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small_happiness

   Farsideの過去ログ。

TIME

2012-02-18 | 映画の感想 英数字
◆遺伝子技術の進歩で、人類がついに老化を克服した近未来。人は生まれ、育ち、25歳で成長を止める。そして、その先の人生を老いることなく、若々しいまま過ごす。この夢の世界にはたった一つだけ、当然の制約があった。不老のユートピアを守るためには、どうしても必要なもの。世界が人口過剰で破滅しないためにどうしても確保しなければならない、絶対数の「死」。この不老の世界では、25歳になった瞬間に1年の時間が与えられ、左腕のデジタル表示が秒単位で減り続けていく。残された時間がゼロになれば、その瞬間に命が終わる。そして、この世界の[通貨]は、自らの余命そのものである[時間]だった。


 富裕層が数百年の寿命を持つのに対し、貧困層は25歳になると同時に明日をも知れぬ命となる。25歳で与えられる1年分の時間は、生活のために前借りしていたローンの返済であらかた消えてしまい、余命は数日に満たない。働いて[時間]を稼がなければ明日は死ぬ、文字通り以上の「その日暮らし」の人間が貧困層の大半を占めていた。[時間]が通貨としてやりとりできる以上、それを奪う犯罪も横行し、[時間]を巡る犯罪を取り締まる時間管理局の捜査官が社会を監視していた。


 貧困層の労働者、28歳のウィル・サラス(ジャスティン・ティンバーレイク)は、ひょんなことから知り合った富裕層の男から一世紀以上もの時間を貰い受ける。一週間の時間を持っているだけでもギャングに襲われる世界で、それは目もくらむほどの数字だった。綱渡りのような生活を続ける貧民層では、[時間]切れは日常茶飯事だった。ただ物価が上がるだけでも、[時間]に余裕のないその日暮らしの貧困層は、若々しい姿のままで簡単に死んでいく。無限に思える[時間]を手に入れたウィルは、この世界の仕組みをぶち壊そうと、最富裕層の住むゾーンへ侵入する。


◆うん、なかなか面白かった。我々の住む現実の社会では、一文無しになった瞬間に死ぬことはない。そのため、富の再配分の偏りや社会のシステムの歪みが際立ちにくかったりするが、この物語の中では時間(余命)を通貨とすることで、情け容赦なく死が訪れるため、経済原理という冷たい方程式に支配された我々の世界を、より刺激的に、とても分かりやすく映し出している。


 物語の世界には、貧困層と最富裕層間にいくつもの「タイムゾーン」と呼ばれるエリアがあり、生活レベルも段階的に違うという設定になっているようだが、その中間部分は登場せず、貧民と富裕層という分かりやすい二極のみが描かれる。貧困層に生まれ育ったウィルが抱くのは、「なぜ俺たちは貧しいのか」という疑問。そして、物語を転がす上で欠かせない存在として、ウィルは富裕層のエリアで億万長者の娘、シルヴィア・ワイス(アマンダ・サイフリッド)と出会う。シルヴィアの父は銀行家であり、この世界の富を牛耳るシステムの一員でもある。明日より先のことを考えたことのなかったウィルと、明日のことを思い悩んだことのないシルヴィアは、行きがかりで始まった逃避行の中で、互いに現実を知り、同じ目的に向かう。


 こう書くと、「社会への不満を持った貧しい青年と、社会の現実を知った大富豪の娘が出会い、共に手を携えて理想に向けて.....」などという典型的な展開に思えるが、この二人、社会正義に目覚めたり、イデオロギーを語ったりはしないんである。この映画はそういう社会派ではなく、あくまでも斬新なアイデアを生かしたSFアクション。固いことを考えず、物語の流れに身を任せていれば終点までスムーズに流れていくので、安心してご覧頂きたい。


 さて、重箱ツツキストの私としては、いくつか申し添えたい。ウィルとシルヴィアの二人を追う時間管理局の捜査員、レオンを演じるキリアン・マーフィーについて。個性的で存在感のあるレオンは、物語の始めから終盤までウィルを追い続ける。彼は、自分の立場に対する疑問や苦労も口にするのだが、その部分はちと弱い。社会派の映画じゃないからそれでいいのかもしれないが、少し影が薄いように感じられてもったいないように思えた。 そしてもう一つ、これは個人の感じ方次第かもしれないが.....。ヒロインのシルヴィアが綺麗じゃない。かわいくもない。私のような男からすると、これは感情移入がしにくいし、物語への引き込まれ方が弱いと思う。そこだけは、ちょっと残念。

New Moon ~トワイライト・サーガ~

2010-04-30 | 映画の感想 英数字
◆バンパイアのエドワードと恋に落ちたベラ。エドワードの家族にも受け入れられたベラだったが、胸に巣くう不安を抑えることはできなかった。外見こそ高校生でも、エドワードは100歳を越える不老不死のバンパイア。人とバンパイアの恋が実るとしても、やがて自分は年老いていく。いつまでも一緒にいるために、彼と同じバンパイアになるしかない。だが、呪われた生き方の辛さを知るエドワードは、ベラに同じ道を選ばせたくはなかった。彼はベラに別れを告げ、家族ともども姿を消してしまう。
 抜け殻のようになったベラを、インディアン居留地に住むジェイコブが慰める。少しずつ、二人の距離は縮まっていく。だが、ベラのもとには新たな災いが近づいていた。


◆2008年に公開された前作『トワイライト・サーガ 初恋』に続き、クリステン・スチュワート主演のラブ・ファンタジー。ジュブナイル系の恋愛小説の映画化ながら、前作は大ヒットを飛ばした。私も『初恋』の方はDVDで観て、結構お気に入りの映画だった。何しろもう、クリステン・スチュワートが可憐で.....ってまぁ、邪道な楽しみ方かもしれないが、それはそれで。
 さて、クリステン・スチュワートの可憐さを堪能すべき二作目だが.....大変残念だが、これはダメだと思う。以下はネタバレになるので、そのつもりでご覧いただきたい。


 本作は、基本的にはうら若き乙女(死語か?)を対象に書かれた小説を、忠実に映画化したもの。人の血を吸わず、陽光のもとで光り輝く、心正しい(しかもカッコいい)バンパイアと美しい少女の恋を描いた一作目は確かに良かった。言うなれば、種族を越えた恋の始まりだった。
 二作目では、その恋に新たな試練が訪れる。そこまでは王道の展開だから良い。ただ、悲嘆にくれて目の下にクマを作っちゃうと、ヒロインの可憐さは半減してしまうんである。物語に新展開をもたらす新たな一族、二人の男性の間で揺れ動く恋心、冒頭のロミオとジュリエットの台詞にひっかけたエピソード.....。こういうものが畳みかけるように出てくると、私のようなヒネた人間は気持ちが退いていく。超人たちに愛され、狙われ、常に台風の目で居続ける田舎の女子高生って、ちょっとどうかと思ってしまう。つまり、「出来過ぎ」感が強すぎるのだ。恋愛ファンタジーが出来過ぎなのはいっこうにかまわないが、物語に感情移入が出来なくなると、やっぱり厳しいぞ。とはいうものの、これは私が男だからで、女性が観れば楽しめる部分はもっと多いのだと思う。たとえばベラが恋したエドワード、(やっかみと嫉妬に満ちた)男の視線から見ると、背が高いだけで運動不足のモヤシ系に見えてしまう。女性が観れば、もっとノーブルで素敵に見えることだろう。事実、興行成績は大変に良いと聞く。


