新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

1月30日「今日の礼拝堂」

2011年01月30日 | 今日の礼拝堂

顕現節第5主日

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今週の祈り・主なる神さま。私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩む全ての人に、よき隣人として仕えさせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

〇ピンクのスイートピーの花言葉は「優しい思い出」「門出」など、いかにも優しく暖かい言葉が多いようです。まるで透き通った羽根をもつ妖精のようなスイートピー。店先に並び始めるこの花を見るたびに、私は様々な感情が心の中いっぱいに広がって、しばらく足を止めます。可愛がっていたネコが死んだとき、綺麗な箱でお棺をつくり焼き場にもっていきました。その時、お花の角で痛くないようにと、このスイートピーをいっぱい買って周りを飾ったのを思い出します。スイートピーなら、きっとその羽根に包んで天国に連れて行ってくれるだろうと思ったのです。お花を活けた人・NAさん。

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〇2011年1月24日、札幌教会に一人の友が与えられました。その瞬間に立ち会った岡田牧師の報告は、その場にいたものだけに得られる臨場感のある感動です。奥さまは長い間祈り続けたその日が訪れたことに、どれだけ安堵し感謝なさったことでしょう。
どんな洗礼式も感動的だけれど、この病室での病床洗礼は本当に感動的です。そこにいるのは家族と牧師だけれど、この場にいてくださる神さまの息遣いが感じられるからなのでしょう。共に、喜び祝福をしてください。以下は、岡田牧師からのメッセージです。

〇今日の田村強兄の洗礼式はとても感動的なものでした。ベッドの上に横になったままだったけれど、田村さんははっきりとした口調で「はい、信じます」と重富牧師の問いかけに答えられました。そして、皆ではじめての陪餐に与りました。

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〇寒いです! 極寒です! 道路はすっかり除雪・排雪ができていて路面は出ていますが、歩道は
スケートリンク状態です。そんな中で見るこの可愛いお花たちは、言葉ではない励ましを与えてく
れます。
気がつけば12月には真っ暗になっていた午後4時も、今ではまだまだ明るさが残っています。自然
は私たち人間の思いにはかかわりなく、時がくれば雪が降り、時がくればそれが溶け、時がくれば
桜が咲くのでしょう。寒いけれど、時が流れていることに気付く時はやっぱり感動です。気がつい
ていない間の時間の中に、改めて神さまの愛をじんわりと受け止められるからなのでしょう。

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〇特にプログラムのない日曜日の午後です。礼拝にはいっぱいの学生さんが見えま
したが、その学生さんたちも帰られて、お茶を飲みながら三々五々楽しいおしゃべ
りの時間です。

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顕現節第5主日説教        岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「地の塩、世の光」
主イエスは、「あなたがたは地の塩である」と言われました。生き物にとって、塩は無くてはなら
ない重要な物の一つです。ですから主が「あなたがたは地の塩である」と言われたとき、この言葉
を聞いている誰もが塩と同じように、この世の中に必要不可欠な存在であるという宣言として聞く
ことができます。

また主は「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう」と、厳しい言葉も言われています。当時流通していた塩は、岩塩でしたから、塩分よりも不純物の方が多いものもあり、空気中の湿気によって塩分が溶け出してしまうと役に立たないものもありました。しかし、塩も他のものと混ざり合うことがなければ、役目を果たすことは出来ません。調理で塩味を効かせるときも、保存のために用いるときも、塩は塩のままであるよりも、他のものと混じりあうことによって本来の持ち味を発揮します。

私たち自身も同じではないでしょうか。私たちはそれぞれにちがう賜物を与えられています。その違いがあるからこそ、反発することもあります。でもこうして教会に招かれ、主の弟子としての使命を与えられている今、それぞれに与えられている賜物が主のものと混じりあうことによって、思いがけない実りへと導かれていることも確かでしょう。また、さまざまな不純物(違いや持ち味)があるからこそ、私たちは互いを必要とし、助け合い生かしあう喜びを知らされ、仕え合うことが出来るのだとおもいます。

主イエスの許に期待をもって集まってきた群衆たちは、この世に対して疲れ、無力であり、迫害されているような人たちでした。また、貧しい者であり、悲しんでいる者でもあったでしょう。弟子たちや私たちも、同様に何かしらの破れや挫折をもっています。けれども、主イエス・キリストはそのような一人一人に対して、「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。

