新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

8月29日「今日の礼拝堂」

2010年08月29日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第14主日

1_2 〇「着飾ることなく」という説教題での説教にふさわしく、今日のお花は全体が楚々として可憐です。説教題を見ながらお花を見るから、私たちの心の目にお花の方が添ってくれるのか、私たちの心が説教とお花を重ねてみるからなのか、いつも不思議な相乗効果で礼拝を豊かにしてくれるのを感じます。

〇今日の礼拝堂説教は岡田牧師でした。岡田牧師は福音書の日課(ルカ14:7-14) から、安息日について語られました。安息日の食卓は神さまを中心にした食卓です。礼拝以外にはどんな労働もしてはならないという安息日の律法をかざして、律法学者たちが詰め寄ります。
その人たちに対して、イエスさまは斬りこみます。「目の前にいる大切な者が命の危機に瀕しているとき、あなたは手を差し伸べることをしないのか?」と。

イエスさまは失われているようにみえる人にも、命の尊厳を取り戻してくださる方です。それは「どんな人をも、決して見過ごせない愛」です。自分は安全圏にいて、他の方法で助けようとする人間。他人事として「正論」で解決をしようとする人間。
情や処世術のための話しではなく、隠された私たちの本能に気をつけよと、主は警告をしています。目の前にある哀しみに、手を差し伸べないではいられないのが神さまの業です。私たちに託された神の業です。

私たち一人一人の命が、確かに輝いている世界。そのことをお互いに認め合い、慈しみあい、与え、喜び合って生きる世界。私が権力を誇示したい気持ちをすてて、神さまの祝福が充ちた世界にあることを喜び、神さまの国があなたに与えられていることを喜べと
今日のみことばは迫ります。それが安息日の本当の喜びなのだから・・・。

〇牧師の説教は静かに諄々と響きました。イエスさまの着かれた食卓は、きっとこんなふうに物静かな中にも揺るぐことのない強さをもって覆われていたのだろうと、ふと感じました。その中には、もはや理屈や知識で優越感をもちたいと思う人間の愚かさは、こうべをたれるより他ありません。

今日のお花は誰も着飾ってはいません。質素なくらいに自然な風情で命を輝かしています。
こんなふうに、いるのかいないのか分からないような自然さで、この世を生き、そして消えて逝きたいと・・・そんなことを思わせるお花でした。

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〇何だと思いますか?これ・・・ひまわりです。「八重咲きひまわり」という名前です。
ひまわりという名前で認識しているものとは、あまりにも違います。でも・・これもひまわりなのです。
この間スーパーの前のお花売り場を眺めていたら、どう見ても色はマリーゴールドだと思う花がありました。そのマリーゴールドがまるでまん丸のボールのような形でこんもりと盛り上がっているのです。その花の名前を見て、私は思わず唸ってしまいました。笑うのでもなく、あきれるのでもなく、唸ったのです。うーん、納得!脱帽!という名前でした。
そのマリーゴールドの名前は「アフロマリー」というものでした。アフロヘアーそのままのマリーゴールドだったのです。新種を研究する人たちも偉い!それに名前をつける人はもっと偉い!と、私はその日一日心楽しく過ごしました。折があったら見つけてみてください。

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〇今日はこのあと中央区の札幌礼拝堂で「札幌教会」の信徒会が開かれます。札幌礼拝堂の方で「おにぎり」の用意をしてくださるというので、それまでの「虫封じ」にコーヒーとお菓子をつまんで出かけました。「虫封じ」というのは、お腹がすいて腹の虫がグーグー鳴くのを封じるために、ほんの少しお腹に入れる食べ物のことを言います。虫を封じる・・・うーん、これもまた見事でさりげなく、ユーモアがあって楽しい表現です。
茶道の「懐石」というのも同じ意味合いですが、私はこの「虫封じ」がえらく気に入っています。