 このシリーズは「トワイライト・サーガ」として三作目の映画化まで決定しているそうだが、うん、個人的にはちょっと先行き不安かも。

REC

2009-12-20 | 映画の感想 英数字
◆ロサンゼルス。TV局の女性レポーターのアンジェラは、カメラマンのスコットと共に消防士の密着取材をしていた。同行しての向かったのは、火災ではなく救急通報。向かった先は古いパートで、老婆が室内で悲鳴を上げているという。現場で警官と合流し、ドアを破って部屋に入ると、老婆は口からよだれを垂らした異様な状態で錯乱していた。老婆は突然凶暴になり、警官の首に噛みついて重症を負わせてしまう。急いで怪我人を運びだそうとするが、アパートの出入り口は外部から封鎖されていた。住人を一階ロビーに集めて待機するようにと無線で指示を受けるものの、外部から状況の説明はない。何とか外へ出ようとする彼らに兵士が銃を向ける。
 やむなくアパート内にとどまるが、噛まれた警官や重症を負った消防士、そして住民の何人かが、老婆と同じ症状を示していた。外部から全ての連絡手段を絶たれ、戸惑う人々。追い打ちをかけるように、アパートの電気が切られた。


◆半端なゾンビものかと思ってたかをくくっていたら、なかなか良く出来たパニック映画だった。


 これは「P.O.V.リアルパニック・ムービー」というのだそうだ。私はP.O.V.という言葉を聞いたのも初めてだが、Point of Viewの略だそうで、登場人物の持つカメラからの主観的な映像を指すらしい。『クローバーフィールド』や『ブレアウィッチ・プロジェクト』などと同じ手法のものだ。


 この映画、もともとはスペインで作られ、本国で大ヒットを記録したものだとか。私が観たのはアメリカがリメイク権を買って制作したものだが、筋立てはオリジナルと全く同じだという。続編の『REC 2』(一作目の直後のシーンから始まるらしい)が好評らしいので、そちらを観る前に前作をチェックしておきたくてレンタルしたもの。好き嫌いの個人差はあると思うが、私は大いに気に入った。80分の短い尺を有効に使い、低予算で上手に怖さを盛り上げている。


 ここから先は完璧にネタバレになるので、これから本作を御覧になる予定のある方は、読まないことをお勧めしたい。個人的には、この程度のネタバレなら映画の興をそぐことにはならないと思うが.....。


 この物語のパニックの原因は、ゾンビではなく病気。感染方法によって発症までの時間が大きく違うというのも、『28日後』や『28週後』と違ってヒネリが効いている。住人の一人が獣医で、病人や負傷者の手当をする課程で、症状が狂犬病そっくりであることに気づく。私は知らなかったのだが、映画の中で語られていることが事実なら、人間が狂犬病にかかった場合の致死率は100%。潜伏期間中なら治療できるが、いったん発症したら治療法はなく、罹患しているかどうかを調べるには脳の組織サンプルを取って検査するしかないのだとか。もし事実なら、恐ろしい病気だ。
 映画の中で登場する狂犬病は、通常のものとは異なり、感染後は短時間で発病する。アパートの住人が飼っている犬から人へ、ほかの動物へと感染が広がっていく。しかも、感染者は極めて凶暴になり、怪力をふるって人々を襲い始める。事態をを察知した政府はCDC(疾病対策センター)から病理学者を派遣し、事態を把握するまで軍を動員して患者の封じ込めを計る。たまたまその渦中に居合わせたレポーターが主人公で、同行したカメラマンがすべてを記録した、という設定だ。


 もし実際にそんな恐ろしい新型狂犬病が発生したら、アパート全体の封じ込めは当然の処置だろうし、脱出を計る住人に向けての発砲命令も出るだろう。どこかの国では、たかがインフルエンザで、飛行機の乗客を二週間もホテルに缶詰にしたぐらいだ。致死率100%で罹患者が野獣に変貌する病気が実在したなら、いきなり銃殺はなくとも、力ずくで拘禁するぐらいは普通にやるだろう。国民全員の命を危険にさらすぐらいなら、たとえ数十人を見殺しにしても正しい。あまり気持ちのいい話ではないが、それが現実というものだ。その意味では現実的で、とても怖い話でもある。


 さて、重箱ツツキストの私としては、本作のツッコミドコロにもふれておきたい。まずは、アパートへの送電をカットしたこと。事態を調査するために外部から人を送るのなら、明かりがついていなかったら不便だし、罹患者が凶暴化する事を考えれば、周りが見えないのは危険だ。強行措置もやむなしという事態であれば、住民に情報を与えない、外部と連絡させないというのは納得できるし、テレビやラジオが受信できないようにしたり、携帯を妨害したりというのは物語の流れに沿っている。ただ、パニックを盛り上げるためにアパートを闇の中に置くのであれば、それなりの理由付けが必要だろう。落雷であたり一帯が停電、という流れの方が収まりがいい。
 もう一つは、この映画の肝である、登場人物の持つカメラによる主観映像。いろいろと面白く見せる工夫をしているし、同じ手法を使った過去の映画に比べれば大健闘しているのは立派だが、「この状況でカメラは回せないだろー」という場面が多々あるのも確か。このあたりも、なにがしかの工夫が欲しかったところだ。続編ではヘルメット搭載カメラからの映像などを組み合わせることでその問題を解決しているそうだが、本作でも一工夫できたんじゃないだろうか。
 たとえば、新型のカメラ。消防活動の同行取材となれば、安全な場所ばかりとはいえないはず。カメラマンだって、両手が使えて視野が確保できる方がいいに決まっている。「ハーネスで体に固定する新型のカメラ」という設定にして、「カメラとライトは一体型」ということにしておく。アパート内は停電で真っ暗闇だから、どうしてもライトが必要なわけだし、カメラとライトが一体なら、たとえ邪魔でもカメラだけ捨てていくわけにはいかない。どうせカメラを体に付けたままでいるなら、プロのカメラマンが世紀の大スクープになるかもしれない瞬間にわざわざスイッチを切ることはないだろう。イントロ部分で1、2分割いて、カメラの説明をさらっと入れてしまえばいい。そうすれば、必死で逃げ回る間もカメラを回しっぱなしという理由付けができる。「一人称視点のリアルパニック・ムービー」というのであれば、そのあたりもリアルさにこだわってくれると良かったのでは。細かいところをツツいてみたが、私自身は是非続編も観てみたい。

2012

2009-12-05 | 映画の感想 英数字
◆2009年。異常に活性化した太陽嵐により、地球は大量のニュートリノを浴びる。本来、何の影響も与えずに地球を透過してしまうはずの素粒子だが、今回観測されたニュートリノは地球の核と反応し、その温度を上昇させていくことが分かった。地殻は巨大な核を包む薄皮のような存在でしかない。核が温度上昇を続ければ、地殻は破れ、今の世界は跡形もなく消え去ってしまう。それは大陸を突き崩し、世界は巨大な津波に呑まれ、全ての陸地はその姿を消す。創世記の再現とも言える災厄に、人はまた、同じ方法で生き伸びようと試みる。タイムリミットは三年後、2012年。新時代のノアの方舟は、世界が終焉を迎える直前に辛うじて完成した。だが、滅び行く60億の人類に対して、方舟に乗れる者はあまりにも少なかった。各国政府首脳とその家族、新世界を築くために必要な技術と知識を持つ者たち。そして、自らの命を金であがなえる大富豪たち。命の値段は、一人10億ユーロ。


