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2010年02月28日 | China
中国 ルイ・ヴィトンの旅
(2009年03月22日 | China)

あるけど 没有(ない)
(2009年03月29日 | China)

北京での出来事
(2009年04月05日 | China)

北京~広州と汽車に乗~り
(2009年04月12日 | China)

いざ 陸路にて 香港へ
(2009年04月19日 | China)

香港 ランドマークのルイ・ヴィトンで
(2009年04月26日 | China)

間一髪 !? 東方賓館へ滑り込みセーフ
(2009年05月03日 | China)

上海の夜空は三日月だった
(2009年05月10日 | China)

上海の 恩人
(2009年05月17日 | China)

天安門事件について
(2009年05月24日 | China)

中国 豪華客船?の旅 2
(2009年05月31日 | China)

ローズが涙の天津道中
(2009年06月07日 | China)

天津から北京へ
(2009年06月14日 | China)

北京の友人
(2009年06月21日 | China)

北京の“累ヶ淵”? 少しだけ
(2009年06月28日 | China)

北京の休日
(2009年07月05日 | China)

第11回 北京 貧乏揺すり大会 !?
(2009年07月12日 | China)

中国の仙人
(2009年10月31日 | China)

















中国の仙人

2009年10月31日 | China
 前回の続きですが、“第11回 北京 貧乏揺すり大会 !? ”から、早3ヶ月も
経ってしまいましたが、今日は“中国の仙人”について話したいと思います。

 2回目の中国訪問はアジア大会がメインになってしまいましたが、実は、黄山か
長沙へ行って “仙人探しの旅” という非現実的な旅を自分で企画していたのですが
陳さんに相談しましたら 「黄山まで行かなくても、北京にもいるよ。」 とあっさり
返答されてしまいました。

 「それより、残り僅かな休暇を、北京で美味しいものを食べて、無理しないで
リフレッシュしてから帰国しなさい。」 と言われました。  「それもそうだね
又、来ようと思えば、いつでも来れるし、決してこれが最後という訳でもないし。」

 という事で、この日の昼食は、北海公園の中にある、宮廷料理を扱う有名な老舗の
中華料理店に行く。 さほど美味という訳ではないが、普段食していないものを
食べる時のドキドキ感は、味わえた様な気がする。 でも、食べ慣れていないせいか
やはり街の中華料理店の方が美味しいと思ったので、夕食は、王府井にある
中華料理店へ行き、中華料理を堪能する事にしました。

 スープから始まって一通り、中華のフルコースを食べて、2人で食後の杏仁豆腐を食べて
いる時でした。 隣の家族が残した料理を誰かが持ち去ろうとしていた。
 最初は店員かと思ったのですが、よく見ると、ホームレスっぽい人が、2,3人、素早く
食べ残しを器に入れて、風の如く立ち去る。

 でも、店の人は注意する訳でもなく、回りで食事している人も全然平気なのです。
 私一人、唖然として、その光景を見ているのです。
 日本では、絶対ありえません。
 一応、白いクロスのかかった中級レストランですよ。

 ホテルの中ではありませんでしたが、多分、現在の北京では見れない光景かもしれません。
 20年前の北京では、自然に受け止められていた? ようです。 妙な顔をしたのは
私だけでしたから。 その時、陳さんは 「ほら、仙人が来ただろう。」って、、、

 「ええ~、仙人?」 仙人って、私の概念では、中国の道教の思想に基づいたもので
年寄りの風貌で、杖をついていて、こんな街中じゃなくて、上の写真の様な険しい山々に
住んでいらっしゃって、修行を終えた偉いお坊さんを想像していた。
 空こそは飛びませんが、ダライラマの様な高層を (又、ちょっと違いますが)
イメージしていたのは、私だけかしら、、、少し、夢がなくなりました。

 古~い考えでした。 でも、仙人=物乞いのイメージがあったとは、意外だったなあ。

 そう言えば、子供の頃、 “梨の実と仙人” を読んだ事がありまして、確か内容が・・・

 昔、昔、ある所で梨売りの商人が梨を売っていると、今にも倒れそうな老人が
歩いてきました。 老人が梨売りに「のどが渇いて死にそうだから梨一つをくれないか」と
言いましたが、梨売りは梨をあげなかった。 それを見た男が「一つくらいあげたら
いいだろう」と言っても梨売りは梨を老人にあげようとはしなかったのです。

 そこで男は、自分が梨を買ってあげようと財布を見ると、梨を買うだけのお金が
入っておらず、男は、その場にいた人達に「この老人に梨を買ってあげたいんだが
皆、少しでいいからお金を出してくれないか」と言うと、その場にいた人達は
皆、老人の為にお金を出した。

 老人はそのお金で梨を買ってもらい、梨を食べた。 食べ終わると、梨の種を
その場に蒔いた。 種を蒔くとすぐに芽を出して、またたく間に成長して木になり
実をつけた。 そして大量に梨が採れた。

 老人は、梨を買ってくれた人々に梨を分けた。 そして木を切り倒して立ち去って
しまった。

 その様子を不思議そうに見ていた梨売りだったが、ふと自分の屋台を見ると
何と梨が全て消えていた。

その場の人々は、老人が仙人であったことに気付いた。
  


 という話しですが、この時の老人も物乞いだったのでしょうか?
 近くにいた男の人も、梨を買うだけのお金を持ち合わしていない所を見ると
皆が貧しい生活をしていたのだと思うのです。 その当時、果物は高級品だったのかも・・・

 まあ、私達の残した食べ物も持って行くのだから、なるべくきれいに残して
出ようと思いました。 席を立つと同時に、若い男子が2人来てテーブルの上の
残り物を器に盛りながら、その様子をじっと見ていた私の方を見て、にやりと
笑ったのです。

 正直、薄気味悪かったので、見なければ良かったと悔やみました。
 それから、2人で、映画でも見に行こうという事になり、風が吹く歩道を歩いて
いた時です。 急に、今まで吹いていたきつい風が止み、そよ風に変わりました。

 その時です。 私の顔に紙切れの様なものが、へばり付いたのです。
 慌てて、その紙を手に取ると、10元札だったのです。 又、ヒラリ、ヒラリと結局
3枚、合せて30元。 (当時1元が40円前後だったので、日本円で1200円位、中国人の
1カ月の平均給料が5000円位の時でした。) 何と今、レストランで支払った料金が30元
だったのでビックリしました。

 陳さんは、生まれて始めての経験だと言ってました。 勿論こんな事、私もです。
 実際はもう少し多かった気もするのですが、私の顔に付いたものが3枚だったのです。
 この当時、日本ではちょうどバブル時期でしたので、税金逃れの為、何千万もの
お金が竹薮に廃棄してあったりして、よくニュースに出ていましたが、まさか
中国でお金をキャッチするなんて思いませんでした。

 公安局へ行くにも遠いし、夜だったので、結局、ご馳走になった陳さんに預けました。
 2人で、何なのこれは?、、、先程、レストランを出る時に、私に微笑んだあの青年の
顔が思い出されて、薄気味悪いと失礼なことを言いましたが、それは、にやりと笑った
その顔に何かを感じた訳でして、、、とても澄んだ賢そうな目をしていました。

 これは、単なる偶然の産物なのか? あの青年は、仙人だったのでしょうか?
 今となっては、ただの昔話になってしまいました。

 

 

第11回 北京 貧乏揺すり大会 !?

