(国民党旗「青天白日旗」)
日本軍沈没船に中国国旗 パラオ・コラール島沖
※補足
「韓国軍がしたこと」
犯人は支那人とも共同通信社の自演とも言われていますが、死者を冒涜したということに違いはありません。
今から78年前、日本は支那共産党・コミンテルンの罠に嵌って中華民国との戦争に突入しました。
当時の中国国内の情勢は、現在の中東で暴虐の限りを尽くすISIL(自称「イスラム国」)をイメージして頂ければ分かりやすいと思います。
各地に軍閥・匪賊が跋扈し、農民から収穫を略奪して女性にはレイプをする。
南京中央政府の蒋介石主席も全土を統一できていた訳ではなく、各地の軍閥の機嫌を損ねたりすれば直ぐに政権が崩壊する危険がありました。
この頃、共産党は国民党の攻勢によって次々と拠点を制圧され風前の灯火となっていました。
しかし、彼らに一発逆転のチャンスが訪れます。
1936年12月12日の西安事件です。
共産党は内通者の張学良と策謀し、蒋介石を捕えることに成功し、彼に対日戦を行うことを約束させます。
こうして日本は支那大陸の内戦に引きずり込まれていきました。
支那事変(日華事変)において、日本軍と支那軍には大きな差がありました。
それは、支那軍は同胞である支那民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
例えば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた国民党軍は、1938年6月に日本軍の進撃を阻止するため、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村が水没し、水死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事となりました。
しかも、この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。
そして、被災地で食糧不足に悩んだ支那軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じています。支那側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし支那側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。結果として、支那人を大量殺戮しただけで終わったのです。
堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
ところが、国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害したのです。(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた国民党軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともありました)。
この黄河決壊事件をスペインのディアリオ・バスコ紙は6月19日の社説で
「中国軍は黄河の堤防を破壊してノアの大洪水に勝る大水害を起こそうとしている。中国の中部地域における70万平方キロメートルの地域が水没の危機に晒され、7千万の住民が大洪水の犠牲となろうとしている。しかし英、米、仏いずれからもこの世界に前例なき人類一大殺害に対し一言たりとも抗議する声を聴かない。」
と伝えました。
また、共産党軍は田舎の方を逃げ回るだけで日本軍と戦わず、しかも行った地域で地主や知識人を殺害して回りました。
こうして徐々に支配地域を拡大し、日本軍との戦いで疲弊した国民党を背後から刺して大陸から放逐して成立したのが中華人民共和国です。
自分から戦争を仕掛けてきたくせに、敵前逃亡ばかりしていた卑怯者の共産党の旗を、帝国海軍の沈没船にくくりつける?
笑止千万です!
死者を冒涜する文化は今に始まったことではありません。
始皇帝以前から支那では王朝が変われば、前の王朝の皇帝の墓を破壊する。文化を破壊するということを続けてきたのです。
対して、日本ではたとえ敵であっても死者には敬意を払いました。
(「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭を行なう日本兵(1938年)。日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきました。)
もちろん、支那でも良識ある人は、今回の事件を批判するでしょう。
それすらなければ、支那に未来はありません。
次回は多様な日本分断工作と日本人の団結(1)の続きを書きたいと思います。
ご覧頂きありがとうございました。
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