◆予告編では「マヤ文明の予言が云々.....」という文句があったが、その種のネタは全く登場しない。2010年から2012年の間に太陽活動の極大期があり、太陽嵐が超高圧変圧器などに被害を与えると予想されている(これは真面目な話)そうだが、それをヒントに作られたディザスタームービー。
 近年のディザスタームービーは、全てが判でついたように同じシナリオで出来ている。「大規模な災害」と「家族愛」だ。本作もその部分は全く同じ。監督が『インデペンデンス・デイ』『デイ・アフター・トゥモロー』のローランド・エメリッヒだと言うのも頷ける。ただ、『デイ・アフター・トゥモロー』とは、後味がずいぶん違う。以下は最後の最後までネタバレしているので、これから本作を観る予定のある方はご注意を。


 「人類の生存」を目的に、新時代のノアの方舟を造るのはいい。方舟の運用に必要な技術者、新しく生まれる世界で必要とされる医者・科学者・技術者が方舟に乗るのは必要なことだろう。植物の種子や動物たちを乗せていくことも納得が出来る。船の建造費をまかなうため、一人10億ユーロの代金で大富豪を乗せるとなると、話は少し違ってくる。不足分の資金調達の方法論としては有りだし、それを悪とは呼ばないが.....。世界が滅ぶ、人類が絶滅するという状況であれば、それらの資金は接収なり徴発なりしてしまえばいいだけの話で、なにも10億ユーロの乗船券を売る必要はない。新世界の運営に政治家が必要だというのなら、各国首脳や補佐官、軍の指導者が乗船してもいいだろう。だが、新世界で特別な価値のない無い人間、たまたま首脳の家族に生まれただけの人間を乗せるのは、なぜだろう? 人類生存のために資産の接収を行わない理由、新世界での必要性とは無関係に各国首脳の家族を乗船させる理由は、もちろん一つしかない。どの国の首脳も、国民に本当のことを伝えていないからだ。事実を伝えればパニックが起こり、経済は崩壊し、方舟の建造など覚束なくなる。理想を語れば計画は頓挫する。だから、彼らは最初から理想など持っていないのだ。方舟の建造費には各国の国家予算が使われ、大勢の人々が、乗船できない方舟を造るために昼夜を問わず働き、ただ死んでいく。それを必要悪と割り切った人間が生き残る。それも現実だろう。ただ、彼らは最後の数分間だけ改心して、「本当は善人なんです」とアピールする。そこが観ていてズッコケる部分だ。まぁ、創世記を題材にしたのなら、これでいいのかもしれないが.....。私の記憶が確かなら、創世記では悪人が死に、心正しき人々のみが生き残ったはず。数分間でも改心すれば、それで許されるという思想があるのかもしれない。それでも、地上の全ての陸地が壊滅し、三隻の方舟の乗船者を除く人類全てが悲惨な死に方をした直後に爽やかに笑われても、観客は感情移入しにくいだろう。乗船者全てが、家族なり友人なりを失っている。少しぐらい悲しんでも罰は当たらないシーンなのだ。少なくとも、爽やかに笑う場面じゃない。悲惨な死に方をした準ヒロインのことは誰も覚えていないし、絵空事とはいえ、いささか釈然としない。


 SF考証に関して言うと、一般的な物理の法則はほとんど無視されている。パニック感を煽るためだろうが、車も飛行機もあり得ない動きをして見せてくれる。あまりにも漫画チックで、逆に現実味がない。圧巻なのが、慣性の法則を無視した方舟のバック。手漕ぎのボートならいざ知らず、100万トン級の巨大な船が、少なくとも時速1kmで進んでいる場合、エンジン全開で逆進をかけても10秒や20秒で止まることはあり得ないし、バックし始めるまでには何分もかかるはず。ジョン・キューザック演じる主人公は、007が3歳児に見えるほどすごいドライビング・テクニックを披露してくれる。余りに非現実的で、パニックとかスペクタクルと言うより、コメディに近い。せっかくの特撮やCGも、これでは生かされないだろう。この映画に、壮大なスケールのディザスタームービーとしての感動を求めるのは間違いだが、皮肉たっぷりに人間の本質を描いた映画としてならお勧めできるかも。

Love Letter

2009-10-24 | 映画の感想 英数字
 久しぶりに、岩井俊二の『Love Letter』を観た。95年公開で、私が岩井俊二という監督に、というより、もう一度邦画に興味を持つきっかけになった映画。あの頃と今とでは、いろんなことがずいぶん違う。携帯は通話だけだった(.....ような気がする。私だけかもしれないが)し、DVDなんてものが出てきたのは、もう少し後だったような。
 この映画は私の大好きな作品の一つで、DVDを買って、何度も何度も観返したものだ。当時はまだ、自分用にメモを残す程度で、映画の感想を書いておく習慣もろくになかった。せっかくだから、今、書いておこうかと。


◆山で遭難した婚約者、藤井樹(柏原崇)の三回忌を終えて、彼の家にお邪魔した博子(中山美穂)。彼の部屋で、偶然見つけた卒業アルバム。アルバムの中には、博子が知らなかった中学生時代の樹がいた。そこには、今は国道になってしまった、かつての樹の住所が載っていた。博子は、ほんの思いつきで手紙を出してみることにした。封筒に、もう存在しない住所と、この世にはいない人の名前を書いて。数日後、樹から博子への返事が届く。偶然と勘違いで始まったこの不思議な文通は、止まっていた気持ちと眠っていた思い出を少しずつ暖めて、もう一度動かしていく。


◆有名な物語だと思うので、あらすじは簡略に済まそう。私はこの映画が大好きで、綺麗で優しい音楽も大好き。サウンドトラックも時々聞き返していて、この音楽を聴くだけでも、なんだか優しい気持ちになれる。ちなみに、このブログのタイトルの"small happiness"は、エンドロールで流れる美しいピアノ曲のタイトルからもらったものだ。


 藤井樹が好きになった二人の女の子を、中山美穂が一人二役で演じる。話し方と雰囲気だけで二人の女の子を演じ分けたのは正直驚いた。それまで、アイドル歌手だとばかり思っていたもので。思えば、私が中山美穂を好きになったのもこの作品からだった。エキセントリックな役が多かった豊川悦司が、関西弁を話す陽気なガラス職人の秋葉という役を演じたのも目新しかった。樹の母に加賀まりこ、博子の母に今は亡き范文雀。酒井美紀、鈴木蘭々が初々しい中学生を演じているのも可愛かったなぁ。


 冬の小樽と神戸を舞台に進む現在の物語、回想の形で語られる小樽。いずれの風景も美しくて、何度観ても飽きない。可愛い思い出の詰まったこの映画、ラストは切ない発見で胸がキュンとして終わる。その発見が眠っていたのは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」という本の中。ちょっと出来すぎな場面だと思わなくもないが、それも含めて、やっぱり大好きな映画。まだご覧になっていない方、なくした恋を懐かしく思っている方、優しい気持ちになりたい方、一度は観ても損のない映画だと思うので、よろしければお試しを。

