以前から申し上げていますが、最近のYahoo!知恵袋の「南京事件」についての質問、回答などもについては、一頃に比べるとレベルの低下が著しくなっており、デマや誹謗中傷を楽しむ悪質投稿者が幅をきかせる、もはや「便所の落書き」と表現したくなるような「ベストアンサー」が日々、続々と出ているのが現状であると感じています。
勿論、そうではないとお考えの方も少なからずいらっしゃるとは思いますけど、あえて今回は「国際法」を根拠に「南京事件」の「否定論」を主張するにあたって
著名な学者の発言を引用することのことの是非を問うてみたくなりました。
こちらの質問
南京事件(南京大虐殺)について質問です。
南京事件は実在したのでしょうか。
高校の授業で『歴史学ではすでに日中共同研究により学問的決着がついており、日本政府の公式見解としても南京大虐殺が歴史的事実であるとしている。』と教わりました。しかし、実際は無かった。と言ってる人もいますよね?
なぜ、そのように歴史修正主義?を取るのでしょうか。なにが問題となって論争があるのでしょうか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199453673
で選ばれたx氏による「ベストアンサー」の回答からの抜粋です。
▼『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』北博昭
「繰り返してきたが、日中の戦いは、国際法上の戦争ではなく、事変であった。」
▼『戦争と法』 筒井若水教授(※国際法学者、東大名誉教授)
「4.戦争に至らない戦争
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
一応言っておくと、香西茂 、太寿堂鼎、高林秀雄、山手治之各氏の著である『国際法概説 第4版』(有斐閣双書)P280にはこのような記述があります。
戦争法
こうして戦争が開始されると、交戦国は相互に、通常の関係において尊重される相手国の国際法上の権利を一般的に否認して、相手国を屈服させるために必要なあらゆる手段を行使する必要がある。したがって戦争状態に入ると、交戦国の間では、通常の国際法(平時国際法)はその効力が停止される。
しかし、戦争当時国の間が全く無政府状態となるわけではない。相手国を屈服させるために必要なあらゆる手段を行使するといっても、これらの武力行使は実は無制限ではなくそれを規律する国際法規が存在する。交戦国家間の武力行使に適用せられて、その遂行の手段・方法を規律するこの国際法規を戦争法(交戦法規)という。
私自身も一般論としては
「支那事変」のような戦争の開始が法的に確認できない「武力紛争」についても戦争法(交戦法規)については適用されると理解しています。
とは言え、Xなる回答者により引用されている筒井若水氏といえば「国際法」、とくに「戦争法」の分野において、我が国でも評価の高い法学者です。
では、その氏は、その著書である『戦争と法』(東京大学出版会)において、どのような文脈で
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
という発言をされたのでしょうか?
私は確認のため手元にある『戦争と法』(1976年1月20日発行の第2版)の当該箇所(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)を読み、念のため全体を読み直し
そして愕然としました。
少なくとも、私の手元にある『戦争と法』(1976年1月20日発行の第2版)の該当箇所からは、筒井氏による、そのような文章をみつけることはできません。
あえて、当該箇所(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)を、ここに引用させていただきます。
4 「戦争」に至らない戦争
戦時への移行が不確定で、しかも戦争同様の武力衝突が行われている情況は、広い「行為説」によってのみ戦争に含められる。
交戦行為が行われても、当事国の関係が戦時に移行しなかった例はとくに多くを数える。
二十世紀以降、とくに日本に関係したものだけを拾っても、一九〇〇年の義和団の乱があり、一九三一年の満州事変、一九三八年の張鼓峰事件、一九三九年のノモンハン事件、一九三七年の日華事変(支那事変)があって、いずれも、ソ連や中国との間に「戦争」は発生しなかった。これらの場合においては、当事者の間で戦争を開始する意思は存在せず、戦争ではなくして、兵力による衝突のみが行われた。とくに日華事変は、発生以来第二次世界大戦終了まで、日本軍が満州を含めて、中国側のかなりの部分を占領するという事態であり、陸戦のみでなく、海戦や空戦も行われた。他方で、義和団の乱や満州事変においては海戦が行われず(海上においては平和関係にあり) 、その意味でもこれらは部分戦争であった。
