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   Farsideの過去ログ。




 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』から19年のブランクを経て作られた、シリーズ第四作目。映画の中の時代設定も、前作の19年後の1957年を舞台にしている。
 私が観たのは先行上映の二日目、しかもチケットは当日の朝にネット予約したものだが、それでも劇場ど真ん中の特等席が取れた。あまり、人気があるとは言えないようだ。『インディ・ジョーンズ』は確かに大ヒットシリーズだが、20年近い時を経て、この日本でどこまで観客を呼べるか、かなり不安がある。実際、先行上映では観客の入りは6割程度。大作の続編であることを考えると、世間の期待値は決して高くないようだ。


 主演のハリソン・フォードは、さすがに前作よりも老け込んでいるが、20年近い月日を考えれば十分若い。27年ぶりに登場したマリオン役のカレン・アレンなどは、当たり前だがその老け込みようを隠しきれない。下手をすれば老人映画になってしまいそうなこの映画を面白くしているのは、若手の中でもトップクラスの期待を集めているシャイア・ラブーフ。この異様に平均年齢の高いアクション映画を引っ張る存在だと言ってもいいだろう。 この映画は、シリーズの主役をハリソン・フォードからシャイア・ラブーフに禅譲する、その橋渡しのために作られたとしか思えない。前作『最後の聖戦』で物語にピリオドを打ったにもかかわらず、これだけの長い年月を経てシリーズを再開した背景には、ハリウッドの根深い脚本不足があるんじゃないかと勘ぐりたくなってしまう。この映画に限ったことではないが、老体にむち打ってでもアクションをこなさなければならない往年のスターたちを見ていると、役者不足の方もかなり深刻ではないかと。


 さて肝心の映画の内容だが、往年のインディ・ジョーンズのファンなら十分に楽しめると思う。前三作を知らない世代にとっては、どこまで面白いと思ってもらえるか、ちょっと疑問。


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 昨年9月、『クローズドノート』という映画を観た。私はこの映画がお気に入りで、雫井脩介の原作も買って読んだほど。DVDも発売・レンタルされているので、ご覧になった方も少なくないと思う。この物語の中に、重要なアイテムとして万年筆が登場する。映画や原作にはたくさんの万年筆が登場するが、物語のキーになるのは二種類。一本は、竹内結子演じる伊吹先生が持つ、スイーツ。シックなデザインの万年筆に深みのある赤紫系のインクという組み合わせは、確かにお洒落だと思う。このスイーツは価格設定もお手頃で、もし実在するなら私も持ってみたい一本。残念ながら、物語に登場する「イマヰ萬年筆」のオリジナルという設定で、実際には存在しないモデルだ。
 もう一本は、沢尻エリカ演じる香恵が父から贈られた、デルタのドルチェビータ・ミニ。私の感覚では女性向けではないような気もするが、女の子が持てば確かに面白いだろう。ただ、これは間違っても私には似合わないし、仮に似合っても「映画の真似をしてる」と思われるのが関の山だ。お洒落どころか格好悪さ全開になってしまう。それ以前の問題として、逆立ちしたって遊びで買えるような値段ではないのだが.....。


 私は黒や青という月並みなインクの色があまり好きではなかったので、大学に入るまでは日常的に緑のインクを入れた万年筆を使っていた。実用というより人と違う色のインクが使いたかっただけなので、ほとんど原稿用紙専用。大学時代は原稿を書く量が半端ではなかったので、無神経に扱っても大丈夫な水性ボールペンばかり使っていた。社会人になってからはキーボードオンリーで、そもそもペンを握って文字を書く機会がほとんどない。こうして私は、万年筆という筆記用具の存在そのものをすっかり忘れてしまった。映画『クローズド・ノート』をきっかけに、お手頃価格の万年筆を一本買ってみようかと思ったのが去年の10月。だが、いざ探してみると、なかなか気に入るものがない。実用品なら低価格でも良いものが山ほどあるが、そもそも私の目的は遊び。選ぶ基準がこれ以上ないほどいい加減なので、自分の求めるものがきちんとした形で見えてこない。半年以上経ってもまだ良さそうなものに出会えなかった。ちなみにインクの方は、どうせコンバータしか使わないので、とっくに好きな色を買ってある。まぁ、普段は頑丈なだけが取り柄のボールペンを使っているので、急いで万年筆を探す必要も特にはなかった。


 探し始めて半年が過ぎた頃、たくさんのペンを見て来たせいか、なんとなく自分の中にイメージが出来上がってきた。万年筆のボディは濃い暗色のものが多いようで、明るい色は原色系の派手なものが多いようだ。グレイ系のインクを使いたい私としては、暗色や原色系のボディは今ひとつしっくり来ない。いろいろ見ているうちに、「白いペンがいいかも」という程度のいい加減なイメージが湧いてきた。いざ探してみると、白やアイボリーというのは結構少ない。その中から、『お手軽価格』でコンバータが使えるものを選ぶと、選択肢はほんの数本。その中に、何となく気になるデザインのものを見つけた。


