ゆかえもん、ぼちぼちやっとるがね

趣味のお城のことや日常のいろいろなことを書いていきます。

愛知県旧旭町の城 二井寺城

2008-01-31 00:13:24 | 豊田市(合併後)の城
1月19日(土)。この日は 旧旭町の二井寺城へ行った。

二井寺城。愛知県豊田市押井町松下。築城年、城主など詳細不明。

国道153号旧豊田市から来た場合、「新盛」の交差点を左折し 県道19号に
入る。そのまま北上し 浅間新橋(だったかな~。地図を見ると19号に入って2
本橋を渡り3本めが浅間新橋のようだけど。まだ新しい橋です)の手前右側に道が
あるのでそこを右折する。250mほど行くとT字路になるのでそこを右折。
(県道357号に入る。)
少し行くと 左手に林道へ入っていく道があるので そこを左折し ちょっと心細くなるような
林道をひたすら登っていくと 右側に民家が2軒見えてくる。奥にある民家らしき建物
が二井寺である。
よく見たら 奥の建物は民家じゃないってわかるけど(^^;)
寺の北西にある山が二井寺城である。



登城口。城内にお墓があるので 道がある。



登城口の向かいの景色。二井寺が見える。



登城口から登ってくると 曲輪2と3の間に着く。写真は登城道の左手にある
曲輪3。



曲輪3の北にある 曲輪2。ここにお墓がある。



曲輪2から 主郭を見る。主郭と曲輪2の間には浅い堀切がある。主郭は曲輪2の
北にある。



主郭。そんなの関係ねぇ~のポーズをする まるお。



主郭北にある堀切。主郭の東、北を二重の堀切で遮断している。



主郭東の堀切。もう1本さらに東にある。


この城は 南北に曲輪があり 北から主郭、曲輪2、曲輪3となっている。
山奥にある城ではあるが 登城道はあるし 城のすぐ近くには道路があるので
見学しやすい。

この日は 二井寺城1つだけ。
まるおは 今回も先頭を歩き 堀切にも下りたいと言い ちょっとした斜面を
下りるときも私の手を借りることが少なくなってきた。
ホント ラクになってきたなぁ。

次回は 近くの山城へ行くことを決めた。

豊田市の城 大給城 その2

2008-01-27 23:58:13 | 豊田市(合併後)の城
居館跡から主郭へは 案内に従って行けばいいのだが まるおは近道をしたい
らしく、主郭南にある3、4つの曲輪を通って行くことにした。
私も南側から行くのは初めて。まるおは上へ向かって登りだした。


主郭下の石積み。このような石積みが他にもある。まるおのおかげで 石積みを
見ることができました(^^)



主郭。秋には 紅葉の名所となる。(あまり知られていないので かなりの穴場
です。足助の紅葉もいいけど渋滞と人混みがスゴイのでこちらはいかが?)


次は 水の手曲輪へ。


水の手曲輪から 主郭方向を見る。この曲輪は主郭の北東にある。谷を利用して
つくられている曲輪で まるでダムのような造りになっている。ここも石垣でできている。



水の手曲輪の中央付近には 石組みで作られた井戸のようなものが。取水口か?



水の手曲輪の奥にある、堤防状の遺構。


5度めの訪城で 初めて水の手曲輪の奥まで行った。
この曲輪もかなりいい!
今まで どこを見ていたって?
・・・そうだねぇ。。。前回はおととしの秋で 紅葉を見に来ただけだったし。。。

今回の訪城で 大給城の遺構をほとんど見たことになるのだが 何回来ても
この城はいいっ!!
1時間は かるーく過ごせます。

そういえば まるおもこの城は2回目。
登城口から歩き出したとたん 「あっ、ここに来たことあるよ!」と言ったまるお。
えっ、覚えているの?と驚いた私は 「誰と来たの?」と聞いてみた。
「ばーちゃん。」
ん?「ばーちゃんだけ?」
「あっ、ママもいた。」
よく 覚えていたなぁ。おととしの秋のことだったんだけど。