こうした場合とはちがって、正式の戦争に発展する前に、戦争ではない抗争が続いて場合もある。一九二八年から始まったボリビアとパラグァイ間のチャコ紛争は、一九三三年になって、これが戦争であることが宣言された。日華事変も日本が対米宣戦をした後には、中国も連合国として日本と戦争状態にあることが明らかにされた(一九四二年一月一日の連合国共同宣言)。
軍事力の一部(陸軍)のみが戦争に加わり、その意味で戦争が限定的な場合も決して珍しいものではない。たとえば、一九四〇年七月三日、一時間二七分の間、第三国の気づかぬ間にオラン港沖で英仏間に海戦があり、仏艦隊が全滅して終了したことがあるが、その後には英仏間にまったく戦闘は行われず、逆に両国は大戦を通じて親密な同盟関係にあった。なお、この事件は、フランスの伊対独降伏にともない、仏艦隊がドイツに利用されるのを防ぐためにイギリスが起こしたものであり、国際法上の緊急避難の例として引かれる。
また、戦争は、通常国際法主体たる国家の間で行われるべき国際法上の関係として理解されているが、戦時中は国家をなしていなかったことが明らかでも、講和において、その戦争の参加国であったとして扱われることもある。第一次世界大戦のヴェルサイユ講和条約にはチェコ・スロバキアとポーランドが調印したが、この両国は、大戦中には存在しておらず、当然ドイツと正式の戦争は行っていない。同様に第二次世界大戦の日本とのサンフランシスコ講和条約に調印したフィリピン、インドシナ三国、セイロンなどは、厳格に言えば、大戦中には独立の国家として存在していなかった。逆に、一九三六年に始まったスペイン内乱は、独伊ソなどが公然介入し、その混乱の規模からいっても優に戦争に匹敵していたが、厳格には一国内の内乱であって戦争ではないとされ、一九五〇年の朝鮮事変や一九六〇年のベトナム紛争は、実質的には分裂した国家間の戦争であっても、一国内の事件と考えるかぎりでは、戦争ではないことになる。
第二次世界大戦後三十年の間、世界のいずれかの地域で常に戦火が交わされていたが、それらの多くは、正式の戦争ではなく、右にあげたいずれかのあいまいな状態に属している。「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の呼称も法的な意味はもたず、第三者がそれとなく表現している日常的な表現にすぎない。しかし、それらがすべて戦争ではないということになれば、今日、戦争という現象は国際社会にほとんどありえないものとなる。そして、この「戦争がなくなった」現象が、国際連合が義務として加盟国に要求する戦争禁止の効果として実現されたと思うものは 誰もいないであろう。
以上、ここで引用した文章で(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)は終わり、以下(5.現代国際法体系上の位置づけ)の項に入ります。
一体X氏は筒井若水氏の『戦争と法』 (第何版?)「4.戦争に至らない戦争」のどこから
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
という文を引用したのでしょうか?
それがわからない事には、そもそも議論することさえできません。
なお、X氏の「国際法解釈」それ自体にも疑問は多々ありますが
それは別なところで、あらためて取り上げさせていただこうかと思っています。
いずれにしても、このような出典不明の怪しげな文を引用した「ベストアンサー」が、日々、続々と選ばれているのが、Yahoo!知恵袋の「南京事件」関連の質問群の現状であるとは言えそうです。
勿論、そうではないとお考えの方も少なからずいらっしゃるとは思いますけど、あえて今回は「国際法」を根拠に「南京事件」の「否定論」を主張するにあたって
著名な学者の発言を引用することのことの是非を問うてみたくなりました。
こちらの質問
南京事件(南京大虐殺)について質問です。
南京事件は実在したのでしょうか。
高校の授業で『歴史学ではすでに日中共同研究により学問的決着がついており、日本政府の公式見解としても南京大虐殺が歴史的事実であるとしている。』と教わりました。しかし、実際は無かった。と言ってる人もいますよね?
