新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

9月25日「今日の礼拝堂」

2016年09月25日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第19主日

「今週の祈り:愛の神さま。あなたは私たちのもろさや欠点をことごとくにご存じです。私たちにもそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、生涯、救いの道を歩ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

       

〇ピンクと真紅のバラ。そのまん中にきれいなグラデーションの薄紅色のグラジオラス。単調になりやすい色と花の形なのに、なんてバランスがよく美しいことでしょう。だんだん、路地の花が少なくなってきました。でも、買い物の行き帰りに目に留まる路地の花は、この季節一番色鮮やかに咲きにおいます。お花が枯れる直前の香りをかいだことがありますか。それは・・もう・・この世の命の最後を「哀惜」と「感謝」のすべてをこめて薫るように、華やかに、たおやかに香ります。それは生ききった者にだけ許された至福の香りなのだと、いつも感じます。私も・・・そんなふうに、香りたい・・・・。

       

〇豪華なうどん食堂でお昼をいただいた後、聖書の学びがありました。小人数だけど、思いのままに、今、教会の中でおきている出来事について情報を共有し、「主よ、なぜ?」と問い続けながらも、その問いにゆるぎない応えがあることを信じている群れです。だから、最後は心が強くなりゆたかになり安心して解散できるのが、嬉しい会です。

〇聖霊降臨後第19主日説教 野口和音神学生(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:19-31

「今、あなたの隣人を見る」

今日のイエス様のたとえ話の中では、二人の人物が対照的に描かれています。一人は生活の衣食住に困ることのないぜいたくな暮らしをしていた金持ち。もう一方では、できものに悩まされ、食べるものもなく金持ちの門前に横たわっている貧しい人、ラザロです。それぞれの死後、彼らの立場はまるっきり逆転することとなります。ラザロは天の国の宴席でアブラハムの隣に座ることとなった一方で、金持ちはというと、陰府の炎に焼かれながら苦しみもがいているのです。そしてその二人の間には大きな淵が横たわり、それを越えることはできない、と告げられるのです。

金持ちが陰府に落とされたのは、すぐ目の前で飢えに苦しむラザロに対し、何もしなかった、という罪のためであります。その罪とは、苦しむ他者に対する無関心であった、と言えるのではないでしょうか。

貧者への無関心ということを考えるとき、かつてマザー・テレサが来日した時に語ったとされている言葉を思い起こします。「愛の反対は無関心である」、と。わたしの目の前で苦しむ人がいます。しかし「彼もまたわたしと同じように、神様によって愛され、命を与えられているかけがえのない存在である」ということを忘れてしまうことによって、無関心は生まれるのです。無関心とは他者への愛の欠如であります。それこそが、わたしたちの罪の姿なのです。その罪を悔い改め、神様の愛へと立ち返ることによって、他者に対する愛の奉仕へと導かれていくのであります。

誰しも、時に他者を気遣い、関心を払うことすら煩わしく思うことがあるかもしれません。自分に余裕がないときや、忙しさの中にあるとき。目の前にあるものに気を取られ、神様から心を離してしまうのです。だからこそわたしたちに、神様は語りかけてくださっているのです。金持ちの門前に静かに横たわるラザロの姿を通して。自らが死ぬその時まで、黙して語らず、金持ちが悔い改めてそのパンを差し出すのを待ち続けたのであります。それはまさに、わたしたちを悔い改めへと導かれるためにその身をもって語られた、十字架のイエス様ご自身の姿なのではないでしょうか。

主の御国に用意された宴席と、陰府との間にある大きな淵は、たとえアブラハムであろうとも越えることが出来ません。生前、金持ちとラザロの間には何の隔たりもありませんでした。だからこそ、ラザロの姿を通してわたしたちに語られているのです。既に主の福音は語られているのであると。神様から遠く心を迷わせるわたしたちにこそ、今こそ立ち返りなさいとその身をもって教えてくださる主が、今を生きるわたしたちの隣におられるのです。他ならぬあなたの隣人であり、あなたを愛してくださる主イエス・キリストの御言葉によって、主の愛を共に分かち合う日々を過ごしてまいりましょう。

