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   Farsideの過去ログ。

ドゥームズデイ

2009-12-30 | 映画の感想 た行
◆2008年、グラスゴーで極めて致死性の高いウィルスが発生し、イギリス政府は発生地区を含むスコットランド全域を隔離、高さ9メートルの鋼鉄の障壁を巡らし、脱出しようとするものは無差別に射殺することで完全に封鎖した。食料や医療援助はもちろん、外部からは何一つ支援を行わず、隔離された人々が死滅することを願って。隔離は成功したが、イギリスは世界中から非難を受け、経済も壊滅的な打撃を受けていた。


 2035年、ロンドンで同じウィルスが発生する。政府はまた、隔離による封じ込めでウィルスを死滅させようとするが、場所は経済の中心地ロンドン、対象は1200万人に及ぶ。ただ封鎖して人間ごと死滅させるだけでは事は済まない。隔離に反対する保安部のネルソン長官(ボブ・ホスキンス)は、首相から思わぬことを聞かされる。監視衛星からの報告によると、生存者ゼロと思われていた最初の隔離地区には、3年前から生存者の存在が確認されているという。隔離地区に取り残されたケイン博士(マルコム・マクダウェル)が抗ウィルス剤を開発したものと確信した政府は、かつて見捨てた地に科学者と軍人からなるチームを送り込み、抗ウィルス剤の確保を試みる。チームのリーダー、エデン・シンクレア(ローナ・ミトラ)は、幼い日に隔離地区に母を残したまま連れ出された過去を持っていた。チームに与えられた時間は48時間。


◆始めに警告しておくが、ニール・マーシャル監督作品だけに、一筋縄ではいかないおどろおどろしさがある。低予算だった一作目の『ドッグソルジャー』はともかく、二作目の『ディセント』は絶望を絵に描いて額に入れたような、完成度の高い恐怖映画だった。私はスジガネ入りのホラー映画大好き人間だが、『ディセント』の絶望感だけは、二度味わいたいとは思わない。三作目である本作も、違う系統の圧迫感で観る者を圧迫する。おもに、エグイ部分で。それを承知で観る方以外は途中で厳しいことになるかもしれないので、それ相応のお覚悟を。


 物語は、『ニューヨーク1997』『サイレントヒル』『マッドマックス2』『エイリアン2』などをはじめとする様々な映画のエッセンスをふんだんに盛り込みつつ、サービス精神てんこ盛り、エグイ描写もてんこ盛りで進む。私は「うわ~」と言いつつ、しっかり引き込まれて観てしまった。エグイ部分を除いて言えば、とても良く出来た映画だと思う。非情な世界観、隔離された地域の造形、最新型のテクノロジーから中世の剣戟までを上手に盛り込み、ノンストップで突き進む。ただし、ニール・マーシャル監督だけに、ラストは「をい、フツーそっちに行くかぁ!?」というエンディング。なので、爽快感は求めずに観るのが吉。


 本作の主人公、エデンを演じるローナ・ミトラは、『アンダーワールド・ビギンズ』で可愛くない姫を演じた女優さん。「セリーン(ケイト・ベッキンセール)に似ている」という設定だったので、確かに無理はあった。ただ本作では、非情に徹する強い戦士という役どころなので、女性的な柔らかさを感じさせないアクションで健闘している。ちなみに、装甲車を運転するリード伍長役は、『ディセント』でホリーを演じたノラ=ジェーン・ヌーン。


 さて、重箱ツツキストとして本作を観直してみると、それなりにツッコミドコロはある。いや、無きゃおかしいんだ、この場合。27年間衛星から監視されていた土地で、3年前まで生存者を確認できなかった、なんてことはあるはずがない。夜に火を焚いたら、それだけで空から見えるんだから。それに、イギリス全土、場合によっては世界全体が滅びるかもしれないという状況で、命運をかけた任務に僅か数人のチームを派遣するなんてことは、どこから見ても非現実的。スコットランド上空は飛行禁止空域という設定だが、それは政府が決めたことだから、政府が軍を派遣する際に航空機を使えないはずがない。航空機による迅速な調査を行い、戦車を目的地に空輸してしまえば済む。それなら目的地までは安全に行かれるし、火炎瓶や斧で暴徒が襲いかかっても痛くも痒くもない。他にも、27年経っても新品同様に使えちゃう数々の器材が物語の重要な要になっているのだが、どう考えてもそれはないぞ。そもそも、ウィルス感染に関する防疫処置が、途中から一切忘れられちゃってるところが.....。でも、そんなことどうでも良い映画なんである。

天使と悪魔

2009-12-26 | 映画の感想 た行
◆ローマ教皇(法王)死去。ヴァチカンでは枢機卿たちが集まり、新しい教皇の選出(コンクラーベ)が行われていた。同じ頃、欧州原子核研究機構では粒子加速器による反物質生成の実験が行われ、成功を収めていた。だが、生成された反物質は何者かによって奪われてしまう。


 ハーバード大学の象徴学者、ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)は、ヴァチカン警察からの訪問を受けていた。4人の枢機卿がヴァチカンから攫われ、スイス衛兵隊のもとに、脅迫文が送り付けられてきたという。今夜8時から1時間ごとに、枢機卿を一人、公開処刑する、と。送り主は、ヴァチカンの弾劾を避けて地下に潜った科学者たちを祖とする秘密結社、イルミナティ。協力を依頼されてヴァチカンへ飛んだラングドン教授は、そこで反物質生成に携わった科学者、ヴィットリア・ヴェトラ(アイェレット・ゾラー)と顔を合わせた。イルミナティは枢機卿の誘拐・処刑予告だけでなく、研究所から奪った反物質によって、ヴァチカンを地上から抹消すると予告していた。奪われた反物質は保存容器の中で磁力によって空間に保持され安定しているが、保管容器のバッテリーが切れれば容器と接触し、対消滅によって5キロトンの爆発を起こす。タイムリミットは12時間後、午前零時。


◆『ダヴィンチ・コード』に続き、ダン・ブラウンの原作をトム・ハンクス主演で映画化。往年の、そしてスジガネ入りのSFファンなら、「反物質」と聞いただけで「んなわけあるか!」とツッコミが出そうだが、1995年には映画にも登場する欧州原子核研究機構によって反水素の生成が確認されており、反物質そのものはSFではなく、現実のテーマとなっている。前作『ダヴィンチ・コード』を観た方はご存じだろうが、ダン・ブラウンの描く物語は確かに荒唐無稽だが、たたみ掛けるような展開のおかげでそれを感じさせない。


 イルミナティの犯行予告を受けて古文書に隠された謎を解いていくラングドンの活躍は、観客を唸らせる緻密な推理というよりは、かなり強引な展開にも思える。それは、私がキリスト教にまつわる必要な知識を持っていないからなのだろうが.....。この映画から知識を得ようとするとズッコケてしまうと思うが、純粋にエンタテイメントとして観る分には害はないだろうし、重厚な映像の厚みとハイテンポな展開で、一気に楽しく観られる映画だと思う。観終わった後、「骨子は前作と一緒か?」なんて思わなくもないが、それは言いっこ無し。


 このシリーズはもともと、宗教、特にカトリックに対する皮肉が根底にあるような気がする。私はカトリックだけでなく、キリスト教全般に偏見はないし、その信者の多くは尊敬できる立派な人たちだと思っている。ただ中には、出来れば避けて通りたいような「自称クリスチャン」もいるし、制度においてはキリスト教の精神に反するのではないかと思えるものもある。教皇というのもその一つ。教皇といえども、神に仕えることに変わりはないはず。一介の信者も教皇も、神の前では平等であるべきだろうと私は思う。人が人にひざまづくことを、はたして神は是とするのだろうか。私が狭量で現実を知らないのかもしれないが、もし会って話をするのなら、教皇よりも街の教会で道を説く神父さんを選ぶ。原作と映画はかなり違うそうだが、この映画で民衆を守ろうと命をかけるのはカトリック総本山に集まる枢機卿たち長老ではなく、より身分の低い秘書長(カメンルレンゴ)のパトリック・マッケンナ(ユアン・マクレガー)。そしてそのパトリックも.....。結局、神に一番近い(と称する)人々の集う地には、人の怨念が渦巻いていたことになる。この皮肉な結末を考えると、教会はこの映画に大反対したんじゃないかとすら思えてしまう。良くもまぁ、ロケの許可が下りたもんだ。