なぜ、そのように歴史修正主義?を取るのでしょうか。なにが問題となって論争があるのでしょうか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199453673
で選ばれたx氏による「ベストアンサー」の回答からの抜粋です。
▼『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』北博昭
「繰り返してきたが、日中の戦いは、国際法上の戦争ではなく、事変であった。」
▼『戦争と法』 筒井若水教授(※国際法学者、東大名誉教授)
「4.戦争に至らない戦争
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
一応言っておくと、香西茂 、太寿堂鼎、高林秀雄、山手治之各氏の著である『国際法概説 第4版』(有斐閣双書)P280にはこのような記述があります。
戦争法
こうして戦争が開始されると、交戦国は相互に、通常の関係において尊重される相手国の国際法上の権利を一般的に否認して、相手国を屈服させるために必要なあらゆる手段を行使する必要がある。したがって戦争状態に入ると、交戦国の間では、通常の国際法(平時国際法)はその効力が停止される。
しかし、戦争当時国の間が全く無政府状態となるわけではない。相手国を屈服させるために必要なあらゆる手段を行使するといっても、これらの武力行使は実は無制限ではなくそれを規律する国際法規が存在する。交戦国家間の武力行使に適用せられて、その遂行の手段・方法を規律するこの国際法規を戦争法(交戦法規)という。
私自身も一般論としては
「支那事変」のような戦争の開始が法的に確認できない「武力紛争」についても戦争法(交戦法規)については適用されると理解しています。
とは言え、Xなる回答者により引用されている筒井若水氏といえば「国際法」、とくに「戦争法」の分野において、我が国でも評価の高い法学者です。
では、その氏は、その著書である『戦争と法』(東京大学出版会)において、どのような文脈で
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
という発言をされたのでしょうか?
私は確認のため手元にある『戦争と法』(1976年1月20日発行の第2版)の当該箇所(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)を読み、念のため全体を読み直し
そして愕然としました。
少なくとも、私の手元にある『戦争と法』(1976年1月20日発行の第2版)の該当箇所からは、筒井氏による、そのような文章をみつけることはできません。
あえて、当該箇所(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)を、ここに引用させていただきます。
4 「戦争」に至らない戦争
戦時への移行が不確定で、しかも戦争同様の武力衝突が行われている情況は、広い「行為説」によってのみ戦争に含められる。
交戦行為が行われても、当事国の関係が戦時に移行しなかった例はとくに多くを数える。
二十世紀以降、とくに日本に関係したものだけを拾っても、一九〇〇年の義和団の乱があり、一九三一年の満州事変、一九三八年の張鼓峰事件、一九三九年のノモンハン事件、一九三七年の日華事変(支那事変)があって、いずれも、ソ連や中国との間に「戦争」は発生しなかった。これらの場合においては、当事者の間で戦争を開始する意思は存在せず、戦争ではなくして、兵力による衝突のみが行われた。とくに日華事変は、発生以来第二次世界大戦終了まで、日本軍が満州を含めて、中国側のかなりの部分を占領するという事態であり、陸戦のみでなく、海戦や空戦も行われた。他方で、義和団の乱や満州事変においては海戦が行われず(海上においては平和関係にあり) 、その意味でもこれらは部分戦争であった。