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〇爽やかな初秋という季節がなかなかやってきません。
釧路教会の方からサンマが一匹1000円という便りが届きました。ビンボー人には暮らしにくい時代がやってきたようです。
でもサンマが食べられなくても、路地にひっそりと咲く「野の花」に秋の気配を感じて楽しみましょう。
涼しげなミントの花です。小さなガラスの花瓶に入れられて、「私たちはここにいますよ」と励ましてくれているようです。この野の花たちは、暑さにも寒さにも文句一つ言わないで、咲くときには咲き、散るときには散っていきます。

野の花の美しさは自分を誇らないところにあるのでしょう。ありのまま・・・そのまま・・・やさしいようでなかなか難しい生き方ですが、こうしてお手本を見せてくれている小さな小さな野の花の語りかけに、素直に耳を澄ませてみましょう。



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8月29日聖霊降臨後第14主日説教    重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「祝宴への招待」

宴席で上座を好んで恥をかく者」の譬えは、「身分をわきまえろ」という教えのように読めなくはありません。けれど、ここでイエスはどうも、かなりおどけた調子で、戯画的に、この譬えを語られていると想像できます。とはいえ、それによって導きだされた「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだるものは、高められる」という結論は戯画的ではありません。

「へりくだる者」というのは、まずしき者という意味です。私たちは、自分の貧しさを知ることを恐れます。それは、自分を劣等感の中に追い込むからです。人は劣等感か優越感か、両者のバランスを取りながら生きています。けれども実は、自分の本当の小ささ、卑小さ、低さをしることは、大きな開放感を与えてくれるものでもあるのです。それは、本当に大きく高い存在によって、それを知らされるときです。

「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは、人の子とは何者なのでしょう。あなたが思いやってくださるとは、人間は、息に似たもの、彼の日々は消え去る影。(詩編44:3-4)

詩人はここで小さく貧しい自分の存在を見ています。同時に、その小さく貧しい自分が、神に顧みられているという、高くされた姿をも見て、その不思議に驚き感謝しているのです。C・S・ルイスは、謙虚について次のように言っています。「もしわれわれが本当に神と何らかの関係に入ったなら、われわれは、事実、謙虚になるだろう。・・・そして、全生涯にわたってわれわれを不安と不幸に陥れてきた、自分の威信を支えようとするあのばかばかしい努力をきれいさっぱり捨て去って、無限の安堵をかんずることだろう。神はその瞬間の到来を可能ならしめるために、われわれを謙虚にさせようと努めておられるのだ」

今日のテキストの後半の教えは、人を招く者に対してです。パーティは、気心が知れた者同士でこそ楽しいパーティです。でも主は、そのようなパーティではなく、貧しい、何の返礼も出来ないようなひとたちをパーティに招きなさいといわれます。それは慈善パーティの勧めなのでしょうか。いやこれは主イエスの挑発的な問いかけです。何のお返しも出来ないのに、神の祝宴にまねかれている貧しき者、それがあなたたちではないか、という問いかけです。

「人間は、息に似たもの、彼の日々は消え去る影」、そのような存在であり、神さまに対しては何のお返しも出来ない身ですが、そういうわたしたちが、神さまの豊かな祝宴に招かれているのです。「何とか自分の威信を保ちたい。」というような無駄な努力はいりません。

祝宴、それはどこにあるのでしょうか。この礼拝の場、霊の交わりの場がそうです。今日の日、明日の日、命ある日々、神と共に生きるすべての瞬間が祝宴です。花は咲き、木々は風にそよぎ、大空は御手の業を示します。子どもたちの遊ぶ声、大人たちの語らい。自然の営み、人間の営み、そこに祝宴があり、ここに祝宴があります。ここで舞え。主はそれを望まれます。

