ゆかえもん、ぼちぼちやっとるがね

趣味のお城のことや日常のいろいろなことを書いていきます。

奈良県奈良市の城 水間城

2008-11-30 01:19:06 | 奈良県の城
最後に訪れたのは 水間城。

水間城。奈良市水間町。
山田氏の与力であった 水間氏の居城。

水間城の場所

場所、見学コースなどは
気分はコクジン
のサイトを参考にさせていただいた。


主郭。北西角に土塁がある。



主郭東側の空堀。


この城は 主郭が方形になっており、その周りに空堀および土塁がめぐっている。

私は 水間城を最後に名古屋へ帰宅。
他のみなさんは 奈良の城めぐりを続けることに。

奈良県は 環濠集落もたくさんあるようなので 機会があれば訪れてみたい。

なかなか来ることができない遠方の山城めぐりを 巡城組のみなさんと一緒にできて
楽しかったです。ありがとうございました。

奈良県奈良市の城 別所城

2008-11-29 01:02:14 | 奈良県の城
山添村から移動して 奈良市へ。
奈良市というと 大仏、奈良公園、鹿・・・のイメージが強いし 私も寺社仏閣の
イメージしかなかった。
でも 当然 城跡はあるわけで・・・

別所城。奈良市別所町。

別所城の場所

この城の場所、見学コースなどは
気分はコクジン
のサイトを参考にさせていただいた。

城跡がある山の前に 地主の方の家がある。
地主さん宅の農地近くを通るし 山のすぐそばに住んでみえるので 必ず許可を
得てから見学していただきたい。


別所城遠景。



主郭より北西にある堀切。



写真が暗いが 主郭。主郭の西、北、東と土塁があり、北側の土塁には武者走り
がある。


次は 水間城へ。





奈良県山添村の城 大塩城

2008-11-28 00:30:24 | 奈良県の城
次は 大塩城へ。

奈良県山辺郡山添村大塩。
戦国時代に 大塩氏が築城した。

大塩城の場所

ここは 道路からだと崖で登れないが 民家の入り口近くから入るとすぐに
城跡に着く、とのことなので 許可をいただいてから城跡見学をした。



主郭。北側に土塁がある。


主郭の西に副郭があり 東には2段の曲輪がある。
主郭の北側には 土塁が半分囲むようにある。

次は 別所城へ。

奈良県山添村の城 毛原城

2008-11-27 23:59:26 | 奈良県の城
次は 毛原城へ。

毛原城。奈良県山辺郡山添村毛原。

毛原城の場所

場所、見学コースなどは 
気分はコクジン
のサイトを参考にさせていただいた。

この城は 城めぐりコースには入っていなかったが 東海林さんおすすめの城
ということで 急遽寄ることにした。

到着した時 城跡の位置がはっきりとわからず ともさんは右手の山へ
東海林さんは左手の山へとそれぞれ見に行ってくれた。
結局 左手の山にあることがわかり 笹藪を歩き城跡に到着。

着いて さっそく目に入った西の空堀!
西側の空堀は南北にあり途中 横堀があり十文字空堀となっている。
こんな堀を見たのは初めてだ。


登城口。



空堀。東側の堀切かしらん??十文字空堀も撮ったけど わかりにくいのでやめました。
高さのある土塁がある。



東側の堀切。



藪状態の主郭。空堀と堀切でおなかいっぱいなので 藪の主郭はどーでもいい!?


少々 蚊がいたが そんなことより堀のすごさに大満足♪

次は 大塩城へ。


奈良県山添村の城 畑城

2008-11-24 01:31:44 | 奈良県の城
6月28日は 伊賀の城館めぐりだけでなく 巡城組のみなさんと奈良で城めぐりもした。

伊賀市で館めぐりを楽しんだ後は 奈良県山添村で巡城組メンバーと合流。

最初は 畑城から。

畑城。奈良県山辺郡山添村春日。
天正年間(1532~1555)に 奥田忠高が築城した。

畑城の場所

畑城の歴史、縄張り図、見学コースなどは
気分はコクジン
のサイトを参考にさせていただいた。

この城は 西曲輪群と東曲輪群がある。私たちが登ったのは 県立山辺高校分校
の南側からで 西曲輪群の見学からスタートした。


分校のそばの 登城口。



東曲輪群主郭の北側にある石積み。


もっといっぱい写真があるのだけど・・・
堀切、主郭、曲輪など どの場所で方角はどちらかがわからなくなってしまい
コメントつけられず

次は 毛原城へ。











三重県伊賀市の城 大深氏館、竹島氏館、沢村氏館

2008-11-23 01:54:52 | 三重県の城
次は 大深氏館へ。

先ほどの五百田氏館跡からすぐ東の場所で県道沿いにある。

大深氏館の場所


大深氏館。ここも土塁がしっかりと残る。手前の田んぼは堀跡みたい。


次は さらに南へ歩き 竹島氏館へ。

ここは 土塁が少ししか残っておらず 屋敷跡は田んぼになっている。

竹島氏館の場所


ここも 屋敷の周りを土塁が囲んでいたことだろう。

次は 沢村氏館へ。

竹島氏館の近くにある 壬生野郵便局から東へ70mほどの所に沢村氏館がある。

沢村氏館の場所

場所がちょっとわかりづらくて 通りかかった人に尋ねてみた。
わかりやすく説明していただき たどり着くことができた。
そういえば その方は「沢村邸」って言ってたなぁ。

で・・・


これが 沢村家のお屋敷。思わず 「おおーっ!」と言ってしまった。
だって 雰囲気ありすぎなんだもの。
今でも 沢村さんが住んでいらっしゃるらしい。



入り口付近。石垣は後世に積まれたものらしい。



西側の土塁。堀もあるかな?


