戦艦武蔵、3代目艦長の父へ思い 京都・宇治の女性、船体発見で
京都新聞 4月12日(日)10時7分配信
(荻原道さん)
太平洋戦争でフィリピン中部の海に沈んだ旧日本軍の戦艦武蔵とみられる船体が発見されたことに関心を寄せる女性が、京都府宇治市にいる。父が沈没直前まで武蔵の艦長を務めていた。遺品を大切に保管しており、戦後70年を経て見つかった軍艦に思いを巡らせている。
宇治市莵道のあさひ保育園園長、荻原道さん(78)。父の朝倉豊次(ぶんじ)さん(1894~1966年)は旧日本海軍の少将で、武蔵の3代目艦長だった。
艦長を務めたのは1943年12月~44年8月。次の艦長に交代した約2カ月後の10月24日、武蔵はレイテ沖海戦で米軍の激しい攻撃を受けて沈没した。朝倉さんはシンガポールで終戦を迎え、4年間抑留された。帰国後は故郷の富山県黒部市で初代教育長などを務め、公教育の発展にささげた。
戦中は大勢の兵を統率する将官だったが、荻原さんには子煩悩の父という印象が強い。「おてんばをしても怒らない、優しい父でした」と懐かしむ。武蔵の元乗組員からは「機関室に顔を出す艦長は朝倉さんだけだった」と聞いた。「海軍でも教育に携わり、多くの部下に慕われていたようです」と話す。
荻原さんによると、父は家でほとんど軍服を着ず、開戦後は家族に「5年以上続いたら日本は負ける」と漏らしていたという。帰国後も戦争の話はほとんどせず、「国を守るのは教育しかない」と何度も口にしていた。
荻原さんは父が戦中に着ていた将校マントを今も大切に保管し、武蔵の模型を父の写真とともに飾っている。朝倉さんは晩年、墨書で「天に星 地に花 人に愛」とつづった。かつての部下は追悼集で「敗戦後に南方の独房で夜空の星を眺めて同胞や郷土を連想し、地球から戦争という不幸を除きたいと思ったのでないか」と心情を推し量っている。
米資産家の調査チームが今春、フィリピン中部シブヤン海の深海で見つけた船体は、装備や残骸などから武蔵であることが濃厚とされる。荻原さんは発見に感慨を深めつつ、「当時の乗組員や遺族のことを考えると、そのままにしておいた方がいいのではないでしょうか」と語った。
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戦艦武蔵は帝国海軍の大和型戦艦の二番艦で、大日本帝国が建造した最後の戦艦です。
戦艦武蔵の経歴を紹介します。
1938年(昭和13年) - 3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工。
1940年(昭和15年) - 11月1日 進水。「武蔵」と正式命名。
1941年(昭和16年) - 7月1日 佐世保に回航。主舵、推進器装備。
1941年(昭和16年) - 8月1日~2日 長崎に帰着。
1942年(昭和17年) - 5月20日 第一水雷戦隊駆逐艦響、暁に護衛され、呉に移動[246]。
1942年(昭和17年) - 6月~7月 佐田岬沖で公試。6月22日、27.5ノットを記録。「大和」より若干良成績。
1942年(昭和17年) - 8月5日 呉にて竣工。横須賀鎮守府籍に編入。その後訓練に従事。
1942年(昭和17年) - 10月15日 レーダー試験。
1942年(昭和17年) - 10月28日 実弾射撃演習。距離41,500mで射撃を行うが主砲発射の衝撃でレーダーが故障、調整を行う。
1943年(昭和18年) - 1月18日 呉を出港。空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かう。
1943年(昭和18年) - 2月11日 連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となる[254]。東久邇徳彦王、武蔵を退艦。
1943年(昭和18年) - 4月18日 山本五十六長官が戦死(海軍甲事件)。23日、山本の遺骨と宇垣参謀長が戻る。
1943年(昭和18年) - 4月26日 古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任。
1943年(昭和18年) - 5月17日 第三戦隊(戦艦金剛、榛名)、第二航空戦隊(空母飛鷹)、第八戦隊(巡洋艦利根、筑摩)、第六一駆逐隊、第二七駆逐隊、第二四駆逐隊とともに山本長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還。これが武蔵の初任務となった。アッツ島に米第7師団が上陸したことに対し、アリューシャン方面で活動する米艦隊に決戦を挑む意図があったとも言われる。
1943年(昭和18年) - 5月22日 木更津沖に投錨。翌日、山本長官告別式。
