日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

天皇皇后両陛下、パラオ御訪問

2015年04月08日 14時14分28秒 | 皇室
両陛下、パラオにご出発 「悲しい歴史、忘れてはならない」

産経新聞 4月8日(水)12時13分配信


天皇、皇后両陛下は8日午前、戦後70年の節目に戦没者を慰霊するため、羽田空港発の民間チャーター機でパラオ共和国に向けて出発された。慰霊目的での海外ご訪問は、平成17年6月の米自治領サイパン島以来で10年ぶり2度目。

天皇陛下は羽田空港で見送った安倍晋三首相らに、9日に訪問する同国ペリリュー島で日本軍約1万人、米軍約1700人が犠牲になったことに触れ、「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と述べられた。

8日夕にパラオ本島の空港に到着し、空港内でパラオのレメンゲサウ大統領とご会見。その後、パラオと同じ日本の委任統治領として戦禍に遭ったミクロネシア連邦とマーシャル諸島共和国の両大統領と懇談し、晩(ばん)餐(さん)会でも同席される。

9日には、宿泊先の海上保安庁の巡視船からヘリコプターでペリリュー島にご移動。島南端に日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」と近くにある米軍の慰霊碑に供花し、追悼の祈りをささげられる。

両陛下ご訪問を前に訪島した生還者の元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)らとも面会される。


天皇陛下勅語
本年は戦後70年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。

  私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。

 パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ベルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和10年ごろには、島民の数より多い5万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。

 終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。

 この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下はじめパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。

 この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領ご夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせてご来島になり、パラオ国大統領ご夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。

 終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。


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先ず、パラオの戦いに斃れた英霊の皆様に哀悼の意と感謝の念を表させて頂きます。


さて、パラオは4千年以上前からミクロネシア系の人々が暮らす平和な島です。

しかし、16世紀になると、この平和な島にも西洋列強の魔の手が忍び寄ってきました。

「太陽の沈まない帝国」を築いたスペイン人に始まり、ポルトガル人やイギリス人がパラオに渡来し、1885年にパラオはスペイン領になりました。

さて、この西洋人たちはパラオに天然痘という災厄を持ち込み、住民を搾取しました。
結果、植民地になる前の90%の人々が死に追いやられました。

1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地になりました。
(勝手に人様の土地を売り買いするなと思います。)

ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行いました。

しかし、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われませんでした。

これは、ドイツ以外の列強も同じで支配国は植民地の人間のためにインフラ整備や教育をしません。

搾取するための土地に投資する資本がもったいなく、住民に下手に知識を与えて反抗されることが怖いからです。

このパラオに転機が訪れるのは1914年の第一次世界大戦です。

日英同盟に基づき参戦した日本は、南洋諸島のドイツ軍を攻略しました。

第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になり、以降、パラオは日本が統治するようになりました。

コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。

(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。

当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。

スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともされています。如何に西洋人の統治が酷かったかを窺い知ることが出来ると思います。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていきました。



日本統治の統治は、台湾や朝鮮の統治に倣ったもので、インフラ整備をはじめ教育制度や医療設備が行われ、生活水準の向上が積極的に推し進められていきました。
当時、英国ロンドンタイムスの記者は、「内南洋の人々は、世界の列強植民地の中で最も丁寧に行政されている」と報じています。
日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。


(パラオの子供たちと日本人教師)


(南洋神社)

大東亜戦争が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となりました。
そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出しました。



米軍は、日本軍の兵力の約4倍・航空機200倍・戦車10倍・重火砲100倍以上の軍事力でした。
戦闘が終局に達していた11月24日、生き残った日本将兵はわずか60人足らずとなりました。


ついに、日本軍総司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたために、司令部は玉砕を決定しました。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られました。


(中川州男陸軍大佐)

しかし、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はありませんでした。

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名

アメリカ軍
戦死者 1,794名
戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。

一般人民
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。

その裏には、このような逸話がありました。

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昭和18(1943)年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいました。

刻一刻と迫る米軍。

村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合ったそうです。

そして彼らは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おうと決めます。

ちなみにパラオは、こうした議会には、村人が全員参加します。
そして誰かひとりでも反対者がいると、全員が了承するまで何日でも、議場に籠り続けて、みんなの意思を固める。
この習慣は、いまでもなお続くパラオの人々の伝統です。

全員一致で、日本軍とともに戦うと決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐のもとを訪れます。

平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。

そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます。

彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川隊長は、ひとりひとりの目をじっと見つめると、瞬間、驚くような大声をあげた。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。
村人たちは、ただ茫然とするほかなかった。

驚いた。
日本人は仲間だと信じていたのに、
・・・みせかけだったのか。。。。

村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流します。


いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきます。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。

村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。


そして、汽笛が鳴る。

船が岸辺を離れた。。。。




次の瞬間、


ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。



そのとき、船上にあった村人たちは、わかったのです。

日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。


涙が出た。


岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。

誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
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日本とパラオ ~歴史を越えた友情~


日本とパラオ・ペリリュー島のお話(コピー)


その後のパラオ

戦争終結後の1947年に、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下に置きました(太平洋諸島信託統治領)。
アメリカはミクロネシア地域には動物園政策を取り教育や福祉健康には援助を行ったが産業開発にはほとんど投資を行いませんでした。
(本質的に帝国主義時代の統治手法と同じです。)

経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、フィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになってしまいました。
食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり肥満の問題も発生しています。
アメリカによる民主主義教育の成果は、パラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票においてアメリカ側の軍事的利益に反する結果を度々出したことにも現れています。


1981年、自治政府のパラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。


【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる 
   

平成6(1994)年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。



日本統治が終わった後、アメリカによる統治初頭に、アメリカがパラオに浸透した日本の文化の排撃(神社や日本人と共同で作ったインフラ・畑等の破壊)や反日教育を行いました。しかし、これは全く浸透しませんでした。

現在も非常にパラオ国民は親日的な上に、アメリカに次いで日本から莫大な援助を受けています。


親日国家の殆どはアジア諸国へ進出した旧日本軍及び日本による統治を受けた国々であり、誠実さや勤勉さなど当時の日本人の気質や、日本が行った教育、政策を評価している点です。

民間漁業協定が締結されているため漁業関係でのつながりも深く、国づくり、経済開発における我が国の経済協力への期待は大きいものです。

初代の大統領の名前は『クニオ・ナカムラ』。


(クニオ・ナカムラ元大統領閣下)

日本名をつけた人は現在も沢山いるそうです。
独立した94年から、パラオ共和国要人の来日は毎年欠かさず行われています。

国定教科書全462ページのうち36ページには「日の丸の旗の下に」とタイトルがつけられた日本統治時代にあてられていますが、それは決して賛美でも糾弾でもなく、冷静な視点で事実が教えられています。


今回の天皇皇后両陛下の御訪問によって、日本とパラオの絆が更に深まってくことを望みます。


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