新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

8月28日「今日の礼拝堂」

2016年08月28日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第15主日

「今週の祈り:主なる神さま。怒りの日の訪れる時、み恵みだけがわたしたちの望みです。わたしたちにきぼうの成就である終わりのいを絶え須待ち望ませ、ついには花婿、イエス・キリストの婚宴の喜びに与らせてください。御子、水イエス・キリストによって祈ります。」

                                           

                

〇聖霊降臨後第15主日説教              日笠山吉之牧師説教集(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書14:7-14

「誇る者は知れ」

 イエスさまが、あるファリサイ派の議員の家に食事に招かれた時のことです。招待を受けた人々が上席を選ぶ様子を見て、言われました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。これは、謙譲の美徳という言葉のある日本では何の違和感もなくすんなりと理解できるような気がします。しかし、イエスさまは改めて私たちに謙譲の美徳を奨励するためにこの話をされたのでしょうか?

「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉には、実は「神」という主語が隠されています。ですから、この御言葉はこの世における人間関係のことではなく、私たちと神さまとの関係の中で言われているのです。神の御前でうぬぼれ、己の力を過信し、あたかも神なしで自分は生きていける!と自負している罪人に対して、イエスさまはこのように話されたのです。旧約の預言者エレミヤも、次のような主の御言葉を取り次いでくれました。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを」(エレミヤ9章22〜23節)。私たちは、自身が持っている何物をも誇ってはならないのです。なぜなら、それらはすべて神が私たちに賜物として与えてくださったものばかりだからです。

私たちが何も誇ることがないように、イエスさまは私たちが他者に対して何も見返りを求めずに与えること、受け入れること、仕えることを勧められます。ですから、たとえ私たちが誰かを招き入れる場合でも、お返しができない人をこそ招きなさい!と言われます。私たちの「誇り」と「誇り」の応酬からは、赦しと愛は生まれないからです。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」イエス・キリストの十字架を前にしては、なんのお返しもできない私たちです。そんな私たちを、主イエスは愛ゆえに受け入れ、ゆるし、愛してくださいました。そのキリストの愛さえ見失わなければ、自ずと私たちの他者に対する向き合い方も変わってくることを主は期待しておられるのです。

 

〇今日も心にしみる神さまの愛が、抵抗なく自然に私たちの心の傷を癒してくれました。私たちは今、恵まれた環境の中で、ほんとに恵まれた教会生活を送っていることを、全身全霊で感謝をしましょう。

 

〇9月4日(日)午前11時  聖霊降臨後第16主日

〇司式:野口和音神学生

〇説教:野口和音神学生

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄

〇礼拝当番:出口輝子姉
      滝田裕美姉

〇聖書」申命記29:1-8・フェレモンの手紙1-25・ルカによる福音書14:25-33

〇讃美歌:175(1,3,4、)・412・367・

〇恵み野教会の宣教30周年記念礼拝がもたれます。礼拝からご参列を希望なさる方は恵み野教会のほうへお出かけください。新札幌では通常通りの礼拝があります。野口神学生の説教でビューの日なので、たくさんのひとでその門出を祝いたいとおもいます。

〇31日(水)9月2日(金)オープンチャーチがあります。どうぞご自由にご参加ください。


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8月21日「「今日の礼拝堂」

2016年08月21日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第14主日

「全能の神さま。あなたを仰ぎ、御国を望む私たちの思いを励まし、心の願いが実現し、達成する日まで、耐え忍ぶ力を与えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

      

      

〇「音楽礼拝」として礼拝を守りました。毎年、この時期礼拝をいつもとちょっと変えて、オルガンとギターで大きな声で神さまを賛美する日を持っています。「大波のように」という讃美歌は、岡田牧師が手話を教えてくださり、みんなで一緒に歌いながら手話をしました。ほんとうの聴覚障碍者の方に通じたかどうかは覚束ないのですが、一つだけでも賛美を共有できるように。もっと日ごろから関心をもって過ごしたいと思いました。

〇今年は、札幌教会の100周年という記念の行事があるので、毎週のように役員は会議に駆り出されて、通常の日曜日がおくれないことも度々です。音楽礼拝のプログラムも練習をする機会がないままに、本番を迎えましたが、今年で4回目くらい続いているこの形式が、みんなの中で定着しているようです。とてもスムーズに、楽しく、おおらかに礼拝を守ることができました。

〇聖霊降臨後第14主日説教                 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書

 