2009年07月12日 | China
 先週の続きです。

 鼓楼にある華北飯店から、北京工人体育場まで、自転車で30分位だったかな。
 車が殆ど通っていなかったので、出来立ての何車線かの広~い車道を自転車で
こぎまくったものだ。 今は、北京も車だらけだが、1990年当時は、まだまだ車も
少なく、自転車が主体の時でしたから、通勤時には、自転車の渋滞があるほどの
混み様でした。 その時の北京の空は本当に真っ青でした。 今は、公害でかなり汚染
されているようですが ・・・ 私は、空気が美味しい北京に2回も来ております。

 第11回アジア競技大会(1990)が北京で参加国・地域数 37 参加人数 6122人の
参加により、開会式 9月22日 ~ 閉会式 10月7日迄の2週間行われた。
 主競技場は、北京工人体育場であった。 大会は中国が他の国の金メダル数を大きく
上回る圧勝だった。

 私は、池谷幸雄君を応援するのに、体操の会場へ見学に行った。 この頃、中国の
体操はかなり優位に入っていて、日本勢にとって、金メダルへの道はかなり厳しい
ものになっていた。 ですので、応援もかなりエキサイトしてしまい、何回も大声を
出しての声援。 隣にいた青年達が、貧乏ゆすりしながら、何度も私を見て、笑って
おりました。 まあ、落ち着きがないというか、この貧乏ゆすりって、男性特有の
ものなんですか? どうでもいい事が、気になる私の性格でして、早速調べてみました。

 足を小刻みに動かす 「貧乏ゆすり」 は多くの場合は無意識な行動だとか。
 栄養不足になった時に手足が震えるから、心に余裕がないように見えるから
「貧乏」 と言われ、貧乏神が取り憑いている等と昔から嫌われる傾向にある様です。
 では、何らかの病気は別として、貧乏ゆすりをするのは何故だろうかという疑問。

 貧乏ゆすりは、主にイライラした時や緊張した時に起こるらしい。 この時、交感神経が
刺激され心拍数が増加して、体が震えるようになる。 特に、心臓から遠い部分である
足の血流を活発にするため足が小刻みに震える。 じっとしていられない精神状態の
代替行為でも「足を動かす」という部分に現れる。 また一方では小刻みでリズミカルな
刺激は、脳をリラックスさせようとする。 その為に、精神的にも肉体的にもバランスを
取るための貧乏ゆすりと言える。 気の小さい人や落ち着きのない人に多い動作だが
筋繊維や神経系の違いから男性に比べると女性には少ないとされている。

 中国人って大陸生まれなのに小心者が多いって事? よく見てみると、私の周りの
殆どの中国人の男性が、足を小刻みに震わせていた。 変な事に興味を持ってしまって
体操どころじゃなくなって、人の足ばかり見ていた。 リズミカルに、或いは激しく動く
足の観察をしている内に、笑いが止まらなくなった。 何億人の人々が、それこそ
一斉にこの動作をすれば、地震が起こるかもよ・・・又、涙こぼして笑っております。
 何故笑っているのかも知らずに、相変わらず足を揺すりながらこちらを見てる。
 それを見かねた陳さんは、私を連行? して、会場のロビーへ連れて行かれた。

「もっと、静かに見学できないですか?」 「御免なさい。 笑いのツボにはまったら
最後。 きっと1時間は、笑い続けるわ。」 「せっかく、今回の最大のテーマだった
アジア大会なのに・・・」 「解った。もう一度戻って、静かに見るわ。」 「大丈夫?」
 「多分 !?」と。 一息入れて、又会場へ戻る。 視野が横に流れるのをカットできる
サンローランのメガネに変えた。 早く言えば、メガネの耳にかける部分が3cm位
幅広のもの。 完璧、完全にカットされました。 それから、体操に集中できたのですが
陳さんが選手の体操が終わる度、結果が出る前に得点を言い出すのです。

 殆ど彼の予想は当たっていて、日本の選手が出てきた時も評価点を出すので
私も同じように言い出したのです。 二人は興奮して、自分の声を強調すべく大声で
点の言い合いになり、今度は、会場の係員に注意され、後の観戦は白けっぱなし
映画を見ているような感じで、最後まで見ておりました。 黙って応援です。
 結果、日本は、団体と個人種目別床運動で銀メダルを獲得しましたが、、、

 応援に行って、大声も出せないなんて許せない。 おかしい絶対に!こんな事なら
北京まで来なくても、日本でTV見ていれば良かった。 釈然としないまま、会場を
出てました。 体操競技が終わった時は、10時過ぎていました。私達はタクシーを
待っていましたら、突然、雷音と共にスコールが・・・ 小さな店の軒先は、沢山の
人が雨宿り。 髪も服も靴もビシャビシャ。 この日は、最後までついておりませんでした。



北京の休日

2009年07月05日 | China
 
 先週の続きです。

 結局、文句を言いながらも、国務院招待所には、陳さんの休暇が終わる日まで
1週間おりました。 招待所を出る頃には、警備の人達とも顔見知りになっていて
ニコッと笑って、挨拶してくれました。 その1週間の間に、万里の長城、十三陵
北京動物園、天壇公園、景山公園、北海公園、頤和園、圓明園、雍和宮、西什庫天主堂
白塔寺、孔廟、・・・この内、半分は前回、既に見学していたのですが、案内して
下さると言うのに、断割れなかったのです。

 

 デジカメがなかった時ですから、色が悪いよね。

 中国の事ですから、どこへ行っても広い。 よく、これだけ見れたと関心します。
 大体一日一ヶ所、殆ど歩き詰めでした。 9月といっても未だ暑くて、顔も腕も日焼けで
真っ赤、と思えば17日の朝、急に寒くなりまして、北京の厳しい気候に
付いていけません。 でも、私の帰国日は、9月27日(木)16:00発~19:15大阪着の
JAL しか取れなかったので、後10日間、北京に滞在する訳です。

 アジア大会もいよいよ22日の開会式が迫ってきました。ホテルを真新しい華北飯店に代え
昼間は、瑠璃廠文化街、胡同めぐり・北京大学・鼓楼・鐘楼、徳勝門箭楼、北京古観象台
北京城東南角楼、故宮は数回見学しました。 毎日、陳さんは仕事を終えてから
付き合ってくれました。 本当に、感謝の一言です。

 ある夜、“ ロミオとジュリエット ” のオペラを見に行った時、会場の表通りに
高級車が数台止まったので、有名人かなと思って、じっと見ていましたら、素敵な
衣装を着た上品な方々が下りて来られまして、陳さんに 「誰ですか?」 と聞くと
「愛新覚羅一族です。」 と言われたので、時代こそ違うけれど、圧倒されました。
 今は、一般市民なんですけど、全く、落ちぶれていないじゃないですか。
 やはり富豪なんですね。 思わず、ラスト・エンペラーを思い出しました。

 愛新覚羅溥儀さんの晩年は、財産を没収されて、とても質素な生活をしていたと
思っていたので、まさかその一族の方々が、こんな優雅な生活をしていらっしゃる
とは夢にも思いませんでした。
 陳さんに聞いてみたら、元周恩来首相の計らいで、溥儀が収容所に入っていた間の
愛新覚羅家の財産を政府で管理していた為なんですって、周恩来さんて義理人情に
熱い人かもしれませんね・・・

               

 ラスト・エンペラーの最後のシーンで、溥儀が周りをキョロキョロ見回して
玉座に座り、隠してあったこおろぎの入った籠を取り、子供に渡すシーンがあるのです。
 子供が、手渡された籠のこおろぎを見てから、玉座にいる筈の溥儀を見ると
もう玉座にはいなくて、思わずウルウルした事を思い出しました。

 鼓楼の華北飯店へ送ってもらった時、あの籠入りこおろぎが沢山売っていたのです。
 私が、映画を思い出して、じっと見つめていたら、陳さんが買ってくれたのです。
 ところが、ホテルに戻るやいなや、急に大きく鳴きだして、こおろぎが日本のこおろぎに
比べて異常に大きかった。 だから当然、鳴き声も半端じゃないのです。 
 これは他の客から、苦情が来るなと思って、仕方なくホテルの外へ行き、近くのの茂みに
逃がしました。 せっかく買って下さったのに、御免なさい !

 本当に彼はアクティブに私を飽きさせないで、尽くしてくれました。 何が便利かって
あの政府発行、通産省の身分証明書です。 何度も見せてもらったのですけど
青いビニール表紙の手帳。失礼なんですけど、日本では、私たちが子供の頃
見かけたような、おもちゃ屋さんで売っていた子供手帳の様なもの。 日本で落としても
誰も拾ってはくれず、放置したままの手帳 ? すみません言いたい放題で・・・
 それが、あまり言えないのですが、やはり止めとこう。 取り合えず、水戸黄門
じゃないけれど「この紋所が目に入らぬか?」っていう様な感じの代物。 大抵どこでも
スルーできてしまう。 アッ、言ってしまった。

 彼の名は陳さんと書いていますけど、あくまで仮名ですからね。 
 余計な事は、あまり書かない方がいいのでしょうね。 
 書きたい事はたくさんあるのですが、もう触れない事にしましょう。 
 陳さんにご迷惑がかかっては大変な事ですからね。
 “ 恩を婀娜で返す事になりますから ”


                     次回は、アジア大会についてです。
 

 


 


 


北京の“累ヶ淵”? 少しだけ

2009年06月28日 | China
 先週の続きです。

 私の宿泊先のホテルは崇文門の駅前で、交通便の良さだけが売りかな? なんて・・・
部屋にはインテリア家具もないし、本当に寝るだけだ。 そう言って、陳さんに
ぶつぶつ文句言っていたら、陳さんが、いきなり勤務先に電話して、何やら相談
している様子でした。 何分かの電話が終わった後、陳さんの紹介で、明日から
国務院招待所にお世話になる事になった。 何でも、政府の関係者がお泊りになる
ホテルだそうで、価格も安いとか。 “ 但し、日本語はなるべく遠慮して下さい。 ”
 との事でした。