こうした場合とはちがって、正式の戦争に発展する前に、戦争ではない抗争が続いて場合もある。一九二八年から始まったボリビアとパラグァイ間のチャコ紛争は、一九三三年になって、これが戦争であることが宣言された。日華事変も日本が対米宣戦をした後には、中国も連合国として日本と戦争状態にあることが明らかにされた(一九四二年一月一日の連合国共同宣言)。
軍事力の一部(陸軍)のみが戦争に加わり、その意味で戦争が限定的な場合も決して珍しいものではない。たとえば、一九四〇年七月三日、一時間二七分の間、第三国の気づかぬ間にオラン港沖で英仏間に海戦があり、仏艦隊が全滅して終了したことがあるが、その後には英仏間にまったく戦闘は行われず、逆に両国は大戦を通じて親密な同盟関係にあった。なお、この事件は、フランスの伊対独降伏にともない、仏艦隊がドイツに利用されるのを防ぐためにイギリスが起こしたものであり、国際法上の緊急避難の例として引かれる。
また、戦争は、通常国際法主体たる国家の間で行われるべき国際法上の関係として理解されているが、戦時中は国家をなしていなかったことが明らかでも、講和において、その戦争の参加国であったとして扱われることもある。第一次世界大戦のヴェルサイユ講和条約にはチェコ・スロバキアとポーランドが調印したが、この両国は、大戦中には存在しておらず、当然ドイツと正式の戦争は行っていない。同様に第二次世界大戦の日本とのサンフランシスコ講和条約に調印したフィリピン、インドシナ三国、セイロンなどは、厳格に言えば、大戦中には独立の国家として存在していなかった。逆に、一九三六年に始まったスペイン内乱は、独伊ソなどが公然介入し、その混乱の規模からいっても優に戦争に匹敵していたが、厳格には一国内の内乱であって戦争ではないとされ、一九五〇年の朝鮮事変や一九六〇年のベトナム紛争は、実質的には分裂した国家間の戦争であっても、一国内の事件と考えるかぎりでは、戦争ではないことになる。
第二次世界大戦後三十年の間、世界のいずれかの地域で常に戦火が交わされていたが、それらの多くは、正式の戦争ではなく、右にあげたいずれかのあいまいな状態に属している。「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の呼称も法的な意味はもたず、第三者がそれとなく表現している日常的な表現にすぎない。しかし、それらがすべて戦争ではないということになれば、今日、戦争という現象は国際社会にほとんどありえないものとなる。そして、この「戦争がなくなった」現象が、国際連合が義務として加盟国に要求する戦争禁止の効果として実現されたと思うものは 誰もいないであろう。
以上、ここで引用した文章で(4.「戦争」に至らない戦争同書P24~26)は終わり、以下(5.現代国際法体系上の位置づけ)の項に入ります。
一体X氏は筒井若水氏の『戦争と法』 (第何版?)「4.戦争に至らない戦争」のどこから
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。」
という文を引用したのでしょうか?
それがわからない事には、そもそも議論することさえできません。
なお、X氏の「国際法解釈」それ自体にも疑問は多々ありますが
それは別なところで、あらためて取り上げさせていただこうかと思っています。
いずれにしても、このような出典不明の怪しげな文を引用した「ベストアンサー」が、日々、続々と選ばれているのが、Yahoo!知恵袋の「南京事件」関連の質問群の現状であるとは言えそうです。
ちゃんと日本語の意味を理解して、論理的にモノを考えているか?、って話題にはこれは特に良い例、と思えるので…
あなたの言う『国際法学者筒井若水氏の謎の「発言」」は『実在』してますよ…
筒井若水の『戦争と法』の第一版(1971年)の方のP25です。
家からさほど遠くないところにある図書館に置いてあったので、確認済です。コピーもとって手元にあります。
勿論、X氏が自分で『戦争と法』の第一版を読んで引用したのだろう、なんて私は思っていませんよ。X氏が(どこかのブログみたいなもの、或いは知恵袋の回答の様な、恐らくは、ネット上の情報をコピペして来た)その根元を辿った大元は、筒井若水の『戦争と法』の第一版の記述だ、って事です。