〇礼拝では日笠山世牧師が「大きな淵」と題して説教をしてくださいました。このところ、聖書日課は耳に親しんだ箇所が続いて、つい聞き逃してしまいそうになります。ところが、説教は「唐突に」ナチスとアウシュビッツの話しにかわりました。思わずペンを握りしめたくらいです。奥深い話しの展開で、ラザロと金持ちのたとえ話を切り口にしてアウシュビッツに展開したその道筋を、ゆっくりとかみしめながら考えてみたいと思います。ただ、ひとつのヒントとして、ゆっくり考えるまで覚えておこうと思ったのは、金持ちが神さまに退けられたのは、生前、金持ちがラザロに何もしてやらなかったからではなく、ラザロに対して「何もしなかったこと」「無視した」「無関心だった」ことだと、牧師は教えてくださいました。愛の反対語は憎しみとか怒りとかではない。それは「無関心」だということも思いだしました。

〇10月2日(日) 午前11時 聖霊降臨後第20主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:藏谷俊夫兄

〇礼拝当番;出口輝子姉
      滝田裕美姉

〇聖書:ハバクク書2:1-4:テモテへの手紙二1:3-14・ルカによる福音書17:1-10

〇讃美歌:150(1-3)・317(1-2)・317(3,4)・42

〇28(水)30(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。


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9月18日「今日の礼拝堂」

2016年09月18日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第18主日

「今週の祈り:主よ、私たちの心に、正しく考え、行う霊を注いでください。あなたなしに存在することのできない私たちに、みこころに従って生きる力を与えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

 

                        

〇聖霊降臨後第18主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:1-13

「本当に価値あるもの」

「不正な管理人のたとえ」は、イエスさまが語られたたとえ話しの中でも難解なものの一つです。というのも、どう見ても不正なことをしているとしか思えない管理人の振る舞いを、イエスさまはほめておられるように思えるからです。たとえ話を見てみましょう。

ある金持ちに一人の管理人がいました。彼は、主人の財産をきちんと管理するどころか無駄遣いをしていました。それが主人の知るところとなり、管理人は申し渡されます。「会計報告を出しなさい。もうお前に管理を任せておくわけにはいかない」と。このままでは路頭に迷ってしまうと思い悩んだ管理人は、たとえ解雇されても、自分を家に迎え入れてくれる人たちを作っておけばいいのだ!とひらめきます。それで、主人に借りのある人々を一人ずつ呼び出しては、借金の証文をことごとく減額した額に書き直させたのです。借金を減額してもらった債務者は、もちろん喜びました。一方、主人は管理人の勝手な振る舞いに怒り心頭!?と思いきや、彼の「抜け目のないやり方」をほめたというのです。確かに、この管理人は抜け目がありません。しかし、彼の行動は不正に不正を重ねたものです。そんな勝手な振る舞いが、なぜほめられるのでしょう?それは、この管理人が危機に瀕して、投げやりになることなく、自ら機敏に対応したからです。同じように、終末が迫っている今、信仰者もこの管理人のように、機敏に賢く振る舞うべきだ…と、このたとえは教えているというのが、伝統的な解釈です。

とはいえ、たとえ話しはそのように理解できたとしても、イエスさまご自身が語られたテキストの後半部分(9節以下)は、さらに私たちを当惑させます。そこでは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と、はっきり言われているからです。友を作るために、汚いお金を使っていいのか?友情とは、もっと純粋なものではないか?しかし、ここで「不正にまみれた富」と訳された言葉は、「この世の富」という意味に過ぎません。この世の富やお金は、罪人である人間が使う以上、いつも清く正しく用いられるとは限りません。だからこそ、それを正しく、有効に用いることが勧められているのです。すなわち、自分のためだけに使うのでなく、むしろ他者のために使い、施すことが!それが、ひいては「永遠の住まいに迎えて入れてもらえる」ことに繋がる、というのです。

神が備えたもう永遠の住まいには、私たちはこの世の富を一切持って行くことができません。信仰者にとって「本当に価値あるもの」は、言うまでもなくこの世の富ではなく、神と共にある永遠の住まいなのですから、そこに迎え入れていただくために、私たちはこの世のものに執着することなく、他者のために喜んでささげる生き方をしていきたいものです。

