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柔道から扶桑へ

2013-03-24 | ヒストリ:広瀬武夫

広瀬武夫の柔道の後輩に内田甲という人物がいます。
明治34年に改名して内田良平と名乗った、国家主義運動の指導者として有名な人物。
地元福岡から上京して講道館に通い始めた頃に広瀬と知り合った。
内田本人の話によると広瀬から柔道を教えてもらったらしいのだけれど、この人は広瀬について明らかに嘘だろという話

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/e8/92fd1a086cd1f86280ca5d7bfc1c63fa.jpg?random= (←明らかに嘘だろという話)
 
も残しているので、どこまで信用していいのか分からない所があるのだけれど。
あっちとこっちで内容が違うとかそういうこともあって、まあ、この人の広瀬談は「真実に基づいているのだろうけど、やや話盛り過ぎ」な感じで見る方がいい。
 
叔父が玄洋社の創設者、父もその創設メンバーのひとりであった関係で、内田自身も社員になっています。
玄洋社はその性格から中国と朝鮮に関心のある社員が多く、それに偏りを感じて内田はロシア研究の方に進んだ。
内田曰く広瀬には割と可愛がってもらった。
広瀬からすれば弟ほど年の離れた柔道仲間という事と、ロシア研究の同志という事が大きかったのじゃないかな~と思う。
明治27年にウラジオストクに行き、明治30年にはシベリアを東から西に横断。
ペテルブルグに着いたのは翌年の3月で、既に留学生として滞露していた広瀬武夫と久闊を叙しています。
広瀬の書簡によると内田はペテルブルグに20日程滞在した。

内田がシベリアを横断していた際手元不如意で如何ともしがたく、持っていた銃を売り払って旅費に変えるというトラブルに見舞われています。
この銃が広瀬から貰ったものだった。
何でも広瀬が鎮遠の回航員になった時の戦利品で、それを従軍記者で同艦に乗り組んでいた末永節を通じて贈られたらしい。

ふーんと思ってさ。
従軍記者は軍艦に乗れたのか、軍人に自由に取材できたのかというのは前々からちょっとした疑問だったというのと、末永節て誰。
末永節、末永純一郎の弟。
玄洋社創設メンバーの末永純一郎の弟。そら内田とも関係あるわー。
しかも末永純一郎日本新聞社の社員だよ。
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/f0/bebd8a191eb41c206501d4c451b1a031.jpg?random= 日本と言えば陸羯南

そして日本と言えば

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a3/8e99d585150edf8ddeca27a1d8bb2715.jpg?random= この人もいた。


末永節は兄の関係で引っ張られて、日本新聞社の通信員として日清戦争の際は海軍に従軍していた。
(末永は通信員と記しているけれど、記者との違いがイマイチ不明。ややこしいので以下従軍記者で纏めます)
その頃に正岡子規と相知ったようで、連れだって鮎漁に行ったり、下関で作った詩を送ったり。
残念なことに末永の回顧からは海軍の従軍記者がどういう扱いをされていたかという全体像が分からないのだけれど、何人かひとくくりで軍艦に置かれていたような感じ。
で、末永自身は橋立と扶桑に乗っている(他は不明)。

扶桑か!

鎮遠じゃないじゃん内田!(笑)
広瀬は日清戦争開始当初は運送船の監督官をしていましたが、黄海海戦後に扶桑乗組みに(航海士)。
その扶桑乗組みの間に鹵獲した鎮遠の回航員となり、その翌日に扶桑の航海士兼分隊長に補されています。
これが戦闘が全て終わったあとの話。
末永によると当時扶桑にはまだ大尉だった広瀬中佐が分隊長としていたとあり、ちょっと時間軸がずれている気がするけれど、回想としては割と確かなのか。いつの回想なのかが分からないのだけれど。
 
でね、末永の記憶によると名前を聞いた事がある人が色々と扶桑に乗っている。
伊地知季彦砲術長、斎藤七五郎少尉候補生、藤井光五郎機関大尉(シーメンス事件の人)、財部彪(肩書不明)。
財部彪?
え、そうなの?
他の資料で確認していないのでこれが史実通りかはまだ分からないけれど、そうだとしたらかなり(私は)楽しい。笑。
 
続く。
変な所で切ってごめーん!

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