日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

昭和節

2015年04月29日 08時04分25秒 | 皇室









本日、4月29日は昭和天皇の御誕生日です。
「昭和の日」と言われていますが、正しい本来の言い方は「昭和節」です。

先帝陛下は1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一皇子として御誕生されました。

先帝陛下は国民の安寧と幸福を常に大切に考えておられました。

日本が大東亜戦争に負けて連合国軍に占領された時、先帝陛下は敵将マッカーサー元帥を訪問してこう語ったと伝えられています。

「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います。」


(正装で気を付けの姿勢の陛下に対し、略装軍服で腰に手を当てて立つ無礼なマッカーサー)

その後、先帝陛下は焦土となった国土を巡幸され、国民を励まし続けました。




陛下と国民の逸話

☆戦時中、爆撃で御住居が燃え落ち、昭和19(1944)年から、皇居内「御文庫」という処に仮住まいなされました。

ここの湿気が強烈だというのだが、驚くべきことに昭和天皇・皇太后は、戦争が終結して昭和36(1961)年までこの仮住まいから引っ越さなかったといわれています。

「日当たりのいい風通しのいいお住居を造らせていただきたいのですが」

昭和26年頃だが、陛下はこう言って拒否されます。

「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから。」

「湿気ると言っても、印象だけでは問題にならない。数学的な根拠を示さなければ。」

侍従たちは、・・専門家に見せて計器を設置し、一年間データを取ったら、やはり最悪だと結果がでました。

そこで修理することになったが、屋根裏からは3立方メートルくらいのところから、ドラム缶二杯半の水が出たという。

昭和28年頃から、対外的にはやはり新宮殿が必要だという話が持ち上がりましたが、
だが「公事」と違って「私事」だから、陛下は気が進みません。
政府は何度も新居へ移るよう勧めましたが・・


「みなが空襲や引き揚げで住むところも無く苦労しているのに、自分だけそうするわけにはいかない。」


このように仰り、昭和天皇は・皇后はなんと皇太子の御成婚の後まで「御文庫」に住まわれ、昭和36年12月に、やっと新たに建てられた吹上御所に移られたのです。


そのとき仰られた言葉。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」

※アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。


☆昭和天皇は、昭和10年頃から背広を新調していなかった。

そのため終戦後は、十年以上前に作った背広を着て、22年の夏の東北巡幸では、かぎざきをつくろっていたのが出てくる始末でした。

「ぜひご新調になるように。アメリカ人なんかも見ておりますから。」

「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、日本は負けてみんな着るものもなくてこまっているじゃあないか。」

「洋服なんか作る気になれない。」

「あんな古い洋服を着ておられては、我々の肩身が狭くて困るのです。」

「ふうむ・・」「そんなに言うなら、少し作ろう。」


こうして作った二、三着の背広を非常に大切にされ、晴れがましい客に会うときに着るようにされたと言われています。

客との会見が済んで部屋に戻ったら早くも上着を脱いでしまわれる。

これは国民の肩身を狭くしないために作った洋服だから、そういう時のために綺麗にとっておかなくてはというお気持ちからの行動でした。


☆最期まで沖縄に心を寄せておられた。

全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後長らくアメリカ軍の占領下にあり、返還後も1975年(昭和50年)の皇太子訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができず、最期の時にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでおられました。


☆ソ連共産党の洗脳を解く。

1949年(昭和24年)5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では、天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。

天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい?」と言い落涙された。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残しています。

☆日本人の礼儀 

巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、
「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行しました。


また、陛下は自然学者としても大きな成果を残しておられます。

昭和天皇の研究著書
日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 (1967年2月)
天草諸島のヒドロ虫類 (1969年9月)
カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補 (1971年9月)
小笠原諸島のヒドロゾア類 (1974年11月)
紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種 (1977年11月)
伊豆大島および新島のヒドロ虫類 (1983年6月)
パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ (1984年6月)
相模湾産ヒドロ虫類 (1988年8月)
相模湾産ヒドロ虫類 2 (1995年12月)

昭和天皇と専門の学者の共同研究
那須の植物 (1962年4月、三省堂)
那須の植物 追補 (1963年8月、三省堂)
那須の植物誌 (1972年3月、保育社)
伊豆須崎の植物 (1980年11月、保育社)
那須の植物誌 続編 (1985年11月、保育社)
皇居の植物 (1989年11月、保育社)

昭和天皇の採集品をもとに専門の学者がまとめたもの
相模湾産後鰓類図譜 (馬場菊太郎) (1949年9月、岩波書店)
相模湾産海鞘類図譜 (時岡隆) (1953年6月、岩波書店)
相模湾産後鰓類図譜 補遺 (馬場菊太郎) (1955年4月、岩波書店)
増訂 那須産変形菌類図説 (服部廣太郎) (1964年10月、三省堂)
相模湾産蟹類 (酒井恒) (1965年4月、丸善)
相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起) (1968年4月、丸善)
相模湾産貝類 (黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
相模湾産海星類 (林良二) (1973年12月、保育社)
相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥) (1978年10月、保育社)
伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属 (柳生亮三) (1980年10月、保育社)
相模湾産蛇尾類 (入村精一) (1982年3月、丸善)
相模湾産海胆類 (重井陸夫) (1986年4月、丸善)
相模湾産海蜘蛛類 (中村光一郎) (1987年3月、丸善)
相模湾産尋常海綿類 (谷田専治) (1989年11月、丸善)

昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
S.(?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ





先帝陛下は自然保護の観点から、標本を採取される時に、「採ることで絶滅することはないか、たくさん生育しているか」をいつも気にされていました。
また、昭和37年に『那須の植物』を出されてから後の10年間を「昔から続いていた那須の自然は、近年急に切り開かれた。それは当然植生に影響して、ついこの間まであった植物が、もうその場所からすっかり姿を消してしまったものもたくさんある」とその序文に書かれています。
自然を愛された陛下のお言葉は、開発の進んだ現在の那須の姿を危惧されていたのかもしれません。







(那須の自然)

今日は、国民と自然を愛し、守られた先帝陛下を偲び感謝する日です。


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