聖霊降臨後第19主日
「今週の祈り:愛の神さま。あなたは私たちのもろさや欠点をことごとくにご存じです。私たちにもそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、生涯、救いの道を歩ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇ピンクと真紅のバラ。そのまん中にきれいなグラデーションの薄紅色のグラジオラス。単調になりやすい色と花の形なのに、なんてバランスがよく美しいことでしょう。だんだん、路地の花が少なくなってきました。でも、買い物の行き帰りに目に留まる路地の花は、この季節一番色鮮やかに咲きにおいます。お花が枯れる直前の香りをかいだことがありますか。それは・・もう・・この世の命の最後を「哀惜」と「感謝」のすべてをこめて薫るように、華やかに、たおやかに香ります。それは生ききった者にだけ許された至福の香りなのだと、いつも感じます。私も・・・そんなふうに、香りたい・・・・。
〇豪華なうどん食堂でお昼をいただいた後、聖書の学びがありました。小人数だけど、思いのままに、今、教会の中でおきている出来事について情報を共有し、「主よ、なぜ?」と問い続けながらも、その問いにゆるぎない応えがあることを信じている群れです。だから、最後は心が強くなりゆたかになり安心して解散できるのが、嬉しい会です。
〇聖霊降臨後第19主日説教 野口和音神学生(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:19-31
「今、あなたの隣人を見る」
今日のイエス様のたとえ話の中では、二人の人物が対照的に描かれています。一人は生活の衣食住に困ることのないぜいたくな暮らしをしていた金持ち。もう一方では、できものに悩まされ、食べるものもなく金持ちの門前に横たわっている貧しい人、ラザロです。それぞれの死後、彼らの立場はまるっきり逆転することとなります。ラザロは天の国の宴席でアブラハムの隣に座ることとなった一方で、金持ちはというと、陰府の炎に焼かれながら苦しみもがいているのです。そしてその二人の間には大きな淵が横たわり、それを越えることはできない、と告げられるのです。
金持ちが陰府に落とされたのは、すぐ目の前で飢えに苦しむラザロに対し、何もしなかった、という罪のためであります。その罪とは、苦しむ他者に対する無関心であった、と言えるのではないでしょうか。
貧者への無関心ということを考えるとき、かつてマザー・テレサが来日した時に語ったとされている言葉を思い起こします。「愛の反対は無関心である」、と。わたしの目の前で苦しむ人がいます。しかし「彼もまたわたしと同じように、神様によって愛され、命を与えられているかけがえのない存在である」ということを忘れてしまうことによって、無関心は生まれるのです。無関心とは他者への愛の欠如であります。それこそが、わたしたちの罪の姿なのです。その罪を悔い改め、神様の愛へと立ち返ることによって、他者に対する愛の奉仕へと導かれていくのであります。
誰しも、時に他者を気遣い、関心を払うことすら煩わしく思うことがあるかもしれません。自分に余裕がないときや、忙しさの中にあるとき。目の前にあるものに気を取られ、神様から心を離してしまうのです。だからこそわたしたちに、神様は語りかけてくださっているのです。金持ちの門前に静かに横たわるラザロの姿を通して。自らが死ぬその時まで、黙して語らず、金持ちが悔い改めてそのパンを差し出すのを待ち続けたのであります。それはまさに、わたしたちを悔い改めへと導かれるためにその身をもって語られた、十字架のイエス様ご自身の姿なのではないでしょうか。
主の御国に用意された宴席と、陰府との間にある大きな淵は、たとえアブラハムであろうとも越えることが出来ません。生前、金持ちとラザロの間には何の隔たりもありませんでした。だからこそ、ラザロの姿を通してわたしたちに語られているのです。既に主の福音は語られているのであると。神様から遠く心を迷わせるわたしたちにこそ、今こそ立ち返りなさいとその身をもって教えてくださる主が、今を生きるわたしたちの隣におられるのです。他ならぬあなたの隣人であり、あなたを愛してくださる主イエス・キリストの御言葉によって、主の愛を共に分かち合う日々を過ごしてまいりましょう。
〇礼拝では日笠山世牧師が「大きな淵」と題して説教をしてくださいました。このところ、聖書日課は耳に親しんだ箇所が続いて、つい聞き逃してしまいそうになります。ところが、説教は「唐突に」ナチスとアウシュビッツの話しにかわりました。思わずペンを握りしめたくらいです。奥深い話しの展開で、ラザロと金持ちのたとえ話を切り口にしてアウシュビッツに展開したその道筋を、ゆっくりとかみしめながら考えてみたいと思います。ただ、ひとつのヒントとして、ゆっくり考えるまで覚えておこうと思ったのは、金持ちが神さまに退けられたのは、生前、金持ちがラザロに何もしてやらなかったからではなく、ラザロに対して「何もしなかったこと」「無視した」「無関心だった」ことだと、牧師は教えてくださいました。愛の反対語は憎しみとか怒りとかではない。それは「無関心」だということも思いだしました。
〇10月2日(日) 午前11時 聖霊降臨後第20主日
〇司式:岡田薫牧師
〇説教:岡田薫牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:藏谷俊夫兄
〇礼拝当番;出口輝子姉
滝田裕美姉
〇聖書:ハバクク書2:1-4:テモテへの手紙二1:3-14・ルカによる福音書17:1-10
〇讃美歌:150(1-3)・317(1-2)・317(3,4)・42
〇28(水)30(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。