「戸口の前で」

 

福音の日課において《主よ、救われる者は少ないのでしょうか》という質問が発せられました。これに対して主イエスは「多いか、少ないか」という「数」の問題には触れられず《狭い戸口から入るように努めなさい。》(24節)とお答えになりました。

 

たとえ話では、“主人が戸を閉めてしまう”というところが強烈な印象として残ります。ですから私たちは“閉められてしまう”という部分に注目しがちです。けれども戸が閉められる前には、当然戸は開かれていたということになります。ですから、もともと戸は開かれており誰もがその宴会に入っていける状態だったというところに注目してみましょう。

 

ここでの戸口とは、神の国への入り口です。主はヨハネ10章9節で《わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる》と言われました。この《門》と今日の日課にある《戸口》は、原文では同じ言葉が使われています。つまり、神の国に入るための《戸口》は、主イエスご自身なのです。ですから《狭い戸口から入りなさい》ということは、主を信じる信仰に生きる/生かされるということになります。《狭い》というのは、誰に対しても戸口は開かれているが、信仰とはたとえどんなに親しい友人であろうと、家族であろうと、恋人や夫婦であろうと個人の問題であり、誰かに肩代わりしてもらうことや便乗する者ではないということをはっきりと示しているのだと思います。

 

エルサレムへ向かって進んでおられた主イエスの目的は十字架です。“信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることができる” ために主は十字架を目指しておられます。たった一人、緊迫した状況の中で・・・。今日のたとえ話を通して、主は耳を傾ける者たちに、ご自身を受け入れ信じるようにと招いておられるのです。“時は近づいて来ている。あなたがたの目の前に救いへの道は開かれている。その戸口はわたしだ。このわたしを通ってあなたがたは、滅びではなく命への道を歩むことが出来る・・・”と、招いておられるのです。

 

私たちは主と出会い信仰を与えられてもなお、迷いや不安をすべて克服することはできないかもしれません。しかし、私たちの弱さももろさもすべてご存じの主は、私たちが自分を飾る装飾や荷物を抱えるのではなく、戸口の前でそれらを下ろし入ってきていいのだよ、と招かれます。信仰は何かを獲得するのではなく、主が命をかけて私たちに与えてくださった恵みだからです。ですから、私たちはありのままの姿で主の御前に進み出て、信頼をもってすべてをお委ねすることができます。戸口の前で躊躇することはないのです。

〇8月28日(日)午前11時  聖霊降臨後第15主日

〇司式:野口和音神学生

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:小笠原里子姉

〇礼拝当番:堀川悦姉
      滝田裕美姉

〇聖書:エレミヤ書9:22-23・ヘブライ人への手紙13:1¥8・ルカによる福音書14:7-14

〇讃美歌:382・29981,2)・299(3、4)・42・262

〇うどん食堂と聖書の学びがあります。

〇24日(水)26日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。

 

 

 

 


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8月14日「今日の礼拝堂」

2016年08月14日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第13主日

「今週の祈り:神さま。あなたは思いに勝る喜びを、愛する者に与えられます。すべてにまさってあなたを愛する心を私たちの中に輿し、私たちの願いを超えたあんたの約束に与らせてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

       

〇毎年、夏休みや冬休みが終わるころ、近郊の高校生が休み中の課題「教会訪問」をこなすために、教会の礼拝にそろっていらっしゃいます。今日もその日だったようで、高校1年生だという丸刈りの男子生徒が5人とかわいらしい女子と一緒に礼拝を守りました。聖餐式の日だったので、牧師が一人一人の名前を聞いて、その名前で呼びながら神さまの祝福を与えてくださいます。名前を呼ばれる・・・それは、一本のつながりが結ばれるということです。高校生たちには、その意味の深さはまだ分からないでしょうが、人生のどこかで、若い日に教会の牧師に名前を呼ばれて神さまの祝福をいただいたことを、きっと思い出す時がくるでしょう。そんなことを祈りながら聖餐の輪に加わっていると、いつものことながら、胸がいっぱいになります。牧師の大きくて深い目に見つめられて、祝福を受ける学生たちの人生が、決して戦争になど巻き込まれないで全うされることを、時が時だけに、心から祈りました。

