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移転しました(2014/1/1)

銅像から上泉徳弥へ

2013-04-08 | ヒストリ:広瀬武夫

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/5c/6f2cf45868944bfafa2115004d24ce22.jpg?random= 
 
広瀬武夫の銅像建立の話は広瀬の戦死直後に彼の同期同僚たちが出したもので、すぐにあちこちの新聞に載った。
生方敏郎が当時の広瀬中佐の人気は凄かったと書いていましたが、その為もあってか結構な人数からの寄付金が集まった。
戦争が終わる頃には2万3・4千円、利子がついて40年には2万5千円。
以前は2600万位と書いたけれどこれは企業物価指数での計算なので、大体3000万円位の感覚かなー。
そういうこともあって銅像を立てざるを得ない状態になっていたようです。
  
しかしながら広瀬人気は戦時であったからこそ。
いわば一過性のブームであって、明治40年だと戦争が終わって2年、世間的には既に「ああ、そういう人もいたわね」という感じになっている。
それに30年代と40年代とでは随分世相が違います。隔世の感がある程。

銅像建立の実務は広瀬の同期たちが行っていましたが、押し付けられるような形で担当になった人は随分苦労しています。
銅像建設の候補地として上げた二十数ヶ所、その全てで門前払い。
「広瀬の銅像?事可笑し」
要するに片腹痛いわーと鼻で嗤われる。
死後特進でやっとこ中佐になったという広瀬の階級の低さもネックになっていたようだけれど、たった2年でそれくらい時世が変わっていた。

世話役は6ヶ月くらいあちこちに打診しに行ったのだけれどもどこからも断られ、最終的に名前が挙がったのが万世橋駅前。
しかしそこでも敷地の問題が起って鉄道院、東京市と揉めています。
それがなんとか片付いた後に神田区に話を通しに行くと、豈謀らんや神田区大喜びの大歓迎。
地元の大変な助力と厚意を得て広瀬と杉野の銅像は除幕式にまで漕ぎ着けることができました。
ありがとう神田区。

ただ銅像の所有についてもかなり面倒があったようで、同期会としては初めは東京市に寄付したかったのだけれど断られ、神田区からも断られ…
考え考えた末に水交社が所有することになった。
当時水交社の社長だった斎藤実がOKしてくれた。良かったね…^^;
(神田区は多分管理の問題で断ったのだと思う)
 
万世橋駅前の広瀬像、戦前は東京へ修学旅行に行ったら必ずここで写真を撮るというスポットだったのですが、知ってしまうと「あー…まあそんなもんだよね」という話がかなりある。
見ていると、そもそも同期の人たちは銅像建立には乗り気ではないんですね。
広瀬神社を造るのにも反対で、幾つか湧いた神社建立の計画を潰してきた人たちですし。
この事は以前触れましたのでここでは書きません。
興味のある方は「君はともだち」(サイト)を御覧下さい。

銅像の除幕式は明治43年、雨の日だった。結構降ったらしい。
それにも関わらず多数の見物人が集まり、一時は電車が止まってしまう程。
「雨で良かった、晴天だったらきっと死者が出た」というのが関係者の話。

福沢諭吉研究で知られる伊藤正雄(明治35年生)が『忘れ得ぬ国文学者たち』で、この除幕式の直後に銅像を見に行ったと回想しています。

明治四十三年のことだが、五月に万世橋に広瀬中佐の銅像が建った。
大抵の銅像は一人立ちで、中には犬を連れた西郷さんや、馬に乗った楠公さんなどの例はあるが、これは双眼鏡を手にして立った広瀬中佐の脚の下に、片膝突いた杉野兵曹長が天を睨んでゐるポーズが新機軸で、大評判だった。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/a2/b40842f04b874af15a3c1e3f2bbb761d.jpg?random= 
 
そうなんだ。

万世橋付近は昭和1桁代頃までは銀座、日本橋と並ぶ一大繁華街でした。
新橋→銀座→京橋→日本橋→万世橋→上野→浅草
これが江戸時代のメインストリートですが、明治に入ってもそれが生きていて鉄道馬車や電車が通るルートになっていた。
それに東京駅ができるまでは万世橋駅は東京の中心になるターミナル駅でした。
要するに広瀬と杉野の銅像は滅茶苦茶人通りが多い所に立っていた。
それだけに時代が進むと 邪魔だ とか 移転すればいいのに とか散々言われ、その揚句付いた仇名が
  
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/6e/2d8c35e547a6c62c8cafe2dd1d661a4d.jpg?random= 
  
 (あーはっはっはっは!)

あれか。
三条土下座前みたいなもんか。(※三条土下座前の高山さん(下の方)
 
昭和元~4年の間だと思うのだけれど、神田橋畔の公園に銅像を移そうという話が持ち上がっています。
しかしながらそれは神田の人々がうんとは言わず、また物理的にもちょっと難しかった。

なぜならここの地盤は脆弱で大きな像を立てるのには不向きであったので、像が倒れたり傾いたりしないよう、滅茶苦茶堅牢な工事が施されていた為。
まず地を約6.7m掘り下げてそこに72本の松の丸太を打ちこみ、その上にコンクリの塊。
そうした上に台座、杉野像、広瀬像が乗っかったのだけれど、広瀬像の足から下には補強の為約6mの鉄棒が延びているといった有様。
それを聞いて移転すれば?と言っていた人も致し方なしと諦めた。
そして当の銅像と言えば本当に頑丈にできていて、関東大震災でもびくともしませんでした^^;
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/0d/bb3d7dc277fbc809036125163e33d46a.jpg?random= 震災後の万世橋駅
  
戦後に撤去されてしまいますが、よく出来たと思うよ…
ちなみにこの写真と前回上げたこの写真、

 

後ろに写っている建物が違うけれども、同じ万世橋駅です。
上のは初代、下のは2代目で、大震災後に建て換えられたもの。
初代の設計者は東京駅を設計した辰野金吾になります。
 
で、辰野金吾と言えば、辰野金吾の息子が広瀬と(以下略)詳しくはリンク先を見てー(笑) 
このリンク先で日露戦争時の大本営海軍部の様子をちらっと書きましたが、当時の大本営参謀のひとりに上泉徳弥がいました。

はーい続くよー
   
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