 私はデザインのみでペンを選んでいるので、メーカーはどこでもいい。書く文字の半分は日本語だから、出来れば日本製が良いのだが、たまたま目に付いたのは外国製だった。今まで一度も聞いたことのないアキュラという文房具屋と、「修理マニアとマゾヒストしか買わない」と言われるほど故障が多いので有名な自動車屋、ジャガーの合作だそうな。「まともに使えるんかいな」と危惧を抱いていたが、とりあえずはちゃんと書ける。安売り店で買ったので、値段の方も1万円台で収まった。多少、予算をオーバーしたが、結構面白い買い物だったと思う。文房具屋と自動車屋の合作というからには、普通は男性向けのデザインを考えそうなものだが、このペンはキャップをすると、女性が好みそうな滑らかな曲線になる。キャップをお尻にはめて書くときには、それなりにメカニカルな印象になるところが面白い。私が買ったのはアイボリーのボディとローズゴールド(ただのピンクゴールドだと思うけど)の組み合わせで、男女兼用といった感じ。普段、武器になるほど頑丈で無骨な物しか持たない私にとっては相当冒険だったりもしたのだが、たまにはかわいい(というか、武器に見えない)物を持つのも面白い。これでも花屋の常連だし、好きな女の子は広末だし、実は「可愛らしさ」や「壊れてしまいそうな繊細さ」にも敏感、なつもり。個人的には悪くない買い物をしたつもりだが、いざ手に持ってみると、本当に絵にならない。普段、道具類は可能な限り黒一色という人間なので、次に万年筆を買う機会が巡ってきたら、あまり凝ったことを考えず、黒っぽいものを買った方が良さそうだ。


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 先日、秋葉原の歩行者天国で起きた大量殺人事件。芸大に通う21才の女の子、普通に遊びに来ていただけの19才の男の子、ただその場にいただけの罪のない人々が7人も亡くなり、10人が重軽傷を負った。「重軽傷」とは、「重い怪我や軽い怪我」と言う意味ではない。「危うく死ぬような目に遭い、現在も苦しんでいる」という意味だ。これからも辛さは続くだろう。ご遺族の方々については、もはや言うまでもない。


 私はどうしても、こういう犯罪を起こす人間が理解できない。理解できないことが正常だと言えるのかもしれないが、なぜこんなことが起こるのか、ついつい考えてしまう。堂々巡りの思考の中で、繰り返し浮かんでくるのが「犯人は正常なのか、それとも異常なのか」という疑問だ。


 犯人が正常なら、目的は大量殺人と、自分が死刑になることだ。裁判では法的責任能力があることを「正常」と呼ぶ。ただ、法的責任能力はあるものの、性格が異常で危険な人間も存在する。「死刑になりたい」とか、「ムシャクシャした」と言う理由で殺人を犯すのはほとんどがこのタイプだ。
 一方、犯人が異常であるなら、犯罪の動機は普通の人には全く理解できないだろう。「気違いだから人殺しをしたのだ」と断定してもらった方が、我々一般人は安堵できる。ただその場合、日本の法律では何をしても罪を問われることはない。数年もすれば、犯人はこの社会に再び放たれることになる。「プライバシー」という名目で、全ての情報を抹消された形で。引っ越してくる先は、隣の家かもしれない。


 人生に行き詰まったようなことをほざく、馬鹿な犯人。よほどつまらない、死刑になることで終止符を打ちたくなるほどくだらない人生だったのだろう。大勢の人の命を奪った犯罪に映画のセリフを重ねることは不謹慎かもしれないが、それでもあえて言いたい。「オマエの人生がつまらないのは、オマエがつまらない人間だからだ」と。「オマエの人生がクズなのは、誰のせいでもない、オマエがただのクズだからだ」と、面罵してやりたい。いや、正直に言えば、死なない程度に全身の骨をへし折ってやりたい。痛みを知らない馬鹿は、日常生活の大切さも知らないだろう。ぜひ私が、馬鹿な犯人に痛みの本質を教えてやりたいところだ。週末の秋葉、そこにいたのは私だったかもしれない。私の親しい誰かだったかもしれない。それを考えると、恐怖と怒りが湧き上がるのを抑えられない。仮に、犯人が裁判の場で泣いて謝罪したところで、失われた大切な命が戻るわけでも、生存者やご遺族、被害者の友人・知人の心の傷が癒されるわけでもない。私は被害者の方々を個人的には存じ上げないが、これが私の大事な人だったらと思うと、いかなる情状も酌量してやる気にはなれない。日本は法治国家であり、国家とはつまり、家族の集まりのことだ。全ての被害者に家族がいて、大勢の友人がいる。殺人は被害者に対する犯罪であるだけでなく、被害者の家族に対する犯罪でもある。つまりそれは、国家に対する犯罪であり、平穏に続き、未来に夢を託す「日常」に対する犯罪でもあると思う。人の命を意図的に奪うことは、人間であることをやめると宣言するに等しいのではないだろうか。司法に対しては、犯罪者の人権を全て無視せよとはいわないが、被害者にも人権があることを忘れずに対処して欲しいと願うばかりだ。


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