しかし究極の祝宴は天にあります。そこではキリストが花婿、われわれは花嫁。わたしたちはそこに、何の価もなく招かれています。


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8月22日「今日の礼拝堂」

2010年08月22日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第13主日

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〇北海道にも記録的な酷暑が続いています。今日礼拝
堂に入ってまず目に入ったのは、外の暑さをそのままに
真っ赤なグラジオラスでした。けれどしばらく眺めている
うちに、この真っ赤なグラジオラスとダリアを純白なダリ
アが静かに包み込んでいるのに気がつきました。
あぁ・・白というのはなんて素晴らしい色なんだろうと感
動をしていて、「あなたの色に染まりたい」という花嫁さ
んの白無垢を思い出しました。

そんな思いで今日の説教を聞きました。
礼拝堂説教は重富牧師の「狭い戸口」でした。
「救いとは何か」と牧師は語り始めました。救い、救いと
教会の中では常套句のように飛び交う言葉だけれど、
いざ考えてみると、何をもって私たちは救いと信じている
のかを確信をもって答えられる人は少ないかもしれませ
ん。

牧師はこう語りました。「イエスさまの十字架は私のもの
だと信じられること。私は神さまに愛されているという思
い。救いの真の意味は死んでからも永遠のいのちが与
えられると信じること」
それは、こころの芯にある安らぎだと語られました。
その救いの戸口は人一人しか通れない。
救われるというのは、みんな一緒ではない。一人一人しか
その戸口は通れない。
ちょっと誤解を招きやすい言葉だなと思いましたが、それは「あなたひとり」、「私ひとり」
のために救いを引き受けてくださったということなのだと聞いたとき、突然神さまの愛の
強烈さと「私のために」与えてくださっている神さまの愛への信頼が迫ってきました。

神さまの愛は今日のお花の白いダリアのように、全てを受け入れて全てを調和させて
全てを一つに纏めてくれるものなのでしょう。けれど、それは、自分がこの世にたった
一つのものとして愛されていることを、素直に信じありのままに生きることが求められ
ているのだと思います。高校生にはちょっと難解だったかもしれない説教だったけれ
ど、教会に慣れすぎてマンネリ化している私たちには、爽やかな、そして厳しい説教
でした。

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〇今日は札幌礼拝堂で講演会があるため、ほんの一時お茶をいただいて散会しました。
久しぶりに礼拝のこられた方と、重富牧師と新札幌のアイドルイケメン・シュウちゃんの
スナップでご勘弁ください。
講演会の報告は、札幌礼拝堂のブログをどうぞ。
http://jelc-sapporo.blog.ocn.ne.jp/photos/2010seminar/seminar.html

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〇もうコスモスが咲いています。お盆が過ぎて暦は晩秋を迎えるということでしょうか。
右はむくげの花です。二つともやさしいやさしいお花です。

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8月22日聖霊降臨後第13主日説教       岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「荷をおろして」

神の御子である主イエスは、今、十字架での苦難を受けるためにエルサレムを目指して
おられます。でも、主のほか誰もそこに何が待ち受けているのかを知りません。ただ、一
人、主イエスだけがプレッシャーを受けておられたのです。このような緊迫した情況にお
いても、人々に対する主の配慮は愛に溢れています。

ここでのやり取りをみても、主がひとりでも多くの人が、救いに与ることができるようにと
促されていることが分かります。

質問者は「救われる者は少ないのでしょうか」と言っていますが、答えの中で主は、その
数については全く触れられていません。ただ、締めくくりに「そこでは、後の人で先になる
者があり、先の人で後になる者がある」という不思議な言葉があるのみです。おそらくこ
れは、救いはすべての人に開かれているけれど、そのことに気付いている人は少ない
ということではないでしょうか。

「多いか少ないか」というところに質問者が判断の基準を持っているように、私たちは神
さまに決定権がある救いについても、どうしたら手に入れることが出来るだろうか、どう
すれば得ることが出来るだろうか・・と確証をほしがります。そして「救われるためには、
これだけの努力や献財が必要だ」と言われるならば、できる限りそこに向けての努力を
惜しまないと思います。さらに、自分の足りないところや弱いところがあれば、より多くの
補充をしたがります。そしていつの間にか、自分の身につけるもの、自分の持ち物は
増え、自由に身動きを取ることすら難しくなるのです。