 明くる日、いざ招待所に行くと、やはり今までのホテルとは全く雰囲気が違っていた。
 招待所の前は広いスペースがあり、何と人民解放軍の兵士が何人もホテル前で
警備しているのです。 物々しいと言うか、その状況見ただけで、好奇心旺盛な
私でさえ、尻込みする位だから。 広い駐車場には、高級車が何台も止まっていた。
 その中を陳さんは身分証を見せて、私を連れてさっさと中に入って行きました。
 事前に連絡が入っているようでしたが、フロントで手続きを済ませ、部屋へ案内された。

 私が思っていたより、西洋っぽい感じの部屋でした。 陳さんは、日本語を話さない様に
強調するが、ずっと、陳さんがいる訳じゃないから、ここも、長く滞在できそうにもない。
 警備はバッチリだけど、日本人ってばれたら、どうなるの? って感じ ?
 天安門事件の後だし、どうして、ここへ連れて来たのだろう。
 今更ながら後悔しております。
 陳さんに、「ここに、何泊予約したんですか?」と聞くと「アジア大会が終わるまで。」
 
 ええ~3週間も・・・まさか、こんな精神的に窮屈な所へおれる訳がない。

 しかも、案内されてすぐ、「今日は仕事が忙しいので、今から会社に戻ります。
夕食時、又、迎えに来ますので、待っていて下さい。」
 ちょっと、ちょっと、ここで、夕方まで待てないぞ^~
 「じゃ、取りあえず、私も陳さんと一緒に外へ出ます。」
 「大丈夫ですか? 案内できないけど。」
 「大丈夫ですよ。 夕方になったら、戻って来ますので。」

 という訳で二人、国務院招待所を後にした。 銃を持った兵士がウロウロ。
 表の通りまで、怪しい者がいないか巡回していた。 きな臭い場所に来たものだ。
 あ~あ~・・・陳さんは、中南海近くの勤務先へ。 日本の通産省(現経済産業省)に
当たる部署へお勤めなのです。 官僚です。 そこも、非常に警備が厳しかったけれど。
 私は西単を散歩して、インド映画を見に行く。
 1時間位経った時、隣におじさんが座って、いきなり私の太ももを触りだしたので
 痴漢も万国共通だな~。日本でも一人で映画に行くと、絶対横におやじが来るもんね。
 「Don't touch me! OK?」と言った。 外人と思ったのだろう。そそくさと逃げて行った。

 2時間映画を見てから、百貨店に行ったり、書店に行ったり、中国風茶店で休憩
したりしていたら、あっという間に時間が過ぎ、国務院招待所前に戻る。
 でも、警備の人にじっと見つめられたら、入れなくなった。 何か、聞かれたら
答える自信がないので、仕方なく、表の通りで、陳さんを待つ。 10分位してから
迎えに来てくれたが、入れない理由を聞くなり、陳さんは警備の兵士にタバコを
渡して何か話していたので、後で聞くと、「これから、挨拶だけでいいから “你好” と
言って入って下さい。」 と言われた。

 あ~あ、こんな気を使ってまで、ここにいたくないよ。

 そのまま部屋には入らず、この近くのレストランで食事をする。 アジア大会が
ある為、世界の要人が沢山来られるので、警備が厳しいらしいのだ。
 明日から休暇を取られた様で、いろいろ案内して下さるそうだ。
 ご厚意に甘えていいのかしら・・・ 「不要緊!」

 食後、北京の池に連れて行ってもらった。 池の周りは、縁日をやっていて
沢山の人達で賑わっていた。 そして、この時、一番びっくりしたのは、この池で
泳いでいる人が、老若男女、子供まで沢山いましたので、本当に驚きました。
 夜だから、きれいな水かどうか解らないですが、怖くないのかなと思いました。
 しだれ柳が沢山あって、雰囲気は怪談  “累ヶ淵” に出てくる様な池で
ございました。 足引っ張られないかしらと・・・中国はオバケもでないのかな?

 
 
 
 

北京の友人

2009年06月21日 | China
  先週の続きです。

 2Fの奥の205号に案内されてから、早速、陳さんの勤務先へ電話したが
「他是不在。」 という事で私の名前とホテル名を告げて、電話をきりました。
 それから、食べ物の調達に、ホテルの向かいにあるローゼンベックのパン屋に
行く。惣菜パンを3個と菓子パン3個。 1個平均120円だから、値段も味も
日本と変わらなかった。 そのパン屋の向かいに、大きな市場があり、飲み物や
私が食べれそうな? 物を買って、陳さんからの電話を待つ為、ホテルに戻る。

 ホテルに戻って、パンを食べながらテレビを見ていますと、北京の美女が
勢ぞろいする、中国版ミスユニバースが、やっていた。 興味深く見ましたが
大変、面白かった様に思います。世界の未だ、それとは、レベル違いの美女? 達に(笑)
噴出しそうになる。 ただ、スタイルは抜群ではありましたが・・・

 2年後に再び訪れた北京は、アジア大会一色でした。 私の北京の友人、陳さん
(上海の恩人)から、“アジア大会を見学に来ませんか?”という手紙が届き、再び
訪れたのでした。 それと、天安門事件の後、音信不通になった清華大学のT君の事も
気になっていたので、彼の消息を確かめる事も理由の一つにありましたが、やはり
現地に来て、この目で天安門広場を見るのも、一理あるかなと考えたのです。

 3時間後、陳さんから電話があり、出張中で、明日の4時頃、北京に戻るので
ホテルに来てくれるという事でした。 という事は、夕食も一人なので、買ってきた
食べ物で間に合わせることにする。 というより、もう疲れて、どこにも行きたく
なかったのです。 この日は、早い目に寝る。

 明くる日、友宣商店から王府井に行く。 王府井にあるデパートも、アジア大会の
マスコットのパンダ君が、様々なグッズと化して、所狭しと、置かれていました。
 私は、ハンカチとセンスをお土産用に購入。 様々なイベントが、町の至る所で
催しされていました。 ミニマムというパリのファーストフード店ができていたので
ハンバーグ150円とコーラー2杯90円を注文する。 店内にいる人は、こちらも
やはり殆どが、在留外国人か旅行者でした。 ガラス張りの外から見られているのが
気になるけど、哀しいかな、私はこんな所でしか食事できないのだから、仕方がない。
 もっと中国語が達者なら、人民と同じ場所で食事できるのだが・・・

 それから、天安門、人民広場に行くと、所々に黒い油染みの様なものが付いて
いた。 1年3ヵ月も経つのに、未だ生々しく痕が残っている。 染みの痕を追うように
歩いて行きますと、巨大な黒い染みが現れた。

 人民英雄記念塔の前だった。

 黒く染み付いた記念塔の階段を、しみじみ眺めていますと、向こうの方から
人民解放軍の兵隊がやって来て、すごい目で睨みつけて、「在那里去!」
と言われる。 私はうなずいてから黙祷し、記念塔前にしゃがみ、付いている
黒い染みを、まるで愛しい人をさする様に、手でさすってやりました。
そして、その場を去ったのですが、遣る瀬無さで、私の胸は張り裂けそうでした。

 T君に故宮を案内して頂いた事、2年間も文通して、彼の夢も進路も全て
解っているだけに、何故、今ここに居ないのか、今回の私の訪中、きっと喜んで
歓迎してくれた筈です。
 悔しかった。 もっと自分自身を大切にして欲しかった。 でも私は、心中では
きっと、どこかで生きている事を、信じ続けると言い聞かせるしかなかった。

 だから、サヨナラは言わない。

 歩いて、歩いて、何時間歩いたのだろう。 何も考えずただ、無性に歩きたかった。
 ホテルに着いた時は、4時を過ぎていた。 部屋に戻るなり、フロントから電話で
陳さんが来られているとの事。 すぐ、1Fに行く。 ロビーで待っていたらしい。
 気が付かない筈だ。 上海で出合った時は、パーマをかけていたけど、日本の
サラリーマン風のヘアースタイルにイメチェンしていた。

