正福寺(住職改め)長老のひとこと

正福寺住職が毎月テーマを決めて「ひとこと」申し上げます。
ホームページの更新情報も不定期に載せていきます。

10月のひとこと(令和6年・仏誕2590年・皇紀2684年)

2024年10月01日 | Weblog
9月、彼岸の声を聞いても、まだ各地で夏日の連続でした。暑い暑い毎日でした。お寺の彼岸花、お中日を過ぎても、芽も出て来ませんでした。
 やれやれです・・・。
油断大敵でした。私、彼岸前にもしかしたら熱中症(?)らしき症状にやられました。でもお陰様で10月の声を聞くところまでこぎつけました。
 私の住まう江東区豊洲の老人ホームは、以前にもお話ししましたが、東京湾に注ぐ運河沿いにあり、運河の向こうに、中央区の月島、晴海と続く高層ビル群が林立しています。この10月、ビル群の向こうに、きれいな、真っ青な大空を是非見たいと、楽しみにしています。
 暑かった暑かった夏、体を動かせなかった分、この秋は、心と体を思う存分リフレッシュしようではありませんか!
 秋の夜長、じつくり読書にいそしみますか?芸術の秋といいます。アートを訪ねるひとときもいいですね。
 それとも仕事で、そんな時間は、取れないとでも、いうのでしようか・・・。


さて、前にもお話しした事がありますが、私は、還暦を過ぎた後、しばらく経ってから、水墨画(墨絵)を始めました。還暦を迎えたのを契機に、今迄やれなかった事を、何か手がけてみたいと思ったのです。
 そして、選んだのが墨絵でした。それからもう20年近く経ってしまいました。
 今手がけているのが、「羅漢さん」です。冥土へ旅立つ時の土産にしたいなどと冗談を言いつつ、描いています。
 正確には、「阿羅漢さん」、略して羅漢さんと言っているのですね。羅漢さんと言う言葉を聞かれたり、羅漢さんにお参りされた方も、大勢いらっしゃるかとおもいます。
 阿羅漢とは、仏の道を志して、修行をして、悟りの世界に入られた坊さんをいいます。
 歴史上、最初の阿羅漢は、釈尊がお悟りを開かれた後、釈尊の説法を初めて聴いて、悟りを開かれた五人の修行僧という事になります。(初転法輪といいます。)
 釈尊は、80歳で亡くなられる迄、インド国中説法の旅を続け、多くの阿羅漢を、誕生させたといわれます。
 16羅漢、500羅漢と言う言葉を聞かれているとおもいます。
 釈尊の教えを守り、伝えられた16人の阿羅漢、釈尊が亡くなられた後、釈尊の教えを確認するために結集した500人の釈尊の弟子たちが、モデルになっているといわれるのが、500羅漢という事になります。
 多くの16羅漢500羅漢の、図像が、今日迄伝えられています。
 京都東福寺の500羅漢図、智積院の16羅漢図屏風など、一度是非お参りいただきたいと思っています。
 羅漢さん達の日常の生活ぶりから、超能力を示すユーモアたつぷりの姿まで、大変興味深くご覧いただくことができます。
 私が墨絵を描くモデルとして選んだのは、現在は東京目黒区(開創は、元禄9年1696年江東区大島)にある五百羅漢寺の羅漢坐像です。今は、五百体は残されていませんが、三百体弱の坐像が、本堂、羅漢堂にびっしりと安置され、お参りを待ってくれています。
 これらの坐像は、京都出身の仏師であり、このお寺の開基和尚となられた松雲禅師一人の製作になると、伺いました。 
 驚きと共に、羅漢にかける禅師の強い想いを感じたのです。
 これらの羅漢さん達、それぞれ思いおもいの姿で座られ、私たちを待ち受け、そして、何かを、私たちに、語りかけてくれている様な、気がするのです。
 ともかく、圧巻の三百体と申し上げて良いでしよう。
 こんなことで、現在、羅漢さん達のお姿を墨絵にと、頑張っています。
 冥土に旅立つ前に完成できるのか・・・・。
心もとなし、というのが正直な気持ちです。   合掌


