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娘さんの障害を知った日④

2009-12-02 11:10:01 | 天音ちゃんから学ぶ事
娘さんの障害を知った日①
娘さんの障害を知った日②
娘さんの障害を知った日③ の続きです


可愛い我が子に障害があると知ったら
誰だって悲しいし、不安だし、迷い悩むと思います。


私なんてねぇ、
じじ、ばばに
「なんでこんな事に・・・」と悲しまれるたびに
自分が悪いんじゃないか??って凹みました。
じじ、ばばは、悪気無く言っているのです。
素直に「なんでだろうね?」って疑問なだけ。

なのに私は、
自分が離婚して、さっさと再婚してしまったから
私への罰なのか??とかね
今までしてきた悪い事が、頭の中をぐ~るぐる
そんな事すら考えてました。
今は笑っちゃう考えですけれど


今、9歳の娘さん。

9年育てた今は、
こんなに元気で楽しいって
娘さんの抱えている障害を理解して
訓練や教育や、毎日の暮らしの中で対応してきて
だからこんなに出来る様になったんだよ
毎日の子育ての中で
障害を知って、受け入れて、対応して行くんだと思っています。


偶然とかじゃなくて、
悲しんだ事も、不安な事も、向き合って越えられたから
今があるんだって考えられる事が
私の心の支えでもあります。


娘さんに障害があると知った日に比べたら
今の私って、かなりお気楽になっているかもしれません
それは慣れなのかも知れないけれど
惰性ではありません。
良い慣れだと、自分では思っています。

でも、知った日の事を
私は忘れないのだと思います。

出産した日とは別の、
新しいスタートの日なのだと思うからです。



そう言えばぁ~
余命宣告?
「手術しないと、二才くらいかな・・・」とか
言われてましたねぇ

心肺同時移植の話とかぁ
コミュニケーションは難しいやら
一生歩けないとか
なんか色いろ言われてきましたねぇぇ
お医者さんって、
まず悪い事から教えてくれるしね

でも、なんとかなっちゃったねぇぇ

過ぎちゃったから、今は笑い話になりました
育って、一緒に過せてるから笑えるんだよね

一番辛かった日には、想像も出来なかった今。
でも、今こうしています。
時間も、大切な支えのようです


おしまい

From ikusuke

娘さんの障害を知った日③

2009-12-02 10:02:23 | 天音ちゃんから学ぶ事
娘さんの障害を知った日①
娘さんの障害を知った日② の続きです♪


その時大丈夫な心でいられたのは、
主治医の丁寧な説明だったとも、思っています。

知る事は怖い事でしたが
知らないより知っている方が、私には良い事でしたから
まだまだ先の発達の予想であっても
娘を知る事で、大丈夫でいられたのだと思います。


その診断が出た事で、
あれやこれやとかかっていた科を
その主治医一人にまとめられたのも良かったのだと思います。

医師も色いろな見解があります。
科が違えば、出で来る所見も変わります。
色んな意見を聞く事は、とても大切な事だけれど
それで気が散漫になってしまったり
意見に振り回され、不安をあおる事もあると思うのです。


主治医が亡くなった今年の五月までの四年間、
私はその主治医に、色いろ相談し、教えて貰い勉強して
娘を育ててきました。

おかげさまで、あの時予想したよりも
うんと楽しい毎日を送れています。
将来の不安はちっとも解消されませんけれど


子供の障害を認めるのは、とても難しいデリケートな事に思います。
自分の事だったら割り切れる事でも
子供の事だと別物だと、私は思いました。

身近にそうした方がいて
障害と云う事を、知識として、生活として知っていたら
少し違ったのかもしれませんが
まるで知らない事でしたから
無駄な不安もあったように思います。


障害者手帳を申請するか?
この時私は、
将来、娘の進学の足枷にならないだろうか?と不安がありました。
障害者手帳を取ってしまったら、
地域の学校に行けなくなるのではないかと云う不安です。

そんな事はないんです。
それは、実際に就学時期になり
就学相談を受ける中で、
全然大丈夫じゃない!と知りました
知らないから想像したり、噂話の中で
勝手に不安がっていただけでした。

不安でしたけど、肢体不自由での障害者手帳は
すぐに申請をしました。
療育センターに通園している時でしたから
センターにある、見るのも初めてな椅子や
装具などを購入するのに
手帳の制度を使う事を教えて貰ったので
とても必要だと感じたから、すぐに申請を出しました。

愛の手帳は、四歳の時の検査の後
やはり、持っている事で助かる事があると知ったので
すぐに申請を出しました。

持っていると助かる。
持っていると使える制度があり必要だ。
この考えは、きっと療育センターに通っていて
ケースワーカーさんのお話や、先輩ママの話の中から
そう考えられたのだと思います。

もし知らなければ、
障がい児なんだと解っていても、
手帳を取ってしまうと、障害を認めるような気がして
先に書いた、進学の足枷とか
自分で作り出した不安にかられてしまい
貰わずにいたのかもしれません。

産んでわりとすぐに
ハンディがある子供とわかっていたから
それがこの子なんだよ
ただ、自分の大切な子供じやないの
それだけで受け入れられる事も多かったのかもしれません。