ここで私たちは「あなた方は地の塩とならなければならない」と、主が言われたのではないというところに注目する必要があります。そう、主は「あなた方は地の塩である」と言われているのです。つまり、私たちが何かの条件や鍛錬によって、だんだんと「地の塩」としての権能を果たせるようになると言われているのではないのです。そうではなく、既に「あなた方は地の塩である」と宣言されているのです。これは、ありのままの私たちを見い出し、そのありのままの私たちに信仰を与え、その信仰ゆえに福音を伝えるという使命を主が委託されていることを示します。また、主ご自身がここにいてくださること、共にいてくださるからこそ、そのようになることが出来るという約束でもあるのです。


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1月23日「今日の礼拝堂」

2011年01月23日 | 今日の礼拝堂

顕現節第4主日

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〇赤い実というのは、どうしてこんなに可愛いのでしょう。赤い実といっしょに今日はほんの少しだけ花の開いた雪柳が添えられて、可憐さを引き立てています。雪柳はびっしりと花がつくと、まるでそこに雪が降ったように見えるほどに強い印象を与えますが、このくらいの花数で柳のようにしなやかな枝が見えたほうが風情がありますね。活けた人・NAさん。

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〇ステキな写真が二枚取れました。左は真駒内に居をうつされたTさんが、息子さんとご一緒に礼拝にお見えになりました。Tさんのご主人は少し体調を崩して入院をなさり、介護を続けていらしたトシ子さんにも少し休養の時間が与えられたわけです。そして更に喜ばしいことはそのご主人が病床洗礼をお受けになることが決まり、明日の午後五輪橋病院で洗礼式が行なわれます。神さまのお導きの深さに感動しました。

右の写真はカヨチヤンの元気な姿です。今日はカヨチャンとご主人の結婚記念日と、ご主人のお誕生日をかねて、息子さんとお孫さんがお二人を昼食にご招待してくれるという嬉しい日でした。どんな苦難も喜びに変えていくカヨチャン一家の愛の絆の強さに、これまた感動でした。

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〇三週目はおいしいおうどん食堂の日です。肉の糧をいただいた後は、霊の糧をいただきます。今日は重富牧師と一緒に「聖書からみことばを聞く日」です。出エジプト記23章。いつものように輪読をした後、重富牧師から時代背景などをお聞きしてから、いつものように話しはどんどん発展して 現代に生きる私たちに神さまのみことばが時代を超えて届くという、楽しい一時でした。

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〇裏玄関の屋根のひさしから積もった雪が今にも落ちそうです。「頭上注意」の張り紙をして注意を呼びかけてくださる役員さんの細やかな配慮に感謝しながら出入りをしました。

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顕現節第4主日説教            重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「キリストの声」

福音書は、ペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネの四人が、キリストの声を聞き、迷うことなく決断し、イエスに従ったことを強調しています。人は出会いによって生きていくもの、そして、出会いによって固有の使命を与えられるものです。

後、二ヶ月ちょっとで、私の現役牧師としての務めも終わりを迎えます。29歳のときに按手を受けて40年。「九氏宣言」といわれる宣言文を卒業生9人で常議員会に突きつけ、教師試験をボイコットしたので、半年遅れての按手でした。

何度もずっこけそうになりました。私は、組織にはあまり馴染まない人間です。社会活動との両立を志した開拓伝道では過激派のレッテルを貼られ、出向した出版社では辞典編集の作業員として毎日机に釘付け、三年の苦役を終えて教会に戻れると思ったところ招聘がなくて九州学院に寮監として派遣(更迭)、そこで学校の形骸化した宗教教育体制を批判する小さな論文を書いたところ、校内外に激震、そこも一年で出ることになりました。はみ出しものでした。規格に合わなかったのです。信じてついてきてくれた妻にも苦労をかけました。やめようと思ったことも幾度かあります。そんなときに私の中の召命感は「それでも私はこの教会に召された」「お前の使命は他に何があるのだ」という自問自答となりました。そういう牧師生活前半でしたが、後半は、静岡・横浜・そして札幌と、わりあい穏やかで落ち着いた牧師生活をおくることが出来ました。

