11月2日は日本社会党・浅沼稲次郎委員長を誅殺した大日本愛国党・山口二矢烈士が自決された御命日です。
烈士は昭和18年(1943年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれました。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって烈士の名前を二矢と名付けられました。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業秀才でした。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたります。
幼年時代から、烈士は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判しました。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加していました。
その烈士に運命の邂逅が訪れます。
昭和34年(1954年)5月10日、烈士は16歳の時、大日本愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け愛国党への入党を決意します。
「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」
その赤尾先生の魂の叫びに山口青年の魂もまた共鳴したのです。
烈士は赤尾先生の演説に対して野次を飛ばす者がいると、果敢に野次の者に殴りかかっていきました。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行うなど言わばかつてのNSDAPの「突撃隊」「親衛隊」の役割を果たしました。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともありました。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙され、昭和34年(1954)12月に保護観察4年の処分を受けています。
そして、山口烈士一世一代の闘いの時がやって来ます。
昭和39年(1959年)、支那を訪問した社会党の浅沼稲次郎は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言しました。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げました。
ただ、浅沼は決して反日主義的な人物ではなく戦前は国民社会主義に関心を寄せ、大政翼賛会にも参加して総力戦体制を支えました。
戦後成立した日本社会党は、その結党式において皇居遙拝を奉って聖寿万歳の三唱を行う(指揮者は浅沼)など現在の社民党の姿からは想像できない、まるで右翼政党のようなことをしています。
つまり、この時代の浅沼や社会党は、現在のような反日「サヨク」ではなく、愛国心をもった「左翼」であったと言えるでしょう。
また、浅沼は昭和天皇陛下を揶揄した新聞記者を叱りつけるなど尊皇家でもありました。
浅沼の「反米愛国」思想も理解できます。
しかし、浅沼の行動は明らかに支那を有利にするものであり、冷戦の中で日米同盟が崩壊することは死活問題でした。
そして、山口烈士は浅沼を討つことを決意しました。(他にも日本共産党の野坂参三、日教組の小林武を標的にしていました。)
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
(浅沼に対する斬奸状)
昭和35年(1960年)10月12日、烈士は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺しました。
事件後、取調べに対し烈士は若年ながら理路整然と受け答えしていたと言われています。
その頃、自衛隊は、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから左翼や世間からの批判を恐れ、晋平の辞職を望みました。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職しました。
11月2日、烈士は「後悔はしてないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所にて練り歯磨きで『七生報國 天皇陛下万才』の文字を残し自決されました。
辞世の句
「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」
「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」
父、晋平は二矢の死を悲しみました。
「親として気になるのは、あの事件のため私も職を失いこれからの生活設計に困っているということを、二矢が知り、悩んでたということだった。せめてそんな心配はいらない”といってやりたかった」
山口二矢烈士は国を思うのと同じように親思いな青年だったのだと思います。
山口二矢烈士に謹んで哀悼の意を表します。
<関連記事>
是非、ご覧下さい。
山口二矢烈士墓参 http://aikokutou.net/?p=1551(大日本愛国党)
山口二矢烈士墓前祭 http://koudoupress.net/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E7%9F%A2%E7%83%88%E5%A3%AB%E5%A2%93%E5%89%8D%E7%A5%AD-3/(皇道日報)
烈士は昭和18年(1943年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれました。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって烈士の名前を二矢と名付けられました。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業秀才でした。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたります。
幼年時代から、烈士は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判しました。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加していました。
その烈士に運命の邂逅が訪れます。
昭和34年(1954年)5月10日、烈士は16歳の時、大日本愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け愛国党への入党を決意します。
「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」
その赤尾先生の魂の叫びに山口青年の魂もまた共鳴したのです。
烈士は赤尾先生の演説に対して野次を飛ばす者がいると、果敢に野次の者に殴りかかっていきました。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行うなど言わばかつてのNSDAPの「突撃隊」「親衛隊」の役割を果たしました。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともありました。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙され、昭和34年(1954)12月に保護観察4年の処分を受けています。
そして、山口烈士一世一代の闘いの時がやって来ます。
昭和39年(1959年)、支那を訪問した社会党の浅沼稲次郎は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言しました。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げました。
ただ、浅沼は決して反日主義的な人物ではなく戦前は国民社会主義に関心を寄せ、大政翼賛会にも参加して総力戦体制を支えました。
戦後成立した日本社会党は、その結党式において皇居遙拝を奉って聖寿万歳の三唱を行う(指揮者は浅沼)など現在の社民党の姿からは想像できない、まるで右翼政党のようなことをしています。
つまり、この時代の浅沼や社会党は、現在のような反日「サヨク」ではなく、愛国心をもった「左翼」であったと言えるでしょう。
また、浅沼は昭和天皇陛下を揶揄した新聞記者を叱りつけるなど尊皇家でもありました。
浅沼の「反米愛国」思想も理解できます。
しかし、浅沼の行動は明らかに支那を有利にするものであり、冷戦の中で日米同盟が崩壊することは死活問題でした。
そして、山口烈士は浅沼を討つことを決意しました。(他にも日本共産党の野坂参三、日教組の小林武を標的にしていました。)
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
(浅沼に対する斬奸状)
昭和35年(1960年)10月12日、烈士は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺しました。
事件後、取調べに対し烈士は若年ながら理路整然と受け答えしていたと言われています。
その頃、自衛隊は、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから左翼や世間からの批判を恐れ、晋平の辞職を望みました。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職しました。
11月2日、烈士は「後悔はしてないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所にて練り歯磨きで『七生報國 天皇陛下万才』の文字を残し自決されました。
辞世の句
「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」
「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」
父、晋平は二矢の死を悲しみました。
「親として気になるのは、あの事件のため私も職を失いこれからの生活設計に困っているということを、二矢が知り、悩んでたということだった。せめてそんな心配はいらない”といってやりたかった」
山口二矢烈士は国を思うのと同じように親思いな青年だったのだと思います。
山口二矢烈士に謹んで哀悼の意を表します。
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山口二矢烈士墓参 http://aikokutou.net/?p=1551(大日本愛国党)
山口二矢烈士墓前祭 http://koudoupress.net/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E7%9F%A2%E7%83%88%E5%A3%AB%E5%A2%93%E5%89%8D%E7%A5%AD-3/(皇道日報)
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