大荷物を抱えていては「狭い戸口から入りなさい」と言われても、私たちはそこを通るこ
とが出来ません。今日の物語は、そのような私たちにたいする戒めです。

たとえでは「主人が戸を閉めてしまう」ということに強烈な印象が残ります。ですから読み
手である私たちは「閉められてしまう」というところに気をとられがちです。しかし、戸が
閉められるということは、もともとこの戸は開かれていたということになります。
つまり本当は、誰もがそこから入っていける状態だったのです。でも、荷物を多く抱えて
いたり、身につけているものが多いと、そこを通ることができません。

救いに与るために必要なものは、私たちが神さまの前で荷物を置くこと。取り繕いや見
栄えをよくしようとして、着飾るよりも、あるがままの姿でへりくだることが求められてい
ます。救いへの道は、身をかがめへりくだり、十字架に命を捧げられた主によって開か
れました。その道を、私たちも進みたいと願います。


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8月15日「今日の礼拝堂」

2010年08月15日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第12主日

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〇今日は「終戦記念日」です。65年前の今日
戦争が終わったことを知らせるラジオ放送が
流れました。少し前までは、カレンダーに15日
は「終戦記念日」と書かれていたものだけれど
最近のカレンダーにその文字はなくなってきま
した。それは、この日が戦争の終わりを意味し
ない。今なお、戦争の傷跡は深く、歴史的なこ
の戦争の真の意味での終結をみることはでき
ないという考えによって、この日を「終戦」とす
ることをもう一度掘り下げて考えてみようという
ところから、終戦記念日の文字が消えてきた
ようだと、岡田牧師は説教の中で語りました。

今日の礼拝堂説教は岡田牧師で、「天をも地
をも」という説教題でメッセージを聞きました。
夏休み最後の日曜日ということで、とわのもり
と北星の学生たちが教会員より多く感じるほど
たくさんみえました。岡田牧師は、この若い学
生たち・戦争を知らない子どもたちに向って、
心に訴えかける説教をしてくれました。
もちろん、その説教は全ての人の心にしみ入
るものでした。
まず今日の聖書はイエスさまが「私は地上に
平和をもたらすためにきたのではない。
むしろ分裂だ」(ルカ12:51)とおしゃいます。
終戦記念日といわれてきた日が、終戦を意味するものではないというのと同じように
改めて「平和」とは何か、「分裂」とは何か、「戦い」はどこにあるのかと厳しくつきつけ
られたイエスさまのみことばです。

神さまが初めに創られたこの世界は、神さまの目からみて「よいもの」でした。「平和」
でした。しかし、人間の傲慢がこの真の平和をことごとく壊しているのです。
イエスさまは今日、この厳しい言葉を吐かざるを得ない現実に対して私たちの心を覚
醒させてくれます。今日イエスさまは「それが真の平和なのか?」と問われています。
「分裂」とはいがみ合うことではない。そうではなくて、私たち一人一人が、神さまの前
に等しく、固有の存在、個性のある尊い存在であることを知りなさいと促しておられる
のです。決して取り替えることの出来ないもの。自分を生かすためではなく、人を生か
す愛に生きよと、厳しくも暖かいまなざしをもって見守ってくださっています。

説教を聞きながら、聖壇横にあるお花をみていると、このお花たちはまさにイエスさま
の愛を、その短い命の中で無心に純粋に証しをしているのだと感じます。
隣りの花を羨むでもなく、自分を卑下するのでもなく、グラジオラスはグラジオラスとし
て、ダリアはダリアとしてひらすらに天を目指して咲いています。このお花たちの姿に
私たちは毎週励まされ癒されています。今日のお花もNAさんご夫妻のご奉仕で活け
られたものです。