また、私はあなたに親切で教えあげようとしているのではなく、
『戦争の開始を決定することは、
(中略)
当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。』
と言う引用部分の意味を、あなたはどう解釈しているのか、それは日本語の読解として大丈夫か、って話をしようとしています。
《当然には》の当然って、
~~
デジタル大辞泉の解説
とう‐ぜん〔タウ‐〕【当然】
[名・形動]そうなるのがあたりまえであること、道理にかなっていること。また、そのさま。「当然の帰結」「罪人が報いを受けるのは当然だ」「至極当然」
[副]それがあたりまえであるさま。「当然自分で行くべきだ」
[補説]「当前」と当てて書くこともある。これを訓読して「あたりまえ」という語が生じたという。
~~
って意味ですよね。
…って事は、X氏が引用した部分《だけ》を読んでも
『実際に交戦行為が行われている場合』に於いて、そうなるのが当たり前の事として、常に『戦争法が適用される』って事にはならない、
…って意味に過ぎませんよね。国際法の知識《以前》の日本語の《読解の問題》として…
交戦行為が行われている事は、必ずしも戦争法が適用される事を意味しない、って事ですから、ニュアンスとしては、『交戦行為が行われていても、戦争法が適用されるケースとそうでないケースがある』と言う意味に解釈するのが普通でしょうし、論理的には、『戦争法が一部だけ適用されるケースもあるのかも…』って事になるでしょう。この引用部分だけなら…
『◯◯であっても、それが《当然には》△△される事にはならない』と言うのは、言い換えれば、◯◯であるケースの中には、△△されるケースとそうでないケースがある、或いは、△△される部分とそうでない部分がある、そう言う意味ですからね…
これが日本語の読解の問題ですが、ホンの少しの歴史や国際法の知識があれば、『交戦行為が行われていたら、当然にして戦争法が適用される』なんて事がないのは、わざわざ言う迄もないでしょう。例えば、国境での極小規模な小競り合い程度で、紛争当事国以外にいちいち中立義務が発生する、なんて普通思わないでしょう。メンドクさくてたまりませんから…
X氏は、そう言った当たり前のコンコンチキの話を、日中戦争にも戦争法(その中の交戦法規)が適用されない、って主張の論拠になるかの様に(このブログ記事が取り上げているQ&Aに取り敢えず限れば)すり替えている、オキノドクな事に恐らくはすり替えている自覚もない、そこが問題なのではないですかね。
…と言う訳で、あなたの言う『国際法学者筒井若水氏の(あなたの主観では)《謎》の「発言」は実在します。
が、こんな当たり前のコンコンチキの話は、筒井若水が言っていようがいまいが、正しいに決まっています。わざわざ『謎の発言』なんて言う程の問題じゃありません。その程度なら、知恵袋で誰かさんが匿名で言っていたものだって、文句なく正しいです。《当然には》の意味がわかる人間には…
だから、
>一体X氏は筒井若水氏の『戦争と法』 (第何版?)「4.戦争に至らない戦争」のどこから
該当部分を引用してきたのか、
>がわからない事には、そもそも議論することさえできません。
…なぁんて事は、これっぽっちもない、違いますかね…
こんな超ベーシックなレベルの見解は、筒井若水が言っていようが、匿名の誰かさんが言っていようが、正しいものは正しいですよ。
が、それが正しい、って事と、それが日中戦争には交戦法規は適用されない、と言うのは、勿論全く別の話です。だって、該当部分は、一般論として、『交戦行為が起きた事、それが即ち戦争法の全面適用を意味する訳ではない》って言っているだけですからね…
一般論がそうなら、個別の話には個別の根拠が必要です。これが論理性の問題です。
良いのですかね…
>それがわからない事には、そもそも議論することさえできません。
とか言っちゃって…
日本語の読解と論理性に於いて、結果的にはX氏と同レベルになっているのを、ご自分のブログで宣伝している様に思えますがね…
