聖霊降臨後第14主日
〇「着飾ることなく」という説教題での説教にふさわしく、今日のお花は全体が楚々として可憐です。説教題を見ながらお花を見るから、私たちの心の目にお花の方が添ってくれるのか、私たちの心が説教とお花を重ねてみるからなのか、いつも不思議な相乗効果で礼拝を豊かにしてくれるのを感じます。
〇今日の礼拝堂説教は岡田牧師でした。岡田牧師は福音書の日課(ルカ14:7-14) から、安息日について語られました。安息日の食卓は神さまを中心にした食卓です。礼拝以外にはどんな労働もしてはならないという安息日の律法をかざして、律法学者たちが詰め寄ります。
その人たちに対して、イエスさまは斬りこみます。「目の前にいる大切な者が命の危機に瀕しているとき、あなたは手を差し伸べることをしないのか?」と。
イエスさまは失われているようにみえる人にも、命の尊厳を取り戻してくださる方です。それは「どんな人をも、決して見過ごせない愛」です。自分は安全圏にいて、他の方法で助けようとする人間。他人事として「正論」で解決をしようとする人間。
情や処世術のための話しではなく、隠された私たちの本能に気をつけよと、主は警告をしています。目の前にある哀しみに、手を差し伸べないではいられないのが神さまの業です。私たちに託された神の業です。
私たち一人一人の命が、確かに輝いている世界。そのことをお互いに認め合い、慈しみあい、与え、喜び合って生きる世界。私が権力を誇示したい気持ちをすてて、神さまの祝福が充ちた世界にあることを喜び、神さまの国があなたに与えられていることを喜べと
今日のみことばは迫ります。それが安息日の本当の喜びなのだから・・・。
〇牧師の説教は静かに諄々と響きました。イエスさまの着かれた食卓は、きっとこんなふうに物静かな中にも揺るぐことのない強さをもって覆われていたのだろうと、ふと感じました。その中には、もはや理屈や知識で優越感をもちたいと思う人間の愚かさは、こうべをたれるより他ありません。
今日のお花は誰も着飾ってはいません。質素なくらいに自然な風情で命を輝かしています。
こんなふうに、いるのかいないのか分からないような自然さで、この世を生き、そして消えて逝きたいと・・・そんなことを思わせるお花でした。
〇何だと思いますか?これ・・・ひまわりです。「八重咲きひまわり」という名前です。
ひまわりという名前で認識しているものとは、あまりにも違います。でも・・これもひまわりなのです。
この間スーパーの前のお花売り場を眺めていたら、どう見ても色はマリーゴールドだと思う花がありました。そのマリーゴールドがまるでまん丸のボールのような形でこんもりと盛り上がっているのです。その花の名前を見て、私は思わず唸ってしまいました。笑うのでもなく、あきれるのでもなく、唸ったのです。うーん、納得!脱帽!という名前でした。
そのマリーゴールドの名前は「アフロマリー」というものでした。アフロヘアーそのままのマリーゴールドだったのです。新種を研究する人たちも偉い!それに名前をつける人はもっと偉い!と、私はその日一日心楽しく過ごしました。折があったら見つけてみてください。
〇今日はこのあと中央区の札幌礼拝堂で「札幌教会」の信徒会が開かれます。札幌礼拝堂の方で「おにぎり」の用意をしてくださるというので、それまでの「虫封じ」にコーヒーとお菓子をつまんで出かけました。「虫封じ」というのは、お腹がすいて腹の虫がグーグー鳴くのを封じるために、ほんの少しお腹に入れる食べ物のことを言います。虫を封じる・・・うーん、これもまた見事でさりげなく、ユーモアがあって楽しい表現です。
茶道の「懐石」というのも同じ意味合いですが、私はこの「虫封じ」がえらく気に入っています。
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〇爽やかな初秋という季節がなかなかやってきません。
釧路教会の方からサンマが一匹1000円という便りが届きました。ビンボー人には暮らしにくい時代がやってきたようです。
でもサンマが食べられなくても、路地にひっそりと咲く「野の花」に秋の気配を感じて楽しみましょう。
涼しげなミントの花です。小さなガラスの花瓶に入れられて、「私たちはここにいますよ」と励ましてくれているようです。この野の花たちは、暑さにも寒さにも文句一つ言わないで、咲くときには咲き、散るときには散っていきます。
野の花の美しさは自分を誇らないところにあるのでしょう。ありのまま・・・そのまま・・・やさしいようでなかなか難しい生き方ですが、こうしてお手本を見せてくれている小さな小さな野の花の語りかけに、素直に耳を澄ませてみましょう。
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8月29日聖霊降臨後第14主日説教 重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)
「祝宴への招待」
「宴席で上座を好んで恥をかく者」の譬えは、「身分をわきまえろ」という教えのように読めなくはありません。けれど、ここでイエスはどうも、かなりおどけた調子で、戯画的に、この譬えを語られていると想像できます。とはいえ、それによって導きだされた「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだるものは、高められる」という結論は戯画的ではありません。
「へりくだる者」というのは、まずしき者という意味です。私たちは、自分の貧しさを知ることを恐れます。それは、自分を劣等感の中に追い込むからです。人は劣等感か優越感か、両者のバランスを取りながら生きています。けれども実は、自分の本当の小ささ、卑小さ、低さをしることは、大きな開放感を与えてくれるものでもあるのです。それは、本当に大きく高い存在によって、それを知らされるときです。
「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは、人の子とは何者なのでしょう。あなたが思いやってくださるとは、人間は、息に似たもの、彼の日々は消え去る影。(詩編44:3-4)
詩人はここで小さく貧しい自分の存在を見ています。同時に、その小さく貧しい自分が、神に顧みられているという、高くされた姿をも見て、その不思議に驚き感謝しているのです。C・S・ルイスは、謙虚について次のように言っています。「もしわれわれが本当に神と何らかの関係に入ったなら、われわれは、事実、謙虚になるだろう。・・・そして、全生涯にわたってわれわれを不安と不幸に陥れてきた、自分の威信を支えようとするあのばかばかしい努力をきれいさっぱり捨て去って、無限の安堵をかんずることだろう。神はその瞬間の到来を可能ならしめるために、われわれを謙虚にさせようと努めておられるのだ」
今日のテキストの後半の教えは、人を招く者に対してです。パーティは、気心が知れた者同士でこそ楽しいパーティです。でも主は、そのようなパーティではなく、貧しい、何の返礼も出来ないようなひとたちをパーティに招きなさいといわれます。それは慈善パーティの勧めなのでしょうか。いやこれは主イエスの挑発的な問いかけです。何のお返しも出来ないのに、神の祝宴にまねかれている貧しき者、それがあなたたちではないか、という問いかけです。
「人間は、息に似たもの、彼の日々は消え去る影」、そのような存在であり、神さまに対しては何のお返しも出来ない身ですが、そういうわたしたちが、神さまの豊かな祝宴に招かれているのです。「何とか自分の威信を保ちたい。」というような無駄な努力はいりません。
祝宴、それはどこにあるのでしょうか。この礼拝の場、霊の交わりの場がそうです。今日の日、明日の日、命ある日々、神と共に生きるすべての瞬間が祝宴です。花は咲き、木々は風にそよぎ、大空は御手の業を示します。子どもたちの遊ぶ声、大人たちの語らい。自然の営み、人間の営み、そこに祝宴があり、ここに祝宴があります。ここで舞え。主はそれを望まれます。
しかし究極の祝宴は天にあります。そこではキリストが花婿、われわれは花嫁。わたしたちはそこに、何の価もなく招かれています。