物語なのだ。だとすれば三大魔法学校対抗試合も、参加した生徒が死んでもおかしくない試合なのだ。そういった目で見ると、この対抗試合は競技と言うより死闘に近い。そんなものに生徒を参加させること、それが栄誉だから戦えとけしかけることが、ダンブルドア校長はもちろん、ハグリッドやマクゴナガルといった保護者サイドにいる大人達の、今までの言動と照らし合わせて自然なことだろうか。生徒の命や安全よりも、学校に冠せられる栄誉の方が価値があるとみなすものだろうか。


 今も進行中のシリーズなので、原作者であるJ・K・ローリングが物語の終着点をどこに導くつもりなのかは分からない。聞くところによれば、ローリングは自分の子供に読ませるために物語を書き始めたのだとか。だとすれば、大人の庇護の元で安全に暮らす子供時代から、自力で戦って、時には負けて死ぬこともある大人の世界へと段階的に物語を変化させていくつもりなのかもしれない。将来、成長したハリー達がヴォルデモート一派の闇の軍勢と壮絶な死闘を繰り広げ、多くの仲間達を失いながら勝利する、という形で物語の幕が引かれるのだろうか。

少年犯罪

2005-11-14 | なんとなく
また、残虐な少年犯罪が起きた。同級生にストーカーまがいのつきまとい方をして、挙げ句の果てに殺してしまったという、東京町田市の事件だ。被害者は高校一年生の女の子、加害者は同じ高校の生徒。「相手にしてくれないから殺した」という、とても話にならないようなことを理由としてあげている。報道の詳細を見ていくうちに、被害者には素手もしくは鈍器で殴られた痕があることがわかった。殴ったりしたあげく、室内で逃げる女の子を追い回して、30分に渡って包丁で斬りつけたとされている。遺体に残された刺創・切創の数は50を超える。これはもう、「惨殺」としか言いようがないだろう。


 少年犯罪では、被害者の生死に関わらず、加害者の人権のみが守られる。これは法律そのものがそうなっているので、法改正をしない限りどうにもならないことだ。被害者が亡くなっている場合には、その傾向はさらに強くなる。これは法律だけの問題ではなく、被害者の人権や肖像権を侵すことではマスコミも同じ。営利目的のマスコミの姿勢は、つまりは、それを見ている視聴者の姿勢でもある。
 だが、視聴者が本当に知りたいと望んでいるのは、社会にとって本当に伝える意味があるのは、見た目だけでは分からないこの種の異常な殺人者の素顔だ。犯人の生い立ちから日常について、写真などの映像を多用しながら事実を広く知らしめることには、れっきとした意味がある。私たちの日常の中にも「まだ誰も殺していない猟奇殺人者」がいるかもしれない。この種の危険の正体を社会に伝えること、マスコミがジャーナリズムの親戚であると仮定するなら、それこそが使命だろう。すくなくとも、普通の女の子である被害者について、個人情報を暴き立てることではないはずだ。


 今回の犯人は16才。実名も公表されず前科もつかず、成人するまで税金で生活し、いずれは社会に放たれる。以前も似たようなことを書いたが、この種の猟奇殺人犯が更正可能であるとは、私にはどうしても思えない。女の子を惨殺するような人間が仮に更正できたとしたら、本当にまともな人の心を持つ日が来るとしたら、その時は生きてはいけないだろう。自分のしでかしたことの恐ろしさ、罪の重さに、自殺を選ぶ以外の道は思いつかないだろう。


 いじめ問題や少年犯罪の更正を扱ったTV番組などを見ていると、「子供の時はワルでイジメもやったし盗みもやったが、今は更正して普通に家庭を持っている」という人間が出てくる。私はこれも、怪しいものだと思っている。学校と違って社会では、やればやり返される。だからイジメや暴力をやめただけではないのか。未成年の時は謝れば許されたから盗みを続けたが、成人してからは逮捕されるのでやめただけではないのか。更正とは、自分の中に正しい規範を持てるようになることで、外的強制力に行動を規制されることではない。法的には同じことかもしれないが、道義的には全く違うことなのだ。自分の中に正しい規範を持っている人間は、たとえ誰も見ていなくても、間違ったことはしない。外的強制力に行動を規制されているだけの人間は、誰も見ていない状況、バレないと思える状況では、盗みでもなんでも平気でしでかす。