トランスポーター3

2009-08-21 | 映画の感想 た行
◆意に染まぬ仕事を蹴ったフランク(ジェイスン・ステイサム)は、おなじみのタルコニ警部とのんびり釣りを楽しんでいた。その夜、フランクの家の壁を突き破って黒のアウディが飛び込んで来た。ドライバーは、フランクの代わりに仕事を引き受けた知り合いのマルコム。事情も分からぬまま、重傷のマルコムを救急隊に引き渡したフランクは、アウディの中で気絶していた女に気づく。意識を取り戻した女は、腕にはめたゴツイブレスレットを見せて、こう説明した。「車から20m離れると爆発する」と。マルコムを乗せた救急車を止めようとするフランクの目の前で、救急車は爆発炎上。直後、マルコムは背後から襲われ、気を失ってしまう。目覚めた時、フランクの腕にも同じブレスレットがはめられていた。


◆これはもう、まるっきりダメだな。
 

 おなじみのヒット作、『トランスポーターシリーズ』の第三弾。制作は前二作同様リュック/ベッソンだが、監督はルイ・レテリエからオリヴィエ・メガトンに変わっている。前二作(『トランスポーター』『トランスポーター2』)が面白かっただけに期待していたのだが、これはどう見ても期待はずれ。まず、話に必然性がない。ご大層な爆弾ブレスレットを付けてまで、トランスポーターに女を運ばせる必然性がゼロ。他の部分も大穴だらけだ。今回フランクの[荷物]となる謎の女、ヴァレンティーナ役は、ナターリア・ルダコワ。物語のヒロインという役回りだが、これが魅力ゼロの厄介者で、感情移入のしようがない。シリーズを通じて登場するタルコニ警部(フランソワ・ベルレアン)などは良い役柄なのだが、いかんせん、出番がほとんど無い。しかも、物語の上での必然性が薄い。今回、狂気を孕んだ敵役のジョンソンを熱演するのはロバート・ネッパー。個性的な良い役者さんだが、与えられた役柄がひどい。元デルタフォースという設定らしいが、格闘は弱いしヒステリーだし、ヤク中の犯罪者と大差ない。これが鉄の統率を誇る組織のボスだとは、到底考えにくい設定なのだ。


 主人公のフランクはジェイスン・ステイサムの当たり役だが、前二作でのフランクは、悪党をバッタバッタとなぎ倒しても殺さない、という[正義の味方]だから観客は感情移入が出来たのだ。私の勘違いでなければ、本作の中でフランクがそれと知らずに殺した中には、ヴァレンティーナの救助を目的とした政府側の人間も含まれている。物語の展開上は「必要なこと」になっているが、悪党でない人間を殺すような物語の設定自体が問題なのだ。この映画は、[クールでストイックな運び屋のフランク・マーティン]という人物像をぶち壊しにしてしまっている。もし、前二作の『トランスポーター』のファンであるなら、本作は観ないことをお薦めしたい。後に残るのは消化不良な不快感だけだろう。期待して観に行っただけに、とても残念な映画。


トランスフォーマー リベンジ

2009-06-20 | 映画の感想 た行
◆オートボット(サイバトロン)とディセプティコン(デストロン)の激戦に巻き込まれ、サイバトロンと共に地球を守ったサム(シャイア・ラブーフ)は、そんなことなどすっかり忘れて、名門プリンストン大で楽しい大学生活の第一歩を踏み出そうとしていた。唯一の気がかりは、地元に残していくガールフレンドのミカエラ(ミーガン・フォックス)のこと。でも、遠距離恋愛も、チャット・デートで何とか乗り切れるはず.....。
 地球に残ったサイバトロン達は、米軍の対デストロン特殊部隊・NESTと共に、メカに偽装して隠れているデストロン掃討を行っていた。デストロンの脅威は順調に駆逐され、事態は終息していくかに見えた。だが、デストロン側は反撃の機会を狙いつつ、強大な力をもたらすある秘密を探し求めていた。そして今回も、戦いの焦点にはサムがいた。


◆物語的には「地球の命運を握る一人の少年がサイバトロンと共に戦い、命がけで平和を守りました」という話になる。物語の骨格は前作と全く同じで新しい部分はないが、3億ドルの巨費を投じて作られた続編は、凄まじい物量で画面を転げ回るアクションCG大作となった。いや、この破壊しまくりは本当に凄い。ド派手なメカのアクション、コミカルな笑い、ストレートなお色気、そして、子供には分からないブラックな笑いのてんこ盛り。多少長いシーンもあるが、コッテコテの150分で退屈はない。これに比べたら、『ターミネーター4』なんて地味なアクションである。(いや、『T4』だって、ターミネーター・シリーズだと思わなければ、そこそこ面白い映画なのだが)


 メカのCGやアクションに関しては、最新の技術と膨大な予算をつぎ込んだおかげで、他に類を見ないものになっている。現在のCG技術は生き物を描く領域にまでは至っていないが、メカを描くには十分な長足の進歩を遂げている。あとは、派手な実写部分を撮り、上手く合成する予算が取れるかどうかが勝負だが、その点もばっちり。
 サムの初めての愛車、いつもそばにいて彼らを守るバンブルビーを初め、メカ達は前作以上にコミカルで人間臭くなった。喧嘩もすれば宗旨替えもありで、サイバトロン・デストロン共に、十分観客を笑わせてくれる。サムの恋人のミカエラはセクシー度を増し、プリンストン大では、これまたセクシーなアリス(イザベル・ルーカス)に強引に迫られる。恋と誤解とハラハラはもちろん、家族愛まで盛り込む作りは密度が高い。しかし何よりも、大人だけに分かるブラックな笑いが凄い。


 米軍であるNESTとサイバトロンが、隠れ潜んでいたデストロンを追って上海に乗り込み、破壊の限りを尽くす。パトカーを踏みつぶし、マシンガンをぶっ放し、ロケット弾を撃ちまくる。どんなに少なく見積もっても100人ぐらいは中国人の死者が出ているはずだが、それはガス爆発として処理され、報道されない。アメリカでの戦闘は、沈められた空母や軍艦まで含めれば軽く1万人は死んでいるだろう。街中が破壊されても死者や怪我人は一人も写さないというのがこの種の映画の鉄則で、この映画もそのあたりはきちんと守っている。NESTの兵士以外に死者をあからさまに描くことはしないのだが、唯一の例外が冒頭の上海のシーン。「おいおい、中国人だったら踏みつぶしてもいいのか?」と、思わず突っ込みを入れそうになった。他にも世界各地の名所旧跡を破壊しまくるこの映画、ぶっ壊し系としては爽快、かつブラックな大作である。二度観る気にはならないが、頭を空っぽにして楽しむにはいい映画だろう。


 おそらくはかなりな興行成績を上げるであろうこの映画、筋立て的にもきちんと続編を意識しているし、主人公のサムを「運命の男」として中心に据えているので、次回作もシャイア・ラブーフ主演で映画化されることだろう。ただ、二作目でこれだけド派手にやってしまった以上、スケールアップのみで三作目につなげることは難しいだろう。次回作は、かなりヒネリの入った脚本にして欲しいところだ。

ターミネーター4

2009-06-06 | 映画の感想 た行
◆2003年。死刑囚マーカス・ライト(サム・ワーシントン)は罪を悔い、自らの死を受け入れていた。サイバーダイン社の科学者セレーナ(ヘレナ・ボナム・カーター)は、処刑が間近に迫ったマーカスの元をたびたび訪れ、彼に献体の依頼をくり返す。断り続けていたマーカスだったが、最後には献体の契約書にサインをし、直後に刑が執行された。


