新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

6月26日「今日の礼拝堂」

2016年06月26日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第6主日

「今週の祈り:すべての主なる神さま。あなたはあなたの民に、御心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行うために、あなたの強い力で支えてください。」

           

〇今日はものすごく礼拝出席者が少なくて、どうなることかと心配しましたが、今日は少ないからいつもより大きな声を出そうと、みんなが思ったに違いないくらい、今日の讃美歌や式文は、いつもよりとても大きく、一つにまとまっていて、なんだかじぃーんとするくらいでした。どんな状況の中でも、恵みを見つけられるものだと感じました。

〇聖霊降臨後第6主日説教                 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書7:36-50

「愛の大きさ」

イエスさまが一人の罪深い女を赦された物語です。ある日、イエスさまはファリサイ派のシモンの家に食事に招かれました。当時、金持ちや有力者の祝宴は公に解放されていたので、この罪深い女もシモンが開いた祝宴の場に足を踏み入れてみたのでしょう。そこに、イエスさまがおられると聞いていたからです。女は、はじめこそ遠巻きにイエスさまを見ていましたが、やがて後ろからイエスさまの足元にそっと近づくと、泣きながらイエスさまの足を涙で濡らし始めました。それから女は、涙で濡らしてしまったイエスさまの足を自分の髪の毛で拭い取ったかと思うと、なんとその足に接吻をして香油を塗ったのです。周囲の人々は、あっけにとられたことでしょう。この女のイエスさまに対する一連の仕草を見て。それらを拒むことなくすべてを受け入れられたイエスさまの姿を見て。

イエスさまを祝宴に招待したシモンは、思いました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人が分かるはずだ。罪深い女なのに」と。然り、イエスさまはすべて分かっていました。この女が、まぎれもなく罪深い女であることを。その罪深い女が、自分に触れ、罪の赦しを請うていることを。女の瞼から自分の足へ滴り落ちた大粒の涙は、罪のざんげに他ならないことを。それらすべてをイエスさまは受け止められて、女の罪を赦されたのです。それゆえ、女がイエスさまの濡れた足を自らの髪の毛でぬぐい、香油を塗って差し上げたのは、罪を赦されたことへの感謝の現れです。赦された者は、愛する者へと変えられるからです。イエスさまがたとえ話を用いてシモンに教えられたように、多くの罪を赦された者は、より多く愛する者へと変えられるのです。

私たち大方の人間は、自分自身の罪深さをあまり認識していません。敬虔で信仰深い王と称えられるダビデにして、そうでした。本日の初めの日課(サムエル下11章26節以下)にも記されていたとおり、ダビデは自分が犯した類いまれなる大罪にさえ気付いていません。あのダビデにして、然り。私たちには、とかく自分自身の罪を小さいものとし、自分で自分を義とする傾向があると言わざるを得ません。しかし、それでは私たちの罪は赦されないまま。それでパウロは、私たちの罪が赦され義とされるのは、ただイエス・キリストへの信仰によってのみである、と明言したのです。(ガラテヤ2章15〜17節)

今日登場した罪深い女は、既にそのことを知っていました。イエスさまこそ、罪の赦しとまことの救いを与えてくださる唯一のお方である、と信じていたのです。その女の信仰を見て、イエスさまも宣言しました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この女のように、ただイエス・キリストへの信仰さえあれば、私たちは罪を赦され、救いを約束され、永遠の命の中で安心して生きて行くことができるのです。

日笠山吉之牧師説教集・・・・・・・日笠山吉之牧師随筆集

 

                        

〇10月10日の札幌教会宣教100年記念礼拝の、もろもろこまかな打ち合わせで「式典委員会」が札幌礼拝堂に集まりました。私もちょっとほかに用事があったので付録でついていきました。

札幌礼拝堂の花壇は、濡れそぼる雨の中で美しいバラがたくさん咲いていました。「バラに降る雨」という戯曲がありましたが、雨に一打ちされた植物はみな生き生きと美しいけれど、バラに降る雨は格別だなと思います。手入れの行き届いた花壇を眺められて、ついて行ってよかった。