自分の牧する教会員との関係は、牧師生活全般を通して、よい信頼関係で結ばれていたと思っています。ずっと支えられてきました。

人はそれぞれに、天命を与えられてこの人生に召しだされています。生きるというのは、その天命を自覚し、意味を生きることです。意味さえ感じられれば、どんな苦しみも超えられます。

神は、天命を全うさせるために、具体的に二つの召命を私たちに準備されています。一つはキリストの弟子としての召命です。究極的には、すべての人がキリストの弟子になることが求められています。自分はキリストのもの。朝それを思い、夕べにそれを思う。キリストの弟子として出来ることをしよう。そう思うとき、命の意味もいっそう深く感じられます。もう一つの召命は、仕事や社会的な責任としての召命です。ただそれは、その仕事に定年があるように限定的です。

キリストの弟子としての召命には限界がありません。死の瞬間まで私たちに意味を与えてくれます。

天命を全うしようと思う心と、キリストの弟子としての召命感が一つになっているものこそ幸せです。そのような者にとっては、今日も生かされていると感じるだけで、その感覚の中に意味が満たされてきます。今日も人のために祈ろうと思う瞬間に、私たちの言葉、呼吸の中に意味が満たされてきます。

教会の務めも、人や自然とのふれあいも、すべてのすべてが、天命の充足であり、弟子として召しだされたものに恵まれる幸せ、弟子として召されたものに恵まれる意味です。意味というのは、結局、自分の命の営みの中に、神の霊を感じることなのです。


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1月16日「今日の礼拝堂」

2011年01月16日 | 今日の礼拝堂

顕現節第3主日

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〇先週から引き続いて札幌はすっぽりと雪に閉じ込められています。ニュースを見ると、これは札幌に限らず日本全国で異常な低温と積雪を観測しているようです。雪に閉じ込められると、イメージとしては真綿にくるまれたほんわかとした優しさと暖かさを想像しますが、今日の札幌の日中の気温はマイナスです。つまり、冷蔵庫の中に閉じ込められているわけです。
その中で、今日のお花はなんとも愛らしい暖かい色合いのバラで、ほっとする優しさを与えてくれました。このお花は退院をした「かよちゃん」にプレゼントするお花とのこと。いつも細やかな思いやりで、さりげなく心を癒してくれるNAさん 。お花は礼拝の中で私たちの祈りを共に聞いたあと、ご主人に手渡されました。ピンク色の好きなかよちゃんが、どんなに喜ぶことか、弾けるような笑顔が目に浮かびます。

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〇今日から聖壇クロスは「みどり」になります。「みどりの季節」は、これからしばらく続きます。若葉が萌え立つように、教会もまたまっすぐに空を見上げて信仰の成長をしていくときです。 そとはまだ白一色ですが、季節を先取りする教会のカラーと共に、みんなで成長していけますように・・・。

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〇大雪大雪と言っても信じてもらえないかも知れないので、証拠写真を撮りました。左の写真は晴れた日の十字架です。そして、右の写真が今日の十字架です。十字架にも吹雪いた雪が貼り付いて、「ここに教会あり」とはいえないような姿です。それでも、どんな風雪にも揺らぐことなく十字架はたっています。ちょっと感動のワンショットです。

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〇写真ではこの可憐な天使たちの実際の大きさが分かりませんが、これは手のひらの上にのるほどの大きさ(小ささ?)のお花です。本当の可愛さは写真では分からないなと、いつも思います。窓の外はガラス窓を半分隠すほどの雪ですが、ホールの中ではこうして小さな命が輝いている。そのことを、いつも息をのむほどに感動して眺めます。このお花たちを活けてくださるのもNAさんです。

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顕現節第3主日説教              岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「伝道のはじまり」

洗礼者ヨハネ逮捕の噂を耳にされて主イエスは、「ガリラヤに退かれ」ました。そして、ナザレを離れてカファルナウムに住まわれます。

マタイはこれを「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と書いています。ゼブルンとナフタリ地方と呼ばれるこのあたり一体は、別名では異邦人のガリラヤと呼ばれていました。国境地帯であり、かってはアッシリアに完全占拠されイスラエルから見れば失われた土地、異邦人によって汚されてしまった土地です。