「正しく悟りで解脱し、寂静(じやくじよう)となれる人は、意(こころ)も語(ことば)も行為も、静けし」   法句経96番(阿羅漢品)


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9月のひとこと(令和6年・仏誕2590年・皇紀2684年)

2024年09月01日 | Weblog
少しだけ季節を振り返ってみましよう。短かかった春、すぐ暑い暑い夏が始まった感じの6月,7月,8月でした。

 80歳を過ぎた私の人生の中でも、初めての「南海トラフ大地震注意」そして何回も来る最大級の台風の襲来、大自然の営みに翻弄された8月、これも人間の業(ごう)のなせるところなのか?

 いよいよ9月、まだまだ暑い日が続くのでしようか?

 今月は秋分の日を中日(なかび)として、前後3日づつ、計一週間、お彼岸をお迎えします。昭和23年(1948年)制定された「国民の祝日に関する法律」によれば、秋分の日とは、「祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ」
ための日とあります。

 秋分の日とは、昼と夜が同じ長さとなる日、太陽が地平線上を、真西に沈む日。東京では、なかなか見ることの出来ない光景です。

 もしも見ることができたら、私達は、何を感じる事でしょう。

 大自然の営みの凄さに、静かに手を合わせる事でしよう。

 こんな日を真ん中にして、彼岸の週を設けた先人の知恵に、今更ながら、頭の下がる思いです。


 「今日彼岸、菩提の種を蒔く日かな」

この句は、もう何度もご紹介申し上げている一句ですが、これほど、彼岸の意味を伝えてくれる言葉はないと思うからです。
 お墓参りをして亡き方を偲ぶとともに、ご両親を縁として、ご先祖から連綿として受け継いできているこのいのち。このいのちを、いかにして生きてゆくか。
 そのために、今自分がしなければならないことは、何なのか・・・。
 この事をしっかり考えて欲しい、というのが「菩提の種を蒔く」ということなのですね。味わっていただきたい一句なのです。


もうひとこと 

 「南海トラフ大地震注意」の真っ只中だったと思いますが、8月12日の朝日新聞に「10万年核ゴミは眠る」という見出しのもとに、原発から出た高レベル放射性廃棄物の、世界初めてとなる最終処分場が、フィンランドで試運転を始めるとの報道がありました。
 報道によれば、地下400~450メートル迄核ゴミは運ばれ、そこから350メートルの縦穴に埋め込まれ、放射能が一定のレベルまで減少する10万年間、ここで保管するという壮大なプロジェクトである、との内容でした。
 10万年、気の遠くなるような歳月ではありませんか!10万年後、人類は、どうなっている?地球は、どうなっている?誰も答えられる人はいないでしよう。
 今私たちが享受している電気、原子力発電による核のゴミは、今もどんどん増え続けているのです。原発に頼る限り、核のゴミは増え続けてゆくのです。

そのためにやらなければならない事はなにか!
 もうお分かりの通りです。原発に代わる発電を、一層推し進める以外には有りません。
 いくらお金がかかっても、原発が事故を起こした時の事を考えたら、お金をかけ過ぎるという事は有りません。
 核のゴミをこれ以上増やしてはいけないのです。
 人類の未來、地球の未来を左右する大きな問題なのです。
 皆んなで、叡智を出し合ってゆこうではいりませんか!