山城に慣れてきたまるお。
次の山城も楽しみになってきたのだった。




愛知県豊田市の城 大給城

2008-01-24 23:02:16 | 豊田市(合併後)の城
1月14日(月)。この日は 豊田市の大給城へ行った。
大給城へ行ったのは5回目。
今回は 西の堀切を見るために訪城した。西の堀切は 整備された道から
はずれているが 見ごたえがあるらしい。
今まで4回も行っていて 1度も見ていないんだよなぁ。

大給城。愛知県豊田市大内町城下。
この城は もとは土豪 長坂新左衛門の城であったが岩津(岡崎市)に進出した
松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともに
これを次男乗元に譲り 乗元が大給松平氏の初代となった。
大給松平二代乗正は永正7年(1510)までに城の大修築を行った。以後 乗勝、親乗
真乗と続き 天正18年(1590)六代家乗の時 徳川家康の関東移封に伴って
上野国(群馬県)に移り、大給城は廃城となった。(現地説明板より)

国道301号を豊田市街から来た場合 松平橋を右折し 南へ行くと「九久平町簗場」
の交差点がある。
その交差点を左折し 1㎞ほど進むと右手に大給城の案内看板があるので そこを
右折する。(わかりにくい看板なので うっかり見落としやすいかも)
どんどん登っていくと 登り切ったぐらいの場所に登城口がある。登城口手前
50mぐらいの場所に駐車場がある。

この城は西三河では NO.1の山城じゃないかなーと私は思っている。
遺構は完存し また石垣が所々使用され堀切、曲輪など見ごたえは抜群である。
水の手曲輪と呼ばれる場所は まるでダムのような造り。
物見岩との伝承が残る場所からの眺めはかなりいい。
整備されているとはいえ ほとんど手が加えられている感じはなく すばらしい
遺構の数々を堪能できる城だ。


東の堀切。堀切の北に長土橋がかかり・・・



一度 折れて大手1の門がある。ここから入り 2度折れて・・・



いちばん東にある 曲輪3の虎口。



石垣で固められた 櫓台。



主郭南にある 居館跡。



居館跡の北の斜面にも よく見ると石垣が!



今回の目的地、西の堀切。居館跡の北側を通り西の方向へ行く。畑の方に少し
おりていき途中 右手の藪の中へ入っていくと堀切がある。畑の方へどんどん
下りていくと城から離れてしまうので注意。



堀切の右側にある 岩盤。その大きさにびっくり。


堀切へ入ったら さらに歩いていくまるお。それ以上行っちゃダメだよ、と
言うまで止まらず(^^;)
予想以上に見ごたえがあり 大満足であった

今回は主郭を見ないで 水の手曲輪へ行こうとしたのだが 果敢に城攻めをして
いる?まるおがどうしても上(主郭へ)へ行きたいと言う。
今日は ホントに積極的だねぇ まるちゃん。
と、いうことで 主郭へ。。。 






愛知県旧旭町の城 能見城

2008-01-22 01:14:50 | 豊田市(合併後)の城
小渡城の次は 能見城へ。

能見城。愛知県豊田市榊野町桜型。築城年不明。城主は 能見次郎左衛門光親である。

国道153号の「新盛」の交差点を北へ県道19号に入る。(旧豊田市から来た場
合は 左折する)そのまま北上し 榊野大橋と浅間新橋(まだきれいな道路と橋で
二つの橋の間の距離はわずかしかない)の間に能見城はある。

能見城の場所

この城は 県道建設により 削られてしまったようだ。
道路をつくる前に発掘調査をしたらしく 愛知県埋蔵文化センターのH.Pに写真
がある。

能見城発掘調査の写真 愛知県埋蔵文化センター



登城口。階段があるけど 土でだいぶ埋まってしまい 登りにくい。



能見城址とある 看板。この看板がある場所は曲輪の一部ではないかと思われる。



残った曲輪の切岸?


