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本当に大正天皇は自らの判断で意思決定を行う能動君主だったのでしょうか?

2018-08-21 21:10:16 | 近現代史関連
Yahoo!知恵袋では、よく

対米戦争の開戦を天皇の命令と言う形で、阻止する(軍を押さえる。)ことはできなかったのでしょうか?

みたいな質問を見かけます。

また、その時に例えば
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11194379186


(残念ながら本記事の下書き段階では存在していた当該URLは、知恵袋運営により取り消し、または削除されたようです)

>明治憲法下で天皇は国の意思決定に大きく関与しています。よく言われる御前会議など重要な会議でただ聞いていただけなど全くデタラメでただ無知なだけなのです。

大正天皇は大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒したりして意思決定には大きく関与していた。

→という主張が見られたりします。

実際、帝国憲法下の天皇は確かに「意見を述べる」ことは出来ましたし、御下問などにより自らの意思を伝えることも出来ました。

それに間違いはないのですけど、こうした大正天皇に対する評価はいかにも過大であるように見えます。

大正天皇は大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒した


本当に大正天皇はそこまでの能動君主だったのでしょうか?

では、その具体的な内容を確認してみましょう。

以下、歴史学者である古川隆久氏の『大正天皇』(吉川弘文館)より引用します。

>大隈内閣はこのあたりから政界で次第に評判を落としはじめた。特に貴族院の反感が強く、山県ら元老の協力でようやく大正五年初頭の議会を乗り切った。大隈はその代償として同年六月二十四日、内閣総辞職を決意し、その旨を天皇に内奏(非公式に意思を伝えること)した。大正天皇は元老山県に後任選考を当たらせたが、後任に同志会総裁加藤高明を推したい大隈に対し、山県は寺内正毅を推して譲らず、七月二十六日に大隈は天皇に寺内では満足できないとして辞意を取り消す旨を内奏し、天皇も「然ラハ汝其ノ儘滞任セヨ(「大隈首相トノ交渉顛末」)」とこれを受け入れてしまった。(「大正天皇と山県有朋」)
面子を潰された山県は、「君主ノ一言ハ甚ダ重クシテ国家ニ至大ナル関係ヲ及ホスヘキモノナレバ、常に慎重ニ慎重ヲ重ネテ軽々シク事ヲ即断シ給フ可カラサル(中略)斯クテハ 陛下登極ノ際賜リタル勅語ノ御趣旨ニモ背クニ至リ、老臣等補(輔)翼ノ責ヲ尽スコトヲ能ハサル」(「大隈首相トノ交渉顛末」)、つまり、軽率に決断しないこと、元老にいったん委任したからには筋を通すべきことを再び諫言した。直接的には大正天皇の厚い信任を得ていた大隈への警戒心から出た言葉であろうが、君主の判断に誤りがあったと広く認識されることになれば君主制の存続にかかわる以上、山県の諫言は一般論としては妥当である。もっとも、大正天皇の践祚直後に、自己の政治的な都合で、不適任な人物を内大臣にした山県に諫言する資格があるか、という議論は成り立ちえるが。
ただし、大隈は、次の議会でも内閣が貴族院を乗り切ることができる見通しは立たず、十月四日、後任首相に加藤高明を推薦することを明記した辞表を出した。後任人事を明記した辞表は異例であり、辞表の文面が直ちに新聞に掲載されたのも異例である。


(『大正天皇』P176~177)

つまり、この問題は

例えば、首相の進退について「元老」と内閣(あるいは、そのトップである首相)が対立した場合、帝国憲法の建前論から言えば「首相の任命」は天皇の大権事項ではあるものの

それについて意見を述べる権利がある人々、つまり元老、内大臣、首相などが、それぞれ別の人物を「推薦」してきた場合、それを「天皇がそれらの意見を退け、一方的に自らの決断を周囲に認めさせることができたのか?」


というのが、ことの本質なわけです。

具体的には大隈首相にも、元老山県にも「大正天皇に対する意見を述べる資格」はあり、そのどちらかを「大正天皇が本当に自らの意思で選択できたのか?」ということです。

では、結果的にはどうなったのでしょうか?

>しかし、大正天皇は今の言葉で言えば非民主的政治家の象徴として世論からの悪評高く政治的影響力も衰えつつあった元老山県の判断を鵜呑みにし、世論が望まない寺内首相を任命したのである。大正天皇はまたしても広く社会から政治的な威信を獲得することはできなかった

(『大正天皇』P178)


この顛末から見ても、大正天皇について

大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒したりして意思決定には大きく関与していた。

という評価は、少なく行っても過大でしょう。

大正天皇は、あくまでも「天皇に意見を述べることができる立場である」元老と、首相との間で板ばさみにあい、最終的には「自らの意思に反して」元老山県の「意見」(要求)を受け入れたわけですから。

これが帝国憲法下における「天皇大権」の、いわば実態でした。

なお、その後の大正天皇について

1921年(大正10年)に長男の皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)の摂政就任時に「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと、病状について新聞発表がされていますが


研究者である原武史氏は著書『大正天皇』(朝日選書)で、大正天皇は最終的には政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、「病弱な天皇イメージ」というのは政治的な思惑を含んで流布された根拠に欠けるものであると主張しています。

>天皇は自らの意思に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって強制的に「押し込め」られたというのが私見である。
(原武史『大正天皇』P251)


原武史氏の、この見解について議論はあるようですけど、私には

大正天皇の病状悪化そのものが、様々な政治勢力の板ばさみにあい、苦労された結果のように思えてなりません。

そして、そんな父の苦しむ様を、昭和天皇もよく見られていたのだと感じます。



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