〇礼拝では岡田牧師が「何に忠実であるか」と題して説教をしてくださいました。難しい箇所です。このところ、イエスさまはいじわるをしているみたいに、理解するのに悩んでしまうようなことをおっしゃいます。岡田牧師は、ずいぶん明快に私たちが理解しやすいような言葉を使って締めくくってくださいました。「どんなにみじめな存在だとしても、神さまは私を愛してくださる。私たちが最後にできること、それは神さまの前にありのままの姿をさしだすこと。その場にしか、私たちの戻るところはないのだから」。なんだか、難しいパズルが溶けたような心休まる派遣の祝福をいただくことができました。そこしかない。そこしかないのだから・・・・・。これほど、自分を強くする言葉はないでしょう。今日はこの後、既に召された方々と共に礼拝をまもる「墓前礼拝」が平岸の教会墓地で行われます。そのあと、札幌教会の月例役員会があり、この秋は特に何だか毎週のように行事があって、ゆっくりお茶を飲んでおしゃべりを楽しむ時間がありません。残念だけれどそれだけ教会が動いているということでもあるでしょう。まもなく10月。そして、100年記念の式典です。今日の式典申込用紙には15人ほどの名前が書かれていました。15人といえば、新札幌ではほぼ90%くらいです。一つになったことを、実感する数字でした。元気で式典を迎えましょう

〇9月25日(日)午前11時  聖霊降臨後第19日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:秋田直枝姉

〇礼拝当番:堀川悦姉
      滝田裕美姉

〇聖書:アモス書6:1-7・テモテへの手紙一6:2c-19・ルカによる福音書16:19-31

〇讃美歌:358・237(1-3)・237(4ー6)・42

〇うどん食堂・聖書の学びがあります。ご予定ください。

〇21日(水)23日(金)オープンチャーチです。どうぞご自由にご利用ください。


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9月11日「今日の礼拝堂」

2016年09月11日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第17主日

「今週の祈り:全能・永遠の神さま。あなたは、信じる者にまことに尊い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち克つ強い信仰を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

 

        

〇きれいな色のお花です。特に濃い色のりんどうが、迫りくる秋を知らせてくれています。

                     

〇聖霊降臨後第7主日説教 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)ルカによる福音書15:1-10
「見いだされた喜び」

主は、ファリサイ派や律法学者たちのかたくなな思いや差別的な態度にたとえを用いて応じられます。これは、単に彼らの考え方を否定するのではなく、無意識のうちに彼らが陥っている罠から救い出すために話されているように感じます。やりとりの重要なポイントは、救いがどこから来るのか、誰が救いの主導権を持っているのかという点です。

 

ファリサイ派や律法学者たちは、律法を守り、忠実に従うことによって救われる、という考え方を尊重していました。しかしこれらは、次第に自らの業(わざ)によって神さまに近づける、あるいは救いに到達できると思い込んでしまう危険性もあります。時折、神に従っているようであっても愛を忘れてしまっているような彼らの言動が見られますが、そのような時、人は神の深い憐れみや愛の世界から自分たちの思い描く別の道、罪の道に彷徨いだしている状態と言えるでしょう。

 

たとえに出てくる群れから見失われてしまった一匹の羊、見失われてしまった1枚のドラクメ銀貨は、《悔い改める一人の罪人》を指しています。では、この悔い改める一人の罪人とは誰のことでしょうか。それは、この物語を福音として聞こうとしている私たち一人一人のことです。主はご自分の話を聞きながら「自分は大丈夫」、そう思い込んでいるような人々に対して、あなた自身が見失われていたにもかかわらず見いだされた存在なのだ、ということを教えられるのです。そして、たとえ私たちが神から遠く離れてしまっていることに気づかなくても、失われていることに気づいていなくても、父なる神は物語に登場する羊飼いや女性のように、決して諦めず、失われたものを見いだそうと真剣に私たちに向き合ってくださるお方なのだ、と力強く語られるのです。

 

《人の子は、失われたものを捜して救うために来た》(ルカ19:10)とあるように、私たちは“主が私たちを/私を見いだすために来てくださった”ということをあらためて知る必要があります。そして、主の愛の眼差しの中で今生かされている喜びを共に祝うようにと招かれていることにも。そのために御子主イエスは世に下り、その命を十字架に渡すことによって私たちに対する愛を顕(あきら)かに示してくださいました。