 個人が努力して、周囲の力を借りながら更正した例はもちろんある。刺青を背負った前科持ちのヤクザが敬虔なクリスチャンに生まれ変わり、人を導く牧師になったミッション・バラバの様な例もある。だが、再犯せずに人生を送れる犯罪者は4割以下、きちんと更正できる者はさらに僅かだ。
 何年か前のことだが、高校-短大と売春で遊ぶ金を稼ぎ、OLになってからも、愛人契約で遊ぶ金やブランド物を買う生活を続けていた女性たちの話を聞いたことがある。大声で話していたので、偶然隣のテーブルにいた彼女たちの話が聞こえてしまったのだ。彼女たちは、結婚したら売春をやめるつもりだという。たぶん、自分の夫や子供には、10年以上売春を続けていたことは話さないのだろう。だが、悪びれた様子も、恥じる様子もなかった。彼女たちにとって、売春は悪ではないのだ。将来、自分の息子が少女を金で買っても、自分の娘が金で体を売っても、別に問題視することはないだろう。実際、援助交際で補導された少女の親を警察に呼んでも、母親がのほほんとしている例が増えたそうだ。あるケースでは、警官が「お母さんからもきちんと叱ってください」というと、「私も売春してましたけど、このとおり立派に人の親になってますから、この子も問題ありません」と返されて、それ以上どうにもならなかったとか。倫理といってもいい、プライドといってもいい、そういった心の中にある階段は、ころげ落ちるのは簡単だが、這い上がるのはとても難しい。

ALWAYS 三丁目の夕日

2005-11-06 | 映画の感想 英数字
◆昭和33年、東京。「もはや戦後ではない」と言われ復興めざましい日本の、どこにでもある下町。まだ豊かではないけれど、毎日を懸命に生きる個性いっぱいの人たちが暮らす町、夕日町三丁目。小さな自動車修理工場の鈴木オートとその向かいの駄菓子屋は、この春、新しい住人を迎えることになった。鈴木オートにやってきたのは、青森から集団就職で出てきた星野六子(堀北真希)、あだ名はロクちゃん。大きな自動車会社だと思って上京してきたロクちゃんは、ちっぽけな鈴木オートに最初はガッカリ。まっすぐだけど気が短い社長(堤真一)とは勘違いで喧嘩もしたけれど、面倒見の良い奥さん(薬師丸ひろ子)や、ちょっと生意気な息子の一平と、今では家族同然。
 お向かいの駄菓子屋にやってきたのは、一平と同い年の古行淳之介(須藤健太)。淳之介を引き取った駄菓子屋の主人は、純文学を目指して投稿と落選を繰り返しつつ、生活のために少年誌に冒険小説を書いている文学青年、茶川竜之介(吉岡秀隆)。本来なら縁もゆかりもない淳之介と茶川の生活は、ひょんなことから始まった。踊り子から足を洗って、一杯飲み屋の「やまふじ」を始めた美人のヒロミ(小雪)は、昔のよしみを理由に知り合いの息子である淳之介の面倒を見るハメになって困っていた。ヒロミは、彼女を目当てに通ってくる茶川に淳之介を預かってくれるようにと頼みこむ。ヒロミに好意を持っていたせいもあって、酔った勢いでついつい淳之介を引き取ってしまった茶川。始まりは成り行きだったけれど、次第に心を通わせていく茶川と淳之介。二人のもとに通って料理を作ったりしているうちに、やがてヒロミも「三人で幸せな家族になれたら...」という気持ちに。
 それぞれが楽しい毎日を送っていた夕日町三丁目の人々にも、大きな変化が訪れようとしていた。


◆観て良かった。私はこういう映画が好きだ。
分かりやすくて個性的な面々が、笑わせて、ちょっとほろりとさせてくれる物語。おとなしくしていることで何とか身の置き所を作ってきた少年が、初めて見せる笑顔。安物でも大切な宝物。形が無くても輝く指輪。そんな場面を観ているうちに、なんだか自分も、子供に返ったような気がした。


 最初にバッチリ、ネタバレなことを書いておく。この物語はハッピーエンドだ。全ての願いが予定調和のように都合良く叶うわけではないが、登場人物のそれぞれが、未来に夢を託せるようなエンディングになっている。だから、私のように悲劇が大っ嫌いな人でも安心して観ていただきたい。