 2018年。スカイネットに支配された世界で、僅かに生き残った人類は抵抗軍を組織し、苦しい戦いを続けていた。その中に、部隊長として最前線で戦うジョン・コナー(クリスチャン・ベール)の姿があった。スカイネットの拠点を襲撃してデータの奪取に成功したコナーは、そこに思いがけない情報を発見する。ジョンの母親、サラ・コナーの元に時を越えて送り込まれるはずのT-800の開発が最終段階にあること。そして、スカイネットの抹殺リストの二番目に自分の名前があること。リストのトップは、サラを救うべく過去に送り込まれるはずのカイル・リース(アントン・イェルチン)だった。コナーはカイル達の保護を司令部に進言するが、スカイネットの過去への干渉を信じていない司令部は取り合おうとしない。


 同じ頃、コナー達の部隊に破壊された基地の残骸から、一人の男が這い出す。それは、15年前に処刑された時と寸分変わらぬ姿のマーカスだった。この世界のことを何も知らないマーカスは、無人の街で口のきけない少女(ジェイダグレイス・ベリー)と二人きりで生き延びていたカイルと出会い、行動を共にする。だが、スカイネットの人間捕獲マシンにカイルと少女を連れ去られてしまう。二人を救出するため、マーカスはスカイネットの本拠地を目指す。


◆現在の技術でターミネーターを見られるのは、なかなか感慨深かった。私は第一作目からリアルタイムで見ているので、このネタをどう料理して続編にするのか非常に興味があったが、まさかこんな形で映画化してくるとは思わなかった。それにしても、第一作目を見ていない人にとっては私の書いた粗筋はチンプンカンプンだろうし、映画を観ても非常に分かりづらいだろう。『ターミネーター』シリーズがどういうものだか知らない人は観に行っても無駄だと思うので、第一作目をDVDでチェックしてから劇場に行かれることをお薦めする。


 この映画は、非常に良くできたCGでそれなりのポイントを稼いでいる。ジョン・コナーを演じたクリスチャン・ベールだけではなく、マーカスを演じたサム・ワーシントン、カイルを演じたアントン・イェルチンのパートも不可分に重要だし、どれも良いキャラクターだと思う。マーカスと行動を共にする抵抗軍のパイロット、ブレア(ムーン・ブラッドグッド)とのパートも良かった。常に第一線で戦い、密かに救世主として人望を集めているコナーと、サラの話を信じようとせず、スカイネットに所在を知られないように潜水艦で移動し続け、戦闘には参加しない司令官(マイケル・アイアンサイド)との温度差を描いたのも、話が平坦にならなくて良いだろう。ただ、話は穴だらけでツッコミドコロ満載.....。


 マーカスがカイルに、「今は何年だ?」と聞いたり、ターミネーターを指して「あれは何だ?」と聞いたりするわけだが、カイルはそのことに何の疑問も持たずに説明を始める。核戦争を経験し、スカイネットによる人類抹殺が完了しかけている世界で、普通の人間が現状を知らずに生きているとは考えにくい。冷凍睡眠が一般的だというのでも無い限り、「何言ってるんだ?」と聞き返すのが普通だろう。生まれて初めて車を運転する人間が、遙かに機動性の高いマシンを相手にカーチェイスなんて出来るのか? 世界を救う英雄であるはずのジョン・コナーは、味方を攻撃して殺そうとするわけだし、そのことを反省もしない。スカイネットの陰謀に至っては、全てが100%運任せで、成功する可能性は限りなくゼロに近い。それこそ天文学的確率だ。新型ターミネーターの必然性はゼロだし、何のお膳立てもプログラムも無しに、こんな複雑な因果関係が成立するはずはない。あげていくとネタバレになってしまうのでこれ以上は触れないが、要するに全てがご都合主義で、話が噛み合っていない。ストーリーは無いも同じだ。


 私が観に行ったのは、先行上映の12時の回。客層は、この種の映画としてはかなり年代が高く、一人で来ているお客さんが多かった。これは私の想像だが、第一作目から『ターミネーター』を観て来た人も少なくないんじゃないだろうか。この映画を観て肩すかしだと感じた人もいると思う。どうせ続編を作るんだったら、1/4世紀前の第一作目がそうだったように、語り継がれるB級映画にして欲しかった。伝え聞くところによれば、本作の興行成績が良ければ『ターミネーター5』の製作も視野に入れているとか。もし実現するのであれば、次は真面目に脚本から考えて貰いたいものだ。

デトロイト・メタル・シティ

2009-05-17 | 映画の感想 た行
◆のどかな農村に生まれ育ち、牛と仲良しの根岸崇一(松山ケンイチ)は、実家を離れて東京の大学に進み、おしゃれでポップなミュージシャンになることを夢見ていた。カヒミ・カリィが好きで、甘いラブソングを愛する彼は、おそるおそる小さな音楽事務所のドアを叩いた.....。


 そして今、根岸はインディーズながらCDデビューも果たし、熱狂的なファンに囲まれる日々を送っていた。ちょっと予定と違うのは、ソロじゃなくてグループでデビューしたこと。素顔じゃなくて、凝ったビジュアルだったこと。そして、キャンディポップじゃなく、悪魔系デスメタルをやらされたこと。事務所の名前はデスレコーズ、女社長(松雪泰子)はデスメタル命のサディスト。バンド名はデトロイト・メタル・シティ、通称DMC。根岸はDMCの象徴であるカリスマ、ヨハネ・クラウザーⅡ世として、地獄の底から吹き出すような呪い文句を爆音デスメタルのリズムに乗せてがなり続ける。んが、ちっとも幸せじゃぁなかった。アコギを持って、甘く優しいラブソングを歌いたい。そんな根岸にとって、DMCはそれこそ地獄。でも、彼の苦悩とは裏腹に、DMCは爆発的にブレイクしてしまう。社長はデスメタルをやめさせてくれないし、DMCのベース、アレクサンダー・ジャギこと和田君(細田よしひこ)も、ドラムスのカミュこと西田君(ロバートの秋山竜次)も、DMCに大満足。


 そんなとき、根岸は大学のサークルで一緒だった相川由利(加藤ローサ)と再会する。由利に密かなあこがれを抱いていた根岸は、自分が由利の大嫌いなDMCのクラウザーだと言えぬまま、悶々とした日々を送るのだが.....。


◆104分、何も考えずに楽しめる、キュートでユルいコメディ。私は大いに楽しんだ。

 劇場公開当時、私はこの映画を観に行くつもりはなかった。松山ケンイチの出演作では、『リンダ リンダ リンダ』『NANA』『男たちの大和』『親指さがし』『椿三十郎』は観ていたが、主役ではなかったし、なんだか冴えない役者だと思っていた。ところが、TVで偶然『デスノート the last name』を一部だけ見て、「え、これが松山ケンイチ?」と不思議に思った。そして、私の中では実写映画化が絶対に不可能だと思われた『カムイ外伝』の予告編で、松山ケンイチが、あれだけ顔立ちが違うにもかかわらずカムイになりきっているのを見て、「こいつ、いけるかも」と思ってしまった。今までもらっていた役がつまらなかっただけで、本来の彼は演技派なんじゃないかと思ったのだ。『カムイ外伝』は絶対観に行くつもりなので、その前に松山ケンイチの主演作を一本観ておこうと思って手に取ったDVDが本作、『デトロイト・メタル・シティ』。いや、これは大正解だった。


