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移転しました(2014/1/1)

扶桑から文士へ

2013-03-27 | ヒストリ:広瀬武夫

前の続き。
 
末永節の広瀬の肩書についての記憶、時間がずれているのかなと思うのは、末永が扶桑に乗っている時に威海衛の戦いが起きているため。
従軍記者が一下級将校(当時広瀬武夫は大尉)の事をそこまで詳しく覚えてもいないだろうと思うので、そんなに問題ない。
更に末永はこの威海衛の戦いの時の従軍記者たちの様子を少しだけ触れているのだけれど、そこに出ていた名前が、

・朝日新聞社 横川省三
・時事新報 宮本
・国民新聞 国木田独歩

おー知っている人がいるー
横川省三は日露戦争では名前の出てくる人物なのでご存じの方も多いと思います。
『二百三高地』だったか、仲代達矢が乃木希典を演じていた映画の冒頭が横川と沖禎介の銃殺シーンだったと思う。
時事新報の宮本某は誰か知らん。調べてない。
国木田独歩は明治後期~大正期によく読まれた『武蔵野』で知られる小説家です。
小説家としてよく知られているのだけれど、実際はジャーナリストとして身を立てていた人。
そっか。扶桑に乗ってたのか。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/20/2c92ca1f1afd123a9e15ad741b629c4b.jpg?random=
 
国木田独歩は明治期のグラフ誌の事を調べている時に引っ掛りました。
戦時画報=近時画報と知った際に、国木田独歩がその編集長だったことを知り、それでちょっと調べたろうと思ってジャーナリストとしての独歩の本(『編集者国木田独歩の時代』)を丁度読んでいた時だった。
相変わらずのシンクロ率の高さに笑う。
西園寺公望と気があって西園寺邸に寄宿していたのは知っていたけど、それくらいしか知らんかったわ。

この本には、独歩は日清戦争の際、国民新聞の従軍記者として千代田に乗り組み「愛弟通信」という従軍ルポを送っていたことが書かれていたのだけれど(『愛弟通信』として死後出版)、扶桑のことについては書かれていなかった。
末永の話からするとひとつだけでなく、幾つかの軍艦に乗り換えてもいたようだし、独歩にとってはその中のひとつだったのか。

と思いきや。
上記の本によると独歩が千代田に乗っていたのは明治27(1894)年10月~翌年3月(※威海衛の戦い→28年2月初旬)。
…………。す、末永ぁ…?^^;
あんたの記憶本当にあってるのか(笑)
と思うけれども、この辺りは本の又読みではなくて国木田本人の年表なりなんなりを見ないと今のところでは判断できない。(調べてない)
千代田に乗って扶桑に乗って(他にも乗って)千代田に乗ったのかもしれないし。
とまれ、
 内田良平の回顧→同じ艦に乗り合った末永経由で広瀬から拳銃を貰った
 末永節の回顧→扶桑艦には広瀬大尉がいた
重なる部分があるので、内田の話は真実だろうとは思う。
 
国木田独歩は明治4年の生まれ。
広瀬武夫や秋山真之が明治元年なので、まあ同世代と言って良いでしょうか。
田山花袋と仲が良くて、この人も明治4年の生まれ。
度々書いていますが私にとって明治の年表を見る時に主軸になるのが広瀬武夫なんです。
生年が元年なので覚えやすいというのもあるのだけれど、広瀬を主に見ているからなあ…
だから、これまた元年生まれの徳富蘆花の恋愛模様を見て「…同い年…だと…」という感じになる。
ただ広瀬も蘆花もちょっと特殊な感じがするので、比較対象がやや極端になっている嫌いがある事はあるのだけれど。
ちなみに徳富蘆花と大恋愛をしたのが山本覚馬の娘久栄で、これに反対したのが新島襄と八重である。

田山の『蒲団』読んだことある?
妻子持ちの中年男が、秘かに好きだった弟子(女学生)が男子学生と不適切な関係に陥ったため田舎に帰っていったのを悲しみ、彼女が使っていた夜具に顔を埋めてクンカクンカしながら泣く話。キモい。
田山花袋自身の話がモデルになっているそうですが、これこそ「同世代…だと…」
そういう目で見ると、同世代でも全然違う世界が展開していて面白いです。
住んでいる世界があちらとこちらで違い過ぎて、感じ方も全然違う。

独歩は「愛弟通信」で読者の愛国心を煽るような文章を通信していたものの、従軍中に身近に軍人に触れ失望したようです。
軍人は全然知的な生き物じゃなかった…
フネの中では日々馬鹿話、将校たちのあっちの話も聞きあきてガンルームではホラの吹き比べ。
精神上の話をしても分かる人がいないし、宗教は愚民の道具だ、位が関の山。
「軍人とは一種の愚人なり」
フネから知人に出された書簡の中にある独歩の言葉だそうです。

大東亜戦争の時も同じような話を見たぞ…
ガンルームに転がっている本は講談本ばかりで最新の専門書など何もなく、若い将校が全然勉強していない云々これじゃ戦争に負けて当然。
同じような事が長谷川慶太郎の本にも書かれていたけれど、若い士官は次のステップに進むために陸に上がると勉強しないといけないようになっていて、フネの中で位、というのもあったみたい。
なので、外部から来た人間が見たらそう見えるというのと、フネに乗ると多少羽根が伸び過ぎるというのもあるのかなーと。
しかも独歩が乗ったのは非常時だしなあ。緊張の緩和も必要だったんじゃね?
(しかしながらこの外部から見た内部と、内部の事情、ふたつの内どちらが正しくてどちらが違うとかではなく、そういう側面があるという点でどちらも真実なんだろうと思う)

そりゃ独歩やら花袋やらは、同時代にボードレールとかヴェルレーヌとかバイロンとかツルゲーネフとか言うてる人たちですから、ねえ…
「美の神に仕うる者どものつどい」、ですから、ねえ…(明治35年位。広瀬がロシアから帰ってきた年)
住んでいる世界が違い過ぎる^^;
海軍士官のフネにいる時のあまりカッコ良くない所に、感受性豊かでデリケートな人種が触れてしまった、という感じがあるんじゃないか、とは思う。
本当に酷い所もあったのかもしれないけれど。
(そう考えると明治中期に広瀬武夫という”軍人”がトルストイを読んでいたというのは、私はふーんという程度にしか思っていなかったのだけれど(興味があればそりゃ読むでしょ位の認識)、中々稀少だったのか)

ちなみに日清戦争当時千代田乗組みだった人をググってみたら山路一善がいた。航海士。
秋山真之と同郷同期で、財部彪の相婿。
明治4年生まれの海軍士官としては正木義太、竹内重利がいます。
あー…正木さんとは正に真逆っぽい…^^;

 
続くよ!
  
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拍手頂きました方、ありがとうございます!

広瀬の御命日でした…



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2 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2013-03-28 20:02:32
本当に1868年明治元年は、戊辰さながらに、色々な人が生まれてますよね。

尾崎紅葉、山田美妙、夏目漱石、鬼貫、秋山弟、岡田啓介、宇垣一成…

なんてまとまりのない…

年齢で学年を揃えたら、先生が病んでしまいそうな面子ばっかりが…
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2013-03-29 05:56:37
軍人ばかり見ているから見方が偏るんでしょうんねえ^^;
本当に色々と個性的な人が多くて、学校だったら先生、これは辛そうだ(笑)
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