新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

9月26日「今日の礼拝堂」

2010年09月26日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第18主日

1 〇リンドウにわれもこう、小菊をねじめにして今日も秋満開の一活けです。りんどうは丸ごと秋!という印象を与えるのに、秋の七草の中には入っていないというのが、昔からの私の大きな疑問というか、不満というか。りんどうはどう考えても秋を代表する花ですよね。活けた人・NAさん。

〇今日の礼拝堂説教は重富牧師でした。説教題は「此岸と彼岸」。聖書の箇所は有名な「金持ちとラザロ」(ルカ書16:19-31)。
牧師は開口一番「人生とは不公平なものです」と語られ始めました。いつも、不公平だ不公平だと呟いている私は、思わず身を乗り出して聞き入りました。しかし牧師の説教は、人生はそれでいいのか?というイエスさまの問いかけへと発展していきました。そして、次に大きな展開を迎えます。

金持ちが強欲な人で、極貧のラザロが清貧の人だったとは聖書は語っていません。展開された場面は二人の登場人物の彼岸での目覚めです。辛い人生を生き抜いたラザロ、時には本当に神はいるのか・・という懐疑の中で苦しんだことでしょう。そのラザロが目覚めたところは天使たちに伴われた天の宴席でした。理不尽な苦しみはそのままでは終わらない。労われ、共感してくださる主を信じることの勝利がここに示されています。

反対に金持ちの方は、焼き尽くす地獄の炎・炎の裁きの中で目覚めます。金持ちの罪とはいったいなんだったのでしょう。お金をもっていたことが悪いのではない。そのお金を他者のために使うという気持ちをもたなかったこと・為すべきことを「しなかった」ことが罪に定められています。

では、この二つの埋めることのできない「淵」・・・そこに悔い改める機会はないのか?
天国と地獄の断絶・彼岸と此岸の断絶・・これが死です。しかし、その死の価する地獄の底まで主がいてくださったということが、今日の福音だと牧師は結びました。

〇現実の生活の果てしない苦悩の中にある私たちにとって、さまざまな呟きが生まれるし、激しい問いと叫びも生まれるように思います。
でも、重富牧師は揺るぎなく断言しました。「信じようよ。信じなさいといわれているんだから、素直に信じようよ」・・・・この「我ここに立つ」人の強い信仰によって語り伝えられる説教には、理屈を捏ねる隙を与えない強さを感じます。・・・うん、そうしよう。うん、信じよう・・・と。

牧師の説教をもっと読みたい方は「重富牧師説教集」をごらんください。
http://sermon.nonomichi.com/

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〇今日は珍しいお客さまをお迎えして賑やかな礼拝堂です。まだ80代の半ばの方ですが、お身体の調子がよくなくて、しばらく礼拝堂にいらっしゃれない方のご家族が、揃って礼拝にお見えになりました。息子さんご夫婦とお孫さんに囲まれてTTさんのお顔色も晴れやかでした。
その息子さんが「私はこの教会初めてなんですが、いつもブログでみなさんのお顔や教会の様子を見ているので、初めての感じがしません。」

うわーっ!かれこれ5年以上続けているブログに、こんな「お言葉」を頂戴したのは初めてでした。そして、やっと、私が目指したブログづくりの目的が、遠く離れた知らないところで少しずつ成長しているのを知って嬉しい出会いでした。「成長させてくださる神さま」に信頼して、これからも力の続く限り投げ出さないで続けていこうと、改めて勇気づけられました。

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〇「暑けりゃ暑い」と文句を言い、涼しくなれば「寒い」と文句を言う・・・と、ネパールのドクターに叱られましたが、涼しくするのにも段階ってものがあるでしょう。一晩のうちに10度の温度差はやっぱ意地悪ですよ・・と、私はまけじと応戦しましたが、ほんとにこの急激な温度の変化に年寄りはついていけません。これには医学的な根拠があって、暑いと不必要になるある物質があって、それが体内に減っているところに寒さがくると、調整が利かないで免疫のない弱者がやられるのだそうです。
何とかうまく調整をして、この変化を乗り切りましょう。ナナカマドの実もオレンジ色になってきました。間違いなく・・・秋がきています。

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〇裏庭の草木も名残の秋を咲いています。これは「草葉のかげ(?)」を撮ったものです。
一輪、二輪でも「わたしはここにいますよ・・」と、最後の力を振り絞って咲いてくれているやさしい野の花たちです。

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聖霊降臨後第18主日説教         岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「越えてくる愛」