〇聖霊降臨後第7主日(日)

この日は、年に一度のルーテル学院大学・神学校による講壇奉仕の日です。三礼拝堂は札幌礼拝堂に参集して合同礼拝となります。礼拝時間は10時30分です。どうしても中央区までいけない方々のために、新札幌礼拝堂では「朝の祈りの会」をもちます。いつものように11じからです。いずこにあっても心を一つにして祈りを合わせましょう。

〇29日(水)7月1日(金)はオープンチャーチです。どうぞご自由にご参加ください。

 


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6月19日「今日の礼拝堂」

2016年06月19日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第5主日

「今週の祈り:力なる神さま。生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてで、あなたに仕えることができるように、御力で支えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

     

〇お花はこじんまりとシックに活けられました。これでも10種類の花がそれぞれに美しく、自分の分をわきまえて凛として咲いています。お花の種類がどんなに多くなっても、それがうるさくごたごたしないのは、お花同士が決してケンカをしないからなのでしょう。お花が美しいのは、自分に与えられた場所で精いっぱい咲いているからだと、本で読んだことがありますが、礼拝堂のお花をみていつもその言葉を思いだします。そうありたいと・・・思いながら。

〇右の写真は、礼拝後に毎週聖壇のローソクを、左右の高さを合わせて削って整えてくださる聖壇委員のおひとりです。礼拝を整えるために、陰で支えている人たちのいることも忘れないようにしたいものです。

                    

〇聖霊降臨後第5主日説教                日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書7:11-17

「心にかけてくださる方」

イエスさまがナインの町に住むやもめの一人息子を生き返らせた奇跡物語です。イエスさまが町の門に近づかれると、葬列の行進に出会いました。担ぎ出されようとしていた棺の中には、ある母親の一人息子が安置されていました。彼女は、既に夫に先立たれたやもめでありましたが、今や頼りにしていた一人息子まで失ってしまったのです。当時、やもめは、社会的に最も弱い立場に置かれていました。家父長制のもと、女性は夫をもち、子どもをもうけることによって、初めて周りから認められたからです。しかし、彼女の場合は、そのどちらをも失ってしまいました。良き伴侶であった夫も、その夫との間に与えられた一粒種の息子も!彼女の喪失感たるや、いかばかりであったでしょう。彼女は、棺にすがって、ただただ泣くことしかできませんでした。

悲しむ人を決して見過ごされないイエスさまは、この母親を見て、憐れに思い、自ら彼女の方に近づいていかれました。「哀れ」に思ったのでなく、「憐れ」に思われたイエスさま…この「憐れ」は、相手の悲しみに対して自分の腸もちぎれるほどの痛みを覚えるほどの同情を表す言葉です。これほどまでの「憐れみ」は、いくら優しい人でも、愛情深い人でもなかなか持ち得ません。人間の救いのために、自らを十字架にささげられたイエスさまだからこそ持っておられた「憐れみ」です。

いったい悲しみにくれる人を見て、私たちに出来ることは何でしょうか?せいぜいその人の傍らで、一緒に涙を流すことくらいでありましょう。もちろん、それだけでも十分な愛の業なのかもしれません。下手に相手を慰めようと何か言葉を探したり、元気づけようと発破をかけるよりは、たとえ無言でも相手の悲しみに少しでも寄り添う者でありたいと、私も日頃から思っています。しかし、イエスさまはここで耳を疑うような言葉を女に語りかけられました。然り、「もう泣かなくともよい」と。これは、イエスさまにしか言えない言葉です。悲しみを喜びに、絶望を希望に、死を復活に変えることのできるイエスさまだからこそ、言える御言葉なのです。

母親に「もう泣かなくともよい」と語りかけられたイエスさまは、棺の中におさめられた息子に向かっても語りかけました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると、イエスさまの御言葉どおり、死んで棺におさめられていた息子が起き上がり、ものを言い始めました。母親の驚きと喜びは、想像するに余りあります。その様子を見ていた町の人々も、恐れつつ、神を賛美しました。「神はその民を心にかけてくださった」と。神は、私たちの悲しみや苦しみを決して放っておかれはしません。それは、神の御子であるイエス・キリストが私たちに寄せてくださった「憐れみ」を見れば、一目瞭然ではありませんか!