多くの異邦人たちが往来し、カファルナウムは、ローマ兵たちの拠点のひとつでもありました。つまり、エルサレムのような洗練された場所でもなく、文化的にも宗教的にもさげすみを受けるような辺境の地だったのです。

主イエスはなぜここから伝道活動を始められたのでしょうか。マタイは「退いた」と記していますが、この言葉が決して消極的なものではないことを私たちは死っています。なぜならこれと同じ言葉が、すでに2章の14節と22節で使われているからです。いずれも救い主の親として選ばれたヨセフに関わっています。はじめは、ベツレヘムでの幼児大虐殺から免れるためにエジプトへ去ったとき、そしてヘロデ大王の死後、エジプトから聖家族が帰国する際に用いられています。いずれの場合も主の天使たちによってヨセフに夢でお告げがありました。彼には多少の戸惑いや恐れもあったでしょうが、ヨセフは神さまの導きに従い、隠された計画に積極的に従うという姿勢を貫いています。

主がガリラヤに「退かれた」理由は、一つは故郷のナザレがあったからとも考えられます。しかし、直ちにナザレを去りカファルナウムに移られました。これこそ、マタイが「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するため」です。それは故郷という人間としての基盤となる場所、前提を放棄することを意味します。そして、預言者が殺され、辺境と揶揄されるようなところに敢えて実を置かれるのは、まさに「暗闇に住む人々は大きな光を見、死の陰の地に住むものに光が差し込んだ」と預言者が語った通りなのです。

洗礼者ヨハネを捕らえたこのことがその契機となっているのも、マタイの問題意識を明らかにします。つまり、今やアッシリアのような外的侵略ではなく、内的な罪、そこから生まれる挫折や絶望のゆえに、人が生きることの重荷に耐えかね、出口の見えない罪の螺旋に陥っているという事実。そのようなところに、神の御子がたっておられる・・・主は、父のみ心に従い、伝道の一歩を踏み出されました。それは、ご自分の民を罪から救うため、そして暗闇に輝く真の光として、人々を照らし、ご自分を通して天の父の御心が、地に行なわれるためです。

主イエスの伝道活動は、失われた土地と呼ばれ、暗闇のような場所から始まりました。これは、神の御子の働きが、光を見失った人々と共に生きるためであることを、世に宣言しています。


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1月9日「今日の礼拝堂」

2011年01月09日 | 今日の礼拝堂

顕現節第2主日

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〇日本全国大荒れの日曜日です。札幌では6日の午後から吹雪と大雪が始まり、金・土と続いて今日の日曜日はこれまたびっくりの大雪です。こんな雪は毎年一度はあったと話題にはなっても、この時期の大雪はちょっと珍しいようです。毎年2月に開催の雪まつりのために、郊外から雪を運ぶトラックが連なるのですから、1月の初めからの積雪量にしては、やっぱりびっくり仰天です。昨年夏の記録的な猛暑に続いて今年の冬は「いつもとちがう」冬になるのでしょうか。
北広島の信徒さんは、一度教会まで来たけれど、うまく帰れるかどうか分からないので礼拝をしないでお帰りになったほどです。
そんな中でも若者は元気です。この時期恒例の学生さんマンスリーが始まって、今日もたくさんの学生さんたちが賑やかに礼拝を共にしてくれました。
お花はバランスよく活けられた小菊やマーガレット・カーネーションを優しく覆うように、ハランがバックを守ってくれています。活けた人・NAさんです。

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〇学生さんたちに祝福を与える重富牧師です。「しらけ時代」と呼ばれる子どもたちも、この牧師の真剣な祈りの姿勢には、真摯に向かい合っているのが後ろから見ていてよく分かります。私は礼拝の中でこの風景が一番好きです。ここには、人間の感情や思惑などが一切合切浄化されて、神さまの支配が圧倒的な力で働くのを見る思いがするからです。祝福を受けるために前に出るときの学生と、牧師の前に(神さまの前に)立たされる学生が、その瞬間に不思議な変化を見せる・・・この言葉ではない「何か」を、この子どもたちがいつの日か思い出してくれるようにと、心から祈る瞬間でもあります。

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〇聖餐のブドー液を聖別する牧師と、新札幌礼拝堂のオルガニストです。今日は寒くて常席を避けてストーブの前に座ってみたら、今まで見飽きていた景色もまるで違うものに見えました。人生の中でも時折こして視点を変えてみることは大事なことだなと思いました。