96時間

2009-09-05 | 映画の感想 英数字
◆娘のそばにいたいという理由で仕事を引退し、カリフォルニアで暮らすブライアン(リーアム・ニーソン)。ただ、妻レノーア(ファムケ・ヤンセン)とは離婚し、今度17歳の誕生日を迎える愛娘のキム(マギー・グレイス)とも、時々しか会うことができなかった。妻は大富豪と結婚し、ブライアンから見れば雲の上のような暮らしをしていたし、キムも[令嬢]と呼んだ方がいいくらい。それでもキムはブライアンを慕っていたし、ブライアンにとっては命よりも大切な宝物だった。


 大事な娘からの「友達のアマンダと二人だけでパリへ行きたい」という願いに、ブライアンは首を縦に振らなかった。17歳の娘二人で旅行させるには危険だと思ったからだが、結局のところ、娘に押し切られる形で許してしまう。娘に携帯を渡し、毎日連絡するようにと約束させてはみたものの、空港ではしゃぐ娘たちを見送ったあとは心配ばかり。一方、キムとアマンダはそんな親の心配などどこ吹く風で、初めてのパリへの旅行で舞い上がっていた。何も悪いことなんか起こるはずはないという、若さゆえの思いこみと、親元を離れての旅行にわくわくしながら。


 そんな二人を空港から送ってくれた親切な若者、ビクター。彼は犯罪組織の一員で、誘拐して売り飛ばすために若い女性を物色する役目を負っていた。彼らにとって最も狙いやすい獲物は、騒ぎ立てる家族のいない旅行者。今回のターゲットはキムとアマンダ。


誘拐直前にキムからの電話を受け、娘の窮地を知ったブライアンは単身パリに飛び、ありったけの知識と経験、人脈と技術を総動員してキムを追い求める。ブライアンは、娘の涙に逆らえない父親ではなく、腕利きのCIA工作員だった頃に戻っていた。わずかな手がかりから、相手が大きな犯罪組織であり、誘拐から4日以内に獲物を売りさばくという手口が判明する。4日以内に見つけなければ、もう、取り戻すすべはない。猶予は96時間。


◆娘の誕生日プレゼントを選ぶために何週間も悩み、次に会えるのはいつかと心待ちにする父親が、娘を救うために納めていた牙をむいて戦うという、非常に分かりやすい、しかも、男としては100%感情移入できる物語。私は大いに気に入った。バッタバッタと敵をなぎ倒すブライアンの活躍は、私に言わせれば、ちょっと生ぬるい気もしたが.....。
 誘拐・麻薬・被害者が女の子とくれば、観客は無条件でブライアンに感情移入する。映画の作りは、そんな観客の気持ちに水を差すことなく、極めてストレートに展開する。だから、犯罪組織の人間が殴り倒されるだけで済むような場面を見ると、「首でもネジ切っておけ」と言いたくなってしまう。私がブライアンの立場だったら、関係者は全員、細かく刻んで棺桶に詰め込んでやりたいところだ。


 この映画、正直に言えば、女性には今ひとつウケが悪いかもしれない。ブライアンの別れた妻レノーアは「事実を隠して娘を危険な目にあわせた母親」だし、誘拐されたキムは「父親に嘘をついて誘拐された娘」という役回り。どこから見ても完全な馬鹿娘という役回りのアマンダは、愚かさの代償を身をもって払うという筋書き。全面的に父親目線で作られた映画だけに、女性には不快な部分もあるだろう。


 営利誘拐を目的とした犯罪組織は世界に多くあるが、この映画に出てくる組織は、それよりもさらにありふれたタイプの組織。誘拐した娘を麻薬付けにして娼婦として飼い殺しにしたり、奴隷のように大金で売り買いしたりするのだが、犯罪としては営利誘拐よりも遙かに安全なので、世界中にこの種の犯罪組織が存在している。本作はPG-12指定になっているが、「痛快お父さんアクション」としてのバイオレンス部分は、別に過激ではないし、エロティックな描写もない。ただ、女性がそういう犯罪組織に囚われて悲惨な目に遭うという部分は、世界各地で今も現実に起こっていることなので、かなりショッキングかもしれない。


 映画の筋や感想とは離れてしまうが.....。「あの国の人は全員いい人です」という抗議や非難が来そうなので国名を出すことは控えるが、ヨーロッパ在住の友人がひったくりの被害にあった時、追ってこないようにとナイフで斬りつけられたことがある。幸い深手には至らなかったが、一歩間違えばどうなっていたか分からない。彼が住んでいたのは、日本人観光客に人気の都市でもある。同じひったくりでも、日本とは違う場合もある。海外旅行に行かれる方は、犯罪に巻き込まれないようにご用心いただきたい。

GOEMON

2009-05-01 | 映画の感想 英数字
◆違う歴史を歩む、もう一つの日本。
 1582年、天下統一を目指し、破竹の勢いで時代の頂点へ駆けあがらんとしていた織田信長(中村橋之助)は、明智光秀の謀反により本能寺で討たれる。逆賊光秀もまた、豊臣秀吉(奥田瑛二)によって討たれ、秀吉の治世のもと、天下はひとときの安寧を得た。
 戦禍はかりそめの終息を迎えていたが、市井に暮らす人々の暮らしは貧しかった。楽市楽座の施政で巨万の富を得る商人がいる陰で、飢えて苦しむ者も多かった。そんな時代、庶民の味方として人気を博していたのは、大泥棒の石川五右衛門(江口洋介)。驚異的な身のこなしで追っ手の軍勢を払いのけ、私腹を肥やす者達から盗んだ富を貧しい庶民にばらまく五右衛門は英雄視されていた。
 ある夜、豪商紀伊国屋文左衛門(六平直政)の宝物倉に忍び込んだ五右衛門は、一つの筺に目を留めた。金銀財宝と一緒に盗み出したその筺は、作りは美しいものの、中身は空っぽ。五右衛門があっさりと投げ捨てたその筺は、実は、秀吉の治世をひっくり返す大きな秘密を秘めていた。秀吉の腹心の一人、石田三成(要潤)は、秘密理にその筺を追うべく部下の追っ手を放っていた。その中には、当代きっての忍、霧隠才蔵(大沢たかお)の姿があった。たまたま筺を拾ったために、三成の部下に目の前で母を切り殺され、自らも切り捨てられそうになった幼い貧民の小兵太。間一髪、その場に居合わせた五右衛門に命を救われた小兵太は、五右衛門と、彼に付き従う猿飛佐助(ガレッジセールのゴリ)と行動をと共にすることになる。このとき、すでに時代は大きく暗い渦を巻き、後戻りのきかぬ激しい流れへと姿を変えようとしていた。