 陳さんに渡すお土産があったので、部屋に来てもらう。 プレゼントは、ゲーム・
ボーイ (スーパーマリオBr.と囲碁とテトリスのカセット3つ付き) でした。
 小型ゲームの使い方を説明して、陳さんは、久々の会話も時間を忘れ、ゲームに
のめり込んでいました。 初めてと言っても、やはり若いので、呑み込みが早い。
 もう、何を話しても駄目。 電池が切れるまでやってました。

 私が、「お腹空いた。」 と何回も言ったら、「もう少し待って。」 と言い続け
結局、電池切れで、やっと食事に行く事ができました。 行った場所は、全聚徳。
 北京ダックの美味しい有名な店です。 飴色に焼き上がったアヒルの皮が皿に盛られ
別の皿にはピンと細かく切ったねぎが添えられ、小皿にみそがのっている。
 ねぎを包んで食べるとパリッという食感で皮下脂肪がジワッと染み出す。
 こういう食べ方をするのは、皮だけでは味が濃厚すぎるからなのだろう。

 ダックの皮とみそとねぎを薄皮でつつんで食べる。 この組み合わせが絶妙な味を
醸し出している。 本当に美味しかったが、何故か、食べ過ぎる事は無かった・・・




天津から北京へ

2009年06月14日 | China
 先週の続きです。

 昨晩、早く寝たので、何と3人共5時起きです。 Kさんから宿泊代を預かりました。
 友誼賓館に1泊3人トリプルで、191元(約一人64元→1900円)だった。
 設備はともかく、従業員が皆若くて、男性は皆ジャニーズ風のヘアースタイルを
していた。 中国には珍しく、笑顔の接客態度がとても可愛くて、好感がもてました。
 だが、T/Cを換金して、宿泊代を払おうとしたら、フロントでいきなり「没有!」だ。

 8時30分位に外貨兌換券が来るので、待つ様に言われる。

 復旦大学留学のKさんは、7時発の上海行きの列車に乗る為、6時前にホテルを
出ました。 前日、天津駅で切符を買っていた為、時間に間に合うようにと早くに
起きて用意をしていましたから。 Tさんと私は、12時30分発の北京行きなので
ゆっくり用意できましたが、朝食へ行こうと、ホテルのレストランに行くと8時
なのに、ドアが閉まっていて、朝抜きです。 空腹な二人は、いらいらしております。

 Tさんは、初めての中国だったので、私が半日、仕切る事になった。 ホテルの
チェックアウト、天津までのタクシーの手配、列車の乗り方、昼食の場所等・・・
 正直言って、Tさんこれから、3ヵ月北京で語学留学だと言っているが大丈夫?
って感じかな。 まあ、一人になれば、自分で全てやらなきゃ駄目なので、どうにか
なるのだろうけど ・・・・・・ 前日、天津駅でも、英語で中国人と大喧嘩して
「私、後から追いかけられて、刺されるかも知れない。」と怯えていた位ですから。

 案の定、手配したタクシーがホテル前に着いた時、昨日、天津駅で大喧嘩した
中国人がロビーで待ち伏せていて、怒りで目のつり上がったTさんに、言い寄って来て
他の客人の前で、大もめ状態に。 Tさんをタクシーに乗せない様に妨害している。
 ホテル従業員のお兄さん達が、その3人の中国人達を説得している間に
私は、未だ大声で叫んでいるTさんを、引きずる様にタクシーに押し込む。 最悪!

 Tさんは、後ろを見ながら、追ってくるかも解らないと言って、しばらく、振り
返ったまま、座っていました。 ホテル迄、追いかけて来るのも異常だし、このホテルを
知っているのもおかしい。 理由は、聞いても言わない。 前日、私とKさんが、駅で
3人分の切符を買っている間に、何かあった様だ。 二人で、Tさんの所に戻ってくると
大喧嘩している時でしたから。 これから、何も起こらなければ、いいのですが・・・

 二人で無事に、天津から北京までの列車に乗る事ができました。 所要時間2時間
210円の硬座の旅。 列車の中では、最初、船で出合った、笑顔の素敵なTさんに
戻っていて、よく、お話していました。 途中で中国の大学生二人と合い席になった時
又、Tさんが不機嫌になりかける。 話をしていたら、とてもいい情報を教えてくれたので
Tさんに 「汊語の勉強になるから、話した方がいいよ。」 と言ったら、しぶしぶ
話し始めていた。

 列車に乗る前、天津駅で1元で買ったライチのジュースの美味しかった事。
 ストローを挿して、飲むのだが中にレイシの実が1個入っているのだ。

 いよいよ、北京駅に着き、大学生は、私の20kgもあるスーツケースを持ってくれて
駅の外まで、運んでくれました。 本当に優しいので、申し訳なく思う位です。
 そこで、彼らとお別れしました。 「非常感謝!大謝謝你!再見!」

 それから、地下鉄の駅まで行き、目的地の切符を買って、乗り方を教えてから解散と
なりました。 別れる前、滞在先を聞かれたけれど、知り合いに全て手配してもらって
いるので解らないと返事をした。 正直、トラブルメーカーは、苦手なので、スルーです
 
 私は、取り合えず、崇文門にある哈徳門飯店に飛び込み、宿泊の予約をする。
「有没有房間嗎?」 「有」「一天、多少銭?」 「一百二十五元」 「貴」 「有没有
便宣房間嗎?」 「這个最便宣」 「・・・好」
 9月22日から始まるアジア大会の影響で、2年前80元→125元(3875円)に
値上がりしていた。 何と、友誼賓館の 2倍 であった。 部屋は、友誼賓館の
方が、快適だったのに。 やっぱり、首都は高いな~。 


ローズが涙の天津道中

2009年06月07日 | China


 先週の続きです。
 結局、中国に上陸した台風がUターンした為、大しけになり、黄海上で錨を下ろした
様でした。 マッドが「The ship weighed anchor.」と私に話した時、二人で揺れる
船首にいたのです。 その前にロビーで、私が カティーサーク号 を見学に行った事を
マッドに話し、フィギュアーヘッドの説明をしていたのです。

 「“Catty Sark " スコットランドの詩人、バーンズが書いた詩
 “Catty Sark "  (short chemise) 「短い下着を着けた 魔女ナニーが
馬の尻尾をつかんで追いかけてきた」 という一節からとったそうよ。 
 だから、船首には、そのモチ-フとなった魔女ナニーの像が付いているの。」
 「この船は日本製? 中国製? どちらか解らないが多分、フィギュアヘッドは
ないな。」 「私は、日本製だと思う。 大浴場が広い事。 それに船内も何か
日本的な感じがするわ。 でも帆船じゃないから、フィギュアヘッドはないと思う。」
「少し、甲板に出てみないか?」 「これだけ揺れているから、危ないでしょう。」
「いや、そんなに、先まで行かないよ。」 「じゃ、行きましょうか。」

 そんな訳で、上甲板に上がった時、急にガラガラという大きな音が船を包んだ。
 錨を下ろしている様だった。 私達は船首近くまで行くと、マッドが、私の両手を
後ろに引っ張って、「君が、この船のナニーだ。」と言って、二人で笑っていたら
見回りをしている中国人のクルーにすごく怒られ、顰蹙を買ってしまった。
 「マッドのせいなんだから。知らない。」・・・7年後、 “タイタニック” を見た時
映画館で思い出し笑いしましたね。 「タイタニックのローズがフィギュアヘッドに
なるシーン。 あれは、私達がはしりだったんだわ~」ってね。



 そんな訳で、3時間遅れではありましたが、無事、天津に着きました。 北京行きの
バスがありましたが、私達は天津で1泊してから、北京に向かうことになりました。
 マッドは、私達も一緒にそのバスに乗車するものと思っていた様ですが
残念ながら、お別れです。 彼女達は、やはり空腹には勝てなかったのか、私に
狗不理包子の“犬も相手にしない包子”を食べようと言うので、付き合ってしまいました。
 本心は、陳さんが待っているので、早く北京に行きたかったのですが、このまま
マッドと一緒に行ったら、今度は、彼女達から、顰蹙を買いそうだったからです。

 取り合えず、天津の駅まで出て、Kさんと二人で明日の切符を買いに行く。
 30分位かかったでしょうか、Tさんの所へ戻ってくると、中国人と大喧嘩をしていて
中国語の堪能なKさんが、中国人の怒りを何とか静めて、その場を去り、ホテルを
探すのに地図を持って、うろうろしてますと近くにいた中国人の老人(65歳前後
かな?)が結構、流暢な日本語で話しかけてきた。