 監督・脚本・VFXは、『ジュブナイル』『リターナー』の山崎貴。VFX畑出身だけあって、本作でも思いっきりビジュアル・エフェクトを使って昭和33年という時代を作り出している。山崎監督の前二作はVFXでありえないものを作り出して見せたわけだが、本作では昭和の街並みを自然に再現するために使われているので、画面からVFXを意識することは無いだろう。CGなども使われてはいるが、ミニチュアなどのリアリティのある映像と実写の合成がとても良い出来だった。VFXかくあるべしという良いお手本だ。


 「完成すれば世界一の高さになる」という建設途中の東京タワーを時折遠景に入れながら、物語は高度成長期の変わりゆく時代を背景に進む。当時、三種の神器といわれた白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機といった品々もエピソードに取り入れられているが、それは物語のほんの一部で、この映画は単なる懐古的な話ではないと思う。当時をリアルタイムで経験している世代が見ればまた感じ方は違うのかもしれないが、山崎監督自身が昭和39年の生まれだから、監督の中に当時のイメージはないだろう。この物語は、登場人物それぞれの思い願う「幸せ」を暖かく描いたもの。それぞれの「幸せ」は、とても自然で身近な「家族」の幸せ。もちろん、舞台を今の時代に置き換えても家族の幸せは描けるのだが、殺伐とした現代では描きにくいと思う。情報過多で、利便性と引き換えに人間性も簡略化してしまった現在よりは、未来に夢を持てる発展期の時代を舞台にした方が、その「幸せ」を素直に感じられる。
 この映画の中に、「もはや戦後ではない、か.....」というセリフが語られる場面がある。宅間医師(三浦友和)が思い描く「幸せ」に絡む場面なのだが、私はここを観てぐっと来てしまった。画に描いたように幸せそうなそのシーンは、宅間医師が焼き鳥をおみやげに帰宅し、妻と幼い娘がそれを食べる姿を、目を細めて眺めているという場面。何の変哲もない、普通の家庭の普通の風景。登場人物達の夢や幸せを分かりやすく描くことで、時代こそ違え同じ国に暮らす人々に、「飾りをぜんぶ取っ払っちゃえば、幸せはこんなにシンプルな形だよ」と見せたかったのかもしれない。


 公開初日の客席は、8割がた埋まっていた。まずまずの滑り出しだろう。客層は20代から60代といったところで、50代以上のお客さんも多かったようだ。面白かったのは、年代によって反応する場面が違うこと。当時をリアルタイムで経験した世代には、私とはまた違った楽しみ方が出来る映画なのだろう。

ブラザーズ・グリム

2005-11-03 | 映画の感想 は行
◆19世紀ドイツの片田舎、フランス占領下の一地方。ウィルとジェイコブのグリム兄弟は、迷信深い田舎の村落をターゲットに、デッチアゲの魔物退治・悪霊払いで大金をせしめていた。いささか派手にやりすぎた彼らは、この地を治めるフランス軍に逮捕され、不穏分子として処刑を待つ身となった。そんな彼らに提示された唯一の自己救済手段は、森の中で10人もの女の子が失踪した事件の真相を究明すること。断ればあっさり死刑、というシチュエーションもあって調査に本腰を入れる彼らの前で、説明のつかない怪異が起こる。猟師の娘アンジェリカに案内され、不気味に蠢く森の奥深く分け入った一行は、古びた塔にたどり着く。塔にまつわる女王の言い伝え、ただのおとぎ話だと思われたいたその物語こそが、事件の謎を解く鍵だった。


◆テリー・ギリアム監督による良くできたダーク・ファンタジーで、グリム兄弟が後の童話の収集家になるまでの物語。『狼の血族』『スリーピー・ホロウ』といった映画の雰囲気が好きな人にならお薦め。闇の力に支配された、暗い森の雰囲気がとてもいい。兄のウィルを演じているマット・デイモン、弟のジェイコブ演じているヒース・レジャーの兄弟もいい配役。女王を演じたモニカ・ベルッチも雰囲気たっぷり。通り一遍の作り方なら陳腐になってしまいかねない物語を、童話の要素、恋と兄弟の絆、父親への思い、占領軍であるフランスの将軍の横やりといった様々な要素を織り交ぜていくことで面白い物語に仕上げている。CGの使い方で一部違和感を感じるところもあるが、これは魔法らしさを表現するために意図してのことだと思う。子供向けの話ではないので、大人のためのダーク・ファンタジーと心得て観に行くのが吉。