〇最後に牧師は今日の日にふさわしい「祈り」を読んでくださいました。
それはASSISIの聖フランスシスコの「平和を願う祈り」です。

「神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
神よ、わたしに、慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを望ませてください。
自分を捨てて初めて自分を見いだし、
ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを深く悟らせてください。

〇学生たちはしっかりとみことばを聞いていました。その姿は私たちの大きな励ましです。
特に8月は、巷に戦争に関する話題が事欠きません。その中で、今日の説教は、学生た
ちにとって、鮮烈なものだったことでしょう。この日がくるたびに、彼らの心に真の平和に
ついて思いを巡らせるきっかけとなりますように・・・・

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〇10年以上も前にアッシジを訪れたときの写真です。アッシジの修道院は静謐な大自然
の中に凛としてたっていました。左は有名は「小鳥への説教」をしているフランシスコの絵
です。
大好きな絵の一枚です。聖堂の中にはジョットのフレスコ画がたくさん残っていました。

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8月15日聖霊降臨後第12主日説教     重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「イエスの炎」

100歳以上の人の所在不明が取りざたされています。ある時点から、友人知人や家族
からも縁を切って暮らしていたのでしょう。家族の情や、地域の情の回復も叫ばれてい
ます。けれど情の世界を鬱陶しく感じて人目を避けていた人も多いかもしれません。

さて、イエスは今日、家族の分裂を予告されています。信仰の試練によって家族の絆が
試されるときには、人の心がむき出しになって、家族もばらばらになり、敵対しあうことも
あることが告げられています。

家族の中に、一人だけクリスチャンがいました。彼に熱心な排他的な仏教系の宗派の
姉がいました。その彼が死んで、ともかく葬式だけは彼の子どもたちが教会で済ませた
のですが、姉は、ちゃんとお経をあげてもらわないと、弟の霊が浮かばれないと強く主
張してききません。子どもたちは、親類同士が喧嘩するのは、故人も悲しむだろうと、
姉の言い分を受け入れ、お経をあげてもらい、先祖の墓に納骨して、丸くおさまること
になりました。つまり、血縁の情によってすべたがおさまったわけです。子どもたちのと
った行動は、なかなか賢かったようにも思えます。

けれども、何か違和感が残ります。それは何でしょうか。故人の魂への畏敬です。わ
たしたちの存在の中には、親も兄弟も親戚も、どんな人間的なつながりも、それを埋
めることが出来ないし、越えることが出来ない、切れ目があります。なぜなら、ひとり
ひとりは、みんな直接に神さまから魂をいただいているからです。その意味ではみん
な孤独なのです。

ヘルマン・ヘッセは「人間はだれでも自分の魂というものを持っている。それを他の人
の魂と混ぜ合わせて一つにすることなんてことは出来ない。二人の人間が行き来した
りすることなら出来る。しかし、彼らの魂は、それぞれに自分の場所に根を下ろした花
のようなもので、どの花も他の花のところへ行くことはできない」と言っています。
それが魂なのです。

今の時代、家族の絆は大きくひび割れています。主イエスの言葉の文脈とはまったく
違った意味で「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立し
て分かれる」ということが、家族崩壊の中で現実となり、場合によっては、殺人事件ま
で引き起こしています。
神不在の世界で、みんな孤独だけど肝心の魂は空っぽです。花は枯れています。

私たちの魂に火をつけるために、キリストは来てくださっているのです。愛の主である
キリストが神が与えてくださった人間の大切な絆である家族を呪われるはずがありま
せん。むしろ人間が、家族の絆の美名のもとに、いかにひとりひとりの魂の救いをな
いがしろにしてきたか、永遠の命への道を閉ざしてきたか、愛と利己心を混同してき
たか、そのことを問われています。