 「ギャグの三池崇史」が、持てる才能の全てを余すことなく注ぎ込んだ映画『ヤッターマン』は、隅から隅まで圧縮したギャグが詰め込まれた高圧コメディだったが、本作『デトロイト・メタル・シティ』は、常温常圧のギャグがすんなり詰まった1気圧のコメディ。腹筋攣るほど爆笑はしないが、とても楽しい映画だと思う。
 この映画には、それなりに面白い役者さん達がたくさん登場する。DMCの熱烈なファン役で大倉孝二、岡田義徳。根岸の母親役に宮崎由子、弟役に加藤諒。根岸に感化されて歌の道を目指す大学の後輩、佐治君役に「怪奇大家族」の高橋一生。由利にちょっかいを出す売れっ子プロデューサー、アサトヒデタカ役に鈴木一真。対バンの金玉ガールズのヴォーカル、ニナ役に美波。ところがみんな、添え物的な扱い。主眼はあくまでも松山ケンイチ演ずる根岸崇一であり、ヨハネ・クラウザーⅡ世なのだ。笑いのてんこ盛りを狙わず、ユルい笑いの中に様々なほのぼの系のメッセージを織り込んで暖かい笑いに仕上げてあるあたり、私はとても好感を持った。


 キャストについては、声を特大にして語らねばならぬことがある。実際に観てみるまで知らなかったのだが、映画の中に登場するデスメタルの神様、ジャック・イル・ダークは、本物の、本物のジーン・シモンズだ。あの「デトロイト・ロック・シティ」のKISS、元祖イロモノであるKISSのジーン・シモンズである。素顔での映画出演は何作かあったと思うが、まさかこの時代にジーン・シモンズを、それも邦画で見られるとは思わなかった。私はもう、画面に向かって手を合わせそうになったぞ。出来れば、ロブ・ハルフォードにも出て欲しかった.....。

 この映画は、結構売れている原作コミックがあるらしいのだが、私は原作を読んでいないし、予備知識無しで観ても十二分に楽しめる。興味のある方なら、観て損はない逸品だと思う。

ドラゴンキングダム

2009-04-12 | 映画の感想 た行
◆物語は、ハリウッドの空手・カンフーものの定番となった感のある、「冴えない若者がカンフーを身につけていじめっ子を見返す」というパターンの映画。ただし、過去にタイムスリップして、武道の達人に技を習い、孫悟空を助けて悪者の将軍を倒すという筋立てがちゃんとあり、きちんとひねりが入った物語になっている。


 この映画を見る人の多くは、ジャッキー・チェンとジェット・リーという、カンフー界の二大スターの競演を楽しみにしていると思う。エイリアンとプレデターが戦ったり、ジェイソンとフレディが戦ったり、そのジャンルの二大キャラクターを同じ画面に登場させる映画は珍しくない。ただしそれは、そのキャラクター、シリーズの人気が下火になってきたときに良くやる手法だ。この映画はそういう人気低迷キャラの合体番ではなく、二大スターの夢の共演。往年のカンフーファンにはたまらない組み合わせだと思う。出来ればあと15年早く実現して欲しかったとも思うが、老いたランボーを老け込んだターミネーターが助けに来るような映画にはなっていないので、どうかご安心あれ。


 ジャッキー・チェンは、ここ数年はカンフーアクションも(1954年生まれという年齢的なことを考えれば当たり前のことだが)往年の切れ味をなくし、踏ん張りのきかないワイヤーアクションや、カンフー以外の部分が目立つ作品が増えた。香港時代の、観客が絶対に特撮だと思うようなすごいアクションを生身でこなしていた頃と比べると、「ジャッキーもいい年なんだなぁ」と、少し寂しく思う部分もある。もちろん悪い意味ではなく、師匠役に違和感のない年齢になったということだ。映画の中のヒーローは、撮影されたときのままで、いつまでたっても年をとらない。だからなんとなく、ジャッキーはいつまでも若々しいままのような気がしてしまう。本作では、あの人なつっこい笑顔で、弟子を導く師匠役に徹している。年代の近いスティーヴン・セガール(19561年生まれ)などは、相変わらず主役で映画を撮っているが、元のアクションがユルい上に吹き替えを多用している。それを考えたら、あの年でこれだけのアクションをこなすジャッキー・チェンは見事なものだ。


 年齢的に大分下のジェット・リー(1963年生まれ)は、リー・リンチェイと呼ばれていた頃の精悍で厳しい表情から、思慮深い表情へと変わっている。ただのアクションスターではなく、悪役やダークな部分の強い役もこなしているので、役者的な成長も大きいのだろう。アクションパートはジャッキーよりも多く、その意味では(ハリウッド的にはともかく)事実上の主役なのだが、こちらも『少林寺』で見せた超絶級の切れはない。やはり、それなりに落ち着いた役をやる年齢になっているのだ。


 ジャッキー・チェンとジェット・リーが出ている以上、名目場の主人公となっているジェイソン(マイケル・アンガラノ)は狂言回し的な役割でしかなく、これはやっぱり二人が主役の映画だと思う。ただ、ヒロインのゴールデン・スパロウを演じたリュウ・イーフェイがラストでもう一度出てくる演出はよかった。やっぱり、ジャッキーが出ている映画はハッピーエンドでなければいけないと思う。今年公開の映画『新宿インシデント』では、カンフーアクションを封印し、東京を舞台にドロドロのクライムストーリーを演じるらしいが、そういうのは似合うのかなぁ。個人的には思ってしまう。2004年の『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を観たときも、「ジャーッキーの映画にこんな暗い場面はいらない」なんて思ったぐらいだから、『新宿インシデント』は観たいと思わない。


 映画としてどうこう、というのはキッパリ忘れて、「ジャッキー・チェンとジェットリーが同じ映画に出てる!」と盛り上がれる、往年のファンにお薦めしたい。

ダークフロアーズ

2009-03-12 | 映画の感想 た行
◆改修工事が済み、無機的なほど白く明るい、病院の8階フロア。幼い娘、サラ(スカイ・ベネット)の検査に立ち会う父親のベン(ノア・ハントリー)は、やり場のない怒りを抱えていた。意味不明のことを呟きながら怯えて泣くばかりの娘を目の当たりにしても、何もしてやれない自分に。そして、一向に診断のつかない病院の対応に。娘を他の病院に連れて行こうと決心したベンは、車椅子を押してエレベーターに乗り込む。転院を思いとどまらせようとする病院スタッフのエミリー(ドミニク・マクエリゴット)の言葉を聞き流しながら一階へと向かうが、エレベーターは6階と7階の途中で止まってしまった。同乗していたのは、警備員のリック、みすぼらしい老人のトビアス、自分勝手なサラリーマンのジョン。6人を載せたエレベーターは程なく動き出したが、6階で降りた彼らが見たのは、患者も病院スタッフもいない無人のフロアだった。エレベーターはまともに動こうとせず、インターホンもおかしな声が返ってくるばかり。しかたなく非常階段で下へ降りようとする一行は、階下の闇から銃撃を受け、慌てて5階フロアに駆け込む。下へ向かうほど荒廃していく院内。電話も不通で外界から隔離された一行を不気味なモンスターが襲う。改修工事のために封鎖されたエリア、累々と横たわる死体、謎めいた言葉を口にするトビアス。時間の流れにも異常が起きていた。まるで、彼らだけが違う次元に滑り落ちてしまったかのように。


◆ピート・リスキ監督による80分ほどのホラー映画。なんでもこれは、フィンランド初のホラー映画なんだとか。ほんまかいな.....。映画の中に出てくるモンスター達は、LORDIというコスプレ系ロックバンドのメンバー。私は知らなかったが、おどろおどろしい特殊メイクを施した彼らは人気のバンドであるらしい。


 さて、「異空間へ落ち込んでしまった6人」という設定はなかなか良い。真っ白で光り輝くフロアから、放置された廃墟のようなフロアへと、階を降りるごとに変化していく造形も良く出来ている。LORDIの面々も悪くない。国際市場を狙ったためなのかも知れないが、あえて国や都市を明確に設定せず、どことも知れぬ街の病院を舞台にしたのもいいだろう。いい雰囲気で進行するホラーなのだが、観終わったときに消化不良な感じが残る。 問題は、「何でこうなったの?」「結局どうなるの?」という二つの疑問に答えがないことだ。


