small_happiness

   Farsideの過去ログ。

ひっそり

2011-06-08 | なんとなく


やっと咲いているところを見られた、我が家の姫。





ずんぐりむっくりで普段はつんつんしているが、
たまに笑うとこんな感じ。





長い長い茎が伸びて、開きはじめるのは夜になってから。





明るくなると閉じてしまうため、普段は気づかないまま終わる。





早起きして、明け方の光の中でぱちり。





来年も見られますように。


震災後のネットで

2011-06-05 | なんとなく
 もう何年も前のことだが、私は道ばたで動けなくなったことがある。立っていることが出来ずに膝をつき、それでもこらえきれずに這いつくばるような格好になった。そのまま数分が過ぎ、道行く人の足を見ながら動けずにいると、通りを横切って駆け寄る人がいた。「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」と声をかけてくれた。かかりつけの医院が近くにあったのでそこに行きたいと告げると、タクシーを止めてくれて、乗り込むのを手伝ってくれた。「お金は大丈夫ですか? お医者さんまで一緒に行ってあげましょうか?」と、そこまで心配してくれた。本当に、とても親切な人だった。後日、偶然道ですれ違って、その時のお礼を言うことができた。「何もなくて良かったです」と、にこにこ笑いながら喜んでくれた。今も頭の下がる思いでいる。血を流している怪我人を運んだり、道ばたで倒れている病人を見つけて通報して、救急車の到着まで介抱するのは、自分が助けられたことへの感謝の気持ちもあるからだ。


 這いつくばっている私の前を通り過ぎていった人たちのことを、私は[冷たい]などと思ったことは一度もない。私はどこから見てもか弱くは見えない人間だし、助けて欲しいと声を上げたわけでもない。自分から厄介ごとに関わりたがる人間ばかりではないし、「誰かがやるだろう」で済ます人がほとんどではないかと思う。それは責めるべきことではないだろう。


 道で転んだ子がいたら、駆け寄って無事を確認する人もいる。もし大きな怪我をしていたら、迷わず救急車を呼んでくれるだろう。いきなり駆け寄らずとも、ちゃんと起き上がれるかどうか、離れたところから無事を確認する人もいるだろう。どうしたら安全な道になるか、それを考える人もいるだろう。今その瞬間には役に立たない考えかもしれないが、未来の子供を守る助けにはなる。そして、特に関心を持たない人たちもたくさんいる。
 残念なことだが、転んだ子供を見て嘲笑う者もいる。他人が傷つくのが嬉しくて仕方がないという者も少なくない。偶然だけでは飽きたらず、誰かが転ぶように細工をする者も、立ち上がった子供を突き倒す者もいるだろう。人という種族の中には、優しい心を持つ者もいれば、残酷な心を持つ者もいる。


 5.56kbpsのアナログモデムすらなかったインターネットの黎明期、私の仲間内では「ネットの光と影」という議論があった。インターネット以前のパソコン通信には、毒々しいまでの排他性と、匿名性を笠に着た激しい攻撃性があった。一言で言えば、顔が見えない(何を言っても殴られずに済む)コミュニケーションが引きずり出した人間の暗部だ。もちろん、そんなコミュニティばかりではなかったのだろうが、新しいコミュニケーション形態が引きずり出した人間の醜さばかりが目立ち、正直辟易していたものだ。
 それがインターネットという裾野の広いネットワークに切り替わっていくことで、排他性が希釈され、本当に開かれたコミュニケーションになっていくだろうという希望。その一方、誰もが参加することで、世の中全体に「匿名による残酷性」が広く受け入れられてしまい、憎しみや残酷さが当たり前になってしまうのではないかという怖さ。元々が情報ネットワークだったインターネットが、誰もが手軽に発信者になれる史上初のメディアになったとき、そこには情報ではなく感情、それも悪感情が満ちている可能性もある、と。


 たぶん、どちらも現実になったのだろう。ただ、匿名性を盾に自分の醜さを発散させていた世代が人の親になり、誰もが持つ携帯で時と場所を選ばずネットにアクセスできる現状では、醜さの質が変わっているような気もする。「気に入らないから攻撃する」から「攻撃するのが楽しいから口実を探す」に、そして、「いつも誰かを攻撃していないと気が済まない」に変わりつつあるような気がする。相手が傷つけば傷つくほど嬉しい、とことん追い詰めることだけが楽しい、そんな人種までいるように思う。そういう人種、いや異人種に限っていえば、醜さはもう暗部ですらなく、本質になっているようにさえ思えることがある。震災後のネットを見ていると、朽ち木の下から這い出してきた異人種の多さに、うそ寒い気持ちになる。