1943年(昭和18年) - 6月24日 昭和天皇行幸。御召艦となり、天皇の他に高松宮宣仁親王、木戸幸一内大臣以下32名が随行し、約3時間滞在。以下の電文が連合艦隊各艦に伝達『24日2210 GF/GF機密第241656番電 一.本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸アラセラレ御召艦武蔵ニ於テ本職ヨリ軍状ヲ聞召サレタル後別電ノ御言葉ヲ賜リ 本職左ノ通奉答セリ 「本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸ヲ辱ウシ優渥ナル御言葉ヲ賜リ臣峯一恐懼感激ノ至リニ御座ヰマス。聯合艦隊ノ将兵一同ノ将兵一同倍倍奮励努力敵撃滅ニ邁進致シ以テ聖旨ニ應ヘ奉ル覚悟デ御座ヰマス」 二.連合艦隊行幸ノ件 公表セラルル迄聯合艦隊以外発表ヲ禁止ス』。
1943年(昭和18年) - 7月31日 ##長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦長良、駆逐艦曙と共にトラック島へ向かう。米潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280)、武蔵を雷撃するも失敗する。
1943年(昭和18年) - 8月5日 トラック泊地到着。前線に出撃しないため『武蔵御殿』と揶揄された。
1943年(昭和18年) - 10月17日 マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動する。だが9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。「連合艦隊の大散歩」と揶揄された。この頃、不燃対策として家具を撤去する。また甲板を黒に近いネズミ色に塗装し、甲板掃除を行わなくなったという複数の証言がある。甲板士官も、1944年1月の時点で甲板が黒く、ほとんど掃除しなかったと述べている。
1944年(昭和19年) - 2月10日 軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻と共にトラック泊地を出港。15日、横須賀に帰還。
1944年(昭和19年) - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加[254]。29日パラオに到着。
1944年(昭和19年) - 3月29日 第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛されパラオ空襲から事前退避する途中、米潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)が武蔵を雷撃。17時45分、魚雷1本が並走するように武蔵の左舷艦首部に命中。艦後部にいた者は魚雷命中に気付かず、武蔵は24ノットに増速して退避した。浸水2630t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して4月3日に呉に到着。直径7-8mの破孔が開いたが損傷は限定的であり、修理は順調に進んだ。
1944年(昭和19年) - 3月31日 海軍乙事件。古賀峯一連合艦隊司令長官殉職、福留繁連合艦隊参謀長捕虜。
1944年(昭和19年) - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事完了。12.7㎝高射砲6基の配備が間に合わず。25mm三連機銃18基増設。
1944年(昭和19年) - 5月4日 巡洋艦大淀に連合艦隊旗艦を譲る。
1944年(昭和19年) - 5月11日 第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れる。
1944年(昭和19年) - 5月16日 タウイタウイ泊地に到着する。
1944年(昭和19年) - 6月10日 ビアク島に上陸した米軍を迎撃する第三次渾作戦に参加、「大和」と共に出撃する。
1944年(昭和19年) - 6月12日 ソロン沖バチャン泊地に集結する。
1944年(昭和19年) - 6月15日 マリアナ沖海戦参加。
1944年(昭和19年) - 6月24日 日本に戻り、桂島錨地に停泊。
1944年(昭和19年) - 7月8日 陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、南方へ向かう[280][254]。16日、リンガ泊地に到着。
1944年(昭和19年) - 10月18日 リンガ泊地を出港し、20日ブルネイに入港。
1944年(昭和19年) - 10月22日 レイテ沖海戦参加すべく、ブルネイを出撃。
1944年(昭和19年) - 10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員769名を救助。
1944年(昭和19年) - 10月24日 米軍機の集中攻撃を受け、シブヤン海にて沈没。
そして、↓が発見された戦艦武蔵です。
武蔵乗組員に謹んで哀悼の意を表します。
また、日本を守って下さりありがとうございました。
京都新聞 4月12日(日)10時7分配信