 「何でこうなったの?」の部分には、具体的な説明はない。トビアス老人の曖昧な言葉から、モンスターがサラを求めているらしいことは分かるのだが、時間の流れの狂い方や、モンスターの正体については何も説明がない。種類は違うが、時間の流れを扱ったホラー、スティーヴン・キングの『ランゴリアーズ』は、現在の時間から「終わってしまった時間」へと落ち込んでしまった人々の体験を描く秀逸なアイデアだったし、物語に整合性があった。『ランゴリアーズ』と比べるのは確かに無謀なのだが、本作では時間の停止だけではなく、もっと複雑な、錯綜した時間の流れが描かれている。登場人物たちは、これが悪夢でも幻覚でもないことを確認しているので、魔法であるとか次元の迷路であるとか、なにがしかの説明的な描写がないと消化不良な感じが残る。


 「結局どうなるの?」の答えとしては、ラストに象徴的なカットがあるのだが、それも「単なる夢オチ」から「全員死亡のバッドエンド」まで、どんなふうにでも解釈できる曖昧なものだ。とらえようによってはパラレルワールドものとして捉えることもできる。前段の説明がなさすぎるために、観念的なラストシーンから何を汲み取ればいいのかが分からない。謎解きなどの細かいことを言わず、雰囲気だけでゴリゴリ押しまくる映画があってももちろん良いのだが、それならもっとホラーらしさを強調して、観客を怖がらせてくれないと。

ダークナイト

2009-01-17 | 映画の感想 た行
◆ゴッサムシティを席捲する犯罪の渦。内部に腐敗を抱えた警察だけではマフィアに対抗しきれず、バットマンの存在はこの街に不可欠だった。必要悪として生まれたバットマンの活躍は本来なら違法行為だが、警察にも事実上容認され、市民からはヒーローとして受け入れられていた。狂気の犯罪者ジョーカー(ヒース・レジャー)の出現と、腐敗と犯罪を許さない新任地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)の登場で、ゴッサムシティの不自然な膠着状態は大きく変わろうとしていた。
 ウェイン産業の総帥であり、バットマンでもあるブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は、「ゴッサムの光の騎士」と呼ばれるようになったデント検事に街を任せようと考え始めていた。だが、マフィアとジョーカーが結託し、事態は急変する。バットマンと共に犯罪者と戦ってきたゴードン警部補(ゲイリー・オールドマン)が凶弾に倒れ、ついに全面戦争が始まった。


◆バットマンの正伝である2005年の『バットマン ビギンズ』の正当な続編にして、全シリーズの中で最も出来の良い映画。物語の展開には全くと言っていいほど無駄が無く、各種造形や特撮も完璧。前作のラストにあったようなオモチャめいた部分もない。前作に続きクリストファー・ノーラン監督で、(レイチェル・ドーズ役はマギー・ギレンホールに変わっているものの)マイケル・ケインやモーガン・フリーマンら主要キャストもほぼ同じ。
 89年にティム・バートン監督で映画化された『バットマン』でジョーカーを怪演
したのはジャック・ニコルソン。本作で大御所の向こうを張ってジョーカーを演じたヒース・レジャーは、ニコルソンを越える鬼気迫る演技で大役をこなしている。これはもう、純粋な怪物。劇中の「悪役」に対して観客が抱く感情は、嫌悪感や、「こんな奴やっつけてしまえ」というものだろう。私だけかもしれないが、今回のジョーカーには、「完全に壊れてる」「異常だ」という感情が強かった。映画の悪役はたいてい精神的に壊れた異常な奴だし、他の映画に比べればジョーカーの犯罪はゲーム性の高い、遊びの部分が多い。シリアスさのない、それこそ漫画的な犯罪でありながら、ここまで観客を引かせてしまう演技力は大したものだと思う。社会病質人格のお手本のような演技だ。


 私はこの映画を傑作だと思うが、到底子供向きとは言えない。前作もあまり子供向けでは無かったが、この"THE DARK KNIGHT"は、非常に重く密度の高い物語になっている。大人であっても、お手軽な娯楽作が観たい方には不向きだろう。二次元のアメコミなら許される絵柄も、三次元の映像になると厳しい。物語のメインは、狂気に犯されたジョーカーの残忍な犯罪の数々。バットマンは、実力行使で悪を阻止はしても、人の命を奪うことはしない。善悪の境界線の「こちら側」にいるバットマンが、「あちら側」にいるジョーカーと同じ土俵で戦うことは最初からできない。この圧倒的に不利な戦いには爽快感はカケラもない。親しい仲間が倒れ、警察や市民さえも敵に回った中、誰に報われることもなく孤軍奮闘するバットマンの姿には悲壮感が漂う。そして物語は、犯罪者とヒーローの戦いではなく、人の心に棲む善と悪の戦いへとシフトしていく。この世に人が存在する限り決して終わることのない戦いを描く以上、ずっしりと重いものにしかならない。楽しいアクション映画を観てスカッとしたい方には、間違ってもお薦めしない。

沈黙の惑星

2008-12-28 | 映画の感想 た行
◆私は観た映画全ての感想を書くわけではない。観てつまらなかった映画についてはわざわざ感想を書いても時間の無駄だと思っているが、今回は他の方への警鐘の意味で一応書き記しておく。


 この映画は、人類の精神をテレパシーで支配できるメンダックスという宇宙人と人類が戦い、敗れた後の物語。以下、パーフェクトにネタバレ。


 全人類はメンダックスの支配下にあったが、一つだけ、メンダックスの支配を免れた惑星があった。その惑星に産出する特殊なクリスタルを身につけると、メンダックスの精神干渉を退けることが出来るため、人類は小さなコロニーを築き、細々と生き延びていた。 この惑星に送り込まれた人類の特殊部隊。彼らはメンダックスの洗脳を受け、偽の記憶を植え付けられていた。人類とメンダックスは今も戦争中であり、この惑星はメンダックスの拠点である。自分たちがそこにウィルスを散布すれば、メンダックスに大打撃を与え、戦況を逆転できる、と。偽の記憶に支配された彼らは、人類殲滅用のウィルスを惑星にバラまこうとするが、そこでコロニーの人間と出会い、自分たちが偽の記憶を植え付けられたクローン体であることを知る。そこで映画は終わりだ。


 アイデアとしては悪くない。ただ、こういう込み入った話をきちんと描き、「そうだったのか.....」と観客を驚かせるためには、きちんとしたミスリードの伏線を配置しておくことが必要不可欠だ。本作は一応「SF」を名乗っているが、作業服を着た人間が何人かと、毛皮らしきものを着た人間が何人か出てくるだけで、特殊部隊が持っているであろう一般的な装備は何一つ無い。もの凄い低予算映画で、映画研究会の自主制作と比べても見劣りがする。あまりにも予算が無くて、無線機やヘルメットのようなものを用意できなかったのは分かる。でも、水筒ぐらいは準備できたはずだ。100年前も100年後も、水筒の外見や機能にはほとんど差がないんだから。たとえ緊急脱出する場合でも、特殊部隊が未知の惑星にTシャツ一枚で降り立つことはない。水や携行食、最低限の武器、照明と連絡手段といった基本装備は、常に身につけているからだ。人類の命運を賭けた重大任務に就いているはずの彼らより、遠足に行く小学生の方がはるかに重装備だというのは、SFとしてのリアリティ、いや、映画としてのリアリティがゼロだ。これを映画と呼ぶことは、カスタネットをグランドピアノと呼ぶようなものだろう。