〇71年前のあの夏にも、こんなに美しくグラジオラスがさいていたのだろうか・・・と、聖壇係の若い女性と話をしていたら、「おっ、グラジオラスだ!」と、後ろを通りかかった牧師が言いました。「へー、先生、お花の名前なんか知ってるのぉ?」と私たち。「知ってますよ。お花好きだもの」と言いながら、牧師はさっさとその場を離れます。話がある場合は、腕をとっ捕まえないと、日笠山牧師は雑談に時間をとる人ではありません。でも、そこが誠実さのにじみ出るところで、私たちは尊敬をしています。

〇聖霊降臨後第14主日説教                    日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書12:49-53

「分裂のただ中で」

 

今年も、8月が巡ってきました。私たちの国にとって、8月は特別な月です。今から71年前のこの月、既に全土を空襲によって焼け野原にされながらも無謀な戦争を続けていた私たちの国は、6日に広島に、そして9日には長崎に立て続けに原爆を落とされた末、やっと15日に敗戦を受け入れました。この愚かな戦争によって私たちの国は300万人以上の同胞の命を失っただけでなく、その10倍とも言われている数千万人ものアジア諸国の人々の命を奪ってしまいました。ですから、8月になると私たちは特別な思いで平和を祈念し、二度と戦争を繰り返さない!という誓いを新たにしてきたのです。

イエスさまも、平和を望み、祈られました。人と人との間の平和はもちろんのこと、罪によって断絶されてしまった神と人との平和を、イエスさまは求められました。そのために、イエスさまは十字架に架かられたのです。神と人との間に、人と人との間に、まことの平和がもたらされ、あい交わる十字架。十字架こそ、イエスさまが求められた平和のシンボルなのです。「あなたがたに平和があるように」「平安のうちに行きなさい」…イエスさまが語られた御言葉は、平和への祈りで満ちています。

そんなイエスさまが、今日のテキストでは厳しい御言葉を弟子たちに投げかけられています。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今からの後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである…」と。愛し合う家族の中でさえ、分裂が起こる。否、肉親である家族だからこそ、よりいっそう分裂があらわとなる。主の御言葉は、肉親の情をさえ引き裂くことがあるのです。「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」(エレミヤ23:29)

御言葉という火は、私たちの罪をあぶり出します。それによって、ある者は神の御前で悔い改め、ある者は神に背を向けてしまいます。その分裂は、避けようがありません。前者にとって、御言葉はその人の罪を清める火となります。しかし、後者にとっては、御言葉はその人を裁き、燃やし尽くす火となるのです。イエスさまは、そのような御言葉の火を投ずるために、来られたのです。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう」。私たちに明々と御言葉の火を投じ、灯すために、イエスさまは苦しまれます。人々から嘲られ、拒絶され、十字架にかけられなければなりません。それでも、イエスさまはその道を進まれるのです。私たちへの愛のゆえに。私たちを神の救いに与らせるために。

日笠山吉之牧師説教集

〇この忌まわしい月は毎年巡ってくるのに、なぜか今年はいつもの年以上に心を騒がせます。牧師は今日の日課の取次の中で、「あなたがたはどれだけ真剣に平和を考えているか!?」と問われているとおっしゃいました。そして、さまざまな試練は「主の愛するものを鍛える義の鍛錬だ」とおっしゃいました。こんな鍛錬が必要なくらいに、世の終わりには厳しい試練がこれでもか、これでもかと襲ってくる・・・・・その時のための鍛錬・・・?いや、私たちは、やっぱり「み国が一日も早くきたらんことを・・・「と願います。だって・・・辛すぎます。あまりにも、辛すぎる時間のなかに、オリンピックの華やかなニュースが連日続きます。それも、「金!金!金!」と、まるで命よりも大事なもののように、金メダルを求めてのたたかいです。平和の祭典といいながら、結局は「勝つこと」「得ること」が目的みたいに。

〇8月21日(日)午前11時  聖霊降臨後第14主日礼拝

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡だ薫億氏

〇奏楽:若井裕子姉

〇聖書朗読:林三浩兄

〇礼拝当番:秋田直枝姉
      林三浩兄

〇聖書:イザヤ書66:18-23・ヘブライ人への手紙:12:18-29:・ルカによる福音書13:22-30

〇讃美歌:181・392(1,2)・392(3,4)・42・252

〇「音楽礼拝」です。いつもよりたくさん讃美歌を歌って平和を祈りましょう。

〇⒘日(水)19日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。

 

 

 