勿論、X氏の場合は、自分が如何に支離滅裂な事を言っても、自分が正しいと言い切っていれば、主観的には自分は負けていないと思える、つまり、論理性よりも本人の主観的なプライド重視のタイプだろう、と思っているので、X氏とあなたが同類とは思っていませんよ。同類なら、こんな事を言ったって、たぶん支離滅裂・的外れな反応が帰ってくるだけでしょう。
私が言いたかったのは、
日本語は普通に日本語として読みましょうよ、
その普通の読み方に基づいて、論理的に考えましょうよ
って事です。
(追記)
正しく理解されるか不安があると、特に文書は長くなり勝ちで、このコメントもさして引用もしていないのに、そうなってしまいしたが…
X氏がネットのとこかからコピペして来たであろう『戦争と法』(第一版)の該当部分の続きは、
~~
交戦行為が行われても、当事国の関係が戦時に移行しなかった例はとくに多くを数える。
~~
です。つまり、あなたが引用した第二版と同じです。その後もあなたが引用した第二版と殆ど(全く?)同じ文章が続きます。
その一方、第一版のP142には、
~~
しかし、戦争法は本来「戦争状態」だけに適用される法規ではない。
~~
戦争法の適用が明確でない場合は戦時ではない事になれば、そうした不明確な場合は一切「平時」となって平時法の適用下に入ることになるが、この結論は不合理である。いわば現象的にはいずれでもない場合に対しては、実質的に判断して、実際に適用すべき法規(戦時法のときも平時法のときもある)を決めてゆくのが合理的であり、これまで国際社会での慣行も、ほぼそうした線にそっている。
~~
とあります。そして、この後に、歴史的に陸戦法規だけ適用され、海戦法規と中立法規が適用されなかった義和団事件など、具体例が挙がっています。(第二版はコピーがないからわかりませんが…)
要するに、戦争法は、開戦宣言の有無でまるごと適用・不適用が決まるのではなく、個別のケース毎の実態に即してどの部分が適用されるかが決まる、って言っています。常識ですね。
仮に、第一版P25の該当部分を『開戦宣言がない=まるごと戦争法は適用されない』って筒井若水が言っていた事にすり替えた上で、この部分も筒井若水に従うと、日中戦争には平時法が適用される、って事になってしまいます。
そしたら、捕虜の処刑どころか、兵士自身に切迫した生命の危険がない状況での全ての「戦闘行為」がただの殺人になってしまいます。渡洋爆撃なんて、仮に狭義の軍事目標だけを完璧に狙ったものだったとしても、殺人でしょうね。
あなたがこのブログ記事で取り上げた「謎の発言」に《当然には》が入っている事をちゃんと意識して解釈しないと、こうした《常識的にあり得ない様な》結論につながり得る、って事ですね。
日本語の読解、それに基づいた論理の展開、その面で、あなたは大丈夫ですかね…
もっとも、X氏の様なタイプは、主観的に自分の主張を補強すると思ったら、何でもかんでもダボハゼの様に食い付くので、読解力以前の問題でしょうがね…
さすがにあなたはその類い迄はヒドクはなかろ?、と思っているから、こうして長々書きました。
つまり『戦争と法』1971年初版の方に、その発言があったというわかですね。
それについてはありがとうございます。
私はあくまでも「第2版」を実際に読み、その前提でブログの文も書かせていただきました。
ただ
後の文はハッキリ言いますけど、飛ばし読みさせていただきました。
前にも申し上げましたけど、私はあなたとそういう種類の議論をするつもりはありません。
お互いに不毛だと思いますけど?
また、私の「日本語理解」を云々する以前の問題として
あなたの方でも、相手に誤解を与えるような発言をしている自覚はおありですか?
少なくとも私は、今回の「北方領土」の件で、あなたの国際法の理解に問題があることは、ほぼ確信しました。
勿論、あなたはそうではないとお考えのことと思います。
また、私のその確信が正しいかどうかは議論の余地があると思いますし。
私との不毛な対話を試みるより
第三者の意見を問うために、知恵袋で質問してみてはいかがでしょうか?
