新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

2月20日「今日の礼拝堂」

2022年02月24日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第7主日    

今週の祈り: 主イエスさま。私たちをあなたの平和の道具としてください。憎しみのあるところに愛を、傷ついたところに赦しを、絶望のあるところに希望を蒔くものとなりますように。聖なる主よ、御名によって私たちが慰め、理解し、愛することができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン」 

 

 〇顕現後第7主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ルカ6:27~38

                                   「 敵を愛する 

先週に引き続き今日もまた平地の説教が与えられています。先週は「幸いと不幸」について語られましたが、今日は続けざまに語られた「敵を愛しなさい」という箇所が与えられました。マタイの場合には「幸いの教え」と「敵を愛しなさい」という教えの間にはいくつかの禁止事項についての説教が書かれていますが、ルカには書かれていません。つまり、「幸いと不幸」に続けて「敵を愛しなさい」という教えが書かれ、そこに「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という、いわゆる黄金律と呼ばれる教えが記されているのです。この言葉はマタイ7:12にも書かれていますが、マタイの場合黄金律の教えの対象はある程度の広さを持てるように書かれています。身近な人だったり、近所の人だったり、とにかく誰にでもしてもらいたいと自分が思うようなことをしてあげなさいと語られているわけです。一方ルカでは「敵を愛しなさい」という文脈の中で語られることで、「どんな嫌な相手であっても、自分がしてもらいたいと思うことをしてあげなさい」という語り口になっているのです。つまり、より「敵を愛する」という行為が強調されていると言っても良いでしょう。

「敵を愛する」ということは簡単なことではありません。マタイで語られたそれは心の問題として読むことが可能ですが、ルカは行動をも規定し、より難しい「敵を愛しなさい」という教えになっていると言えるでしょう。しかし、そこにこそ真に豊かな恵みがあるとルカは私たちに語っているのです。誰かを憎むこと、嫌うこと、敵と思うことは思ったよりも苦しく辛いものです。もしそのような時に、相手を愛することが出来れば、どれほど豊かでありましようか。イエスさまは私たちに、そうなれるのだと伝えているのです。神の愛に満たされるならば、私たちはいついかなる時も、自分がしてもらいたいと思うことを相手にしてあげる、それもそのことを「やりたいからやっている」となる自分になれるのだと私たちに伝えているのです。ルカはそこに立って初めて、豊かな恵みに与れるのだと語っているのです。

この教えが「幸いと不幸」の後に書かれていることはとても重要なことです。ルカは読者として「現状で弱くされている人」をかなりの部分で想定しています。そういった人が救われる一方で、今良い思いをしている人が不幸になっていくのだと先の教えで語っていました。そこにルカは今日の箇所を通して「誰かが不幸になることを喜ぶな」と伝えているのです。むしろこれまで虐げてきた人に対しても憐れみ深いものになれと言うのです。そうなって初めて、真に豊かな恵みがあるのだと。徹底して愛を貫き通すことの大切さと、そこにある豊かさを私たちに伝えているのです。私たちもいついかなる時も愛を忘れず、そこにある真の恵みをいつも求めて参りましよう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#2月27 午前11時 主の変容主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「主の栄光に包まれて

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:出エジプト34:29-35、コリント(Ⅱ)3:12-4:2、ルカ9:28-36

讃  美 歌:56(1,2)、148(1-3)、322(1,2)


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2月13日「今日の礼拝堂」

2022年02月20日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第6主日    

今週の祈り: 生きておられる神さま。あなたはキリストによってすべてを新しくされます。私たちの貧しさをあなたの恵みの豊かさで造り変えることで、私たちが新しく生き、あなたの栄光が顕れますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン」 

*会堂に集まって礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルスの感染拡大のため、今日もまた「短縮式文」により行われました

 

 〇顕現後第6主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ6:17~26

                                   「 喜び踊れ 

本日の福音でイエスさまが語られた「幸いと不幸」の説教は、『マタイ福音書』5章にある説教とよく似ています。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ…」という8つの幸いに関する説教は、イエスさまが山の上で弟子たちに語られたので「山上の説教」と呼ばれています。一方、本日のテキストである『ルカ福音書』6章の説教は、イエスさまが山から下りてきて、集まってきた民衆と共に平らな所に立って語られたので「平地の説教」と言われます。その内容は、「幸い」に関する教えだけでなく「不幸」についても言及されており、マタイ版の「山上の説教」よりも具体的かつ現実的ものとなっています。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる…」。このようにイエスさまは、「今」実際に、貧しく、飢え、泣き、憎まれている人々に対して、幸いであると語られているわけです。「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と。