合掌


「学ぶこと少なき人は、牛のごとく老ゆれども、肉の増すのみにて、智慧は増さず」法句経152番



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8月のひとこと(令和6年・仏誕2590年・皇紀2684年)

2024年08月01日 | Weblog
東京地区は、7月盆ですが、全国的には今月「8月盆」をお迎えします。民族大移動などと言う言葉は、今あまり使われませんが、正月に続いて、盆の里帰りの方も大勢いらっしゃるかと思います。


 この宇宙で地球は、46億年前に誕生したといわれます。この地球に、ある時、たった1ヶの細胞からなる生命体が誕生したそうです。
 この生命体は進化を重ね、多くの生命体をこの世に生み出しました。人間のご先祖も、この1ケの細胞からなる生命体ということになります。間違っていたらご免なさい。 


 今、日本を含めた先進諸国の一部では、急ピッチで人口減少が進んでいることは、皆さんご承知の通りです。
 「人口増と食糧難」、現在でも地球規模で考えれば、正しくこの通りであろうかと考えます。
 でも、人口減少の段階に入った日本を含めた国々では、少ない人口で、生産活動、経済活動を、いかにして維持してゆくか、もうこの段階に突入しつつある事は、間違いないようです。
 この人口減少という大きな流れは、今後どうなってゆくのか、私には分かりません。然し、人間社会を維持してゆくためには、一定のレベルの人口が必要な事は、明らかな事です。


 今月も、お寺の掲示板には、お盆にちなんで、「お盆ー今、いのちを繋ぐことを考えるー」としました。 
 どうでしようか、一切のいのちには、必ず終わりがくる。人間も例外ではありません。これは、いのちを繋ぐことを前提とした、いのちの営みの大原則であります。
 私たちひとりひとりのいのちに限りが有る事を考えれば考えるほど、いのちを繋ぐ事の重みは、増してきます。
 そして、これは又、限り有るいのちを生きてゆく、私たち自身の宗教的な心の拠り所でもあるのです。
 ご先祖からいただいたこのいのち・・・次世代へ繋ぐいのち・・・大きないのちの営み、流れに、想いを寄せてみようではありませんか!


もう、ひとこと
 この度の都知事選挙立候補者のポスター掲示板について申し上げたいと思います。


 ポスター掲示は、立候補者に限る。1人一枚のみ。内容は、自由(但し、公序良俗に反しないこと、これは、有権者が判断する。)
こんな当たり前の事が守られない選挙を経験したのは、初めてでした。       合掌


「怠け意気地なく百年生くるは、努め励みで、一日生くるにしかず」
   法句経112番

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7月のひとこと(令和6年・仏誕2590年・皇紀2684年)

2024年07月01日 | Weblog
歳をとると
 ひとつ  忘れっぽくなる
 ふたつ  「一日があっという
      間に過ぎてしまう」   
      と、一日終えるとい
      つも思う
 みっつ  昔のことがしきりに
      思いだされる
 こんな話を他人事ーひとごとーと聞いているうちに、いつの間にやら私も、今年は、83歳になります。でもこのみっつて、本当に本当ですね。
 今月は、昔のことに触れてみたいと思います。
 そうです。東京地区は、今月はお盆の月です。亡き方をこの世にお迎えして、ご馳走を用意し、一緒のひとときを過ごしましよう、というのがお盆です。日本仏教に古くから伝わる独特の仏教行事と申し上げて良いでしよう。
 家庭では、丁寧には仏壇とは別に、盆棚を用意して、ご馳走をお供えし、亡き方をお迎えします。そこには、お坊さんが来て、ご供養のお経をあげてくれるのです。棚経といいます。
 実は私は、現役時代喉を痛めてしまい、それ以来棚経を、やめてしまいました。喉が治っても棚経を再開しなかった事を、実は、今は、悔いています。
 現在、交通事情、棚経を受け入れる家庭の事情などあり、棚経をお勤めするお寺さんは、やはり減少しつつあることは、残念な事と考えています。
 これから先、棚経は、昔話しになってしまうのでしようか・・・。
 長老のひとことが、長老の愚痴となつてしまいました。