その方が有意義かと思いますよ。
とりあえず
今後もご意見をいただくことがあれば、公開はさせていただきますけど
(言うまでもなく、あなたのことを悪質投稿者連中と同じには考えていませんので)
議論については、ここまでとさせていただきます。
筒井若水と言う一人の学者が、版が違う本で表現が違うだけで、同じ主張をしているのを、片方を読んでいながら、もう一方については、それが、筒井若水が言った事かどうか『、それがわからない事には、そもそも議論することさえできない』とあなたが言い切った、それは『事実』であって、議論の対象ではありません。
私が誤解を招く発言をする事は勿論あるでしょう。が、あなたの言う、筒井若水の『謎の発言』は、筒井若水が誤解を招く発言をしたのですかね。違うと思いますね。
それから、北方領土じゃなく南樺太の領有権の話は…
『今の南樺太は無主地であり、だからロシアの占拠は不法だ(だから日本は取り返せる)』と主張している人に、私が『国際的慣行ではロシアの領有権を認めるのと殆ど同様の事を言ってしまったから、日本はもはや領有権を主張できない』と言った
それを『この人はソ連主権説をとっていると思われる』みたいな妄想を繰り広げたのは、私が誤解させたのですかね。
そもそも根本的な話として、
南樺太や千島列島の様に、二国間ではなく連合国と言う複数国で決める事になった(しかし、まだ決まっていない)、そうした話で、日本はもはや領有権は主張できない、と言ったら、なんでそれがソ連主権説と《思われて》しまうんですか?論理的に辻褄があっていませんけど、それも、あなたの妄想ではなく、私が誤解させたのですか…
今の南樺太は無主地だ、と言っている人に、それは違うだろ、と私か言ったのに、サンフランシスコ講和条約の時点では無主地だった、と言う学説を持ち出すピント外れな事をしたのは、私があなたを誤解させたのですかね。違うと思いますけどね。
これが、国際法の知識の大小の話でしょうか。
まぁ、あなたがそう思うなら、私には止めようはありません。
が、本人が『そんな事は言っていない』と言って来たら、せめて『紛らわしい事は言うな』、ぐらいが常識ある大人の対応じゃないでしょうかね…
が、あなたには全く通用しない事がわかりました。議論とか論争だとどうしても思っちゃうのですね。こっちは、違う次元の話をしている、あなたがそれで分かりやすくなるのなら、国際法の話じゃなく、現実の話だ、と言っても良いぐらいなのに…
仕方がないです。
少なくとも、あなたと私の間には、全くコミュニケーションが成立しない事がある、そうした認識は是非共有頂き、お互いに、無視する、相手の存在を全く意識しない関係になる(知恵袋のでの話)、そうなる事を切に願います。
筒井若水と言う一人の学者が、版が違う本で表現が違うだけで、同じ主張をしているのを、片方を読んでいながら、もう一方については、それが、筒井若水が言った事かどうか『、それがわからない事には、そもそも議論することさえできない』とあなたが言い切った、それは『事実』であって、議論の対象ではありません。
私が誤解を招く発言をする事は勿論あるでしょう。が、あなたの言う、筒井若水の『謎の発言』は、筒井若水が誤解を招く発言をしたのですかね。違うと思いますね。
それから、北方領土じゃなく南樺太の領有権の話は…
『今の南樺太は無主地であり、だからロシアの占拠は不法だ(だから日本は取り返せる)』と主張している人に、私が『国際的慣行ではロシアの領有権を認めるのと殆ど同様の事を言ってしまったから、日本はもはや領有権を主張できない』と言った
それを『この人はソ連主権説をとっていると思われる』みたいな妄想を繰り広げたのは、私が誤解させたのですかね。
そもそも根本的な話として、