日笠山吉之牧師説教集・・・・・日笠山吉之牧師随筆集

〇礼拝の説教は岡田牧師でした。「心を寄せる」と題して、自分のたった一つの希望であり、期待のすべてであった一人息子が奪い去られた母親の嘆きに寄り添う、イエスさまのお心を伝えてくださいました。生きる限り、なぜ?なぜ?と問い続ける私たちへの言葉でもあります。イエスさまは「もう、泣かなくてもいい」とおっしゃって、棺のなかの息子に手を置かれて「若者よ、起きなさい」と言われました。それは、限りある命をもつ私たちに死なない命を与えるというものではない。どんなことがあっても、寄り添ってくださる方がいるということの証しでしょう。日ごろ、なぜ?なぜ?とつぶやいてばかりいる私には、なぜ?という前にまず信じなさいという厳しく深い愛にも聞こえました。そして、最初と最後に歌った讃美歌が、心にしみわたりました。「つくり主のみ声聞けよ。あがなわれし罪人われ。、み前に誇りを打ち捨てひれふす。力の神、来たります日。地にある者声をあわせ、栄えある救いのみわざをたたえよ。」

                                                                     

〇6月26日(日)午前11時   聖霊降臨後第6主日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:小笠原里子姉

〇礼拝当番:堀川悦姉
      滝田裕美姉

〇聖書:サムエル記下11:26-12:13・ガラテヤの信徒への手紙2:11-21・ルカによる福音書7:36-50

〇讃美歌:167(1,3,5)・301(1,2)・301(3,4)・166

〇「うどん食堂」「聖書の学び」があります。ご予定ください。

〇22日(水)24日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。

 

 


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6月12日「今日の礼拝堂」

2016年06月12日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第4主日

「今週の祈り:天地の支配者、全能・永遠の神さま。私たちの祈りを聞き、今より永遠まで、あなたの平安のうちに歩ませてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

         

〇裏庭に続く教会堂の壁に沿ってつつじの気が植えられています。日当たりもよくない場所なのに、今年も見事に咲いてくれました。それもこの一週間でパッと咲いたという感じです。私だけでなく、ほかの方も同じように言っていたので、きっとこの一週間で掛け声をかけて一緒に花を開いてくれたのでしょう。あまりに美しかったので、いつもお花を活けてくださるNAさんが、礼拝堂に活けてくれました。この場世は、進んだ奥に駐車場があるので、車族は通るのですが、表玄関から出入りする方は、もしかしたら見落とすかもしれない場所です。NAさんの配慮に感謝です。

〇聖霊降臨後第3主日説教             岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書7:1-10

 

「権威のもとで」

 