ほんとうにひとりひとりであることは、空虚な孤独とは逆です。ぶどうの実は、一粒一
粒であっても、枝につながり、幹につながり、根につながっているように、ひとりひとり
の魂こそ、確かな一つの命につながっているのです。


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8月8日「今日の礼拝堂」

2010年08月08日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第11主日

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〇今日もいつもお花を活けてくださるNAさんのご主人が、お庭に咲いたお花を切り取って
もたせてくださったものだそうです。グラジオラスも夏の青い空によく映える花です。
眺めていると、薄むらさきときみどりの二本が全体の中で際立って印象深く見えます。
それ自体はか弱い色といってもいい色が、個性の強い色のなかでより際立つのを見ながら
一つ一つの命に、そのものにしかない力を与えてくださっている神さまのみ業を改めて感じ
ます。

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〇今日も8名の学生さんで賑わいました。聖餐式の日だったので学生さんだけを集めて
牧師が祝福をしてくれました。いつも馴染みの風景だけれど、その度にこの子どもたちの
人生に神さまが深く関わってくださることを祈らずにはいられません。

今日の礼拝堂説教は重富牧師でした。説教題は「安心の拠り所」です。学生さんたちも多
かったので、牧師は今日の聖書箇所(ルカ12:13-21)を「現代の問題」として考えてみよ
うと語り始めました。
命を与えるのも神さま、その命をとられるのも神さまです。私たちは自分の命がとられる
その瞬間まで、安心して生きたいと願います。その安心は心配しなくてもすむだけの財産
を蓄えることだろうかと、牧師は続けます。とられるその瞬間は神さまのみ手の中にある
のだから、どのくらい貯めたら安心できるのだろうか・・・
ここで牧師は「命」とは何かと問いかけます。命とはこの世の命だけに限らず、永遠の命
を含むものだと教え、その命は財産によって成り立つものではないと断言されました。
私たちには第二の人生がある。命=たましいは、永遠の命を宿すもの。パウロがいうよう
に、人間に必要なものは信仰と希望と愛です。その愛がたましいをゆたかにします。人間
の無限の希望と愛に満ちたたましいは、常に修復力を持って私たちの人生を豊かに導い
てくれます。その命のとられる瞬間まで・・・

日々の糧のこと、日常の苦しみ、先行きの不安・・常に安心のない人生を送っている私た
ちに、今日のみことばは「希望」の光を与えてくれました。新しい一週間が愛にみちたもの
でありますように。

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〇今日も9月5日の「音楽礼拝」のための讃美歌練習です。だんだん、リズムに乗って声
高らかに讃美が出来るようになってきました。一ヵ月後が楽しみです。

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〇これからの教会行事についての確認と分担の話し合いです。夏は教会も行事が続きま
す。全ての行事が楽しく行なわれて、そのことによって教会が更に強められるように、それ
ぞれが自分の持ち場を喜びをもって担えるようにと祈りました。

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〇教会の玄関前の木が元気よく生い茂って、牧師室を暗くするくらいになっていました。
それが左の写真です。そして右が北礼拝堂の役員さんと新札幌の役員さんが協力して
剪定をしてくださった写真です。まさにbefore after 劇的チェンジです。
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剪定をして切り落とされた枝葉がこれです。
この枯れ枝を小さく裁断して分別ゴミの日に出す
手順も、今日の世話人会で相談されました。
「枝・葉」を出す日は月に一回なので、それまでの
日曜日の礼拝後に少しずつ作業をすることになり
ました。
これまでこの作業を一手に引き受けてしてくださっ
ていたTDさんのご主人に心から感謝です。





                       

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8月8日聖霊降臨後第11主日説教       岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「すべては神のもとで」

聖職といわれる立場の人々が引き起こすスキャンダラスな事件が起こる度に、学生時代
に言われてきた「金銭問題と異性問題にはくれぐれも注意するように。」という戒めを思い
さします。当たり前だとわかっていても、この手の事件はいつの時代にもおこります。
そして油断すれば、自分自身も当事者になる可能性がゼロではありません。十戒には
「貪りについての戒めが重ねて言われています。それほど、私たちはこの誘惑に脆く、弱
いということなのかもしれません。