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〇札幌教会では2月の初めに教会総会がもたれます。三つの礼拝堂をもつ札幌教会では、各礼拝堂で総会までにそれぞれに意見を纏めて出席することにしています。
新札幌礼拝堂でも今日その話し合いの会が持たれ、建設的な意見が出されました。

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〇何が何だか分からないような写真になりましたが、今季初の雪景色です。室内の写真は暗いので、補正をかけて明るくするのですが、これは反対に手のつけようもないハレーション状態です。カメラ機能をもっと上手く使えば、白一色の雪景色も深みのあるものになるのでしょうに、申し訳ありません。次の大雪までには研究をしておきます。

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顕現節第2主日説教            重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「洗礼」

主イエスと洗礼者ヨハネ。二人には共感しあいながらも、交錯しまた別々の道を歩みます。二人はどこが違っていたのでしょうか。「ヨハネは、神に向かって生きた。イエスは、神から生きた」その違いです。その違いが「ヨハネは荒野に」「イエスは町に」という違いになりました。

ヨハネがイエスに出会った瞬間を想像します。「このお方を待っていた」という直感が、電撃のように彼の全身を走ります。彼の心の深いところが、一瞬のうちに、懐かしく慕わしい感情で満たされ、とめどなく喜びがあふれ出てきます。そして彼は思うのです。「なぜこのお方が、わたしから洗礼をお受けになろうとなさるのだろう」と。ヨハネは、イエスの中に神を見ました。このお方に悔い改めの洗礼は必要ないと思いました。

イエスはなぜヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。それはヨハネの「悔い改めの洗礼」を肯定し、されに洗礼の意味、内容を大きく変えるためでした。ヨハネの洗礼は「救いをいただく準備」としての洗礼でしたが、それ以後の「イエスの名による洗礼」は、「水と霊(イエス・キリスト)による「救いの洗礼」に変えられたのです。

1960年の6月、18歳のペンテコステの日に私は洗礼を受けました。それから半世紀を過ぎ、幸いにして、これまでずっと教会を離れることなく、過ごすことができました。私にとって洗礼とは何だったのか、と改めて考えてみます。

かってアダムが、禁断の実を食べて、木陰に隠れていたとき、神はアダムに言われます。「どこにいるのか」。これは私たちすべての人間への根源的な問いかけです。「どこにいいるのか」「あなたは何ものか」。洗礼によって私たちは、その答えが与えられたと思っています。「私は、洗礼を受けています。あなたのものです。」「私はあなたと共にいます」と。

自分のアイデンティティ、つまり自分は何ものか、いろんな答えがあるでしょう。私は人間です。私は日本人です。私は重富知明と千代亀の息子です。福岡県出身です。日本福音ルーテル教会の牧師です。どれもが、私のアイデンティティの一部です。けれども、どれも永遠ではありません。永遠のアイデンティティは「私はキリストのもの」ということです。洗礼はその明確なしるしです。

学生時代、マルクス主義者とも親交が深く、学生運動を共にすることもありました。マルクス主義の合理的、理想主義的な人間解放理論に強く心引かれることもありました。けれど「私は洗礼を受けている」というこの一事が、マルクス主義に対して一線を画させ、その理論への傾倒に絶えず歯止めをかけてくれました。

「信仰には必ず疑いも含まれている。全く疑いのない信仰などないし、あったら恐ろしい」と椎名麟三も言っています。信仰の中の疑いは、絶えず自分の弱さを知らせてくれるものです。だからこそ、主は私たちに「洗礼」という見えるしるしを与えてくださっているのだともいえます。「私は洗礼を受けている」「私はキリストのもの」。それが私です。


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2011年1月2日「今日の礼拝堂」

2011年01月02日 | 今日の礼拝堂

顕現主日

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〇2011年最初の礼拝です。若松と葉牡丹。それに南天か万両・千両といきたいところですが、北海道にはナナカマドの赤い実がお正月の晴れやかな景色を彩ってくれます。
葉牡丹の花言葉は、「包み込む愛」「祝福」「慈愛」など、お正月にふさわしい優しいことばが たくさんついています。葉牡丹も品種改良されて大きさや、色合い、八重の縮れ花弁など、たくさんの種類が花屋の店先を飾っています。でも私は昔ながらのこのどっしりとした素朴な葉牡丹が大好きです。
クランツのローソクは、私たち一人一人の心の中で光を絶やさないようにと神さまに命じられました。今日の礼拝から、また礼拝堂はNAさんの活けるお花が慰めと力を与えてくれます。
新しい一年を「今日が最後の日でも悔いない」と思えるように、一日、一日をしっかりと生きていきましょう。