南樺太や千島列島の様に、二国間ではなく連合国と言う複数国で決める事になった(しかし、まだ決まっていない)、そうした話で、日本はもはや領有権は主張できない、と言ったら、なんでそれがソ連主権説と《思われて》しまうんですか?論理的に辻褄があっていませんけど、それも、あなたの妄想ではなく、私が誤解させたのですか…
今の南樺太は無主地だ、と言っている人に、それは違うだろ、と私か言ったのに、サンフランシスコ講和条約の時点では無主地だった、と言う学説を持ち出すピント外れな事をしたのは、私があなたを誤解させたのですかね。違うと思いますけどね。
これが、国際法の知識の大小の話でしょうか。
まぁ、あなたがそう思うなら、私には止めようはありません。
が、本人が『そんな事は言っていない』と言って来たら、せめて『紛らわしい事は言うな』、ぐらいが常識ある大人の対応じゃないでしょうかね…
が、あなたには全く通用しない事がわかりました。議論とか論争だとどうしても思っちゃうのですね。こっちは、違う次元の話をしている、あなたがそれで分かりやすくなるのなら、国際法の話じゃなく、現実の話だ、と言っても良いぐらいなのに…
仕方がないです。
少なくとも、あなたと私の間には、全くコミュニケーションが成立しない事がある、そうした認識は是非共有頂き、お互いに、無視する、相手の存在を全く意識しない関係になる(知恵袋のでの話)、そうなる事を切に願います。
少し冷静さを取り戻されたようですね。
>筒井若水が言った事かどうか『、それがわからない事には、そもそも議論することさえできない』とあなたが言い切った、それは『事実』であって、議論の対象ではありません。
→いや、対象となるのは引用者である「xの認識」と「どのような文脈で書かれた文から彼が引用したのか?」ということですね。
結構高額な本ですし、そのために(本当に発言が実在するかもわからない)初版本をわざわざ確認する気にもなれませんでした。
また、あえて言ってしまえば「xの引用のおかしさ」に対する一種の皮肉のつもりでもあったんですけどね…
他のネットで見かけたブログか何かの作者の発言を筒井若水氏の発言と誤解した可能性も、ご指摘をいただくまでは捨てきれませんでしたし。
ただ、筒井若水氏の真意なら、別に氏による『国際法辞典』を読めば、本当はわかることですけど、これは、まあ余談。
>筒井若水が誤解を招く発言をしたのですかね。違うと思いますね。
→私は「まったく」そのようなことは考えてすらいませんでしたけど
あなた様はそのように受け取ったんですか?
だとしたら、やっぱり噛み合わないんでしょうね。
やはり、お互いにかかわらない方がいいのかもしれません
それから
>『この人はソ連主権説をとっていると思われる』みたいな妄想を繰り広げたのは、私が誤解させたのですかね。
→まず、普通の人は「無主地」と「帰属未定」の区別なんかつきません。
日本の領土ではないと言い切っている以上
じゃあ「誰の領土」なの?
これに対する説明がなければ、それはロシア領土であると言い切ったようなものです。
(念のためですけど、ロシア政府は実際にそれに近い主張をしています)
せめて、「帰属未定」と「無主地」は違うんだよ、くらいのコメントはしておくべきでしたね。
あと
仮に百歩譲っても、あの論法では「ソ連による先占」は成立しませんよ。
(今更説明はしませんけど)
ところが、あのQ&AのBA決定後に、当該質問の別な回答者の方がこのような主張をされていらっしゃいます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11202235851
>南樺太と千島列島(国後、択捉を含む)はサンフランシスコ講和条約で日本が領有権を放棄していますから、ヤルタ会談での英米の約束に従ってソ連(ロシア)が無主地を先占した形になりますね。
どう思われますか?
なお、あのQ&Aでの私の回答は、本来はこの方を意識したものであり、あなたからの「反論」は予想外でした。
本当は言いたいことは、まだまだありますけど
ここまでで止めておきます