主がユダヤの長老たちと一緒に出かけられると、目指す家からほど遠からぬところへ来た時、件の百人隊長の友人が使いとしてやってきました。そして、百人隊長の言葉を伝えます。その内容は、聖書にある通りです。伝言をお聞きになった主イエスは、群衆の方を振り向いて《イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない》と感心して言われました。百人隊長が出来た人物であったと言えばそれまでですが、この物語が“私たちにとって福音となるのはなぜか”ということを考えてみたいと思います。
ユダヤ人の長老たちは、百人隊長のことを《あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。》と考えていました。しかし、百人隊長自身は《わたしはあなたを迎えるに相応しくない》と、自分は主の目に留められるだけの者ではないというへりくだった態度を示しています。そして、このような小さな存在である自分にも“主は憐れみのまなざしを向けてくださる”と信頼しているのです。
そこには自分自身が権威のもとに多くの兵を動かす立場にあり、その権威のもとの命令が絶対であるという経験に基づいた一つの思いがありました。それは、不思議な業を行うと噂される主イエスが癒しの言葉一つ発し命じられれば、直接触れられることがなくても僕の病は癒される、主イエスが持っておられる権威はそれほどのものである、という核心です。つまり彼は、主イエスに向かって“あなたこそ神さまの権威のもとから来られた方です”と告白しているようなもの。この百人隊長の思いを汲まれたからこそ《イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない》と主は言われるのです。
なぜ、異邦人の百人隊長がこれほどまでの信仰を持つことができたのでしょうか。おそらく彼は病の部下を目の前にしたとき、己の無力さを痛感したことでしょう。そして、“聖書の預言者の言葉を恵み深く語り、おびただしい病人を癒し、汚れた霊に取りつかれた人を解放されている”ナザレのイエスについて考えるうちに“イエスとは何者なのか?”という問いを思いめぐらせながら、あのお方は“死の前に無力な方ではない”と考えたのです。そして、あの方の権威は天からのもの、つまりあのお方は、“神から遣わされた救い主である”と信じたのです。だからこそ、《ひと言おっしゃってください》それだけで十分ですと彼は伝えるのです。
神の権威に触れたとき、私たち人間は己の小ささを否が応でも知らされます。しかし、それ以上に私たちをしっかりと支え包み込んでくださる主の愛をも知らされます。百人隊長が主に信頼しひと言を求めたように、私たちも日々の生活の中で必要な御言葉を祈り求めつつ歩んでまいりましょう。

                                                            

〇「ふさわしい人」と題して、日笠山牧師が礼拝で取り次いでくださったメッセージは、一点に凝縮した簡素で深いものでした。百人隊長と呼ばれている当時のエライ人、その人が自分のたった一人の僕の病をいやしていただこうと、イエスさまに掛け合います。「たったひとことを」をおっしゃってください。そうすれば。私の僕は癒されます。この徹底したイエスさまへの信頼。あぁ、敵・味方関係なく、どんな人でも愛せるようになりたいと、心から思わせてくれた説教でした。

〇今日は高校生が4人、礼拝に参列し、聖餐式では牧師から祝福を受けて帰られました。よく加齢臭という言葉を耳にしますが、加齢した身になってみて思うことは、それって、ほんとうかな・・・。加齢臭には異論がありますが、若さのど真ん中・高校生たちは別に香りが漂ったわけではないけれど、その存在そのものが、なんだかいい香りがしそうなきがしました。その中の2人が、礼拝を10時半と思ってきたとのこと。聞いてみたら、札幌教会のホームページを見たら、そう書いてあったと。もう1年以上ブログの更新だけをしていたので、ホームページの管理を怠っていました。申し訳ない気持ちで謝りましたが、確かにネット上の情報が優先する時代なのだと実感した出来事でした。

                   

〇6月19日(日)午前11時 聖霊降臨後第5主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:林三浩兄

〇礼拝当番:秋田直枝姉
      林三浩兄

〇聖書:列王記上17:17-24・ガラテヤの信徒への手紙1:11-24・ルカによる福音書7:11-17

〇讃美歌:149(1,2)・244(1,3,4)・470・149(4,5)・261(1,2)

〇15日(水)17日(金)は、オープンチャーチです。教会の扉はあなたのために開かれています。どうぞお気軽にお入りください。

 

 


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6月5日「今日の礼拝堂」

2016年06月05日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第3主日

「主なる神さま。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

     

〇緑の聖壇布の傍らで、薄むらさきのカンパネラが涼やかな鈴を奏でているように爽やかな一活けです。いつの間にか街は新緑に染まって、街路樹の春の剪定も終わったようです。これからは一日、一日が新しい成長の中で新鮮な感動を与えられることでしょう。お花を活けてくださったのは、いつものようにNAさんです。             
         

〇そのNAさんが一年かけて大事に育てた「シャコバサボテン」に、真紅の花がたくさん咲きました。見事です。これからしばらく、この赤い色がホールの中心になってくれることでしょう。隣の小さなお花は、裏庭の隅っこにいつの間にか値を下した「おだまき」です。たった一輪ひっそりと咲いていました。あえてよかったんなぁと思いました。