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〇2011年最初の集合写真です。今日はOさん一族が勢ぞろい、総勢10名の大軍団で礼拝が賑やかになりました。そして、何よりも嬉しいカヨちゃんの退院です。大腿骨骨折というアクシデントを、ご夫婦の絆がたった二ヶ月でここまで回復させました。私たちに大きな勇気と希望を与えてくれる姿です。その愛を、後ろから前から上から下から支え励ましてくれた神さまに感謝の礼拝をした記念の写真です。顕現主日の今日、神さまの愛が見える形でこうして示されたことを心に深く強く刻みましょう。

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〇礼拝後のお茶とおしゃべりの時間です。新しい方も始めての方も、懐かしい方も集まって一緒にお茶をいただく風景は、やっぱりお正月ならではのことでしょう。

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〇昨年11月の最後の日曜日の前に、みんなで飾り付けをしたクリスマスのツリーやリースなどを片付けました。また今年のアドベント第一日曜日の前に、倉庫の中から持ち出してツリーを飾り、クランツを設え、クリスマスを迎える用意をするまで、このグッズたちは静かに礼拝を見守っていてくれることでしょう。その時、一人も欠けることなく、元気に歓声を上げながら飾りつけをすることが出来るようにと、心の底から祈ります。

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顕現主日説教                  岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「主の栄光」

人々はキリスト教の長い歴史の中で、エルサレムにやってきた東方の学者たちを、マギ、聖なる三人の博士あるいは三人の王として考えるようになりました。そして、ある時期から、彼らはガスパール、メルキオール、バルタザールという名であり、青年、壮年、老年の代表、更には肌の色もそれぞれに違い、ヨーロッパ、アジア、アフリカといった世界各地の代表のように考えられてきました。

マタイの記述には、東の方からやってきた「占星術の学者」であり、幼子イエスに「黄金、乳香、没薬」の贈り物を捧げたということは記されていますが、実際には、彼らが何人で、どのような構成であったかということについては一切触れられていません。

けれども、だからといって、このような民間伝承を一蹴してしまうのはもったいないなと思います。ルター以前の時代には、ほとんどの人が聖書を自由に読むことも出来ず、福音を理解するためには、音楽や芸術の役割は大きかったと思われます。これらの影響を受けながら、人々は神の御子の誕生が単に過去の出来事としてだけではなく、今を生きる私自身にも深く関わりあうこととして、考え、理解するために、想像の翼を自由に広げていったのではないかと思うのです。

学者たちは一つの星によって導かれ、一緒の旅に出ました。求めるものを捜すための、求道の旅です。長い道のりの中で、疲れることや不安になることもあったかもしれません。しかし、彼らは旅を続けます。

星が彼らを導いていましたが、学者たちは、自分たちの研究成果、そしてその実証のために確信をもって旅を続けます。ところが、目的地の正確な場所を知るためには、エルサレムへ寄り道し、ヘロデ王や宮殿の律法学者や祭司長たちによって、目的地がベツレヘムであるということを聞く必要がありました。求道の旅には、自分たちの確信、心の声に聞くだけでなく、他の人の言葉に耳を傾けること、助言を受けることも必要だったのです。

これは私たちの人生にも言えることだと思います。幼子として生まれた私たちは、いつまでも幼子のままではいません。青年期、壮年期、老年期と死が訪れるその時まで、神さまが導かれるままに変化しながら歩み続けます。その長い道のりの中には、自らの決断や確信によるものもあれば、他人の助言や促しによることもあります。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった・・・光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

私たちにとって、星に代わる導き手は聖書に溢れているみ言葉です。主の顕現を祝うこの日、私たちはこの方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを注がれています。新しく迎えたこの年も、主の栄光に照らされながら、それぞれの歩みを進めてまいりましょう。


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