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8月7日「今日の礼拝堂」

2016年08月07日 | 今日の礼拝堂

平和主日

「今週の祈り:全能の神さま。あなたはすべての真理と平和の源です。すべての人の心に平和と愛のともしびをともし、世界の国々の指導者をあなたの英知で導いてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる御子、主イエス・キリストに折って祈ります。」

    

〇 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書12:13-21(聖霊降臨後第12主日の日課より

「神の手からいただくもの」

貪欲あるいは貪り(むさぼり)は、私たちを神から引き離すだけではなく、多くの罪の誘発剤となってしまいます。他人のものを羨む心が肥大化していくと、人は暴力や殺人、不貞や姦淫へと駆り立てられることがあるということは、さまざまな事件のニュースが明らかにしています。また、具体的な行為にはならなくても、心のうちにそのような思いが膨らむと、私たちは平安ではいられなくなります。また、「私が、私が・・・」という思いが高じれば神さまへの畏敬の念は薄れ、他人よりも偉く見られたいという欲望は嫉妬や恨みを生み、隣人の幸せを共に喜ぶことを阻むのです。《愚か者》とは、神を忘れた者、人生の意味をこの世の秤でのみ計ろうとする者たちの事を指すという、天からの厳しい指摘の言葉なのです。

主は“自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者”のたとえとして、この愚かな金持ちの話をされました。恵みに浴していてもその価値を知らず、満足することも無く、今ある恵みに気づかない愚かさ。主は、このたとえ話を聞く者たちが本当に豊かなものとは何かに気づき、それを求めるようにと願っておられるのです。

命も持ち物も、たどってゆくと全て与えられたもの…どれ一つとして同じものは無く、神さまの愛によって生み出されていったものです。主は貪りではなく、“すべてのものを万物の創造主である神さまに帰すことによって、自由を得ることができる”、ということを教えてくださるのです。そう、すべては神の手からいただくもの。私たちが意識している/していないにかかわらず、祝福や恵みは常に注がれています。神の前に豊かな者とは、その源である神さまとの交わりにあることを知らされている者たちのことを指すのです。

「信仰という恵み、何物にも代えることのできない信仰という恵みを与えられている幸いは感謝すべきことだなぁ」というのは、病床にあった重富牧師の言葉です。病と闘うのではなく、病と共生しながら主が許される限り牧師としての役割を担い、体力的にそれが難しくなってからは、一人の信仰者として生き抜かれた先輩の姿に私は神さまの確かな導きを感じました。神さまは後に続く私たちにも必要な恵み、豊かな賜物を与えてくださっています。神さまに知られ、神さまを知る幸いを与えられた私たちは、この喜びの福音に生きる者でありましょう

〇岡田薫牧師説教集

〇今日は「教区の講壇交換礼拝」でした。日ごろは、それぞれの場所でそれぞれの礼拝を守っている牧師たちが、四方八方に散って、教区内の教会で礼拝をつかさどってくださいます。私たちの新札幌礼拝堂には、帯広教会から加納寛之牧師が、遠路車で駆けつけてくださいました。
加納牧師は、宣教研修を札幌でなさった方なので、立派な牧師となっての再会は、胸が熱くなるほどの喜びを与えてくれあした。ひとりで道東方面の三つの教会を守ってくださっている加納牧師の成長した姿に、神さまのお導きを感謝しました。

〇平和の主日・・・なんて心に重い主日でしょうか。どこを見渡しても、平和のかけらもみつけることのできない中で、この日がやってきました。私は戦中・戦後派に蔵するのだろうと思いますが、縁あって沖縄で暮らす時間を与えられ、ドイツの強制収容所をまわる機会があったりと、真の平和について80歳になろうという今も、毎日のように自分の心と闘っています。特に今年は、自分を取り巻く社会の不穏さにまして、自分の心の中の平和に反する罪にがんじがらめの日々をおくっています。

若々しい加納牧師の説教を聞きながら、「相手と違う祈りを受け止めていくところから平和がみえてくる・・・」という言葉に一つの光を見出した思いでした。ありがとうございました。

〇8月14日(日) 午前11時   聖霊降臨後第13主日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄

〇礼拝当番:小川敦子姉
      林三浩兄

〇聖書:エレミヤ書23:23-29・ヘブライ人への手紙12:1-13・ルカによる福音書12:49-53

〇讃美歌:179(1,2,5)・393(1,2)・393(3,4)・42・253(1-3)

〇おにぎり食堂とみんなの会があります。ご予定ください。

〇10日(水)12日(金)オープンチャーチです。どなたでもご自由にごさんかください。


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