 満州国時代の少年のころ、強制的に日本語を勉強させられたとのことだ。 
 年配者には、日本語の話せる人々が大勢いることを思い知らされた。 多分、子供の頃
旧満州の方で生まれ育ったのかもしれない。 輪タクに乗って欲しいと頼まれたので
3人で相談して、今晩、宿泊するホテル迄、連れて行ってもらう事にした。
 輪タクに乗って散策すれば、違った天津の顔が見えてくるはず。 
 その情緒が更に天津の魅力をアップしてくれる事を期待しつつ乗ったのはいいのですが
その老人の体重が、50kgもない位細くて、逆に、体格のいい私達と荷物の重量だけで
優に230kg以上あったと思われる。
 
 細い身体で一生懸命、ペダルをこいでいるのを見て、3人とも涙がポロリ、ポロリ

 坂道にかかると、これは拷問に近いっていうので、3人降りて、輪タクを後ろから
押して行く。 老人は、急に軽くなったので、何度も「乗りなさい。」 と言われるけど
結局、乗る事はなく、荷物だけホテルまで運んでもらって、10元(310円)の所
外貨兌換券で15元払う事にした。 老人は、ホテルに入って、部屋もちゃんと手配して
くれて、本当に助かりました。  荷物がないだけでも、かなり楽ですものね。
 「重たい思いをさせて御免なさいね。」 3人の気持ちは、ある意味、完全に
一体化していましたね。

 ホテルの部屋に荷物を置いて、近くにある狗不理包子の支店に入り、包子を
食べるわ、食べるわ。 一番食べたのは、やはり彼女達二人でした。 丸2日間
食べていなかったから。 満腹になったら、今度は睡魔が襲ってきて、3人とも
すぐ、ホテルへ戻って、揺れないベッドで休みました。  次回へ続く。

       
 

中国 豪華客船?の旅 2

2009年05月31日 | China
 1990年8月31日(金)午前10時、兄が車で神戸港迄送ってくれまして、真新しい
燕京号に乗船し、12時に神戸港を後にしました。 初めての船の旅だったのですが
Time is Money の世間を離れて、ゆっくり旅したかったのです。 リバイバルで
C・グラント、D・カー主演の “ めぐり逢い ”という映画を見たのも理由の一つに
ありました。

 ニューヨークへ向かう豪華客船のデッキで、知り合うプレイボーイと美人歌手の
メロドラマなのですが、当時、私にはとても深く想いいれのある作品で、いつか
船旅をしてみたいという願望を持っていたのです。

 まあ、豪華客船には程遠い船でしたが、新しい船でしたので、とても室内も
綺麗で安価でしたね。 私は船中ですぐに、二人の女友達ができ、彼女達と
楽しい船旅が、送れる筈だったのですが・・・

 3人で夕食をレストランでとり、そこで知り合ったバックパッカーの青年3人と
カラオケで楽しんだり、お酒を飲んだりしてその夜を過ごしました。 22時30分頃
「もうすぐ瀬戸大橋にかかります。」とアナウンスが入り、6人でデッキに出て
美しいイルミネーションを眺めていますと、大勢の中国人の人達も出て来られて
「真好!」とか「美好!」とそれぞれ、大きな声で感嘆の声を上げておられました。
 そんな楽しい一日目は、あっという間に過ぎて行き、静かに夜も更けました。

 2日目の朝8時に、女友達の一人、同じ年の獣医さんが、誘いに来てくれましたので
一緒にレストランで朝食をとる。 サービスメニューは、お粥、蒸しパンとザーサイ
固ゆで玉子、餡子入り春巻き、お茶でした。  私が食べたのは、餡子入り春巻き
2個とお茶だけでした。  このメニュー、食欲が湧きませんでした。 この時、少し
横揺れがあったのですが、私は、ヨット慣れしているせいか、平気でした。

 余談になりますが、ハワイのサンセットクルーズ(オプション どうでもいいか)で
沖に出てから、ちょうど食事時に、すごく揺れだして、蒼ざめた新婚カップルが
嘔吐の為  汚い話で すいません    トイレの前に長蛇の列ができて
間にあわない人が殆どでしたけど それを、目前で見て 別に見たくないけれど
周りの人、殆どがそうだったから
 食事を平らげた位ですから。 皆、ヨットが
こんなに揺れるとは知らなかったみたいです。 でも、こんな思い出もいいかな!?
 「きっと、ハワイの美しいサンセットを眺めながら、美味しいコースディナーを
堪能しようと思って来たのに、残念ですね。」と同行した友人とチチを飲みながら
笑っていたのです。 性格かなり悪いですね。

 船酔いする新婚さんへ
ハワイのサンセットクルーズは
結構、揺れますよ。


 話に戻ります。 もう一人の友達は(復旦大学へ留学する人)もはや、「朝食無理です。」
と言って、部屋で寝ておりました。 その時、ピンポンパンポン・・・「11時に日本の西
対馬海峡に入ります。」と放送が入りました。 朝、元気だった獣医さんも昼前から
部屋に戻って横になっていたのです。 私は一人、デッキで荒れている海を眺めて
いました。

 気がついたら、横にイギリス人の青年がいて、皆、船酔いで、出て来ないのに
私の事、大丈夫って聞いてくれました。 結局、立っているのは、この船のクルーと
私達2人だけだった。 私、イギリスヘ遊学じゃなくて、留学していたので、言葉の
発音が良かったのかな? 米語じゃなくて、英語会話が気に入ってくれた様です。

 イギリスに縁があるのでしょうか? 彼と話していたら、ついマイケルを思い出して
しまいました。 ずっと、大揺れの中で、イギリス留学時の話ばかりしていました。
 その人の名はマッドで、大阪のECCで英会話の先生をしていると言ってました。
 中国には旅行目的で、1ヵ月後、又、大阪へ戻る予定とか。

 いろんな話をしている内に彼と意気投合して、残り2日の船中は、殆ど行動を
共にしていました。 2人の女友達は、ひどい船酔いで、結局、2日間殆ど食事も
取らずに、寝たきりでした。 9月2日に天津に着いた時は、元通りに元気になって
いましたが、食事を摂らなかったので、少しやつれていました。 でも、本人達は
いいダイエットになったと、あまり懲りていなかったようですが・・・次回に続く。

 




 

天安門事件について

2009年05月24日 | China



 後10日で、あの天安門事件から20年目を迎える事になるのですが、私が1987年に
初めて北京へ旅した時に知り合った、清華大学のT君とは、未だに音信不通なのである。

 1987年4月に帰国してから、1989年4月迄の2年間、毎月1回ペンパルとして
交流を深めていただけに、残念としかいいようがない。 あの事件さえなければ
彼は卒業後、東大へ留学に来る予定だったのだ。 ずっと英語での手紙のやりとりでしたが
最後の手紙だけは、何故か中国語で20枚位、自分の思いを書き綴られていたのが
当時の彼の思いを偲ぶこととなったのです。

 天安門事件について、”天安門の地獄絵”から引用して書いております。
 1989年6月4日に中国で起きた天安門事件で、自由と民主主義を求める
学生・市民が人民解放軍の手にによって、北京で死者1万人、負傷者はその倍
北京以外では死者2万人の被害が出たと言われている。 多くの党幹部の子息も
学生達のデモに加わり、逮捕されて強制労働収容所に入れられた。

 5月27日前後から、推定10万人の人民解放軍が戦車・銃・機関銃・ロケット砲等
重装備をして北京を包囲した。 6月3日夜に戒厳令がしかれる。

 天安門広場でハンストをしている学生達に危害が加わるのを阻止しようと地元の
事務員や工員達が広場へ集り、兵隊に向かって絶叫、前進していた。

 兵士達は「反革命分子が疫病のまん延を計画中」であるからと何かの注射をされ
命令があれば射殺せよと言われた。 人々が作ったバリケードに一斉射撃が加えられ
人々が次々になぎ倒されて、戦車がバリケードを突き破り、その後に装甲車や
トラックの列が続いた。 兵士達が注射されたのは、麻薬であったようだ。
彼らは見境なく銃撃し、銃弾にやられた人々が悲鳴をあげるのを耳にしては
笑っていた。
 
 並んだ戦車の間から、歩兵が一斉射撃をして、なぎ倒す。
 弾丸を装塡して発射、その繰り返し・・・

 夜が明けて、天安門に通ずる東西10k半の両長安街には、男性や婦女子の死体が
あちこちに横たわっていた。 外国特派員の目から隠す為に、夜の内から死体を積み重ね
ガソリンをかけて焼いたり、ヘリで死体を北京市西方の丘陵地帯に移送し、そこで
火葬し証拠隠滅を図った。 その悪臭は、北京市内の上空を漂い、吐き気を催すほどで
あったとか・・・