〇聖霊降臨後第3主日説教              日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書6』37-49

「心からあふれ出ること」

イエスさまによる「平地の説教」の続きです。本日の日課は、便宜上3つの段落に分けられています。それぞれの小見出しは、「人を裁くな」「実によって木を知る」「家と土台」となっており、段落ごとに別個のメッセージが語られているようにも見えます。しかし、やはりここには一貫した主題があります。それは、自分自身を知れ!かのギリシャの哲学者は「汝自身を知れ」と教えましたが、イエスさまはさらに私たちにこう迫ります。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と。私たちはしばしば、他人のささいな欠点を見つけては非難し、裁いてしまいますが、自分の目の中に横たわっている大きな丸太には、案外気付いていないものです。その罪があまりに大きいがゆえに、自分には見えない。だから、私たちはまず自分自身を知ることから始めなければならないのです。神の御前で口を閉ざして、いかに自分が罪深い存在であるかということを知らなければなりません。なぜなら、「人の口は心からあふれ出ることを語る」からです。いくら口先だけで『主よ、主よ』と言い繕っても、すぐに化けの皮が剥がれてしまうのです。

 

旧約聖書の外典『シラ書』27章4節以下に、次のような御言葉があります。「ふるいにかけると、屑が残るように、人の欠点は、語り合っている時に現れる。陶工の器が炉で試されるように、人は議論によって試される。木の手入れの上手下手は実で分かるように、心の思いは語らいによって分かる。」語り合うことの大切さと、語らいの中で使われる言葉の質が問われています。自分の言いたいこと、自己アピール、自己主張ばかりを語ってはいないか?相手が発する言葉に、真摯に耳を傾けているか?相手の話しを聞くふりをして、実は相手の粗捜しばかりをしてはいないか?相手を心底から励まし、慰め、力づけるような言葉を語り得ているか? 

 

私たちがどんなに良い言葉を語りたいと思っても、私たちの口は正直です。言葉を慎重に選んだつもりでも、上手く言い繕ったつもりでも、結局は「心からあふれ出ること」しか私たちは語れません。イエスさまも言われたように、「悪い実を結ぶ良い木はなく」「悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」しか術がないからです。ここまで言われると、もうお手上げ…口の悪い私なんかは、もはや救いようがありません。しかし、イエスさまはそんな私でさえ、見捨てられはしません。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てなさい」と、おっしゃる。「地面を深く掘り下げる」とは、イエスさまの御言葉を何度も繰り返し聞き、噛みしめ、咀嚼していくこと。その遅々とした信仰の歩みの中で、イエスさまご自身が私たちのゆるがぬ土台となり、人生のどんな逆風にも倒れることのない主の家を建て上げてくださるのです。     

          

〇教会の草刈り作業の日です。勤労奉仕の日です。長い冬を越した人間も植物も、共に挨拶を交わしながら、心地よい汗を流します。ところで、みんなが汗をかいてご奉仕している姿を写真に撮っている人がいるわけでして・・・・。そんな人がいつもいます。つまり・・・この私です。いつも思うのだけれど、80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さんは英雄だけれど、その英雄に付き添って記録写真を撮り続けた人は、全然英雄視されません。世界を船で一周した人も、いろんな偉業を成し遂げた人も、その記録をとる人こそ、ものすごい危険な冒険家なのに・・・ね。いえ、別に自己弁護しているわけではありません。いつも、申し訳ない後ろめたい思いで帰ってくる私です。

〇6月12日(日) 午前11時  聖霊降臨後第4主日

 

 〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:若井裕子姉

〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄

〇礼拝当番:小川敦子姉
      林三浩兄

〇聖書:列王記上8:41-43・ガラテヤの信徒への手紙1:1-⒑・ルカによる福音書7:1-⒑

〇讃美歌:175(1,2,4)・321(1-3)・321(4-6)・399(1,3,4)・251(1,4、)

〇「おにぎり食堂」「エンキリディオンの学び」「みんなの会」があります。ご予定ください。

〇8日(水)10日(金)は、オープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。

 

 

 

 

 


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