なぜ、私たちがこの世にあって貧しく、飢え乾き、泣き崩れ、憎まれている時に「喜び踊りなさい」と言われるのか。天には大きな報いがあるというのか。それは、私たちが自分の力では如何とも解決できない逆境にあればあるほど、主に寄り頼むことができるからです。主を救いとすることができるからです。それで、天では天使たちの歓声が上がる。主があがめられ、ほめ讃えられる。そして主は、そのようにへりくだった私たちに必ず救いの道を備えてくださいますから、喜び踊りなさい!然り、主の救いは近いのです。

ところが、今、あなたが富んでいるなら、今、あなたが満腹しているなら、今、あなたが笑い、すべての人にほめられているなら、あなたがたは不幸である。なぜなら、人は有り余る富や食べ物や名誉で満たされてしまうと、それらをなかなか手放そうとはしないからです。そうして、他者と分かち合うことも、それらを与えてくださった主に目を向けることもやがて忘れてしまう。人はとかく傲慢に陥りやすいのです。エレミヤは、そのような人間の本質を鋭く見抜いていた預言者でした。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」(エレミヤ書17章9~10節)主は私たちの心を隅々までご存じです。それゆえ、私たちの罪のすべてを赦し、贖い、恵みをもって覆ってくださる主を信頼することが、私たちが祝福を受ける唯一の道なのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#2月20 午前11時 顕現後第7主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「敵を愛する

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:創世記45:3-11,15、コリント(Ⅰ)15:35-38,42-50、ルカ6:27-38

讃  美 歌:170,385(1,2)、194


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2月6日「今日の礼拝堂」

2022年02月11日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第5主日   

今週の祈り:聖なる、聖なる神さま。地は栄光で満ち、御前では天使たちと聖徒たちがあなたを畏れ敬っています。あなたが世界を動かしているのを見ることができるよう私たちに大きな幻を示し、御恵みによって御子の使者としてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

*会堂に集まって礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルスの感染拡大のため、また「短縮式文」により行われました

 

 〇顕現後第5主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ5:1~11

                                    「 弟   子 

今日与えられた箇所は、ペトロがイエス様によって弟子とされていく箇所です。有名な「あなたは人間をとる漁師になる。」という言葉が語られた箇所であり、マタイ・マルコ共にこの言葉が書かれていることから、聖書が書かれた当時においても非常に印象深い言葉として広まっていた言葉だったのでしょう。しかし、そんな印象深い言葉が語られた場面はマタイ・マルコでは唐突に語り掛けられますが、ルカではその前にイエスさまとのやり取りが書かれています。弟子となっていく過程を丁寧に描いていると言えるでしょう。イエスさまとペトロは既に信頼関係が起こっていますし、今日の箇所でも人々はイエスさまの言葉を神の言葉として聞いていることからイエスさまを優れた人物として信頼していましたが、ぺ卜口も含めまだ神の子として信頼していたわけではなかったのでしょう。そこに、イエスさまの指示に従ったところ溢れんばかりの魚が取れるという奇蹟の業と出会い、ペトロは初めてイエスさまを神の子として受け入れたのです。しかし、そこから先のペトロの態度こそルカ独特のものになっています。

恵みを受けたペトロはこう語ります。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い物なのです。」と。イエスさまのことを受け入れているつもりが、どこかで受け入れていなかった自分に気が付かされ、ペトロは神の御前に自分ごときが立っていて良いわけがないと恐れたのです。つまりルカはイエスさまと出会い弟子となっていく人の感情として「恐れ」を描き出したのです。感謝でも賛美でもなく、信頼でも安心でもなく、恐れです。言い変えれば、人が罪を抱えているのは当然であり、神と出会う時、人は自らが犯した罪に悩まされるのだと語られているのです。