歳をとると
 よっつめ  愚痴が多くなる
   を付け加えたいとおもいます。


もうひとこと
 今月のお寺の掲示板には、
「お盆ーいまあるいのちの大切さを考えるー」と記しました。


 いのちの大切さ、有り難さ、若い人たちにとっては、いのちの終末など、まだまだ先のこと、、、
そう考えるのは、若さの特権かもしれません。
 でも、年寄りは、そうはいきません。歳をとればとるほど、いのちの大切さ、有り難さを、しっかり考えていかなければなりません。
 俺にはまだまだ先の事、などと強がりをいっても口先だけの強がりに、すぎません。
いのちの終末は、誰にでも、公平、平等に、すぐそばまで来ていることを、自分の頭のど真ん中に据えた生活を考えていかなければなりません。
 両親から、ご先祖から引き継いだこのいのち、
  どこへ行くのでしよう?
         合掌


「すでに旅路を終え、愁いなく、あらゆる点において自由となり、あらゆる束縛を脱した者は、悩みを有せず」
   法句経  90番


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6月のひとこと(令和6年・仏誕2590年・皇紀2684年)

2024年06月01日 | Weblog
6月いよいよ梅雨入り。この時期は、、昔から時に、大雨にやられる事が多かったのですが、近年の大雨は、尋常ではありません。正に豪雨、毎年各地に多大な被害をもたらしている事は、私たち経験しているところです。
 これも地球温暖化のなせるところか、今年は、どうか穏やかな雨季が過ごせますよう祈るばかりです。
 でも、この水のお陰で、樹々は、この時期、新緑、深緑、私たちの目を楽しませてくれます。心と身体を癒やしてくれるのです。
 私たちの総本山智積院では、宗祖弘法大師空海上人6月15日、中興の祖興教大師覚鑁上人6月17日ご誕生、この両祖大師のお誕生のお祝いを、染み入るような深緑のもと、「青葉まつり」と称して6月15日お勤め致します。 


 さて今月は、私たちの毎日の生活の中で、頻繁に使われる「供養」という言葉に触れたいとおもいます。
 亡き方のお葬式、あるいは、ご法事の時など、施主の方から「ご供養のお印に」という言葉と共に、それこそ「ご供養の品」を頂戴する事があります。
 最近では「手元供養」と言う言葉も聞くようになりました。亡くなられた方の遺骨の全部又は一部を手元に起き、、亡くなった方を、身近に感じながら供養しようと言う事のようです。




 それこそ手元に有った辞書で、供養の言葉を調べると「供給資養」の意とありました。
何らかの物品を必要とする人に対して、その品を供給してあげ、必要を満たしてあげる、そして、助け、養う、というのが供養のおおもとの意味ととつて、良さそうです。


 供養と言う言葉は、現在、仏事、ご法事などに関連して使われている事が多い言葉ですが、元の 意味は、何かが足りなくて困っている人がいれば、その何かを供給、差し上げて、不足を満足させてあげることであったようです。


 今月のお寺の掲示板には、
「ご供養
   気持-こころ-を形に表す事」と書いておきました。    


どうでしようか。私たち、お陰さまの有難い生活と、考えて良いですよう。
 でも、お陰さまなどと、言ってはいられない様々な人々が、私たちの身の周りにはいる事を忘れるわけには、いきません。
 私たち、何とかして差し上げたい、誰しも、そう思っているのですが・・・。
この気持ーこころーを、しつかり形に表してほしいと言う今月の掲示板なのです。


 供養でもう一つ大切なことを申し上げたいと思います。
 それは、供養するひとも、供養することよって、供養されている事に気がついて欲しい、という事なのです。
 仏教では、人間を含めて、この地球上の一切の存在は、お互いに、供養しあって存在しているのです、と教えてくれているのです。    合掌、


「吝嗇の人は天界におもむかず、愚者は施与するを褒めず。賢者は施与するを喜び、これによって来世に安楽なり。」
 法句経  177番

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