◆紀里谷和明による、スチームパンクの第二段。一作目の『CASSHERN』を、私はこれ以上無いほどボロクソにけなした記憶がある。だが、本作の映像はは見応えがあった。
 監督・脚本をつとめる紀里谷和明は、重くおどろおどろしいスチームパンクの雰囲気を作り出すのは上手い。全作『CASSHERN』では、予算の関係か映像にチャチな部分が目立ったし、なによりも往年の名作、「鉄の悪魔を叩いて砕く」キャシャーンをボロボロのゴミに変えてしまったことに私は激怒した。
 だが本作は、あり得ざる時代のあり得ざる物語、誰の顔にも泥を塗ることなく、奔放にスチームパンクを作り上げている。濃いアンバーや、ほかの色合いが消えるほどシアンの強いシーンなど、非現実感バリバリの映像でありながら、ぎらぎらとした『GOEMON』の世界観がきちんと成立している。時代劇とも正史とも切り離された衣装、美術、荒唐無稽なアクション、どれをとってもよくできていると思う。そのぶん、時代劇だと思いこんで観に行った人は厳しいかもしれないが.....。一応言っておきますが、誰もチョンマゲ、結ってませんから。


 この種の映画としては、異例とも思えるほどの出演者にも驚いた。物語の姫役、茶々を演じる広末涼子、その子供時代を演じた福田麻由子。服部半蔵役の寺島進、千利休にの平幹二朗 、徳川家康を演じた伊武雅刀。ほかにも、佐藤江梨子、戸田恵梨香、鶴田真由、りょう、藤澤恵麻、佐田真由美、紀伊国屋文左衛門役の六平直政、小日向文世と、ちょい役まで含めると錚々たるメンバーだ。


 最初っから最後まで姫様役で綺麗なドレスを着ている広末も可愛かったし、綺麗どころとアクション満載の展開には満足。ただ、時代の変わり目で苦しみ、命を落としていく者たちの物語なので、明るく楽しい話ではない。出演者や衣装の豪華さ、派手なアクションに比して、物語は暗く悲しい。観終わった後に無常感の残る物語だ。やっぱり、脳天気と言われようと単純バカと言われようと、私は女性が死んだり女の子が悲しむ映画よりは、相当無理のある力技を使ってでも、ハッピーエンド全開で終わる映画の方がいい。


 それにしても、1967年生まれ、御年41才の江口洋介の身のこなしは立派。大沢たかおも同い年だが、特撮とはいいながらも、二人とも格好良くアクションをキメている。
 広末だって、本来なら姫役を演じるのは厳しいはずのお年頃なのだが、それなりに絵になっている。本当は、もう少し髪の色を明るくしておいた方が、姫様ぽくって可愛いんだが.....。ま、そこは許す。広末、次にお姫様役が回ってくる可能性は限りなく低いはずだし、この映像は貴重だ。


 映画では、役柄より役者の実年齢が高いことが多い。やはり、それなりの経験を積んだ役者でないと、役柄の重みを出せないのだろうか。若手にも有力株はいるが、五右衛門役を小栗旬だの藤原竜也だのが演じていたら、線が細くて画にならなかっただろう。本作にも悪役で出ている玉山鉄二などは、シャープな風貌と優しい笑顔を持つ二枚目だが、五右衛門役にはまだ手が届かない。この映画の江口陽介・大沢たかお以外にも、佐藤浩市はパンクロッカーを、中井貴一は忍者を、そこそこな年齢になってから演じている。二枚目だろうと何だろうと、男の子に生まれた以上、一度はやってみたいのがこの種のヒーローなのかもしれない。もっとも、『少年メリケンサック』のオヤジパンクロッカーがヒーローに見えるかどうかは、受け手の度量と切れ具合によるとは思うが。(((((^^;

SHOOT'EM UP

2009-03-23 | 映画の感想 英数字
◆銃撃戦のさなかに生まれ、直後に母を亡くした赤ん坊。その子を守る、イギリスから来た謎の男、スミス(クライブ・オーウェン)。男と行動を共にする娼婦、ドンナ(モニカ・ベルッチ)。赤ん坊を追う集団のリーダーは、人の心が読める男、ハーツ。
物量で迫る武装集団を相手に、スミスは卓越した射撃の腕と不死身の肉体、そして生のニンジンを武器に立ち向かう。


◆「ストーリーは無いっ!」っと言い切ってしまいたくなるぐらい派手で荒唐無稽なアクションと、宣伝文句にも使われている2万5千発の銃撃戦。クライブ・オーウェンは渋いヒーローになりきっているし、かつての007ぐらいの物語性はある。たたみ掛ける盛大なアクションは、他のことなんかどうでも良いと思わせる迫力がある。ただ、これを迫力あるアクションととるか、残酷な暴力ととるか、はたまた爆笑もののコメディととるか、終盤までは人それぞれだと思う。私は硝煙弾雨系の映画を山ほど観ているし、主人公のスミスは赤ん坊を守るために悪党をなぎ倒しているわけで、立場的には正義の側にいる。スミスの方法論にある程度納得することは出来るのだが、ラスト付近のシーンはちょっと残酷で退いてしまった。この映画はR-15指定だが、エッチな内容だからではなく、死ぬわ死ぬわの銃撃戦と残酷なシーンのためだろう。それと、赤ん坊を抱えての銃撃戦というのは、普通に考えたらやっぱりまずいと思う。女性には絶対にオススメできない内容だ。ヒロイン(になるんだろうな.....)のモニカ・ベルッチは、撮影時の年齢は42才ぐらいだと思うが、なんだかずいぶん老け込んでいて、ちょっと痛々しい感じ。感情移入しにくいヒロインだ。


 誰かを守るために、単身組織と戦う設定の映画は多い。ジェイソン・ステイサムの出世作となった『トランスポーター』シリーズなどもそうだ。『トランスポーター』でジェイソン・ステイサムが演じたフランクというキャラクターは、銃を持った悪党をバッタバッタとなぎ倒しつつも、命まで取ろうとはしない。それが分かっているから、悪い奴らがタンコブだらけになっても、観客はフランクの味方でいられる。主人公が自分と同じサイドに留まっているからこそ、安心して観ていられるのだ。
 それに対して本作の主人公スミスは、仮に無抵抗であっても、何の遠慮もなく悪党を撃ち殺してしまう。ヒーロー像としては相当ダークな方だろう。無関係な人間、善意の第三者が悪党に撃ち殺されたりするので、そのあたりも見ていて厳しいところだ。この映画に出てくる人間達は、人ではなく、銃撃戦を派手に演出するための小道具のような扱いだ。「この映画を観て楽しんじゃったらマズいんじゃないか」、という気持ちがくすぶっているので、頭を空っぽにして楽しむことは難しかった。どこまでも無頓着になれる、銃撃戦大好きというアクションファンにのみ、お薦めしたい。

P2

2009-02-21 | 映画の感想 英数字
◆クリスマスイブ。ほとんどの人が帰路につき、ほぼ無人となった高層ビル。契約書の書き直しで遅くなったアンジェラ(レイチェル・ニコルズ)は、ようやく仕事を終えて家族の待つ家に向かおうとする。だが、車のエンジンがかからない。諦めてタクシーで帰ろうとするが、無人のビルは各出口に施錠された後だった。顔見知りの警備員はどこかへ姿を消し、初めて見る警備員(ウェス・ベントリー)が一人。アンジェラは灯りを消された地下駐車場でこの警備員に襲われ、麻酔を嗅がされてしまう。警備員室で目覚めたとき、アンジェラはドレスに着替えさせられ、足は鎖で繋がれていた。明日から三日間ビルは無人。救いの来るあてもないまま、アンジェラは男の狂気に追い詰められていく。