福音の日課には、「愚かな金持ちのたとえ」があります。彼は有り余るほどの財産を蓄え
るために蔵をたて、その日に命を失いました。地上にたくさんの富を積み、豊かになった
としても、命を失えばその財産は他人の手に渡るのみです。

「愚か者」という言葉は厳しいものです。彼は、自分が多く持っていることで奢り、蓄えが
あることに満足しています。でもこれが、彼の過ちのはじまりです。当然、彼の労働や努
力も、これだけ多くの実りを得るためには不可欠だったことでしょう。しかし、彼は感謝の
心をなくしていたために、これらの恵みの源を見失っていたのです。

恵みの雨や健康な肉体、また彼を支える多くの働き人や家族など・・周囲を見渡せば感
謝すべきことはたくさんあったはずです。でも彼は自分が楽しみ、満足することだけを追
い求め、結局はすべてを失いました。

命すら自分の思うままにできないのが、私たち人間です。ところが、私たちはいとも簡単
に神さまにとって代わろうとする罪へと陥りやすいのです。貪りは私たちを神さまから引
き離すだけではなく、多くの罪の誘発剤にもなります。多くを持てば、それを守るために
また他人のものをうらやましいと思えば、略奪のための暴力や殺人の引き金にもなりま
す。また、人間関係においても不貞や姦淫へと駆り立てる誘発剤にもなります。

私たちは、自分の命は自分のものだと当たり前のように思っていますが、自分の命は自
分の力だけで生み出したものではありません。命も持ち物も、元々をたどってゆけば全て
与えられたもの。どれ一つとして同じものはなく、神さまの愛によって生み出されていった
ものです。主は「貪りではなく、すべてのものを万物の創造主である神さまに帰することに
よって、自由を得ることができる」と教えてくださいました。

主イエスが示してくださった「愛」で心が満たされ、御心に適う歩みをすすむことができま
すように。そして、貪りではなく、注がれている恵み、与えられている祝福に感謝し、それ
を分かち与える幸いに生きることができますように。

 

  


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8月1日「今日の礼拝堂」

2010年08月01日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第10主日

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〇今日もまた手のひらを二つ合わせたくらいの大きなカサブランカを活けてくださったの
はNAさんです。あしらわれたシダのような葉っぱが軽快な動きを与えてくれていて見事
です。

今日はとわのもりの学生さんたちが、教会員と同じくらいたくさん礼拝にこられました。
そして、牧師の説教を背筋を伸ばしてしっかりと聞いているのがとても爽やかでした。

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〇礼拝堂説教は岡田牧師でした。説教題は「おくりもの」という嬉しい題でした。おくりもの
は、どんな時でも嬉しいものだけど、今日のおくりものは特別のおくりものでした。
牧師が伝えてくれたそのおくりものは、イエスさまが私たちにくださった「主のいのり」のこ
とでした。
イエスさまの生涯は祈りと共にありました。イエスさまは私たちと共に傷つき倒れ、そして
祈りによって共に癒しの時を過ごして立ち上がってくださいました。
イエスさまの力はいったいどこから来るのでしょう。それはたましいを充電するための時間
「祈り」からきたものです。ここで牧師はマザーテレサの「自己からの解放」というマザーの
祈りを紹介してくれました。
5 「自己からの解放」
主よ、わたしは信じきっていました。わたしの心が愛にみなぎって
いると。でも、胸に手を当ててみて本音に気付かされました。
わたしが愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分であった
事実に。主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは思い込んでいました。わたしは与えるべきことは
なんでも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて真実が分かっ
たのです。わたしのほうこそ与えられていたのだと。