 私は、2回目に中国を旅した時、上海の恩人である陳さんに天安門事件の事を
詳しく聞いたのです。 彼は、日本の通産省(現経済産業省)に当たる官僚です。
 いつもは北京で勤務していますが、偶々、出張で上海へ行った時、私と出合った
のです。 政府側の人間でありながら、彼自身、休みの時、学生達と一緒にデモに
参加した事があると言っておりましたが・・・(笑)  ここで(笑)不謹慎ですね。
 
 「 “西側諸国の報道で、学生を含めて中国人民が何万人死亡。” とか新聞や
TVのニュースで見たけど、実際どうだったの? 」と聞きますと 「学生は、殆ど
無傷だったが、残念ながら、軍に抵抗した市民が100人位は死亡したようだ。」
と言ってました。

 私のペンパルの事について聞くと、「推測だが、T君の場合、ウーアルカイシ君と同様に
民族的には違うが、今回のリーダー的存在なので、多分、当局からマークされていた
可能性大で、きっと地下組織 (チャイニーズマフィア? ) に入って香港へ抜けて
海外へ逃げ延びたと思う。 」と言ってました。 「だから今頃、アメリカか
どこかの国で元気で暮らしているよ。 」って・・・

 それをそのまま信じていいものか、でも、そう思うしかないのである。 その方が
希望があって気分的には救われる。
 二人で紫禁城の前で写した写真を見る度、笑顔のT君が故人になって欲しくない
事を祈るだけです。

 都市部ではありますが、中国は20年前と比べて、随分変わりました。
 未だ未だ政策には問題がある様に思えますが、以前と比べると、大学に行く若者も
増えていますし、中国にとっては大きな進歩だと思うのです。
 中国がよくなっていったのも、あの時のデモの意義があったというものです。 







上海の 恩人

2009年05月17日 | China
 国際飯店は南京東路から、徒歩ですぐ行けますので、非常に便利なんです。
 昨日の夜、南京東路行きのバスに乗ったのに、心ない服務員のせいで、あわや
迷い人になる所だった。 でも、いい人にめぐり合えて、本当にラッキーとしか
言いようが無い。果たして、世間でどれだけの人が、夜遅く、外人の為に荷物を
持って、ホテルを探してくれる人がいるでしょうか? 私は旅行先でいろんな方に
お世話になっているので、夜遅くであろうと、彼と同じ行動を取ると思いますが・・・

 朝、10時過ぎ、フロントから電話があり、昨日、ここまで連れて来て下さった
恩人の陳さんが来られた。 彼は、この部屋の広さに、かなりびっくりしていたよう
でした。 昨日、予約もなしに、いきなりホテルへ来たものだから最上階のスイート
ルームしか開きがなかったのです。 日本のガイドブックに書いてあったが、1934年
ハンガリー人の建築家によって建てられ、60年代半ばまではアジア随一の高さで
オールド上海の面影を色濃く残すクラシックホテルだったそうです。

 抜群のロケーションに、そびえる摩天楼は、交通便も非常に良かったものです。
 部屋は20畳近い部屋が3部屋ありました。 一つは、巨大ベッドが二つある
寝室、応接室これも、豪華な刺繍がしてあるソファーの応接セットがドーンと
置いてあり、その家具のせいで、広い部屋が、逆に小さく見えてました。
 もう一つは、客室のツインそれに又、広い洗面室に浴室・トイレ。 一人旅の私には
この上なく無駄な部屋でしたが仕方ありません。 でも、難を言えばやはりオールド。
 日本や香港のホテルに比べると広いだけで、洗練されてはいなかった。
 値段の方はペニンシュラホテルの四分の一にも満たなかったです。

 二人で、このホテルのレストランへ行く。 全て、陳さんにオーダーをして頂く。
 隣のテーブルに日本人のおじさんが二人いて、一緒に食事しないかと言われたけど
陳さん、嫌な顔していたので、やんわりお断りする。 でも、隣だから、おじさん達
私達の事、気になるのか、二人の英語での会話に聞き耳を立てていた様だ。
 余程、暇なのか? 食事の後も「その中国の方もご一緒に市内観光行きませんか?」と
 結局、ガイドがして欲しかった様だ。 言葉が解らないと食事も注文できないもの。
 道理で、レストランでラーメン食べていた訳だ。 断って悪い事しちゃったかな。

 食事を済ませた後、中国のお土産を買いに行くのにも付き合って頂き、夜は
街のおいしいラーメン店で、昼食のお返し? (そんな事したら意味無いのに)に
ごちそうして頂いた。 喫茶店に入って、話した事は、お決まりの戦争の話題。
 私は、「昔の日本人は、悪いことをしましたね。あなたの故郷である南京で
大虐殺をしました。 何万人か殺しました。同じ日本人としてとても残念に思います。」
「何万人じゃなくて、30万人以上です。」 と私の言っている事が間違っている
事を指摘されました。 「でも、それは、過ぎ去った事、私達は、過去は過去として
記憶にはあるが、今の日本人に対して、悪い感情は、全く持ってないですよ。」
と付け加えて下さった。

 別れる前、ご自分の名前の一字にある楠の木のお箸をプレゼントして頂きました。
 この方が、あのバス停に現れなければ、私はどうなっていたのか・・・
 考えただけでも、ぞっとします。 本当に英語の解る方が真っ暗闇の中で、よくぞ
現れて下さった。感慨無量でした。 きっと、私の普段の行ないが良かったのかな。

 明くる日、飛行場まで送って下さるとまで・・・どこまで、親切なの?
 でも、お仕事も一日お休みして下さっているので、丁重にお断りしました。
 今回、計画もなしに、無謀な旅でしたが、私にとっては、いろんな意味で
勉強になった旅でもありました。 やはり、自由な旅は若い時にするものです。
 中年以降は、短期間のパックツアーの方が、楽でいいと思いますけれど、、、

 最近、特に感じるのですが、この世の中で、情というものほど、大切なものは
ないと思うのですが、何かしら、希薄になり、忘れられている様な気がします。
 しかし、この時の事を思い出し、自分自身も見失っているものがある様な気が
しますので、困っている人には、優しくしなければと思うようにしています。

 初めての中国の旅は、これで終わりましたが、天安門事件の後、アジア大会を見に
2回目の中国へ、再び旅立つのですが、その旅行記は又、書いて行きたいと思います。

           又ブログで逢えるその日まで再見 !! 

 

上海の夜空は三日月だった

2009年05月10日 | China
 先週の続きです。

 夕食はルームサービスを頼みました。どうせ、メニューが解らないのだから
注文もできないし、初級レベルだから、尋ねるのも難しいので、手っ取り早く
フロントに電話して英語で注文。 これが一番。 30分程経ってから、二人の女性が
ワゴンを押して中華料理を2,3皿持って来てくれた。 ゆっくり味わって食べた。

 いよいよ明日は、上海へ戻る。 大阪~上海往復のチケットを買っていたので
戻らないと、日本に帰れない。 まあ、変更もできるとは思うのですが、始めに
決めた事なので、やはり戻ることにする。 上海行きの切符は2日前にCITSで
買っていたので、3時に駅へ行って、列車に乗るだけです。

 朝、ルームサービスで朝食を頂いた後に、ゆっくりと荷物をまとめて広州駅に
向かった。 今回は、香港でおいしいお菓子類を沢山買っていたので、列車内の
食べものは万全だ。 3時過ぎ、列車が着いたので、服務員に座席番号を見せて
場所を教えてもらって乗車する。 私の横は、神経質そうなイギリス人だった。
 ずっと本を読んでいるか、寝ているかどちらかだ。 私が起きている時で、上海に
着く迄トイレにも行かないし、飲食しているのを見た事は無かった。 私も英語で
何度か話しましたが、お菓子も入らないと言われたし、とっつき難い感じでした。

 普通、外人同士のトラベラーなら、情報交換等で意気投合して簡単に友人関係に
なるものだけど、少し、変わった感じの人でした。 せっかく、退屈しないで
列車の旅ができると思ったのに残念でした。 明くる日の夜、8時に上海に着く。

 駅前のバス停でバスを待つ。 南京東路行きのバスが来た。 中で私は、ホテル名を
書いて、その場所に着いたら、教えて欲しいと書いたメモを服務員に渡した。  
 そして、服務員の前に立ち、教えてくれるのをひたすら待っていた。
 用がなければ、照明もいちいち消しているので、車内は真っ暗なのである。 
 15分位乗ったであろうか、ある所でバスが止まり、服務員席の所に灯りが点き
「ここで下りなさい。」 と言われ、お礼を言って、何のためらいも無く
そのまま下りました。 真っ暗な場所に下ろされて、一瞬「やばい」っと思った時
バスは去ってしまった後でした。