◆普通のサスペンスものかと思ったら、DVDには[18禁]のシールが。内容がエッチなわけではなく、残酷描写があるからだと思うが、それだってせいぜいがR15指定になるかならないかの描写だ。具体的な残酷描写はともかく、ストーカー男が若く美しい女性を襲って監禁し、恐ろしい思いをさせるという内容は、十分にR15指定に値するだろう。


 映画は、この種の物語の王道的展開で進む。監禁された被害者が逃げ出して、ビルの中で監禁者から逃げ回り、最後は相手を倒す。この種の映画は、ホラーでもサスペンスでも山ほど観てきたし、目新しいものではない。だが、この映画はちょっと違う。ウェス・ベントリーの迫真の演技は狂気に駆られたストーカーそのもので、見ていておぞましい。演技者としては素晴らしいのだが、映画としてはどうだろう。女性がストーカー犯罪の被害に遭う事件、拉致監禁される事件は現実に起こっている。事件の結末が被害者女性の死という形になることも。この映画を見ていると、なんだか現実に起こりそうで怖い。というより、現実を見ているようで精神的に辛い。これはもう、映画の出来云々じゃなく、見る側の感じ方の問題だろうと思うが、私は見ているのが辛かった。男の私ですらそうなのだから、女性が観たら不気味さの度合いはさらに増すだろう。ストーカーの恐怖を実感できる一本。

007 慰めの報酬

2009-02-07 | 映画の感想 英数字
◆う~ん。どうなんだろうか、微妙な映画だった。


 前作『007 カジノ・ロワイヤル』は、私にとってとても満足出来る良い出来の映画だった。読み返してみると、私としては珍しく、あらすじを「ボンド誕生。」の一言で済ませている。原作から遊離してアクションコメディ路線を突っ走り、ファンを減らし続けたボンド映画とは一線を画す、007の原点回帰と呼べる作品だと思ったからだ。原作の持つ辛いエンディングもきちんと生かしつつ、数十年前の原作をハイテクがあふれる現代と見事に融合していたし、ヤマカシを思わせるアクションはハラハラドキドキさせてくれた。きっといろいろな特撮技術を駆使して撮ったものなのだろうが、今までのボヨヨーンとしたワイヤーアクションとは違って、肉弾戦の迫力があった。まさに007の正伝と快哉を叫んだものだ。
 その硬派なジェイムズ・ボンド像のまま、前作の直後のシーンから始まる『慰めの報酬』は、アストンマーチンとアルファロメオという高級車どうしの凄まじいカーアクションから始まる。「K-20 怪人二十面相・伝 」の街を一直線に駆け抜けるシーンをパワーアップしたような、破壊的なヤマカシアクションも健在。そういう肉体派アクションの部分はすごく良く出来ているのだが、ドラマの部分が薄いような.....。一応、ルシッフルの名前は出てくるものの、本作は小説の「カジノ・ロワイヤル」には存在しない、映画だけのオリジナル・ストーリー。前作で命を落としたヴェスパー・リンドの復讐のため、オトシマエをつける物語になっている。もちろん、手に汗握る展開なのだが.....。原作ファンの私としては「んんっ?」と思う部分が結構多くて、実は前作ほどには楽しめなかった。


 前作から起用されたダニエル・クレイグは、血の通った荒々しいジェイムズ・ボンドを格好良く演じている。心にボンドと同じ傷を持つカミーユを演じたオルガ・キュリレンコも良かった。『HITMAN』の時とは見違えるようで、色恋とハッピーエンドだけで終わらせない新生ボンドシリーズにはぴったり。従来のボンドガールに相当するのが、フィールズ役のジェマ・アタートン。彼女の扱いも、今までの作品とは全く違う。出番が少ない上に、役割がかなり違う。今までの反動なのか、シャンペン・スパイ路線からダークなアクションへと180度方向転換してしまった本作は、どこに物語の焦点が合っているのかよく分からない気がする。『アイガー・サンクション』そっくりのシーンが出てきたり、爆発させるためだけに作られたハリボテの建物が出てきたりするあたりもどうかと思ったが、M(ジュディ・デンチ)やMI-6との関係など、物語の骨子たるべき部分がほとんど描かれていないため、組織を離れ、上司の命に反してまで敵を追うという緊迫感も悲壮感もない。そう、単なる復讐譚になってしまった本作は、別に「007シリーズ」でなくても良いのだ。刑事物でもそれ以外のアクションものでも、本作と同じ筋立ての物語は山ほどある。シャンペン・スパイの路線を離れたまでは良いが、原作からも全く離れてしまった今、ジェイムズ・ボンドらしさがなくなってしまったのだ。前作は興行的に良い成績を残したようだし、本作もなかなかの成績だと聞く。エンドロールでは次回作があることも示されていた。全くのオリジナル路線で行くのか、それとも原作を生かしながらリメイクしていくのかは分からないが、ジェイムズ・ボンドという個性をきちんと確立して欲しいものだと思う。

K-20 怪人二十面相・伝

2008-12-21 | 映画の感想 英数字
◆1945年。第二次世界大戦が起こらなかった、もう一つの歴史を生きる日本。そこは、戦禍こそ無かったものの、華族と一部の特権階級に支配される暗い時代だった。一握りの人々が贅をこらした暮らしをする一方で、国民のほとんどは貧しいその日暮らしを余儀なくされていた。そんな帝都の片隅に、貧しい人々のささやかな娯楽、小さなサーカスがテントを構えていた。サーカスの呼び物は、並外れた身のこなしで観客を沸かせる曲芸師の遠藤平吉(金城武)。貧しい観客を沸かせることは出来てもサーカスの収入は乏しく、平吉たちの暮らしもまた貧しかった。サーカスの団長が体を壊しても、医者に診せる余裕もない。そんなとき、カストリ雑誌の記者と名乗る男(加賀丈史)が平吉のもとを訪ねてきた。平吉の身の軽さを見込んで、近々とりおこなわれる羽柴財閥の一人娘・葉子(松たか子)と、男爵の明智小五郎(仲村トオル)の結納式を隠し撮りしてほしい、と。突然の申し出と報酬の札束に戸惑う平吉だったが、団長を医者に診せるためにも、この依頼を受けることに。だがこれは、怪人二十面相によって仕組まれた巧妙な罠だった。二十面相として逮捕された平吉は、仲間の助けで辛くも官憲の手から逃れ、本物の二十面相を捕らえて身の証を立てようとする。ひょんな事から葉子を助けた平吉は、彼女の力を借りながら事態の核心に迫り始めるのだが.....。


◆なかなか面白かった。これは江戸川乱歩の世界ではなく、スチームパンクを思わせる独特な世界で繰り広げられる冒険活劇。国民のほとんどが圧政に苦しむアンチユートピアにあって、自らの才能と仲間の助けで戦いを挑む若者、大財閥の深窓の令嬢でありながら、事実を知って共に行動するヒロイン、世界を変えてしまいかねない謎の装置、事態の陰に暗躍する怪人という、宮崎駿が喜びそうな王道的組み合わせで物語は進行して行く。