主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

この世の苦しみの直中へと行動をおこしていったマザー。この
困難に必要なものは、かならず主が与えてくださるという信頼・確信。
その信仰が共に労する協働者、協力者をふやしていきました。
わたしたちにも与えられている主の祈り、それは人のために祈るだけ
でなく、その祈りを通して、どれほど多くのものが与えられるかしれま
せん。それは祈りによって、キリストの喜び、生きる喜びを知るからです。

牧師の説教は学生たちが身じろぎもしないで聞き入るほどに、静かで暖かく心に染み入
るものでした。ほとんどの学生さんが今日初めて礼拝に来られた方々でした。今日の説
教が、これから世の荒波に船出していく学生さんたちの大きな杖をなりますように。

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〇9月5日に行なう予定の「音楽礼拝」の準備は着々とすすめられています。毎週礼拝後
に二曲くらいずつ練習をしています。今日のように学生さんがたくさんきているときは、み
んなで熱意をもってお誘いをしています。その時ホールで開催するミニ・ミニ・バザーの用
意も充実してきました。ルーテル教会は「歌う教会」と言われています。その歌う教会が
いつもよりもっといっぱい歌います。嬉しい礼拝になりますように!

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8月1日聖霊降臨後第10主日説教      重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「祈り」

「主の祈り」は、主が教えてくださった祈りです。それは千々に乱れるわたしたちの祈り
を整え、祈りの完成へと導いてくれます。たしかにこの祈りの中に、自分でも気付かな
い、人間の根源的な祈りがすべて含まれているのです。

「父よ、御名があがめられますように」。これは祈りの中でも最も根源的な祈りです。
神が神、人が人、この順序と、この事実の峻厳を踏み外したところに、わたしたちはい
ます。神を畏れ崇めることを忘れ、自尊心ばかりが病的に肥大しているところに、わた
したち人間があります。

人類がひとしく、真の神に頭をたれるときが訪れるなら、その時こそ究極の時です。
その究極の時のために「御国が来ますように」祈れと、主は教えられます。その方向
に、針路をとりながら、毎日の生活がちゃんと出来ますようにというのが、「わたしたち
に必要な糧を今日も与えてください」という祈りです。

またわたしたちが毎日の糧を得るために必死になって働くときも、決して忘れてならな
いものがあります。それは「私たちの罪を赦してください」という祈りです。罪の赦しを乞
う祈りを忘れたとき、わたしたちは同時に「御名を崇めさせたまえ」という祈りも、「御国
をきたらせたまえ」という祈りも忘れます。

罪の赦しを知る心は、自分にも、一つの覚悟を与えます。その覚悟とは、自分もまた
「赦しの人」として生きようとする覚悟です。それを神の助けを祈りつつ、神に向って表
白するのです。「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と。

最後の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りです。神さまが、わ
たしたちを誘惑されるのでしょうか。主イエスは私たちの弱さをご存知なのです。
「誘惑に遭わせないでください」とは「誘惑から守ってください」ということです。

祈りは聞かれます。祈る人には、同時に祈りは聞かれるという確信も与えられます。も
し祈りは少しも聞かれなかったという思いを抱いている人がいるなら、その人はまだ本気
で祈っておらず、本気で扉をたたきもせず、本気で捜しもしていないのです。

ここに有名な「病者の祈り」あるいは「無名戦士の祈り」とも呼ばれている詩があります。
作者不明なのですが祈りの真髄を表現しています。

わたしは神に求めた。成功するために強さを。だが弱き者とされた、謙虚と従順を学ぶ
ために。わたしは求めた。偉大なことをなすために健康を。だが病を与えられた、より
よいことをなすために。わたしは求めた。満足するために富を。だが貧しさを与えられ
た。賢明になるために私は求めた。人々の賞賛を得るために権力を。だが弱さをあた
えられた。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。

神の意に沿わぬ者であったにも関わらず、心の中の表せない祈りはすべてかなえられ
た。わたしは最も豊かに祝福されたのだ。


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