前回最後に引いた生方敏郎の『明治大正見聞史』、これはかなり面白い回想録。
政治史とか文化史といったそういう小難しいものではなく、また政治家や軍人等の人物史に即してといったものでもない。
群馬から東京に出てきて早稲田を出て、新聞社に就職した一般市民が見た明治中期~大正期の様子が描かれています。
大正と言ってもほぼ明治の話で、当時の雰囲気がよく伝わってくる。
生方は明治15年の生まれなので、明治27・8年の日清戦争の時は12・3歳。尋常小学校かな。
明治32年に上京して明治学院、35年に早稲田に入ったのは前述の通りで、明治37・8年の日露戦争の時は22・3歳でまだ学生。
明治39年に外務省に雇われ、塵の山と化していた幕末維新期の条約改正に関する文書を整理。
翌年に東京朝日新聞入社、その後やまと新聞で記者など等。
記者であり、批評家であり、作家でもある。
日清戦争の頃、子供の目から見た自分の周囲の様子。
戦争が起るまでの日本人一般が清国に対して持っていた敬意の情、それが戦争で清国を圧していく内にどんどん軽侮に移り変わっていく。
田舎に住む若者が東京に憧れ、故郷を捨てて飛び出して行ったものの、その後東京で得た失望。
印象的な話が多いです。
日露戦争の時は、本来なら真っ先に出征している年代なのですが、恐らく徴兵猶予されていたのだと思います。大学生なので。
自分の友達が軍人や兵隊として出征していくのを見送っている。
後世から見るとこの戦いが分水嶺だったとかそういうことが分かるけれども、同時代の一般人にはそういう事は中々分からない。
日々報道される戦況を見てどっちが勝っているのか、負けているのか、分からなくなるばかり。
回顧録の雰囲気からすると良いニュースを聞けば喜びはすれど、ロシアはあんな大国だしといった不安感がずっとあったようです。
奉天会戦の勝利を聞いても、「このくらいの勝利では、我々に安心を与えるところまでは行かなかった」。
奉天の勝利は明治38年3月初旬で、この頃になると後送された兵士の口を通して戦場の恐ろしさが銃後に伝わるようになっている。
鉄条網、速射砲の恐ろしさ、要塞戦の困難さ。(生方の地元の高崎連隊が第1師団所属。旅順の要塞戦参加)。
勝っている筈なのに北に進むほど戦線が広がり、日本軍には不利に、ロシア軍には有利になっていく。
深入りした結果、どうなるのだろう。
「旅順口陥り奉天を占領するにつれ、不安の空気は却って前よりも濃くなった」
それだけに5月末の日本海海戦の大勝利がどれほどのものであったか。
「この海戦の後には不思議な位安楽な心持が来た」
海軍の無線電信機を開発した木村駿吉が日本海海戦の勝利を聞き、思わず床にひざまずいて合掌、感激と安心でその後1年ぐらいはぼんやり過ごしたという話がありますが、程度は違えどそれに繋がるものがあるような気がします。
まあそれは良いのだけれど、生方のこの本には広瀬の名前も出てきます。
と言っても本当にちょっとだけ。
この時の広瀬中佐の人気は実に素晴らしいもので、遂に須田町の交差点にあの銅像ができたわけだ。
あの銅像
続く
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日露戦争の映画の庶民感情とかは、むしろ太平洋戦争時の雰囲気を模していて、逆に、あまり教育を受けていない明治や大正の人のが理性的だったとか、この本を読んで、わかった気がしました。
あと明治初期ですか。
何百年ぶりの戦争といっても、その実態はよくわからず、殿様や代官がいなくなったとかくらいしかわからず、政府が信用できなかったとか。
本当に面白いですね。
明治初期の話、面白いですよね。
特段反政府的な感じのする土地でもないのに、一般庶民が維新から20年近くたっても薩長政府に対する根強い不信感を持っていたというのには驚きがありました。
そりゃ東北諸藩は…orz