聖霊降臨祭
「今週の祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて、いのちある限りみ国に使える者としてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇イエスさまの復活から数えて50日がたちました。イエスさまが天に昇られた先週の昇天主日に、イエスさまは私たちに約束をしてくださいました。「私はひとまず天に帰るけれど、私の代わりにあなた方を助ける聖霊(助け主)を送る」と。その約束の日がきました。ペンテコステです。イエスさまが約束してくださった聖霊によって、弟子たちは勇気をもって福音を伝える力を与えられました。
この聖霊が「一人」「一人」に与えられたということは、想像を超える出来事のように思われます。なぜなら、聖霊を受けた弟子たちは、それぞれの生まれた国の言葉を使って福音を語り始めたと聖書にあるからです。人と人との間にある垣根を取り除くには、自分たちの土着の言葉によるしか方法がありません。聖霊がくだり、言葉の壁を打ち破って、福音を語り始めた弟子たちによって、人と人とを隔てていた壁が取り除かれました。
私たちも聖霊を受けた弟子の一人です。「聞く人に伝わる言葉」を使ってイエスさまが伝えよと命じられている福音を、宣べ伝えていく・・・これが、今日この日・ペンテコステが証ししている出来事です。
礼拝堂説教は岡田牧師でした。「いのちを与える霊」と題した説教は、何故かとても新しい光に輝いた道を切り拓いてくれたように感じました。
〇津波にのみこまれた岩手県大船渡市の出版社の倉庫から、水につかった3千冊の聖書が見つかりました。それは気仙地方(岩手県陸前高田市・大船渡市・住田町および宮城県 気仙沼市など)の方言で書かれた「ケセン語聖書」でした。今、自分のふるさとの言葉でふるさとの仲間にイエス・キリストの福音を語りたいという思いをもつ一人の医師によって、このケセン語聖書が多くの人の心をつかんでいます。
つまり、聞く人に伝わる言葉を使えるようにしてくださったイエスさまの聖霊降臨の出来事が、今日も、明日も、こうして生き生きと伝えられていくのだと、言葉にできない大きな感動に心が震える思いがします。
岡田牧師はそのケセン語の中から、神の力・聖霊を「おたすけさま」と言われていると話してくださいました。何と優しい、何と暖かい言葉でしょう。私たちもこの「おたすけさま」を与えられています。相手に伝わる言葉をまさぐりながらも誠実に、一人一人に向かい合って助け合っていきましょう。ペンテコステ・・・恵みに満ちた喜ばしい日です。さあ、一緒に出発しましょう。
道央圏(札幌教会・恵み野教会)ペンテコステの祝会
〇下の写真は100%無修正です。この青い空は本物の青空です。札幌教会(札幌礼拝堂16名。北礼拝堂10名。新札幌礼拝堂12名)恵み野教会20名という総勢60人あまりの人たちが、心を一つにしてこの日を祝うために、恵み野教会に集まりました。恵み野教会の広々としたみどりの庭で、恵み野教会の方々が用意してくださったバーベキューで、楽しい親睦会が開かれました。札幌地方の小学校は昨日が運動会予定日だったのが、雨天で中止(実は予報が外れてお天気だったのに)。順延となったために今日は小学生とその家族たちが、このバーベキューに参加できませんでした。この中に、10名以上もいる子どもたちがいたら、どんなに賑やかだったことかと残念です。最後にみんなで「イエスさまが一番」という讃美歌を歌って心もお腹も十分に満たされて散会しました。ホスト役の恵み野教会のみなさまありがとうございました。また、時々、集まりたいね!
聖霊降臨祭説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ヨハネによる福音書15:26-16:4a
「弁護してくださる方」
今年も、ペンテコステ(聖霊降臨祭)がやって来ました。毎年この頃になると、北海道では春を待ち構えていたが花たちが一斉に咲き乱れます。チューリップ、スイセン、スズラン、ライラック…まさに、百花繚乱の祭りのようです。
ペンテコステは、クリスマス、イースターと共に、キリスト教の3大祝日の一つに数えられています。この日は、イエスさまが弟子たちに与えると約束してくださった聖霊が本当に一人一人に注がれた日。その様子は『使徒言行録』の2章に描かれています。それによると、ペンテコステは弟子たちが心を合わせて「一つになって」集まっていた時に起きました。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いたかと思いきや、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上にとどまった…とあります。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。弟子たちに注がれたのは、まぎれもなくイエスさまが約束された聖霊だったのです。
この出来事とよく似た物語が、旧約聖書の『創世記』11章におさめられています。有名なバベルの塔の物語です。東の方からシンアルの地に住み着いた人々が「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と互いに呼びかけ、建て始めたバベルの塔。それをご覧になられた神は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」と言われ、それまで同じだった言葉を混乱させ、人々を全地に散らされたという話です。この物語は、天にも届かんばかりの塔を作ろうとした人間の傲慢さと、自分が「有名になりたい」という人間の自己顕示欲-そうやって、いともたやすく神を忘れてしまいがちな私たちの罪を描いているのでしょう。しかし、こうして言葉を乱され、散らされてしまった人間が、キリストの救いの御業をほめたたえるために、再び共に集められ、一つとされた!相変わらず言葉はまだバラバラのままとはいうものの、それでも共に神の御業をほめたたえ、共にキリストの恵みにあずかるために、一つ同じ所に集められた!そして、そこで聖霊を注がれた!それが、ペンテコステの日に起こったと、『使徒言行録』の著者ルカは報告しているのです。
教会とは、このペンテコステがいつも起こっている場です。もちろんそこへ集う私たちは様々な肉の思いをもっており、また異なった言葉をしゃべってはお互いに混乱することも多々あります。しかし、ここに聖霊が注がれている!と信じる限り、私たちが聖霊を求めて教会に集う限り、ペンテコステは常に起きるのです。それゆえ、たとえ十人十色、百花繚乱の私たちであっても、ここに集い続けましょう。神から与えられた異なる賜物をお互いに喜び認め合いつつ、聖霊によって、ここで心を一つとされていきましょう。
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