この城は葉っぱのような形をしていて 中央に櫓台のような土塁があったらしい。
県道建設で削られてしまったのなら 櫓台も含めてなくなってしまったのかもしれない。

こんな山奥?の城でも なくなってしまうことがあるんだなぁ・・・。

今回はこれで終了。
旭町には まだ行けそうな城があるので 今の時期に訪城できたらな、と思う。

愛知県旧旭町の城 小渡城

2008-01-20 16:21:37 | 豊田市(合併後)の城
1月9日(水)。この日は 旧旭町の城へ行った。
最初は 小渡城から。

小渡城。愛知県豊田市小渡町藪下。
築城年、城主など詳細不明。遺構から 戦国期の築城か。

県道11号をひたすら北上すると旧旭町の小渡地区に入る。「小渡」の信号を右折
し郵便局を通り過ぎると 左手に増福寺がある。寺の本堂の左側裏に 山へ登っていく
階段があるので 登っていく。道は お地蔵さまがたくさんまつられている平坦地
で終わるので そこを右へ行くと城跡へつく。
車は お寺近くにはとめられないので 市役所支所の駐車場を利用するのがいいかも。

登山道には ずーっと石仏が並んでいる。まるおはその石仏1つずつに
「こんにちは~」とあいさつをしていった。


主郭。塔が建っている。



主郭北東にある堀切。この堀切の向こうに曲輪2がある


堀切をへて 曲輪2へ行ったら あるものがあって驚いた。
それは 2体の石像。
1体は女性でもう1つは男性。変なモノではないので 怖いとか不気味とかは
ないけど こんな山奥になんで石像が・・・と不思議だった。
それぞれ名前があり 名前の横に「慈母」「慈父」とあったので この地域に
何か貢献した夫婦なのか 山の持ち主の親か先祖なのかわからない。



主郭の東下にある 畝状竪堀群。長さは8mほどと短く 土饅頭を並べた感じに
見える。
これを楽しみに来たので 満足♪



曲輪2東の堀切。



主郭南の堀切。


帰りは石仏に「ありがとうございました」と言いながら下りたまるお。
私が言いなさいって言ったわけじゃないけど

この日は まるおも長靴で登城。
靴より良かったようで 長靴は 私とまるおの城めぐり必須アイテムになった。

次は 能見城へ。

愛知県旧下山村の屋敷跡 花沢古屋敷

2008-01-18 22:47:26 | 豊田市(合併後)の城
大沼城の次は 花沢古屋敷へ。

花沢古屋敷。愛知県豊田市花沢町上根引。
文亀年間(1501~1504)駿河の今川氏親の武将 伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が
西三河を討った時 安祥城主 松平長親は屋敷をここにおき 内室を住まわせて
出陣した。

場所は 旧豊田市と旧下山村の境に近い。
国道301号を旧豊田市方面から来た場合、左手に「妙楽寺」の大きな看板が
見えたら そこに左へ入る道があるので 左折する。300mほど走ると道が二手
に分かれるがそこを左方向へ行く。100m弱行くと 道が左へカーブしそのまま
さらに行くと道がT字路になり 妙楽寺の観音堂がある。観音堂の左手には墓地が
あり この墓地あたり一帯が屋敷跡である。

花沢古屋敷の地図



妙楽寺 観音堂。



観音堂の西にある 墓地。このあたりが 屋敷跡。


今回は 1城、1屋敷で終了。
まるおとの山城攻めは これからも続く。。。

愛知県旧下山村の城 大沼城

2008-01-16 01:28:15 | 豊田市(合併後)の城
12月21日(木)。この日は 旧下山村の城へ行った。
下山の城はほとんど行ったが 大沼城のデジカメ写真がなく再訪となった。

国道301号「根崎」の信号を北へまがる。(旧豊田市から来た場合は左折する)
県道77号に入り 豊田市役所下山支所(旧下山村役場)を右手に通り過ぎ 次の
信号のない交差点を左折する。77号も左へとなる。(県道77号は←という表示がある)
左手に洞樹院があり その右手に 大沼城の説明板と登城口がある。車は説明板
近くになんとか駐車可能。お寺の駐車場も近くにあるけど(^^;)

