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移転しました(2014/1/1)

広瀬武夫、シベリア踏破

2010-05-17 | ヒストリ:広瀬武夫

■サイト更新  『公文書に見る広瀬武夫 4』 ・ アンケート設置

はいはい。第4回目です。
今回のテーマは「帰朝命令、シベリア踏破」となります。
特にブログで書くことはないなあ…
ここで中途半端にごちゃごちゃ書くよりも、サイトの方で本文を読んで頂いた方がいいかと思いますのでそちらをご覧くださいませ。
 
でもまあ、触りだけ書きますと …本当にテーマ通りなのですが(笑)
今回は広瀬が明治34年秋に帰朝命令を受けて、日本に帰る迄の一連の動きを追ってみました。

海外駐在員の帰朝の際、帰国ルートは本人の好きな所から、というのでは当時はなかったようです。
予算の関連や、駐在員が帰る時の情勢も勘案されるのではないかな?
行きは割とフランクな感じがしたのですが…
「何時までに」、「何処を通って」、「○○をしながら」、帰ってこい、という感じで当局から指令が出ていたようで、広瀬の場合なら、『34年度中、シベリアを通過して、付近を視察しながら』帰ってこい。

アジ歴には公使付武官酒井忠利と広瀬武夫に宛てられた、そうした訓令案が残っている。
ついでに書きますと、
各国駐在員が所属していたのは軍務局で、庶務的な指示はどうも第2課から出ていたようです。
ただ、明治30年代前半は海外駐在員の制度がまだ固まっていなかったようで、1・2度程所属が変っている。
広瀬帰国の際は軍務局の所属で、当時の第2課長は加藤友三郎となります。

先日公使付武官の話を書きました。
その際「武官は駐在員の上司」と記しましたが、実はこの辺り少し微妙なのかと、思わない事も無くて…
いや、実際には上司だと思うのですが。
ただ組織図上ではどうなのかがイマイチよく…?
駐在武官、調べてみると省部に両属しているんですよ。
 ○海軍省…駐在員・留学生の監督取締り(教育的役割)
 ○軍令部…軍事情報・諜報
という感じでの両属ではないかと思うのですが。
省部の職員録を見ても、「公使付武官」単体で記載されているので、どういうラインになるのか。その辺りがよく分からない。
省なら総務長官(後の海軍次官)あたりに直属かとも思うんですが。
ちょっと詳細が分かりません。
脱線でした。

この第2課長加藤友三郎と現地組・酒井&広瀬の間で帰国に関するやりとりがあるのですが、今回のスポットはここになります。
この人、なんでわざわざ厳冬期のシベリアを天井の無い橇で帰って来たのだろう。
…というのは、結構な疑問だったのですが。
まあ何と言いますか。

可哀想だよね。仕事とはいえ。

感想はこの一言に尽きます。笑。
今回の更新分は2月初めに書き上げたものなのですが、その時に内容を人に話して「可哀想じゃない?」と聞きまくった(笑)

ご覧頂ければ幸甚です。

 
あ、後ですね、サイトのトップにアンケートを設置しました。
幾つか項目がありますがチェック項目だけでも大丈夫ですので、ぜひ教えてください!
  

今日付けの新聞で東京奠都の史料が見つかった旨が出ていましたね~

岩倉具視 関係文書から!

ね?ね!?何日か前書いた通りでしょ?
岩倉の事書いてる時、何故か岩倉が重なるでしょ!?(笑)
ちょっと笑ってしまいました。笑。


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