 全く灯りのない所に下ろされてしまった。 真っ暗クラクラ、めまいがしそう。
思わず、空を見上げた。晴れ渡った夜空に浮かんだ三日月が哀しかった。
 せめて満月ならもう少し、明るかったかもしれないのに。 途方に暮れた。
 夜に着いたのが最大のミスだった。 北京に着いた時も、広州の時も到着したのは
朝だった。
 後悔先に立たず。 このまま、この場所に居るしかないと思った。 待っていれば
又、バスが来るだろうから、それに乗ろうと、一歩も動かなかった。 というより
真っ暗で動ける筈がなかった。 やはり、香港に荷物を持って行って、そのまま
帰国すれば良かったんだ。 と、悔しくて涙も出やしない。 何十分待っただろう。
 真っ暗で、よく見えなかったが横に人の気配が感じられた。 顔は見えない。

 私は、「すみませんが、この近くに国際飯店はありませんか?」 と英語で尋ねた。
 何とラッキーな事にその人は英語が話せた。私が困っているのを、解ってくれて
一緒にホテルを探してくれた。 その人は、北京から出張で来ていた。 その人が
宿泊している宿に案内してくれると言うので付いて行ったが、外人は外人専用の
ホテルヘ泊まれと相手にしてくれなかった。 何回も頼んでくれたけど、やはり駄目
でした。 それで、荷物も半分持ってくれて、バスに乗って、外人専用のホテルに2、3
案内してもらったが、全て宿泊客で満室だった。 私が「国際飯店はわかりますか?」
その方は、近くにいる人に聞いて下さり、又、バスで移動した。 その方の年は、26歳で
南京大学を出て Writer をしていると話されていました。
 
 暗い道を歩きながら、「明日、一緒に食事しませんか?」「いいえ、結構です」
「そんな事言わずにお礼がしたいので、是非、お昼ご一緒に。」「結構です。」
 何回誘っても断られました。 こんなに優しいのに、随分、頑固な女性でした。

 やっと、国際飯店に着き、私が中に入って交渉、宿泊が可能になったので
外で待機(宿泊できない場合、他を当たる為に待っていてくれた。)している彼女に
「ここに泊まります。」と言うと、喜んでくれて、部屋に荷物を運ぶ為、ホテル内に
入ってきて、初めて彼女が、彼である事に気付く。 何故なら、声のトーンが少し高い
のと髪にパーマをかけていたので、暗闇の中では、ずっと女性だと思っていたのです。
 丁重にお礼を言って、お別れしようとすると、明日、“ここに来る。”と言って
くれたのです。 先程まで、何回も断っておきながら、何故か急に、気持ちが
変わったので驚いております。 でも、食事の招待を受けてくれて嬉しく思いました。


                     


間一髪 !? 東方賓館へ滑り込みセーフ

2009年05月03日 | China
 先週の続きです。

 朝食に牛肉粥と様々な点心があったので一種類ずつとり(食欲旺盛でございます)
ゆっくりと食事した後、チェックアウトする。 中国の滞在費が安かった為
予算のゆとりが生んだ贅沢な一泊だった。 それから街に出て、買い物三昧。
 ブランドの化粧品・ブランドの服・漢方薬・花茶・ウーロン茶等を買った。
 ショルダーバッグと土産物だけなので、とても楽に移動ができた。

 九龍にある香港鐵路の紅磡駅から直通列車が出ている。通常の香港域内列車とは
区分されていて、手続きを経て、ホームへ出る。 この駅を出ると、広州東など
次は中国域内となるので、始発駅で香港出境手続きを済ませる。 香港鉄路の
東磡鐵線終点羅湖駅迄は40分、中国境界に接している。同じビル内の改札口の先に
あるのは、香港イミグレーションだけ。 つまりこの駅は境界越えの専用駅なのである。

 香港を出境するとすぐ、境界の深圳川にかかっている橋を渡り、中国のイミグ
レーションへ並ぶ。 ビザがないからと、入管員に別室へ連行? される。 香港側へ
入った時に、当然、出国になるのだから、ビザは切れる。 帰り、香港のイミグレで
中国入国のビザを取りたいと言ったが、中国側のイミグレでも良いと言われたので
そのまま行ったら、軟禁状態? 中には、私と同じ様な理由で、数人の日本人が
口々に文句を言いながら、待たされていた。 私が、一番最後らしい。 ほとんど
仕事で来ている人達で、皆で、輪になって、彼らの愚痴を聞いておりました。

 華僑や台湾人は同胞だから、ノーパスで通れるのに、どうして、僕らはこんなに
時間がかかるんだ。 お金を払えば、すぐ通れる筈なのにおかしな国だ。 無利子で
何兆円も貸しているのは日本だけだぞ。 知ってるのか? 知らないでしょうね。
 でも、それって、第二次・・・のつけじゃないんですか ? 
 興奮して声が大きいですわよ。盗聴器があったら、まずいことになりますよ。

 その時、突然、入管の人が入って来られて、心臓が止まりそうになりましたけど
私の横で話していた男性と一緒に、出て行かれました。出て行く時に「さよなら」と・・・
  私は 「Good luck ! 」 と言いました。

 それから、一人ずつ部屋から出て行かれて、最後に私一人、残っておりました。
 何と、3時間半も待たされていたのです。 私は、ビザにかかる費用を支払い
中国側に出ると、そこは、経済特別区深圳市でした。 広州を始め中国各地へ
列車の出る深圳駅の始発駅がそこにありました。 すぐに、広州行きに乗る。
 先程まで、快適な車内だったのに、深圳から列車に乗るなり、何で、いきなり
ごった返しているの? 絶えられな~い。と言っても、もうここは、中国ですよ。

 先程までの緊張が解けた為なのか、急に尿意を催す自分に気づいた。 もっと早くに
気づけば良かったが、この混み具合では、移動もできやしない。 座っていられるだけ
未だ、ましというもの。 ここは、無我の境地で、ただ静かに眠るだけだった。
 ようやく、広州駅に着いた時、もう妊婦の様にお腹がパンパンに張っていた。

 走ることもできないので、ゆっくりと、両太股をすりすりしながら、早足で
ああ~表現が難しい。 取り合えず、粗相しないように、そろり、早足、そろり
やっと、東方賓館に着く。 それでも、フロントでは、涼しい顔して、チェックイン。
 冷や汗たらたら、部屋を開け、そのまま、トイレに直行。膀胱炎になりそう。
 用を足した後も、しばらく便座に座ったまま。放心状態。 何の話です? 全く。

 昨日は、天国。今日は地獄。 明日は、又、上海に戻ります。 何か、とても無駄な
旅の様ですが、大体、故宮を見るのが、今回の目的だったので、北京と香港の旅と
申しましょうか。 随分、遠回りしたものだ。 でも、新たな人間ウォッチングには
なりました。 本当に貴重な体験かも知れません。 と言いつつも、未だ、旅は続いて
おります。 明日は、鬼が出るか、仏が出るか・・・ 

 来週に続きます。

 
 

香港 ランドマークのルイ・ヴィトンで 

2009年04月26日 | China
 先週の続きです。

 ペニンシュラ・ホテルにも、ヴィトン・ブティックはありますが、いつもランドマークに
足が向く。 ランドマーク・ルイヴィトンのハウスマヌカンは「ようこそ!」とドアを開けて
私を迎えてくれたのです。 「何処のお店から?」「大阪です。」と二人が話しているのを
並んでいたお客さん達は見て、「なんだ!」と納得していたようです。
 私が着ていたものは、ヴィトンの制服だったのです。 当時、世界中のヴィトンのお店の
制服は同じものでしたので、服を見て、ヴィトンの販売員と解ったのです。

 

 制服は年に4回、ギラロッシュ(勿論 made in France )のデザインのものがパリから
送られてきまして、支給されるのです。 いつもは、エレガントな感じのワンピ-スが多い
のですが、この時、着て行ったのは、ブルーのブレザーに開襟シャツとプリーツスカートが
ベージュ色のもので、夏にルイ・ヴィトンカップ(ヨットレース)がある為、海をイメージ
した制服だったのです。 それぞれ上衣2枚の左胸のポケットには、ルイ・ヴィトンの
ロゴマークが刺繍されていました。


 
 でも、この制服、仲間内では随分と不評だった制服で、スポーツ大会の入場行進の時に
着る服みたいだとか、00電気の制服みたいとか・・・それでも、あえて着て行ったのは
並ぶのを避ける為、親睦を深める為、日本人が多いので応援販売をする為?