(荻原道さん)
太平洋戦争でフィリピン中部の海に沈んだ旧日本軍の戦艦武蔵とみられる船体が発見されたことに関心を寄せる女性が、京都府宇治市にいる。父が沈没直前まで武蔵の艦長を務めていた。遺品を大切に保管しており、戦後70年を経て見つかった軍艦に思いを巡らせている。
宇治市莵道のあさひ保育園園長、荻原道さん(78)。父の朝倉豊次(ぶんじ)さん(1894~1966年)は旧日本海軍の少将で、武蔵の3代目艦長だった。
艦長を務めたのは1943年12月~44年8月。次の艦長に交代した約2カ月後の10月24日、武蔵はレイテ沖海戦で米軍の激しい攻撃を受けて沈没した。朝倉さんはシンガポールで終戦を迎え、4年間抑留された。帰国後は故郷の富山県黒部市で初代教育長などを務め、公教育の発展にささげた。
戦中は大勢の兵を統率する将官だったが、荻原さんには子煩悩の父という印象が強い。「おてんばをしても怒らない、優しい父でした」と懐かしむ。武蔵の元乗組員からは「機関室に顔を出す艦長は朝倉さんだけだった」と聞いた。「海軍でも教育に携わり、多くの部下に慕われていたようです」と話す。
荻原さんによると、父は家でほとんど軍服を着ず、開戦後は家族に「5年以上続いたら日本は負ける」と漏らしていたという。帰国後も戦争の話はほとんどせず、「国を守るのは教育しかない」と何度も口にしていた。
荻原さんは父が戦中に着ていた将校マントを今も大切に保管し、武蔵の模型を父の写真とともに飾っている。朝倉さんは晩年、墨書で「天に星 地に花 人に愛」とつづった。かつての部下は追悼集で「敗戦後に南方の独房で夜空の星を眺めて同胞や郷土を連想し、地球から戦争という不幸を除きたいと思ったのでないか」と心情を推し量っている。
米資産家の調査チームが今春、フィリピン中部シブヤン海の深海で見つけた船体は、装備や残骸などから武蔵であることが濃厚とされる。荻原さんは発見に感慨を深めつつ、「当時の乗組員や遺族のことを考えると、そのままにしておいた方がいいのではないでしょうか」と語った。
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戦艦武蔵は帝国海軍の大和型戦艦の二番艦で、大日本帝国が建造した最後の戦艦です。
戦艦武蔵の経歴を紹介します。
1938年(昭和13年) - 3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工。
1940年(昭和15年) - 11月1日 進水。「武蔵」と正式命名。
1941年(昭和16年) - 7月1日 佐世保に回航。主舵、推進器装備。
1941年(昭和16年) - 8月1日~2日 長崎に帰着。
1942年(昭和17年) - 5月20日 第一水雷戦隊駆逐艦響、暁に護衛され、呉に移動[246]。
1942年(昭和17年) - 6月~7月 佐田岬沖で公試。6月22日、27.5ノットを記録。「大和」より若干良成績。
1942年(昭和17年) - 8月5日 呉にて竣工。横須賀鎮守府籍に編入。その後訓練に従事。
1942年(昭和17年) - 10月15日 レーダー試験。
1942年(昭和17年) - 10月28日 実弾射撃演習。距離41,500mで射撃を行うが主砲発射の衝撃でレーダーが故障、調整を行う。
1943年(昭和18年) - 1月18日 呉を出港。空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かう。
1943年(昭和18年) - 2月11日 連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となる[254]。東久邇徳彦王、武蔵を退艦。
1943年(昭和18年) - 4月18日 山本五十六長官が戦死(海軍甲事件)。23日、山本の遺骨と宇垣参謀長が戻る。
1943年(昭和18年) - 4月26日 古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任。
1943年(昭和18年) - 5月17日 第三戦隊(戦艦金剛、榛名)、第二航空戦隊(空母飛鷹)、第八戦隊(巡洋艦利根、筑摩)、第六一駆逐隊、第二七駆逐隊、第二四駆逐隊とともに山本長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還。これが武蔵の初任務となった。アッツ島に米第7師団が上陸したことに対し、アリューシャン方面で活動する米艦隊に決戦を挑む意図があったとも言われる。
1943年(昭和18年) - 5月22日 木更津沖に投錨。翌日、山本長官告別式。