私たちはこのみ子を通して与えられた赦し、救い、永遠のいのちへの約束に気づかされたからこそ、教会に連なり礼拝へと導かれています。神を知る恵み、神に知られている恵み。私という一人の罪人が神へと立ち返ることが出来たことを神は喜んでくださっています。その喜びを私たちも兄弟姉妹と共に喜ぶ者でありましょう。

 
 
〇礼拝堂では日笠山牧師がみことばの取り次をしてくださいました。「天上の喜び」です。99匹の羊を残して、迷い
出た1匹の羊を捜しだすみんながよく知っている聖書の箇所です。私たちが99匹の中の一人だと思うと、引率の指導
者のいうことを聞かないでふらふらと迷っていく一人のために、99匹を危険にさらしてもいいのか・・などと、若
い頃は激論を戦わせた記憶が誰にでもあることでしょう。人間は誰でも、自分が道に迷っている1匹だとは思わな
いからです。私が、ほかのすべての人に迷惑をかけているのだとは・・・なかなか思わないものです。目の中のハ
リと丸太の喩のように・・・。でも、捜してくださるのは神さまなのだと、今日の説教は語りました。神さまが
ひとりの滅びもゆるさないと、捜してくださる。かけがえのないたった一人の愛する存在だと捜してくださる。そう
思うと、涙がでます。私・・・今・・・迷っています。捜してください。信じて、待っています。
               
〇夏の盛りのみどりいろは、力があって、それでいて心を癒してくれるような優しさがありますね。
 
         
〇札幌教会の役員さんに依頼されて、オープンチャーチでみんなが色を塗ってくれたぶどうの房が、こんなに美しい100年の
ポスターになりました。CSの子どもたちと一緒にデザインをしたものとのことです。
リーダーは札幌教会札幌礼拝堂の山下お姉さんだと聞きました。
実物は、札幌礼拝堂の正面玄関前にあるようです。時間があったら見にいってくださいね。
だんだん、だんだん、宣教100年が現実味を増してきました。嬉しい気持ちも大きくなっていきますね。こころ楽しく式典を
迎えましょお。
                      
 
〇9月18日(日)午前11時  聖霊降臨後第18主日
〇司式:岡田薫牧師
〇説教:岡田薫牧師
〇奏楽:若井裕子姉
〇聖書朗読:林三浩兄
〇礼拝当番:小川照美兄
      林三浩兄
〇聖書:コヘレト8:10-17・テモテへの手紙一2:1-7・ルカによる福音書16:1-13

〇讃美歌:170・318(1,2)・318(3,4)・42・258

〇14日(水)21日(金)オープンチャーチがあります。どうぞご自由にご参加くささい

 

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9月4日「今日の礼拝堂」

2016年09月04日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第16主日

                      

〇月初め、今月の召天者とともに礼拝を守ります。もう何ヶ月もとってきた写真なのに、なんて無ざまな写真でしょう。関係者の皆様には申し訳がありません。はやく、仮ものではない自分のカメラを手に入れなくてはと焦ってしまう写真です。

〇今日はなにやらせわしない一日でした。
恵み野教会献堂30周年の記念礼拝の日で、岡田牧師は記念式典の方にご出席。新札幌は一人でフルコースをつかさどるのは初めてという野口神学生が、司式と説教を担当してくださいました。神学生は、初めてというすがすがしい緊張感をもって最初から最後まで滞ることなく立派に礼拝を導いてくれました。野口神学生は、心がきっと明るく明晰なのでしょう。表情にも声にも濁りがなくてとても自然でいい礼拝でした。        

              

〇礼拝前の準備に余念のない神学生です。とてもいい意味で、「自信」を持って生きる若者は本当に素晴らしいものです。これからの長い道のりには、山あり谷あり。そして未曾有の災害も待ち受けているでしょうが、野口神学生の健康な心が神さまによってさらに強く支えられ、どんな小さな出来事にも目をつむらない牧師人生を歩んでほしいと心から祈ります。

〇聖霊降臨後第16主日                  野口野口和音神学生(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書15:24-33

「すべては主を通して」

 

「あなたの一番大切なものは何ですか」と聞かれて、自分の命以上に大切なものを見つけることの出来る人は多くありません。命がなければ、お金も、人と人とのつながりも、何もかもがなくなってしまうと多くの人は思うからです。しかし今日の日課では、『自分の持ち物を一切捨てないならば』誰一人としてわたしの弟子でありえない、と厳しい言葉をイエス様はかけられます。主の弟子として歩む私たちが、家族も、自分の命すらも捨てることのどこに、福音があるのでしょうか。