私たちはどうでしょうか。自らの罪に恐れるでしょうか。もはや罪の赦しを当然のものとして、罪を恐れる感情が薄くなりつつあるのではないでしょうか。罪に悩まされ続けることは当然良いものではありませんが、罪を恐れすらしないことは罪を見つめていないのと同義です。恐れは信仰の反対側に位置する感情のように思うかもしれませんがそんなことはありません。罪を恐れて良いのです。それほどまでに、罪は私たちの心に根付き、大きな存在としてその心の内に必ず存在しているからです。恐れた先で私たちは「恐れることはない(10節)」という罪の赦しの言葉と出会うのです。恐れる私たちだからこそ、この罪の赦しがいかに恵み深いものであるかに気が付かされることが出来るのです。イエスさまがペトロの舟にわざわざ乗り込んできたように、私たちの心にも乗り込んで、抱えきれないほどの恵みを与え、悔い改めと罪の赦しへと導こうとしてくださるのです。安心して、罪を見つめ、今日もまた赦しの恵みから喜んで遣わされていきましょう。(中島)

 

 《来週の礼拝》     *信徒礼拝で行われます。                             

#2月13 午前11時 顕現後第6主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「垂訓」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ17:5-10、コリント(Ⅰ)15:12-20、ルカ6:17-26

讃  美 歌:169(1,3,)、388(1,2)、198(1,2)


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1月30日「強の礼拝堂」

2022年02月04日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第4主日    

今週の祈り: 全能・永遠の神さま。あなたからいただいた信仰と希望と愛の賜物を、私たちのうちに豊かにしてください。そしてあなたからいただいた約束を、戒めとして大切に守れるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン」 

*会堂に集まって礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルスの感染拡大のため、今日からまた「短縮式文」により行われました

 

 〇顕現後第4主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ4:21~30

                                   「 ヨセフの子 

 本日の福音は、先週の続きです。『ルカ福音書』4章の記事を思い出してみましょう。

ある安息日、イエスさまは故郷ナザレの町に帰ってきて、礼拝の奉仕に当たられました。聖書の御言葉を朗読し、説教をする務めです。霊の力に満たされていたイエスさまは、既にガリラヤ地方のあちこちの会堂で教え、人々から尊敬を受けておられました。その噂が、故郷の人々にも伝わっていたのでしょう。久しぶりに帰郷されたイエスさまから、ぜひ自分たちも福音を聞きたいものだ、とナザレの人々は願ったのです。イエスさまもその願いに応え、説教壇に立たれました。その日与えられた御言葉は、『イザヤ書』61章。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」朗々と御言葉を読み上げられたイエスさまに、会堂中の人々の視線が注がれています。すると、イエスさまは説教を語り始められました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。実に力強い説教です。聖書の御言葉が、ただ人々の耳に聞こえ、目で読まれただけでなく、実現した!というのです。それは、このように語られたイエスさまご自身が主の霊を注がれ、主から油注がれた方だからです。然り、イエスさまは、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人…すべての人々のために福音を告げ知らせるために主から遣わされたキリストなのです。

 イエスさまの力強い説教を間近で聞いたナザレの人々は、皆イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた、と記されています。と同時に、彼らは「この人はヨセフの子ではないか」とも囁きました。あの大工のせがれが、マリアの息子が、なぜこんなに立派になったのか?霊の力に満たされた伝道者となったのか?故郷の人々はそう怪しみます。自分が持っている知識や偏見、すなわち自分の枠の中でしかイエスを捉えきれないからです。その上、同郷のよしみでイエスを利用してやろうという魂胆さえ見せてははばかりません。すべてをお見通しのイエスさまは、ナザレの人々の期待には応えられないとはっきり告げます。すると途端に人々は憤慨し、なんとイエスさまを崖から突き落とそうとしたのです。イエスさまの説教をほめたたえていた人々が、急転直下、イエスを拒絶し、殺意を抱く暴徒となったわけです。人間の罪の正体をまざまざと見るようです。にもかかわらず、イエスさまは彼らの間を堂々と通り抜けて、そこを立ち去られました。聞く耳のある人々に、福音を届けるために。私たちも己の耳を開き、心を開いて、イエスさまが語られる福音を素直に聞きたいものです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#2月6 午前11時 顕現後第5主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「弟子

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ6:1-80、コリント(Ⅰ)15:1-11、ルカ5:1-11

讃  美 歌:191(1,2)、336(1,3)、416(1,2)


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