大沼城。愛知県豊田市東大沼町八沢。
文明年間に 木村東見入道安信が築城したとされる。二代新九郎信元の時 天正
2年(1574)4月、武田軍によって攻め落とされ 信元も討ち死にした。
天正3年(1575)には 信元の養子 松平親清(大給城主 松平乗元の二男)が大沼城
主となり 親清の没後 天正11年(1583) 嫡子の近正が跡を継ぎ徳川家康の旗下
で軍功をたてた。天正18年(1590)、家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に
五千石を賜り 三河を離れた。大沼城はその頃 廃城になったと考えられている。



大沼城の登城道。来てみてびっくり!めっちゃ 整備されとるがね!!
2回目の訪城だが 前はただの山林だったよ~。



はいっ!がんばりまっス(^^)



三の丸。大沼城は主郭の南下に二の丸、その下に三の丸とある。



二の丸。奥に主郭の切岸が見える。



主郭。整備されているのは ここまで。でも 遺構はまだ奥にある。



主郭の北にある 堀切と土橋。土橋の横に立つまるお。



土橋を通って 東へ行き 2つの曲輪を越えると 資料では 「曲輪2」となっている場所がある。


縄張り図を見ると 大沼城はL字型になっている。(さかさまにした L字。「の形)
主郭の北にある 堀切を境に 整備されている部分の西側の曲輪群と未整備の
東の曲輪群となる。
東側は曲輪2を中心に 南と西に段状の曲輪を設けている。

下山の城は 道案内と説明板があるので わかりやすくていいなぁと思っていたが
大桑城が整備されたのに続き 大沼城も整備されたので とてもありがたい。

次は 花沢古屋敷へ行った。 

岐阜県旧和良村の城 横井城

2008-01-15 23:01:26 | 岐阜県の城
野尻城の次は 横井城へ。
Aさんに 登城口まで案内していただき そこで Aさんとはお別れした。

車内で昼食後 登城開始!と思ったら ちゅんたろうが 
「行きたくないっ!!」とダダをこね始めた。
道がなければ ここで待っていようかと思ったが ちゃんとあるとのこと。
これは 行くしかないでしょーと思っていた私は ホントに困ってしまった。。。
そこで 私はちゅんに 悪魔、いや天使のささやきをする・・・。
「ちゅん、クリスマスプレゼントね、サンタさんに ドラクエのソフトを
お願いしてあげる(^^)」
すると・・・さっきまで ギャーギャーわーわーうるさかったちゅんたろうの目が
キラキラと光り・・・
「えっ、本当??ほんとにお願いしてくれるの~♪」
「もちろん♪」
「やったーー!うん。ボク お城行くよ!!」
あ゛ーーーなんて 単純なヤツだぁ。
ゲームソフトはもうダメ!と言っていたので ちゅんは大喜びだ。
この作戦は 今回限りだな(^皿^)

横井城。岐阜県郡上市和良町横野。
天正16年(1588)稲葉氏が築城。慶長5年(1600)に廃城になった。

比高は111mとあるが それ以上登った気がする。
NHKのアンテナが途中にあり ここが山頂かと思ったら 城はまだまだ先。
ちゅんたろうは「ニセの頂上だね。」と言った。
ちゅんも私もバテバテで 後ろを歩いていたひろしさんに 何度、励まされたことか。
私たちの歩く速度が遅いので 迷惑をかけてしまったな・・・。
山道があるのは アンテナまで。
しばらくは 道らしきものがあったが 城跡へは斜面を登らなければいけない。

