“ひとこと”で何回かご紹介申し上げたことのある私の母、この4月25日、世壽100歳と5ケ月をもって、旅立ちました。
最終的には介護度5まで進み、我が家でヘルパーさんのお世話になりながら過ごしておりましたが、最期は少し立てたベッドの背に身体を預けたまま、朝食(ミキサー食)をいただきながら、静かに息を引き取りました。
少しも苦しむこともなく、“大往生”とは、こんな死に様を指すのだと思い知らされました。
振り返ってみると、米寿(88歳)、卒寿(90歳)の時は、まだまだ、すこぶる元気。
しのびよる体力と気力の衰えを自覚しつつ、“老いをいかに生きてゆくか”気力充分で様々にチャレンジしていたような気がします。
90代も半ばになって、やはり、少しずつ認知障害の症状があらわれ、そして進んでゆくのでした。
そして、白寿(99歳)のお祝いの席、孫、曾孫まで入れて30人余りが集合、母もヘルパーさんの介護により、お寺の客間まで降りてきて、皆と一緒の時間を過ごすことができました。
そして、百寿(100歳)誕生日は、救急で入院した病院のベッドの上で、孫に囲まれて過ごしました。
100歳を越えた母の“せがれ”の年は想像に任せますが、老老介護ということになりました。
私の場合には、よき介護事業所、よきヘルパー、よき家族、そして大勢の皆さまのお蔭で、何とか100歳の母を無事に送り出すことができ、今ほっとしているというのが正直な気持ちです。
皆、長生きになった今日ですが、わが母が100歳といういのちを生きるとは考えてもいませんでした。
母の100年の“生き様”“死に様”を目の当たりにして、お蔭さまで、介護のことばかりではありません、様々なことを学ばせていただきました。
今更ながら、母の存在って凄いな、有難いな、とあらためて思い知らされたのでした。
命日4月25日はお寺のはなみずきが満開でした。
はなみずき
母のいのちの ともなるや
(住職)
合掌
最終的には介護度5まで進み、我が家でヘルパーさんのお世話になりながら過ごしておりましたが、最期は少し立てたベッドの背に身体を預けたまま、朝食(ミキサー食)をいただきながら、静かに息を引き取りました。
少しも苦しむこともなく、“大往生”とは、こんな死に様を指すのだと思い知らされました。
振り返ってみると、米寿(88歳)、卒寿(90歳)の時は、まだまだ、すこぶる元気。
しのびよる体力と気力の衰えを自覚しつつ、“老いをいかに生きてゆくか”気力充分で様々にチャレンジしていたような気がします。
90代も半ばになって、やはり、少しずつ認知障害の症状があらわれ、そして進んでゆくのでした。
そして、白寿(99歳)のお祝いの席、孫、曾孫まで入れて30人余りが集合、母もヘルパーさんの介護により、お寺の客間まで降りてきて、皆と一緒の時間を過ごすことができました。
そして、百寿(100歳)誕生日は、救急で入院した病院のベッドの上で、孫に囲まれて過ごしました。
100歳を越えた母の“せがれ”の年は想像に任せますが、老老介護ということになりました。
私の場合には、よき介護事業所、よきヘルパー、よき家族、そして大勢の皆さまのお蔭で、何とか100歳の母を無事に送り出すことができ、今ほっとしているというのが正直な気持ちです。
皆、長生きになった今日ですが、わが母が100歳といういのちを生きるとは考えてもいませんでした。
母の100年の“生き様”“死に様”を目の当たりにして、お蔭さまで、介護のことばかりではありません、様々なことを学ばせていただきました。
今更ながら、母の存在って凄いな、有難いな、とあらためて思い知らされたのでした。
命日4月25日はお寺のはなみずきが満開でした。
はなみずき
母のいのちの ともなるや
(住職)
合掌