 

私たちには愛したいと思うものがたくさんあります。家族や、そのほかの人間関係の中で、出来るだけ皆を好きでいたいと願います。けれど、それは純粋な愛と言えるでしょうか。人間である以上、見返りのない行いに疲れてしまうこともあります。打算的な心から愛情に溢れる人間のように周りに対して振る舞うことだってできるのです。結局、私たち人間の愛は、全て自分のための愛であることに気付きます。他者に向けて注ぐ私たちの愛は、真に相手のためではなく、すべて自分が何かを得るための愛にすぎないのではないでしょうか。この時イエス様に付き従っていた人々も、そうであったのではないでしょうか。

 

そのように自分本位な私たちのあり方に対して、憎み、捨てなさいと主は言われるのです。私たちの罪がここにあるのです。不完全な愛は結果として自分のためだけに愛を行います。私たちはそこから完全に脱することは出来ません。ただ全ての人のために自らを投げ打ち、その完全なる他者への愛によって十字架にかかられたイエス・キリストが、罪に沈む私たちを救ってくださらない限りは。

 

私たちは主によって赦され続けているのです。自分自身のための愛から離れることが出来ないという罪を。その罪を御前で悔い改めることで、共にその十字架を背負い歩んでくださる方がおられるのです。主によって赦され、愛されていることを知ったとき、私たちは初めて、自分以外の誰かを愛することを知るのです。

 

それでは、一切を捨て去った私が主の弟子として召されたとしても、そのために犠牲となった私が愛するものはどうなるのでしょう。父は、母は、兄弟は、私に関わる全てのものは救われず、捨て置かれたままなのでしょうか。いいえ、そうではありません。主の弟子であるということは、御言葉を通してすべてを見る、ということです。私が関わるものはすべて主を通して関わるものになります。その時、私たちの欠けた愛の業は、主によって完全な愛の業へと変えられていくのです。二つのたとえは、そのためにまず必要なことが『腰をすえる』ことであると言っています。この『腰を据える』ことが、私の持つ一切を捨て、主にそれを委ねることなのです。全てを主に委ねた時、一度捨てた私たちの不完全な愛の関係は完全なものへと回復され、再び与えられるのです。この厳しい言葉の中には、主の愛が満ち溢れているのです

〇礼拝がおわるなり、数人恵み野教会の記念式に顔をだしてきました。30年・・・・献堂式のときの感動がまだ鮮やかだというのに、もう30年です。私たちはプログラムが全部終わってしまった後に、まるでごちそうをいただきにいったような形になりましたが、高齢化がすすんで、すべてのことを簡素化しようとする私たちの教会とは、やはり若さが違う。なんだか、とても懐かしいような「教会」のおいわいです。一ヶ月半後に100年記念礼拝を控えて準備をしている私たちにとっても、少し刺激を受けました。ああ、こうして教会は育ってきたんだな・・・と、そんな感慨にひたりました。徳野先生ご夫妻と安井牧師がお祝いに駆けつけて下さったとか、ほんとに、何もかもがなつかしい・・。戦艦ヤマトの沖田艦長が、最後に地球に帰還したときに述懐した言葉「あぁ何もかもが懐かしい」をつぶやきたくなりました

さて、いよいよ私たちの100年です。若さには疲れを知らない愛の力が、老体には老体の渋みが、きっとにじみでることでしょう。終わったみたら、あぁ・・・よかったね。すべてがなつかしかった・・・・と、きっといえることでしょう。恵み野の町並みは、それなりに時間が過ぎて、落ち着いた美しい街になっていました。

 

〇9月11日(日)午前11時  聖霊降臨後第17主日

〇司式:野口和音神学生

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:小川敦子姉

〇礼拝当番:小笠原里子姉
      林三浩兄

〇聖書:出エジプト記32:7-14・テモテへの手紙一1:12-17・ルカによる福音書15:1-10

〇讃美歌:293・320(1,2)・320(3・4)・42・254

〇「おにぎり食堂」「エンキリディオン」「みんなの会」を予定しています。

〇7日(水)と9日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご利用ください。

 

 

 

 


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