なんとか 城跡に到着。
ちゅんたろうは みんなに「がんばったね。」と誉められて うれしそうだった。



主郭。



主郭の北西にある 竪堀。もう1本ある。



主郭の南西にある 堀切。



主郭の北東、曲輪2との間にある 横堀。主郭の北東下に位置する。


横井城は 曲輪が2つあり 南東の堀切、その堀切のすぐ北に櫓台がある。
野尻城を見た後だったので ちょっと物足りなかったかな??
山城に少し慣れたちゅんたろうは 法師丸砦の時と違い 下山する時の足取りは
しっかりとしていた。
アンテナを過ぎ 山道を下る時は 私より早くてちょっと驚いた。

今回は これで終了。
道の駅で 巡城組のみなさんと別れ 帰宅した。

みなさんに 助けていただき 時には励ましていただき ちゅんたろうは
とても楽しかったようです。
ありがとうございました!


岐阜県旧和良村の城 野尻城

2008-01-13 07:22:07 | 岐阜県の城
法師丸砦の次は 野尻城へ。

野尻城。岐阜県郡上市和良町野尻。境城の西大手口を守る出丸砦として築かれた。
応仁2年(1468)美濃守護代 斉藤妙椿が郡上侵攻の際、野尻城は落城した。
慶長5年(1600)八幡城の戦の際、郡上奪回の兵を発した 遠藤慶隆は白川(加茂郡)
から進軍し、野尻城と法師丸砦に分かれ宿営した。
元和元年(1615) 徳川幕府による 一国一城令により 廃城となった。

城へ行く前に 麓の戸隠神社に寄り ここの天然記念物、重ね岩を見ることにした。



大きな岩の上にのっている岩は 手で押せば動くのだそうだ。
押してみたかったケド・・・。
この岩は 天の岩戸伝説がある。天照皇大神が隠れた高天原の岩戸を 手力雄命が
引き開けた時に飛散した岩戸のかけらといわれているらしい。


岩を見た後 いよいよ 城跡へ。

今回は 郡上市市史編纂や文化財審議委員などをされているAさんに案内をしていただいた。
ひろしさんが 事前に Aさんにお願いしてくれていたおかげだ。

この城は 登城道、案内板、説明板としっかり整備されているので ちゅんたろう
でも問題ない。


最初に着いたのは 出丸曲輪。



主郭の西、東曲輪との間にある 堀切。



東曲輪から 南西へ落ちている 竪堀かな。
野尻城には 竪堀が 4、5本はあると思う。



主郭。土塁もある。


2の曲輪、3の曲輪や竪堀などの遺構を見た後 帰りは行きと違う道、搦手から
下山した。
次は 登り口まで 案内してくださるという 横井城へ。

岐阜県旧和良村の城 法師丸砦

2008-01-11 07:17:30 | 岐阜県の城
下洞陣屋の次は 法師丸砦へ。

法師丸砦。岐阜県郡上市和良町法師丸。築城年など詳細不明。

到着すると 砦の表示と登り口の案内が。目の前の谷を登っていけばいいのかなと
歩いたが どうも登城道がない。
砦へ行くには直登しかないのだが ちゅんたろうはだいじょうぶか・・・?
なんとかよじ登り 途中 ともさんに助けていただいたりして砦跡に到着。


写真右にある 白いものが法師丸砦の碑。谷の右手の斜面を登ると 砦跡がある。



主郭。



主郭南西にある 堀切。


ここは 曲輪が1つで南西の尾根続きを堀切で遮断している単郭の砦だ。
範囲も狭いので 見終わるのは早かった。
さて 問題は 斜面を下りること。
ちゅんたろうは ともさんに 斜面の下り方を教えてもらいながら下山した。
だが 初めてのことなので 足もとがよろよろ。
途中 ともさんに抱えられるように助けてもらったら ちゅんが足を滑らせて
しまい 二人ともズルズルっ!と少し落ちてしまった。
うわー・・・申し訳ない!と思い 「だいじょうぶですか!」と 言ったら
だいじょうぶだよ、と言ってくださったので 少しホッとした。
ちゅんたろう?
ともさんに 守られてなんともない!
ホントによかった。。。二人とも ケガがなくて。

次に 野尻城へ向かった。