ダンテ 01

2008-12-28 | 映画の感想 た行
◆近未来。地球から遠く離れた惑星ダンテを巡る、企業所有の宇宙ステーション、ダンテ01。ステーションの乗組員は、脳にセンサーを埋め込まれた重罪犯の囚人と、彼らを使って精神科学の実験を行う科学者たちだった。処刑を免れるために「志願」して実験に参加している囚人たちは、実際は被検体という名のモルモットに過ぎなかった。
 連絡シャトルによってダンテ01に到着した女性科学者と一人の男。女性科学者のエリザは、ナノマシンによるDNA改造によって被験者の治療を行う新技術の実験台を求めていた。被験者として連れてこられた男は囚人ではなく、漂流中だった宇宙船の唯一の生存者で、名前も分からず口もきけなかった。ラスプーチン、ブッダ、アッティラ、モーロック、といったあだ名で呼ばれる囚人の中で、男は便宜上、聖ジョルジュと呼ばれる事になった。そして、この男には不思議な能力があった。囚人達の心を蝕む「悪」を取り出し、自らの中に取り込む力。そして、傷を治す力。心理学者のペルセポネはジョルジュの力を神の奇跡と見なすが、エリザも、ステーションの責任者であるシャロン司令官も取り合おうとはしなかった。エリザにはエリザの、そしてシャロンにはシャロンの隠された思惑があった。だが、それぞれの思惑は最悪の形で空回りを始める。


◆フランスのSFホラー映画。科学者三人と数名の保安要員、そして囚人達しか出てこない一種の密室劇。低予算の小品ながら、この宇宙ステーションの造形は秀逸で雰囲気バッチリ。85分という短い尺の映画で、途中までは良い感じでSFホラーとして進んでいくのだが.....。だんだんSFホラーからオカルトものへと変容していき、最後はセントジョージと龍の物語になぞらえたチンプンカンプンなお話になってしまう。前半が良かっただけに、非常に残念な作品。こんな終わり方をするのであれば、残念ながら観る価値はほとんど無い。キリスト教圏の人ならば、聖ジョルジュの役割をキリストになぞらえて、まだしも楽しめるのかも知れないが.....。一応、ステーションがダンテに向けて落下し始めるとか、二人しか乗れない連絡シャトルでの脱出劇があるとか、SFホラーやSFパニックものの要素は組み入れられているのだが、それは物語の本筋には絡んでこないし、緊迫感もない。何しろ、ステーションには奇跡を起こせる神の子がいるんだから、何が起きてもオーケーなのだ。SFホラーが観念的なオカルトに変質してしまうと、私あたりは全然楽しめない。SFホラーとして成立させたかったら、聖ジョルジュの役割は神の子ではなく、堕天使か悪魔(まぁ、同じものだが)という設定にしておかないと。


 まぁ、ホラーでもオカルトでもパニック映画でもかまわないのだが、異星・宇宙船・ステーションなどを舞台にした物語では、定番の流れがある。人間達が身を守るためにそこから脱出すること、そして、そこに巣くっている悪魔や幽霊・凶悪な宇宙生物・危険なウィルスなどの脅威を地球に持ち込まないように必死になる、という展開だ。
 この映画のように、「辺境の宇宙ステーションの囚人が改心して救われました、改心しなかった悪党は死にました」という物語にしたいのなら、物語の冒頭から全く別の展開にしないと成り立たない。

地球が静止する日

2008-12-19 | 映画の感想 た行
◆地球との衝突軌道を超高速で突進してきた球体。そのまま衝突すれば地球そのものが消滅する。なすすべもなく見守る軍と科学者達の前で、球体は一気に減速してニューヨークに「着地」した。軍と警察が厳重に包囲する中、その球体から地球の運命を握る使者が現れた。だが、包囲していた連中は命令もなく発砲し、使者に重傷を負わせてしまう。使者の肉体は人体をそっくりコピーして作られたものだったため、地球の医療技術によって治療が可能だった。
 何とか一命を取り留めた使者クラトゥ(キアヌ・リーブス)は、来訪の意図を告げた。地球を監視していた高度文明は、人類を「駆除」することで地球の生態系を守ろうと決定した。人類の駆除を差し止めるため、クラトゥは国連で各国政府の代表と話したいと要望するが、事態を自分たちだけで掌握したいと考えたアメリカ政府は国連にも各国政府にも一切情報を漏らさず、クラトゥを監禁して情報を聞き出そうとする。緊急招集されていた宇宙生物学者のヘレン・ベンソン(ジェニファー・コネリー)は、何とかクラトゥを逃がそうとする。


◆ひどく退屈だった。眠らないように眠らないようにと気をつけていたが、何度もウトウトしかけてしまった。予告編には一見の価値があるが、本編に予告編以上のものはない。


 街が消滅していくCGは見事だが、CGは物語を具現化するための手段であって、物語そのものではない。観客を引きつけるだけの物語がなければ、CGだけ綺麗でも意味はない。
 この映画は、「戦争や環境破壊を繰り返す愚かな人類への警鐘」という視点で描かれるべきものなのだが、残念ながらそうはなっていない。地球の命運がかかっている割には、話はアメリカ政府、それも大統領より下のレベルだけで進む。人類の愚かさではなく、アメリカ政府の近視眼的愚かさだけを見せつけられる。


 そしてもう一つ、ヘレンの息子、ジェイコブの役が悪い。ジェイコブを演ずるのは、ウィル・スミスの息子、ジェイデン・スミスで、演技自体はちゃんと出来ている。ただ、役柄の設定・脚本が悪いのだ。
 ヘレンにとってのジェイコブは結婚相手の連れ子で、血のつながりはない。そして、結婚一年でジェイコブの父は他界している。ようするに、白人の継母に育てられる黒人の子供という状況なのだが、このガキがひねくれ者で、継母に冷たくされているだの、パパだったらどうだのこうだのと、ありもしないことを言い続けて観客を不愉快にさせてくれる。この映画におけるジェイコブの役回りは、自分を思ってくれる母親と、人類、そして人類を救おうとするクラトゥの敵、というものだ。小さな子供に対して感情移入できず反感ばかりが湧くというのは、映画としては致命的だ。


 キアヌ・リーブスは、人間の体によく馴染んでいない異星人という役割を上手く演じている。1970年生まれのジェニファー・コネリーは、84年の『フェノミナ』、86年の『ラビリンス』あたりでは本当に可愛い少女だった。2005年の『ダーク・ウォーター』からみると少し痩せたようだが、本作(撮影当時37才)でもその美しさは健在。とっても綺麗な大人の女性だ。これからも、様々な映画でその姿を見せて欲しい女優さん。

デスレース

2008-11-29 | 映画の感想 た行
◆2012年、過去最高の失業率と凶悪犯罪の増加で荒廃が進むアメリカ。働いていた製鉄所の閉鎖で失業者となったエイムズ(ジェイソン・ステイサム)は、妻と幼い娘のいる我が家へと帰った。もともと楽ではなかった生活に今回の失業。落ち込むエイムズに妻は優しかった。家族さえいれば、他には何も要らない。そんなエイムズの目前で妻が殺され、彼は犯人として逮捕されてしまう。半年後、終身刑の判決を受けたエイムズは、重罪犯用の刑務所に移送された。


 収監者の爆発的な増加で刑務所の管理が破綻したため、政府は全ての刑務所を民間企業に委託し、受刑者に関する全権を委譲していた。企業は刑務所を「運営」して「利益」を上げることができる。重罪犯を多く収容する刑務所、ターミナル・アイランドでは、囚人のカーレースを有料で中継し、莫大な利益を上げていた。レースは、ターミナル・アイランド内の特設コースを三周するというシンプルなもの。1日1ステージ、3ステージで一つのレースが完了する。3日目にトップでゴールしたものが優勝者となり、5回優勝すれば刑務所から出る権利が与えられる。妨害は自由、武装も自由。勝つためにはまず、生き残ること。生き残るためには、殺される前に殺すこと。名称はデスレース。


 元レーサーの経歴を持つエイムズは、入所早々にターミナル・アイランドの絶対君主、ヘネシー所長(ジョアン・アレン)に呼び出され、4回優勝しているデスレースのスター、フランクの代役を命じられる。火傷を負った顔を鉄のマスクで隠したフランクは、デスレースのドル箱とも言える存在で"フランケンシュタイン"の名前で出走していたが、前回のレースで死亡していた。視聴者には入院中と発表しているが、このままフランケンシュタインが出場しなければ視聴者が減り、刑務所の利益は激減する。エイムズとフランクは体格も似通っており、マスクをかぶってしまえば代役は十分務まる。最初は出走を拒否したエイムズだったが、出所して娘に会いたい一心でフランクの代役を務めることに。だが、レースの中でエイムズは疑問を持った。妻が殺されたのは、フランクが死んだのと同じ半年前。妻の殺害とエイムズの収監は、デスレースの人気を維持するために仕組まれたものではないのか。