ここで 館めぐりは終了。短時間で たくさん見学することができた。
また 機会があれば 他の地区も行ってみたい。


三重県伊賀市の城 澤氏西館、五百田氏館

2008-11-22 01:05:55 | 三重県の城
6月28日。三重県伊賀市(旧伊賀町)の城館めぐりと奈良の城めぐりをした。

まずは 伊賀の城館から。

伊賀市には 朝の7時20分過ぎに到着。
この日の目的地である 奈良へ行く前に伊賀の城館が見たいと思ったのと
東名阪の渋滞を避けるために かなり早く出発した。
集合時間に間に合うように見学開始!

館跡には 今でも家があり住んでいらっしゃる場合が多いので 迷惑にならない
ようにしなければいけない。

最初は 沢氏西館。

沢氏西館の場所


入り口にある 石垣と土塁。



屋敷を囲む 土塁。写真は西側の土塁。


次は 五百田氏館。

五百田氏館の場所


ここも 屋敷を土塁が囲んでいる。

五百田氏館跡付近を歩いていたら 屋敷に住んでみえる方が歩いてきた。
朝早くから 見慣れない人がいるな~と思ったことだろう。
私はあいさつをし、見学をさせていただいている、ということを話した。

伊賀市川東地区には 上記のような館跡がいくつかある。
次も 館跡へ。

安城市の城 保科正直邸跡、上条城

2008-11-20 01:14:24 | 西三河の城(岡崎、豊田以外)
次は 保科正直邸へ。

保科正直邸跡。安城市山崎町大手。
保科正直は 武田氏に仕え、信州高遠城主だった。武田氏が滅びると北条氏に
帰属するが 天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いの頃 徳川家康につき
山崎村に領地を与えられ その館跡が正法寺の境内地である。
天正18年(1590)家康の関東移封まで住んでいた。(現地説明板より)

保科正直邸の場所



保科正直邸跡。現在は 正法寺。周りより少し高い位置にある。



説明板。


次は 上条城へ。

上条城。安城市上条町中屋敷。築城年、築城者など 詳細不明。
現在では 宅地となり遺構は残っていない。

上条城の場所



城跡は この浄玄寺の北方向。



城跡付近。


今回は これで終了。安城市のすべての訪城は年内に完了するかしらん。。。



安城市の城 山崎城

2008-11-18 00:52:46 | 西三河の城(岡崎、豊田以外)
次は 山崎城へ。
ここは 再訪だ。現在は神社となっているが 宅地の中にあるものの堀が遺構として残っている。

山崎城。安城市山崎町城跡。
三ツ木城の松平信孝が岡崎城の松平宏忠に敵対して織田方についた時、岡崎城に
備えて 天文12年(1543)に築城した。
天文18年(1549)今川・徳川連合軍が安祥城を攻撃した時に山崎城も落城。
しかし その後天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い後の緊張の中で 徳川勢
により 改修を受けたとされる。(現地説明板より)

山崎城の場所


神社本殿の裏に残る 幅13m、深さ2mの堀。



右手にあるのは 土塁。その上に神社の本殿が築かれている。



神明社。


堀の写真は 2005年3月に撮影したもの。
今年の6月に撮影したものより 堀が見やすい。(時期的に)
土塁の上に 本殿を建てたおかげで堀が奇跡的に残ったのかな~。

次は 保科正直邸へ。

安城市の城 柿碕古屋敷 高木清秀邸

2008-11-02 01:59:59 | 西三河の城(岡崎、豊田以外)
10月は 更新できませんでした。。。すみません。

6月13日に安城市の城めぐりをしてきました。
・・・5ヶ月も前

柿碕古屋敷。安城市柿碕町南屋敷。
いつ築かれたか わからない。
山田八蔵の屋敷跡と伝わる。現在は 宅地などになり遺構はない。

柿碕古屋敷の場所

付近は道が狭いので 公民館に駐車して歩いた。


屋敷跡北にある 地蔵堂。



屋敷跡付近。


次は 高木清秀邸跡へ。

高木清秀邸跡。安城市高木町下屋敷。
室町時代 高木宣光がここに移り住み、高木清秀の時 永禄6年(1563)
三河一向一揆がおこり 清秀は徳川家康に味方し、高木の土地を与えられた。
天正18年 家康の関東移封にともない この地を去った。清秀の子 正次は
一万石の大名になった。(現地説明板より)

高木清秀邸跡の場所


城跡碑と説明板。現在 宅地と畑地となり遺構はない。



城跡のある場所は 少し高くなっている。


次は 山崎城へ。