 こちらの店員は、殆どが片言の日本語しか話せないから、当然、私にお客様が集まって
くる訳でありまして、でも、販売はこちらの方が、ずっと容易いものでした。
 日本と比べて少し安いですから、あまり悩まず、すぐ買って行きます。 私は日本での
ポジションが、ハードでしたので、これがまた、説明ばかりが多い場所でしたね。 
 新人の人は、品が動き易い、ソフト中心でした。 ハードは一日に数本売れればいい方です。
 ハードは、価格が高いので、3本売れたら、平均して90万越します。 最高、600万
近く売った事がありますけど、私の場合、最初から商品を買ってもらおうとアプローチした
ことは、殆どないですね。



 いつもの様に、私が立っている場所に、お客様が来られますと先ず、お客様の暇度?を
直感して世間話をする。 殆どこのパターンです。 話好きな私ですから、お客様を見て
いろんな話題をもちだして「この店員、おもしろいなあ。」って思って頂くだけなんです。
 これで、リピーターが増えていき、キャバレーじゃないけれども、私を指名して下さる
お客様が増えて行った訳です。 一度、北新地のクラブのママに「うちの店に来ない?
あなたならすぐパトロンがつくわよ。」って、スカウトされましたが、丁重にお断りさせて
頂きました。

 私は、子供の頃から、気に食わないお手伝いさんが来るといじめて、何人も泣かせて
辞めさせた性悪お嬢で、小さいときから、ちやほやされて、育っているので、人を褒めたり
おべんちゃらなんて言葉の使い方も知らないのに、所詮無理な話なのです。 
 ヴィトンの販売員だって、引き抜かれてきた様なものです。
 こんなストレスの溜まる仕事ないですよ。 魅力はギ・ラロッシュの制服が着られるのと
2年に1回パリ本店で研修があり、少し安くバッグが買えるということかな。

 大手の商社に事務員として勤めていた頃、年に2回、株主招待セールがあったのです。
 その応援販売に行った時、ヴィトンの新店ができるので、ぜひ、来て欲しいとスカウト
されたのがきっかけです。 ちょうど、個人的に悩んでいる時期とうまく? 波長が合った
様な感じでした。 好奇心旺盛な性格も多分にあったとは思いますが・・・

 何か、中国の旅の話が、ルイ・ヴィトンの話に変わってしまいましたね。(笑)

 元に戻ります。

 結果、2時間程、販売させて頂きまして、友人から、頼まれていたミニサックと
私の家族のおみやげ2点を買って、早番で終わられた2人と食事へ行く事になりました。
 とてもおいしい飲茶をごちになりました。「ヴィトンの経費だから、遠慮しないでね」
って、私が気を使わないように、配慮して下さった。 ペニンシュラ・ホテルの部屋を
見たいと言うので、一緒に部屋へ戻り、素晴らしい夜景を見ながら、しばし雑談と写真撮影。
 その写真を送る為、住所の交換をして、午後9時ごろ帰られました。久々に、中国の垢を
落として(キタナ~イ)優雅な気分で休む事ができまして、明日、中国へ戻るのを止めて
このまま、香港で2,3泊して、空路、日本へ帰ろうかな、なんてバカな考えを、、、
荷物を広州のホテルに預けたままなのだ。 Oh my God !  次回へ








いざ 陸路にて 香港へ

2009年04月19日 | China
 先週の続きです。
 
 広州駅の外にいる大勢の人々から、やっとのおもいで駅前通りに出ることができ
とりあえず、宿を取るべく、駅前の紅棉酒店に飛び込みました。 部屋は容易に取る
ことができまして、荷物を置いて、早速、食べ物を買いにホテル近くのスーパーに入る。
 店内では、買い物している人は、ほとんどいなくて、逆に外から、中の様子を見ている
人の方が多くて、買い物するにも、何か緊張してしまいました。 ホテルにお湯を沸かす
ポットがあったので、カップ麺を2,3個と不味そうなお菓子、潰れたイチゴを買った。

 こんな潰れたイチゴ、食べたくなかったけれど、身体に良くないと解っていても生ものが
食べたくて、仕方なかったのです。 列車の旅で、すご~い弁当を買って食べていた。
(ご飯の上に油ギタギタのおかずがドバッとのっているもの)
 3日も、食べて御覧なさい。 サラダとか、新鮮な果物が欲しくなるに決まっている。
 会話できない一人旅の辛いところだ。 車内レストランに行けば、おいしい中華料理が
食べられるが、会話ができないから、注文もできない。 メニュー見ても解らない。
 仕方なく、周りにいる人民と同じものを食するしか仕方ないのである。

 スーパーで買った食べ物を、ホテルに持ち帰り、カップラーメンを食べた。
 あまりの不味さに、全て、捨ててしまう。 お菓子も食べたが、予想通りの味で
くず箱行き・・洗面所で、イチゴの傷んだ所をえぐって取り除き、何度もきれいに洗って
結局、食べれる所が3分の1しか残らなかったが、恐る恐る、一口食べる。とても、甘くて
おいしかった。 少し、元気がでてきた。

 このホテル、温泉旅館の様な感じで、台湾のお客さんが多かった。 部屋にいると
ノックはしてくるし、電話がよくかかってきて、何か言っていたが、私が推測するのに
女一人旅という事を、誰かに聞いたのか、ロビーで見られていたのか知らないけれど
言葉は解らないが、いやらしい話し方なので、どうも、女遊びの相手にしようと思っていた
ようです。 電話は一回しか、取りませんでしたけど、後からずっとかかりっ放しだった
ので、布団でグルリと巻いた状態で消音をして、ドアの音を立てずに、そっと外へ出ました。

 すぐ、別のホテルに変わりたかったけれど、そうもいかず、とりあえず、2日後の
ホテルを探しに行く。 暫らく歩きますと、結構大きな中庭のある高級そうなホテルを
見つけました。 東方賓館です。 私の予定では、明朝、広州を出て、香港に入り、どうせ
中国の事だから、計画通りにはいかないと思っておりましたので、香港のペニンシュラHで
一泊して、広州に戻ってくるつもりだったので、2日後の予約を入れたのです。 
 香港へは、身軽にショルダーバッグだけで行くつもりだったので、明朝、ヴィトンの
キーポル・バッグを持って来るから、預かって欲しいとフロントのお兄さんに話したら
中国らしからず、対応が日本人並みで、気持ちよく引き受けてくれた。

 まあ、そんなこんなで、部屋に戻った時は夕方で、怪しいおじさんも電話をかけるのに
疲れたのか、もうかかってはこなかったですけど、それでもやはり心配なので、寝る前は
応接セットのテーブルや椅子をバリケード代わりに、ドアの所へ置いて、休みました。 
 明くる日、思った事は私ってすご~い力持ち、こんな重い家具をヒョイと簡単に持ち上げて
運んでしまうのだから。 と・・でも昨夜は、本当に怖くて心配でした。 
 家具を元に戻す時に、自分で自分を褒めてやりました。

 それから、すぐチェックアウトして、東方賓館に行き、キーポルを預けて、再び広州駅へ。
 昨日、CITSで買った深圳行きの切符を出して、列車に乗り込む。
 深圳で香港行きの電車に乗り換えた。 広東語が耳に入ってくる。あの語尾を伸ばす
ような発音が、私には心地よく聞こえた。

 飛行機では3回、香港に来たことがあるので、まあ、迷子になることはない。
 でも、その3回は、全て添乗員任せのパックツアーだったから、地下鉄乗るのも
レストランに行くのも実は初めてでした。 でも、全然平気だった。何故なら、Hong Kongは
イギリス領、すなわち、英語圏。 会話のできる国なのである。 私は、日本に帰って来た
様に、伸び伸びと行動をしたのです。 美味しいものを食べ、ショッピングをし、街の人と話し
かなりの出費でしたけれど、ペニンシュラ・ホテルの予約も取りました。

 そして、わざわざランドマークのルイヴィトンを尋ねる。日本人のお客さんが、店の前を
並んでいた。 買い物客が多いので、入場制限をしていたのだ。 私は、並んでいる
お客さんの一番先頭に行くと(ドアの前)先頭の女性が 「並んでいるのよ。 あなた
順番守りなさいよ。」 「Oh Sorry! 」 私は中の店員さんを見て「May I come in ? 」
 私を見た、ヴィトンのハウス・マヌカンは近づいてきて 「Welcome!」と・・・

 次回に続きます。