診察は勿論、話を聞いてもらえ、解るように説明してもらえ
病気の事も、
子育ての事も診てもらえる医師に出会えたからかもしれません。

一人で家庭の中で子育てしていたら
とても集められなかった情報を教えてくれる
療育センターに通園していたからかもしれません。

私を支えてくれる環境があったから
私は娘さんの障害を、物凄く苦しむ事もなく
受け入れて育てる事が出来ているのかも知れません。


まだ続くんです⇒

From ikusuke

娘さんの障害を知った日②

2009-12-02 09:05:06 | 天音ちゃんから学ぶ事
娘さんの障害を知った日①の続きです♪


四歳になるまで判断つかぬと言われましたから、
心はモヤモヤしていましたが、
とにかく出来る事をする毎日を過していました。

あの頃、随分たくさん診察しなくちゃならない科があり
週の4日は通院で、1日療育行ってで、
毎日毎日忙しくしてました。

訓練で習った事、助言され良いと思った事はどんどん取り入れ
家でも毎日、遊び訓練
毎日が娘と勉強でチャレンジの日々でした。

そうこう暮らしているうちに月日が経ち
四歳になり、きちんと脳の検査をする事になり
調べてみたら、やっぱり
「知的障害があると思われます」との診断を受けました。

覚悟はしていましたが、
一縷の望みと言いますか・・・
希望かな・・・
身体が不自由でも、何困る事無い知的の発達と思っていましたから
やっぱり・・・と云う気持ちと
ショックと・・・
一人で聞いてましたから、医師の前でボロボロ泣きました。

その日の説明を、私はまだ今もよく覚えています。

なぜなら、その日主治医は
一時間近くかけて
娘のMRIの画像と、
正常な同じ年頃のお子さんの脳の画像をプリントアウトし
奇形の見られる箇所に書き込みをして、
そこが奇形だと、どう言った障害があるのかも記入し
説明が一通り終わってから
これから、それらにどう対処して行くのか?
どう育つのか
どう育ててゆくのか?
それらをじっくりと説明してくれたからです。

今もそのプリントを持っています。

その時に教えられた、
育つ中での苦労、育てる苦労
学校は?社会は?家庭は?
障害の大変さ
その中にある楽しみや喜び。

肢体不自由と告げられた時よりも、
もっとダイレクト?な
身近な不安?
悲しみや苦悩を感じました。


もう、療育センターに通園をしていましたから、
療育保育を受けていましたので、
それも何もない状態で言われるよりは
支えがあり、
悲しかったし不安だったけれど
強くいられたのだと思います。

先に、肢体不自由も言われていますから
クッションがあったのかしら?
泣きましたけど、大丈夫でいられました。


まだ長いので続く⇒

From ikusuke

娘さんの障害を知った日①

2009-12-02 08:26:39 | 天音ちゃんから学ぶ事
先日学校に行きましたら、担任の先生が
「あまねちゃん、おはよーって言ってます可愛いです
との報告

家では、意味のある単語を発する事などない娘さん。
まぁ、学校なら出来ちゃうって技も持ってますが
さすがに言葉はありえないでしょ~と
私は苦笑い

でも、先生たちにはそう聞こえるのだと言います
療育の保育士さんもでしたが、学校の先生も
親よりもっとポジティブだなぁ~と
いつも私は関心します
小さな偶然をも見つけ、誉めて誉めて伸ばしてくれるのです
先生たちだから出来る教育なのかもね


娘さんは、脳が奇形だそうです。
前頭葉の未発達、
発語はないであろうとの診断を受けています。

でも今、彼女なりの音声を使い、会話を楽しんでいるようです。
人の発達って不思議ですね。
医学的に、「こうなっているから、こうはならない」と
そう診断されていても、
環境や訓練などで、そうはならない事もあるのです。
不思議不思議


娘さん、肢体不自由の知的障害です。
学校で言うところの、重複障害児童です。

肢体の障害は、わりと早い年齢で診断が出ました。

まず股関節脱臼が見付かり、
口頭軟化症が見付かり
月例とともに出来てくるはずの事が出来なくて
筋肉の組織が柔らかいままなのか?とか
いろいろ検査した結果
あっちもコッチも奇形しているので
多発性奇形症候群と云う診断が出て
「色いろ出来ないであろうと予想されます。」
そう告げられたのが、五ヶ月になるかならないかくらいでした。

待望の子供を授かり、
NICUの中にいても育ってゆく我が子ですから
そりゃ、夢も希望もありますからねぇ
帰り道、旦那さんと手を繋いで
わんわん泣きながら歩いて帰りました。

その日の夜、どうしたのか忘れましたが
とにかく育っているし、育てなくちゃなんないし
いつまでも入院させときたくないしで
次の日も、せっせとNICUに通っていました

始めての子育てと云う事もあり、
入院しちゃってる環境もありで、
障害と云う言葉に、向き合ってなかったのかもしれません。

それまで、なんで具合が悪いのかさへ解らなかったから
解った事で、少し霧が晴れて
「頑張って育てるぞ~」みたいな気持ちだったのかもしれません。



それから月日が経って退院も出来、
娘さんもそこそこ育ちましたがぁ~
いつまでも赤ちゃんのままでした

多発性奇形は、脳にも見られていました。
何も出来ないのは、脳に障害があるからなのか?
それとも、ボディーが育たなくて身体的に出来ないのか?
私は診察の時に、必ずその質問をしていました。

でも医師は、ハッキリと知的障害ですとの診断をしませんでした。
その時、二歳くらいだったでしょうか。

医師にこう言われました。
脳は今発達中で日々変わっている状態だから
例えMRIで診たとしても、よほど特出した奇形とわかる状態で無い限り
これが普通、これが異常との判断はつきません。
判断が出来るようになるのは、四歳を過ぎた時。
だからそれまで、今出来る事をしながら、
発育、発達を促して行きましょう。と。


長くなるから続きます⇒

From ikusuke