◆1975年にロジャー・コーマン制作、ポール・バーテル監督で映画化された『デスレース2000年』の、ヘヴィー級のリメイク。
 『デスレース2000年』はフランケンシュタインをデビッド・(コオロギ)・キャラダインが、マシンガン・ジョーをシルヴェスター・スタローンが演じた低予算アクションだった。ポール・バーテル監督は『キャノンボール』などの爆走ものも撮っているのでお鉢が回ってきたのだろうが、話に重みを持たせる能力はないので、「お馬鹿系」としてしか記憶に残らなかった。
 今回はポール・W・S・アンダーソン制作・監督で、ロジャー・コーマンも制作総指揮という形で名を連ねている。ほんとに元気なお爺ちゃんで、どうか100歳まで現役で映画作りに関わって欲しいものだと願っています。


 さて映画の内容だが、女の子には絶対お勧めしないが、「B級アクションとしては」なかなかのもの。「刑務所もの」の王道を押さえつつ、重量級の破壊レースと復讐劇を上手に重ね合わせてある。こういう映画では、観客が主人公に感情移入できるか出来ないかが成功・失敗の分かれ道になる。主人公のエイムズは、妻殺しの濡れ衣で終身刑にされ、娘を取り上げられた男。前科の有無はともかくとして、ターミナル・アイランドにおけるエイムズのポジションは、被害者であり、権力と戦う正義の味方。チームのメカニックのリーダーであるコーチ(イアン・マクシェーン)は、仮釈放が決まっているのに、社会復帰が怖くて刑務所に残っている男。罪は相殺済みだ。同チームのリスト(フレッド・コーラー)は気の弱いヲタクで、並み居る囚人の凶暴性とは対極の存在。エイムズのナビを勤めるケース(ナタリー・マルティネス)はDVの被害者で、夫から逃れるために罪を犯した女性。しかも、若き日のサルマ・ハエックを思わせる美貌の持ち主。バッチリ感情移入できる存在だ。エイムズが戦う囚人レーサー達は、死刑制度が廃止されたから生きているだけの、終身刑を何度も喰らった凶悪犯達。ただの犯罪者ではなく、犯罪を楽しむ異常者として描かれている。そういう連中が盛大にクラッシュしても、観客はちっとも同情しない。悪党代表のパチェンコ(マックス・ライアン)などは、観客に憎まれるような演出がてんこ盛り。そのあたりは徹底している。おかげで観客は、気持ちのもって行き所で迷うことは一度もない。


 1975年に作られた『デスレース2000年』は、ロスからニューヨークまで、無関係な一般人を殺して点数を稼ぎながら5000キロを走破するという内容だった。しかも、子供と老人をひき殺すと高得点が与えられるという、誰がどう考えても無茶苦茶なシステム。今回、そういう愚かな設定とは対極の「悪党を倒す」という形にしたのに伴い、映像も大きく変わっている。出てくるマシンは全部、黒一色。いささか区別がつきにくい場面もあるのだが、けばけばしい極彩色のオモチャマシンではなく、どっしりとした重量感があり、レースシーンにも迫力がある。かつてミニカーのぶつけっこをしていた男の子達には、生理的に訴えかけてくるものがあるだろう。


 1975年といえば、ノーマン・ジュイソン制作・監督、ジェイムズ・カーン主演の『ローラーボール』が公開された年。B級ファンにとっては記憶に残る映画だった。『デスレース2000年』にも同じ系統の批判が込められているものの、こちらはあくまでも過激なアクション優先だった。どちらもリアルタイムで見ているわけではないので詳しいことは分からないが、時代の空気が、煽動され作られた虚像への否定という風潮を持っていたのかもしれない。
 『ローラーボール』は、2001年にノーマン・ジュイソン制作、ジョン・マクティアナン監督でリメイクされたが、こちらは一作目の持っていた「重さ」を出すことが出来ずに失敗、記憶に残らない小品として終わった。この『デスレース』は、リメイク版の方が明らかに良い出来だ。ただ、いくつかの観点が落ちているような気がする。
 一つは、デスレースを成立させているのは、囚人レーサー達の殺し合いに熱狂する一般大衆だという点。ネットの向こうにいる観客の熱狂ぶりや、そこで当然のように行われているであろう賭けのシーンを描いたり、そういう観客に対してエイムズに「けったくそ悪いハイエナどもめ」と言わせるシーンが必要だと思う。
 もう一つは、デスレースというショーを盛り上げるために裏で画策するヘネシー所長に対して、「何もそこまでしなくても」という職員の存在があった方が良い。それに対して、「政府の補助金は年々減る一方。囚人で稼がなかったら、あんたの給料も出ないのよ」という台詞を言わせることだ。映画の大前提となる犯罪多発社会が間違っているのだと、どこかに描いておくべきだと思う。


 私が観に行ったのは、公開初日の土曜日、夜7時の回。シネコン側はそれなりの集客を見込んでいるらしく、いちばん大きな550席の筺をあてがっていた。肝心の観客は、私を含めて20人ほど。せいぜい4%の入りだ。最近の傾向を見ていると、土曜日よりも日曜日の方が映画館に来る人が多いようだが、それにしてもこの人数は厳しい。

ちーちゃんは悠久の向こう

2008-11-02 | 映画の感想 た行
◆歌島千草(仲里依紗)と久野悠斗(林遣都)は幼馴染み。同じ香奈菱高校に入学して、しかも同じクラス。今も互いを「ちーちゃん」「モンちゃん」と呼び合って、お昼はいつも、二人で屋上に行って食べるほどの仲良し。悠斗は弓道部に入り、美人の部長、2年の武藤先輩(高橋由真)がちょっとだけ気になる。ただ、口うるさい3年の先輩に目をつけられて、弓道部では前途多難な日々になりそうな予感。ふとしたことから武藤先輩との距離が縮まって、途中まで一緒に帰ったりする、青春真っ盛りに見える悠斗。だが、母は男を作って家を出て、家にいるのは酒に逃げるだけの父親一人。両親の離婚が目前に迫っていた。


 一方、小さな時から怖い話が大好きだった千草はオカルト研究会に入ったものの、その実態は漫研でガッカリ。ただ、偶然部室で「香奈菱高校七不思議ノート」を見つけて、その探求を始める。香奈菱高校の七不思議は、自分が死んだことに気づかず、毎日授業を受けに来るという「1年B組の花子さん」、演奏当日に事故で命を落とした生徒が弾くという「血染めのピアノ」、目をつぶって登ると13段に増えるという旧校舎の「呪いの階段」、邪魔者を遠ざけてくれる「苔地蔵」、建設中に事故で死んだ作業員の亡霊「体育館の安田さん」、一番大事な人が写るという「彼は誰の鏡」、そして、6つの不思議を全て体験した人だけにその願いを叶えてくれる「聞き耳桜」。もちろん、悠斗は強制的に助手に任命されていた。無邪気な遊びで終わるはずだった七不思議の探索は、やがて意外な方向へと向かう。悠斗と千草は、封印されていた過去の扉を開けてしまう。


◆これはホラーではなく、学園の七不思議に絡めたファンタジー。赤丸急上昇の仲里依紗と『バッテリー』の林遣都という成長株をキャスティングした、ちょっと切ないけれどかわいい物語なので、怖い映画が生理的にダメという方も安心してご覧あれ。ちなみに私は、こういう映画も好きです。

