顕現節第5主日
「今週の祈り・主なる神さま。私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩む全ての人に、よき隣人として仕えさせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇ピンクのスイートピーの花言葉は「優しい思い出」「門出」など、いかにも優しく暖かい言葉が多いようです。まるで透き通った羽根をもつ妖精のようなスイートピー。店先に並び始めるこの花を見るたびに、私は様々な感情が心の中いっぱいに広がって、しばらく足を止めます。可愛がっていたネコが死んだとき、綺麗な箱でお棺をつくり焼き場にもっていきました。その時、お花の角で痛くないようにと、このスイートピーをいっぱい買って周りを飾ったのを思い出します。スイートピーなら、きっとその羽根に包んで天国に連れて行ってくれるだろうと思ったのです。お花を活けた人・NAさん。
〇2011年1月24日、札幌教会に一人の友が与えられました。その瞬間に立ち会った岡田牧師の報告は、その場にいたものだけに得られる臨場感のある感動です。奥さまは長い間祈り続けたその日が訪れたことに、どれだけ安堵し感謝なさったことでしょう。
どんな洗礼式も感動的だけれど、この病室での病床洗礼は本当に感動的です。そこにいるのは家族と牧師だけれど、この場にいてくださる神さまの息遣いが感じられるからなのでしょう。共に、喜び祝福をしてください。以下は、岡田牧師からのメッセージです。
〇今日の田村強兄の洗礼式はとても感動的なものでした。ベッドの上に横になったままだったけれど、田村さんははっきりとした口調で「はい、信じます」と重富牧師の問いかけに答えられました。そして、皆ではじめての陪餐に与りました。
〇寒いです! 極寒です! 道路はすっかり除雪・排雪ができていて路面は出ていますが、歩道は
スケートリンク状態です。そんな中で見るこの可愛いお花たちは、言葉ではない励ましを与えてく
れます。
気がつけば12月には真っ暗になっていた午後4時も、今ではまだまだ明るさが残っています。自然
は私たち人間の思いにはかかわりなく、時がくれば雪が降り、時がくればそれが溶け、時がくれば
桜が咲くのでしょう。寒いけれど、時が流れていることに気付く時はやっぱり感動です。気がつい
ていない間の時間の中に、改めて神さまの愛をじんわりと受け止められるからなのでしょう。
〇特にプログラムのない日曜日の午後です。礼拝にはいっぱいの学生さんが見えま
したが、その学生さんたちも帰られて、お茶を飲みながら三々五々楽しいおしゃべ
りの時間です。顕現節第5主日説教 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
「地の塩、世の光」
主イエスは、「あなたがたは地の塩である」と言われました。生き物にとって、塩は無くてはなら
ない重要な物の一つです。ですから主が「あなたがたは地の塩である」と言われたとき、この言葉
を聞いている誰もが塩と同じように、この世の中に必要不可欠な存在であるという宣言として聞く
ことができます。
また主は「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう」と、厳しい言葉も言われています。当時流通していた塩は、岩塩でしたから、塩分よりも不純物の方が多いものもあり、空気中の湿気によって塩分が溶け出してしまうと役に立たないものもありました。しかし、塩も他のものと混ざり合うことがなければ、役目を果たすことは出来ません。調理で塩味を効かせるときも、保存のために用いるときも、塩は塩のままであるよりも、他のものと混じりあうことによって本来の持ち味を発揮します。
私たち自身も同じではないでしょうか。私たちはそれぞれにちがう賜物を与えられています。その違いがあるからこそ、反発することもあります。でもこうして教会に招かれ、主の弟子としての使命を与えられている今、それぞれに与えられている賜物が主のものと混じりあうことによって、思いがけない実りへと導かれていることも確かでしょう。また、さまざまな不純物(違いや持ち味)があるからこそ、私たちは互いを必要とし、助け合い生かしあう喜びを知らされ、仕え合うことが出来るのだとおもいます。
主イエスの許に期待をもって集まってきた群衆たちは、この世に対して疲れ、無力であり、迫害されているような人たちでした。また、貧しい者であり、悲しんでいる者でもあったでしょう。弟子たちや私たちも、同様に何かしらの破れや挫折をもっています。けれども、主イエス・キリストはそのような一人一人に対して、「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。
ここで私たちは「あなた方は地の塩とならなければならない」と、主が言われたのではないというところに注目する必要があります。そう、主は「あなた方は地の塩である」と言われているのです。つまり、私たちが何かの条件や鍛錬によって、だんだんと「地の塩」としての権能を果たせるようになると言われているのではないのです。そうではなく、既に「あなた方は地の塩である」と宣言されているのです。これは、ありのままの私たちを見い出し、そのありのままの私たちに信仰を与え、その信仰ゆえに福音を伝えるという使命を主が委託されていることを示します。また、主ご自身がここにいてくださること、共にいてくださるからこそ、そのようになることが出来るという約束でもあるのです。