 この映画は大人から子供まで楽しめる冒険活劇。ただ、物語の序盤は、貧しさや圧政といった部分を描く。本作のVFXは『ALWAYS』で昭和の町並みを造り上げた白組が担当しているそうで、物語を通しての映像はきっちりとした世界観を保っていて秀逸なのだが、重苦しい時代背景を具現化した映像なので、雰囲気はどうしても重苦しい。その重苦しい雰囲気を和らげるのが、そこここに振りまかれた小さなユーモア。平吉を助ける仲間に、国村隼、高島礼子といったベテランを配し、味わいのあるコミカルな雰囲気で重苦しい空気を軽くしている。平吉が家や壁をものともせずに、街を一直線に走り抜けていくシーンは冒険活劇らしい爽快さ満点。
 本作のヒロイン、と言うよりお姫様役の葉子は、深窓の令嬢でありながら、「良家の子女のたしなみ」と称して武道からジャイロコプターの操縦までをこなす、かなりのじゃじゃ馬でもある。明智小五郎の前で見せるお嬢様な部分と、平吉の前で見せるお転婆な部分、メイクまで変えてのその対比が面白い。本作の松たか子は、おそらく初の入浴シーンと、「女の武器」を使って男性を誘惑するシーンまで果敢にこなしている。私はたか子ファンなのでかなり欲目かもしれないが、30を過ぎているとは到底思えない、とっても可愛いお姫様である。


 こういったコミカルだったり可愛かったりする明るい要素と相対するように、警察は横暴且つ無能で、軍部はナチスを思わせるステレオタイプな悪の雰囲気。二十面相を追う明智小五郎は華族で支配階級側の存在。小林少年(本郷奏多)と少年探偵団も、貧しい庶民階級ではなく、恵まれた支配階級側の存在だ。平吉に出会ったことで現実を知り、親を亡くした浮浪児たちを助けようとする葉子姫に比べて、明智や小林少年には感情移入がしにくい。平吉や葉子のように圧政の時代を変えていこうとする者達と、既得権益の中で生きる者達との違いを明確に見せつける。これが終盤で意味を持ってくるのだが、ここから先は観てのお楽しみ。

D-WARS

2008-11-29 | 映画の感想 英数字
◆大昔、良いツチノコと悪いツチノコが、大きくなったらどちらが龍になるかで喧嘩をしました。決着がつかなかったので、ツチノコが龍になるための秘密を人間界に隠しました。おかげで、なんの関係もない人間がツチノコの喧嘩に巻き込まれ、何百人も命を落としました。人間達はツチノコのせいでひどい迷惑を被りましたが、ツチノコはお詫びの一つも言いませんでした。


◆ショボい。爬虫類のCGに病的な愛着がある人間でも、こんなショボい話を90分も見せられたらゲンナリするだろう。


 "D-WARS"というのは、どうやら"DRAGON WARS"のつもりらしい。私は「ツチノコ大戦争」と命名しようかと思ったが、あまりにもショボいので、「ツチノコの喧嘩」と呼ぶことにした。2008年に劇場で見た全ての映像の中で、最もくだらないシロモノ。これに比べれば、予告編の前に流れる東京ガスのCMの方がよっぽど芸術的でスペクタクルだ。これは韓国映画だが、そもそも韓国の映画人には、この種のSFを作る能力はカケラほどもないのだ。『グエムル』もひどい駄作だったが、本作には貶す価値すらない。ただただ「早く終わってくれ」と祈るばかりだった。自虐症の末期患者以外には到底耐えられないシロモノ。

NEXT

2008-11-24 | 映画の感想 英数字
◆ベガスで働く二流のマジシャン、芸名はフランク・キャデラック。本名はクリス・ジョンソン(ニコラス・ケイジ)、彼のショーは、手品師としての訓練と、彼の持つ特殊能力で成り立っていた。自分に関わることだけに限り、現在から2分先までの範囲で、クリスは自由に未来を視る能力を持っていた。彼はその能力のせいで子供時代からモルモットのように扱われ、嫌な思いをくり返していた。今では能力のことを誰にも告げず、マジックショーで小出しに使うだけ。時にはカジノで小金を稼ぐこともあったが、決して目立たず、イカサマだと疑われない程度のささやかな勝ち方しかしていないつもりだった。だが、優秀なカジノのセキュリティに目をつけられ、監視対象にされていた。能力を使い、カジノでの強盗事件を未然に防いだことから、クリスはカジノのセキュリティに追われるハメになる。だが、カジノのセキュリティ以外にも二つの組織がクリスを監視していた。
 一つは、テロリストが持ち込んだ核兵器回収のためにクリスの能力を利用しようとするFBIの、フェリス捜査官(ジュリアン・ムーア)のチーム。もう一つは、FBIの動きを監視していた、当のテロ組織。だが、クリスはFBIに関わるつもりは毛頭無かったし、テロリストから抹殺対象にされていることも知らなかった。クリスの唯一の関心事は、生まれて初めて視た未来の映像。2分先までしか視えないはずの彼が視たのは、いつとも知れない未来の日にダイナーを訪れる一人の女性だった。分かっているのは、女性の顔とダイナーの場所と、8時9分という時間だけ。その彼女に運命的な出会いを感じ、どうしても彼女に会いたいと願うクリス。一週間、毎朝8時9分と毎晩8時9分にダイナーに通い続け、ようやくクリスは運命の女性、リズ(ジェシカ・ビール)に出会った。この運命の出会いは、二人に新たな変化をもたらすことになった。平凡な教師だったリズは、クリスをおびき出すための餌としてテロリストの人質に。そしてクリスは、2分という限界を超えてリズの未来が視えるように。


◆なかなか面白かった。ニコラス・ケイジの主演作というと、近年のものでは『ナショナル・トレジャー』の一作目と『ゴーストライダー』しか私は観ていない。『ナショナル・トレジャー』は子供騙しだったし、『ゴーストライダー』はただの漫画だったので、この映画も劇場では観る気になれなかった。ちょっと空き時間が出来たので、ダメもとでDVDでチェックしてみたのだが、畳みかけるような展開で進むアクションと、トリッキーな設定の組み合わせは面白い。デンゼル・ワシントンの『デジャヴ』などもアイデアの勝利といえる映画だったが、この映画もアイデアと脚本の出来が良くて、ツッコミドコロ満載。私は十分に楽しめた。ジェシカ・ビール(82年生まれでまだ26才)は『ブレイド3』や『ステルス』の時よりも綺麗になっているし、ニコラス・ケイジはしっかり増毛したようで、かなり若々しくなっている。カメオ出演だが、とぼけた役で出演しているピーター・フォークも懐かしい顔だ。


 さて、映画自体を楽しんだ上で、文句ではなく娯楽として重箱ツツキストの本領を発揮したい。運命の女性であるリズと出会ったことで、自分だけではなくリズの未来も視えるという設定は良しとしよう。「2分先までの未来」という制限を、限定付きで一部取っ払ったことも良しとしよう。だがそれでも、物語には大きな穴が存在する。


 まず第一にFBI。カジノのセキュリティがイカサマの疑いをかける程度の人間が、わざわざFBIから目をつけられるはずはない。当然、FBIはクリスの子供時代の記録から彼を利用しようとしたことになるわけだが、その時点ではクリスに二分までの未来しか視えない事を知っていたことになる。たった2分先の未来が視えたところで、それでは利用のしようがない。わずか2分で出来ることはとてもとても限られている。120秒以下で事態に対処するためには、常にテロリストのほぼ目の前にいる必要があるし、目の前にいるならそもそも、クリスの能力を使ってテロリストを探す必要など無い。


