正福寺(住職改め)長老のひとこと

正福寺住職が毎月テーマを決めて「ひとこと」申し上げます。
ホームページの更新情報も不定期に載せていきます。

6月のひとこと(平成26年・仏誕2580年・皇紀2674年)

2014年06月01日 | Weblog
“ひとこと”で何回かご紹介申し上げたことのある私の母、この4月25日、世壽100歳と5ケ月をもって、旅立ちました。

最終的には介護度5まで進み、我が家でヘルパーさんのお世話になりながら過ごしておりましたが、最期は少し立てたベッドの背に身体を預けたまま、朝食(ミキサー食)をいただきながら、静かに息を引き取りました。


少しも苦しむこともなく、“大往生”とは、こんな死に様を指すのだと思い知らされました。


振り返ってみると、米寿(88歳)、卒寿(90歳)の時は、まだまだ、すこぶる元気。


しのびよる体力と気力の衰えを自覚しつつ、“老いをいかに生きてゆくか”気力充分で様々にチャレンジしていたような気がします。


90代も半ばになって、やはり、少しずつ認知障害の症状があらわれ、そして進んでゆくのでした。


そして、白寿(99歳)のお祝いの席、孫、曾孫まで入れて30人余りが集合、母もヘルパーさんの介護により、お寺の客間まで降りてきて、皆と一緒の時間を過ごすことができました。


そして、百寿(100歳)誕生日は、救急で入院した病院のベッドの上で、孫に囲まれて過ごしました。


100歳を越えた母の“せがれ”の年は想像に任せますが、老老介護ということになりました。


私の場合には、よき介護事業所、よきヘルパー、よき家族、そして大勢の皆さまのお蔭で、何とか100歳の母を無事に送り出すことができ、今ほっとしているというのが正直な気持ちです。



皆、長生きになった今日ですが、わが母が100歳といういのちを生きるとは考えてもいませんでした。


母の100年の“生き様”“死に様”を目の当たりにして、お蔭さまで、介護のことばかりではありません、様々なことを学ばせていただきました。


今更ながら、母の存在って凄いな、有難いな、とあらためて思い知らされたのでした。


命日4月25日はお寺のはなみずきが満開でした。









   はなみずき

     母のいのちの ともなるや 

            (住職)




合掌
コメント
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