 主演の二人は演技も良いし、外見的にも役柄にぴったり。本作には原作があるそうで、映画化に当たってはかなりの翻案があったらしい。私は未読だが、かなり険しい物語である原作を、この二人に合わせて書き換えたのだろう。二人とも有望株の役者だが、特に仲里依紗の表現力は立派だと思う。将来楽しみな女優さんだ。この二人以外にも、武藤先輩を演じた高橋由真、悠斗たちのクラスメイトの林田遊子(波瑠)、千草の母(西田尚美)も良かった。もともとがモデルである高橋由真は、残念ながらアテレコは下手で、台詞回しもぎこちない。ただ、表情はとても良いし、ぎこちない台詞回しも役柄からすると違和感は少ない。こういう不思議な透明感を出せるキャラクターは少ないだろう。物語を転がして行く林田役の波瑠は、たぶんこの映画の中でいちばんの美人さん。本作では「悪いもの」が見えるという怪しげな設定の役だったが、次はもう少し明るい役か、でなければ私の好きなホラーで活躍して欲しいところ。芸達者な西田尚美は何をやらせても安心。


 私はこの映画が好きで、DVDで何度か観ているのだが.....。ちょっと気になるところもある。いや、いくら私でも、ファンタジーに対して論理的な穴があるとか無いとか言うほど偏執的な重箱ツツキストではない。気になったのは論理的な穴ではなく、倫理的な穴の方だ。ネタバレになるので細かいことは書けないが、悠斗のためを思って警告してくれた林田遊子と、悠斗をいつも見守っていた武藤先輩の運命が、ハッピーエンドで終わるべきファンタジーにそぐわないんじゃないか、という点だ。林田遊子についてはさて置くとしても、映画のエンディングを飾る武藤先輩の笑顔には、ちょっとばかし複雑な気分になる。その笑顔の直後に奥華子の「空に光るクローバー」という、かわいくてホンワカした歌が流れるので、気を抜いていると雰囲気に乗せられそうになる。だが、この終わり方で本当に良かったのかどうか。「ホラーじゃないからご安心を」と書いておきながら前言を翻すようだが、考えようによっては相当ホラーチックな、あるいは自分本位なエンディングだとも言える。最初に見てから三ヶ月以上感想を書かずにいたのは、このエンディングを褒めていいんだか貶していいんだか、自分でも判断がつかなかったからだ。個人的には、ラストを編集して違う終わり方にしてしまおうかと思っているところ。

ディスタービア

2008-05-13 | 映画の感想 た行
◆ケイル(シャイア・ラブーフ)は、自分が運転していた車の事故で同乗していた父が命落とし、そのことで自分自身を責めていた。何事にもやる気を無くし、自堕落な毎日を送るケイルは何度も問題を起こし、ついには教師を殴って三ヶ月間の自宅軟禁という処分を受けた。足首につけられたセンサーのおかげで自宅を出ることが出来ず、もし禁を破れば即座に逮捕、少年院行きが待っていた。母親にゲームもテレビも取り上げられて腐るケイルが始めたのは、隣家の覗きだった。怪しげな隣人、妻の留守中に不倫する男、特に、隣に越してきたアシュリー(サラ・ローマー)の着替えやプールで泳ぐ様子を見るのが楽しみだった。ところが、悪友のロニー(アーロン・ヨー)と一緒にアシュリーの水着姿を覗いているのがバレて、アシュリーがケイルの家を訪れた。震え上がったケイルとロニーに、アシュリーはにっこり笑いかける。家庭に問題のあるアシュリーにとって、ケイルの家は格好の避難場所。三人で怪しげな隣人、ターナー(デビッド・モース)の監視をゲーム感覚で始めた。最初は、テキサスで起きた連続殺人事件で目撃されたのと同じ車に乗っているというささやかな理由だったが、ケイルたちのゲームは最悪の形で現実へと変わっていった。


◆隣人が殺人者かもしれないという設定は、コメディからサスペンス、ホラーに至るまで幾度となく映画化されてきたアイデア。足首に取り付けられたセンサーで自宅の敷地を出られないという『裏窓』的な設定を生かしつつ、ひょうきんでちょっと頼りない親友や、主人公が恋心を抱くお隣の美人の力を借りて、携帯やビデオカメラといった現代ならではの小道具を生かして追跡するパートはなかなか面白い。実を言えば、双眼鏡での監視方法には大きな穴があるのだが、まぁ、そこは突っ込まないことにしよう。映画の嘘とも言うべき部分だし、対象に気づかれない監視方法などを開陳するのは、本物の覗き魔を助長しかねないので。
 ケイルたちの監視が途中から犯人のタナーに感づかれ、逆に追い詰められていくパートは、たたみ掛けるような緊迫感がある。お決まりの、信じてくれない大人達。最初から色眼鏡で見る警察官、犯人の巧妙な擬装。物語を100分ほどの短めな尺におさめることで、多少アラのある脚本をそれと気づかせず、スピーディーに物語を転がして行く。10代から20代前半ぐらいを対象年齢にした、なかなか出来の良いサスペンスだと思う。さすがに、大人の映画ファンを唸らせるには遠いが.....。

以下、全面的にネタバレです。

 主人公のケイルは、自己憐憫から始まって、学校では傷害事件を起こし、自宅に軟禁されてからは覗き魔に変わって隣の女の子の着替えを盗み見し、息子の将来を案じる母親のジュリー(キャリー・アン・モス)には心配ばかりかけている少年。これが自分の隣人だったら、どう贔屓目に見てもひねくれた変質者でしかない。ほぼ最悪のキャラクターでありながら、観客に嫌悪感を感じさせることなく、なおかつアシュリーとの恋まで納得させてしまうのは、主演のシャイア・ラブーフの力に負うところが大きいと思う。他の人が演じたら、単なるパラノイアの変質者にしかならない可能性もある。『マトリックス』の時よりも大分若返って綺麗になったキャリー・アン・モス演じる母親を悲しませてばかりいる前半のパートでは、正直に言えば「どうしようもないガキ」という雰囲気のケイルだが、いざとなった時には、母を助けるために命がけで危険に飛び込んでいく。この落差に観客はケイルを応援したくなるし、前半の「どうしようもないガキ」というイメージが綺麗に払拭される。このあたりの作りは良い。


 さて、エンディングではジュリーの顔に生傷が残っているので、事件からせいぜい数日しか経っていないことが分かる。ケイルの友人のロニーは、一撃で気絶するほどの打撃を受けても怪我はしていないし、ケイル自身もかなりの傷を負っているはずだが、エンディングでは痛そうなそぶりすらない。まぁ、ここまでは映画の嘘で良い。あえて突っ込まなくてもいいこの種の部分に対して、どうしても突っ込んでおきたいところがある。ケイルが殴りつけたスペイン語教師の従兄弟でもあり、ケイルの自宅付近をパトロール地域にしているグティエレス巡査についてだ。
 グティエレス巡査は、ケイルに対しては「自分の従兄弟を殴ったガキ」という色眼鏡は確かにあるものの悪意は持っていないし、もちろん悪い人間でもない。それがあっさり命を落とすという展開は、正直かなり意外だった。殴られて怪我をするとか、気絶しても命は落とさないという設定にしないと、ケイルやロニーの「映画の嘘」が「ただの嘘」になってしまう。エンディングを見ると、息子を信じなかったことで親子共々殺されそうになった母親のジュリーも、ケイルたち三人も、非常にハッピーで何一つ気にせず笑っている。自分たちを助けに来た善人があっさり殺されたことにも、自分たちが殺されかけたことにも、むごたらしい犠牲者の遺体をたくさん見たことも、何一つ影を落としていない。本来なら、凄惨な体験のショックで落ち込む姿を描き、みんなを明るくしようとロニーがわざと馬鹿をやって見せて、そこで初めてみんなが笑顔を取り戻すというのが王道の展開だと思う。そして、笑顔を取り戻したジュリーとケイルの間にはわだかまりの氷解した親子の愛情がもどり、ケイルとアシュリーの間には確かな恋が始まる、というところでエンドロールになるべきなんじゃないだろうか。このあたりの描き方が、大人も楽しめるサスペンスとお子様映画を分かつ境界線ではないかと思う。