 テロリストは、FBIの動きを監視して、そこから「FBIは未来が視えるクリスを利用して自分たちを追っているから、捕まる前にクリスを殺そう」という理由で行動している。テロリストがFBIの捜査対象者に接触して捜査内容を知ることは可能だろうし、FBIの意図を知る事にも意味はあるだろう。ただし、テロリストがFBIの上部に内通者でも抱えていない限り、大がかりな監視体制を敷くだけの人員と、自分たちが捕まる大きなリスクを覚悟しなければならない。すでに核兵器を持っているテロリストが、2分先までしか見えない男を組織全体の命運をかけてまで追う必要があるだろうか。また、リズを人質にした時点では、リズはクリスの未来視が2分までだと聞かされているので、それ以上の情報をテロリストに伝えることは出来ない。リズとの出会いに際しては、人生でただ一度だけ2分以上の未来視をしたことになるが、そんな不確かな情報を元に狙撃手を配置しても狙撃は成功しない。なぜなら、クリスが狙撃可能地点にいるなら、少なくとも2分前には、狙撃手がいつ、どこにいるのかが正確に分かるので、そもそも狙撃が成功しないからだ。ついでに言うと、一瞬先の未来を視て狙撃の弾道をよけられる相手に長距離狙撃を仕掛けることはナンセンスだ。つまり、テロリストがクリスの能力を信じるのなら狙撃はしないはずだし、能力を信じないなら、そもそもリズを人質にした罠自体が成立しない。ハードSFや、魔法もののファンタジー(極めて論理的な、というより論理に縛られているものが多い)に慣れている人間にとって、この映画はツッコミドコロ満載な楽しい作品だ。怒りながらではなく、楽しく笑いながら地獄突きを連発しよう。

1408

2008-11-23 | 映画の感想 英数字
◆マイク・エンズリン(ジョン・キューザック)は、幽霊屋敷や幽霊が出るという灯台や古城を巡り、適当な体験談をデッチあげて本にしている作家。かつては純粋に文学を志したものの成功せず、心霊体験談を書いてそこそこ成功してはいるが、本人は神も幽霊も信じてはいない。次のネタに困っていたエンズリンは、ふとしたことからニューヨークのドルフィンホテルのことを知る。そのホテルの1408号室では、過去に大勢の宿泊客が自殺しているという。早速1408号室への宿泊を申し込むエンズリンだったが、ホテル側はすげなく拒否。ドルフィンホテルは、怪異の続く1408号室へは誰も泊めないことで「自衛」していた。ネタになると踏んだエンズリンは出版社の顧問弁護士に相談し、空き室への宿泊希望を拒否することは差別を禁じた連邦法に抵触するとして、強硬にホテルへ乗り込む。ホテルでは、支配人のオリン(サミュエル・L・ジャクソン)はエンズリンを支配人室と招き入れ、宿泊を断念するようにと説得する。1408号室で1時間以上耐えられた人間はいない。エンズリンが調べ上げた「自殺者」は1408号室の被害者の一部に過ぎず、事件として報道されなかっただけで、22人が自然死として処理されている、と。


◆スティーヴン・キングの短編「1408号室」を映画化。映画用に挿入されたエピソードや数字の改変はあるが、基本的には原作の骨子に忠実で、しかも原作以上に怖い。私はすれっからしのホラー・ファンであり、怖いものが大好きという人間だが、この映画は真面目に怖かった。映画自体は素晴らしい出来だが、ホラー系があまり得意でないという方には全然お薦めしない。デリケートな人なら、見た晩は悪夢にうなされそうな怖さだ。


 この映画は、「奇怪なことが起こるホテルの一室で一夜を過ごす」というだけの物語で、ほとんどの場面はホテルの一室だけで進行していく。キングの原作ではエンズリンは精神的に追い詰められていくだけなのだが、映画では視覚的な要素をフルに活用して、ド派手に観客を脅かし、怯えさせてくれる。その派手さには賛否両論あるかもしれないが、キングの原作通りに作っていたら、100分ほどの映画の半分にも満たないところで物語が尽きてしまうだろう。エンズリンの妻リリー(メアリー・マコーマック)と、誰もが思わず守ってあげたくなる娘のケイティ(ジャスミン・ジェシカ・アンソニー)のエピソードを盛り込み、エンズリン自身の必死の脱出行を描くことで物語を膨らませていいる。また、原作には描かれていない、過去の宿泊客がなぜ自殺しなければならないほど追い込まれ絶望したのか、その理由もきちんと描かれている。ラストも、原作の形を踏襲しつつも違う形になっており、原作の読者にとっても予定調和で終わらない。
 私が観に行ったのは公開二日目の日曜日、14時の回。三連休の中日とあってシネコンは混んでいた。驚いたことに、観客の入りは8割強。キング作品には根強いファンが多いのだろう。


 そう、スティーヴン・キングには熱狂的なファンが多い。私自身もキングは好きな作家の一人だが、彼の作品の全てが好きなわけではない。たとえば私にとって、この映画の原作「1408号室」は、小説としてはつまらない、乗れない短編だった。その短編をここまで面白く、そして怖く映画化したことには拍手を送りたい。
 キングの熱狂的なファンの中には、キングの作品であれば全てが最高だと固く信じている狂信的な信者もいる。彼らは、キングの全ての良さを理解できる自分だけが特別な才能を持つ選ばれた存在であると確信しており、キング作品の映画化は常に小説以下の出来だと信じて疑わない。そのこと自体は個人の主観だから全く構わない。事実、その通りかもしれないんだから。また、キング自身が出来を酷評していたキューブリック監督の『シャイニング』を映画化されたキング作品の最高峰だと絶賛していたりもする。キング自身よりもキング作品を理解しているというわけだが、それも別に構わない。何をどう思おうと、それは純粋に個人の自由なのだから。キング作品が「そこそこ」好きな私は、彼らに批判的なのではなく、実は彼らに興味があるのだ。私には彼らこそが、キング作品に登場する「狂気に支配された人々」そのものに思える。狂気は、意外と身近なところに潜んでいるものだ。

X-FILE 真実を求めて

2008-11-07 | 映画の感想 英数字
これはX-FILEじゃないなぁ。
心霊能力を持った神父が出てきたり、猟奇的な事件が起こったりするし、一応それらはリンクしてもいる。でも、何もかもがチグハグでつまらない。
X-FILEという看板を諦めて眺めてみても、刑事物にもオカルトにもSFにもなっていない。途中で席を立つか、居眠りでもしたくなるような退屈な話だった。
作り手側が何をどう勘違いしたのか想像もつかないが、説明もなく思わせぶりなセリフばかりを並べられても退屈なだけだし、ただの一ヶ所も盛り上がるところがなかった。


この映画の感想を一言で言えば、「無意味」。


私が観に行ったのは公開初日の金曜日、18時30分の回。シネコンの150人入る筺で、観客は私を含めて8人。宣伝不足が祟ったのかもしれないが、映画の内容を考えると、どうやら上映打ち切りまでこのペースで終わりそうだ。