1943年(昭和18年) - 6月24日 昭和天皇行幸。御召艦となり、天皇の他に高松宮宣仁親王、木戸幸一内大臣以下32名が随行し、約3時間滞在。以下の電文が連合艦隊各艦に伝達『24日2210 GF/GF機密第241656番電 一.本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸アラセラレ御召艦武蔵ニ於テ本職ヨリ軍状ヲ聞召サレタル後別電ノ御言葉ヲ賜リ 本職左ノ通奉答セリ 「本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸ヲ辱ウシ優渥ナル御言葉ヲ賜リ臣峯一恐懼感激ノ至リニ御座ヰマス。聯合艦隊ノ将兵一同ノ将兵一同倍倍奮励努力敵撃滅ニ邁進致シ以テ聖旨ニ應ヘ奉ル覚悟デ御座ヰマス」 二.連合艦隊行幸ノ件 公表セラルル迄聯合艦隊以外発表ヲ禁止ス』。
1943年(昭和18年) - 7月31日 ##長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦長良、駆逐艦曙と共にトラック島へ向かう。米潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280)、武蔵を雷撃するも失敗する。
1943年(昭和18年) - 8月5日 トラック泊地到着。前線に出撃しないため『武蔵御殿』と揶揄された。
1943年(昭和18年) - 10月17日 マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動する。だが9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。「連合艦隊の大散歩」と揶揄された。この頃、不燃対策として家具を撤去する。また甲板を黒に近いネズミ色に塗装し、甲板掃除を行わなくなったという複数の証言がある。甲板士官も、1944年1月の時点で甲板が黒く、ほとんど掃除しなかったと述べている。
1944年(昭和19年) - 2月10日 軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻と共にトラック泊地を出港。15日、横須賀に帰還。
1944年(昭和19年) - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加[254]。29日パラオに到着。
1944年(昭和19年) - 3月29日 第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛されパラオ空襲から事前退避する途中、米潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)が武蔵を雷撃。17時45分、魚雷1本が並走するように武蔵の左舷艦首部に命中。艦後部にいた者は魚雷命中に気付かず、武蔵は24ノットに増速して退避した。浸水2630t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して4月3日に呉に到着。直径7-8mの破孔が開いたが損傷は限定的であり、修理は順調に進んだ。
1944年(昭和19年) - 3月31日 海軍乙事件。古賀峯一連合艦隊司令長官殉職、福留繁連合艦隊参謀長捕虜。
1944年(昭和19年) - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事完了。12.7㎝高射砲6基の配備が間に合わず。25mm三連機銃18基増設。
1944年(昭和19年) - 5月4日 巡洋艦大淀に連合艦隊旗艦を譲る。
1944年(昭和19年) - 5月11日 第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れる。
1944年(昭和19年) - 5月16日 タウイタウイ泊地に到着する。
1944年(昭和19年) - 6月10日 ビアク島に上陸した米軍を迎撃する第三次渾作戦に参加、「大和」と共に出撃する。
1944年(昭和19年) - 6月12日 ソロン沖バチャン泊地に集結する。
1944年(昭和19年) - 6月15日 マリアナ沖海戦参加。
1944年(昭和19年) - 6月24日 日本に戻り、桂島錨地に停泊。
1944年(昭和19年) - 7月8日 陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、南方へ向かう[280][254]。16日、リンガ泊地に到着。
1944年(昭和19年) - 10月18日 リンガ泊地を出港し、20日ブルネイに入港。
1944年(昭和19年) - 10月22日 レイテ沖海戦参加すべく、ブルネイを出撃。
1944年(昭和19年) - 10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員769名を救助。
1944年(昭和19年) - 10月24日 米軍機の集中攻撃を受け、シブヤン海にて沈没。
そして、↓が発見された戦艦武蔵です。
武蔵乗組員に謹んで哀悼の意を表します。
また、日本を守って下さりありがとうございました。
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