今日の物語は、金持ちとラザロという人物が登場する三幕からなるドラマとして考えることが出来ます。先ず、第一幕の19-21節。ここでは現世に見るこの世の情景が描かれています。

続いて第二幕の22-26節。場面は一転して死後の世界に変わります。死んだ金持ちが陰府でさいなまれながら目をあげると、天使たちによって宴席にいるアブラハムの直ぐそばに連れて行かれたラザロが目に入ります。位置が逆転しています。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、とにかく僅かな水でも得たいと願い、アブラハムに向かってラザロを自分のもとへと遣わしてくれるようにと頼みます。しかし、答えは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちのほうへわたろうとしても出来ないし、そこから私たちの方に越えてくることもできない」という厳しいものでした。

もしも物語が、この二幕だけで終わっていたならば、現世と来世の対比を説く、ユダヤ教にも共通するたとえ話として、聞き流されていたかもしれません。

しかし、ルカによるこのたとえ話の核心は、27節から始まる第三幕にあります。そう、主は当時の人々が思い描いていた死後の世界観を用いながら、「今、どのようにいきるべきか」と私たちの生き方について教えてくださっているのです。

アブラハムの断固だる拒絶の言葉を聞いた金持ちは、自分に水が与えられないのであれば、せめてまだ現世にいる自分の五人の兄弟たちが、自分と同じ苦しい目に遭わないように、ラザロを遣わして警告してほしいと懇願しますが、この願いも聞き入れられることはありませんでした。

主は、ここであぶらはむを通し「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言う事を聞き入れはしないだろう」と言われます。人々は「モーセと預言者」つまり神のことばとしての聖書を通して、この世においてどのように生きるべきか、は十分に知らされ、教えられているから、それ以上のことを伝える必要はないと言うのです。

信仰と悔い改めに導くものは、ただ神の言葉だけです。すなわちそれは、モーセを通して示された神の意思を掲示する律法と、その時々の情況の中で律法の生きた言葉を語り示した預言者たちを通して示された神の言葉です。そして、聖書全体は律法と預言者を通して神の啓示の完成である、主イエス・キリストを証し、指し示しています。

私たちは罪によって神さまとの断絶、越えることの出来ない深い淵によってわけられている存在でした。しかし、主イエスは愛によってその淵を越えて、私たちのもとへと来てくださいました。愛を知らされ、愛に生きるものとされた私たちは、神と人を愛する生き方へと、み言葉を通して常に導かれているのです。


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9月19日「今日の礼拝堂」

2010年09月19日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第17主日

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〇秋は小菊の美しい季節です。もちろん大輪の菊も華やかに美しいけれど、秋の澄んだ空気の中で鮮やかさを増していく小菊が、やがて訪れる冬に向って力を蓄えることを教えてくれているような気がします。お花を活けた人・NAさんです。

今日の礼拝堂説教は「本当の価値」と題して、岡田牧師が語ってくださいました。
聖書の箇所は、ルカによる福音書16:1-13。小見出しには「不正な管理人」のたとえとあります。

今日のたとえ話はとても難しいと感じます。難しいと感じるところは、多分私たち人間の考える「価値感」と大きく異なっているからなのでしょう。この難しいと感じることこそが、私たち人間の掴みきれない罪に根ざしているということを、イエスさまは悟ってほしいと思っていられるようです。イエスさまは先ず、自分に与えられている以上の権限を使うようになってしまった人間に向かっていられます。私たちは自分に与えられた命を好き勝手に使って生きています。誤りを起こさないで生きられる人間はいません。しかしその人間を評価するのは神様です。
神さまが明らかに「不正」だと思われる管理人(私たち)が、それでも神さまに与えられた「命」という財産を何とかして守ろうとして必死に考えて生きる姿を認めてくださいました。

そこにたってこの箇所を読むと、一読して「難解」だと思っていた自分をもう一度吟味することができるように思います。不正な管理人は私なのだと・・・

〇私は今日の聖書を読んでいて、「おまえの借りはいくらあるのか」と問われて、すぐさま「油百パトス」とか「小麦百コロス」などと答えている召使たちにびっくりしました。
私は最後の審判のときに、おまえの借りはいくらあるのか?と神さまに問われても、自分の借りをこんなに明確に知ることができるだろうか・・・と。
その時こそ、現すことのできない自分の罪の全貌を裁き主が余すところなく裁いてくださるという「最後の審判」が、私には大きな安心であり、救いの拠り所です

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〇先週他の行事のために出来なかった教会の行事の確認と打ち合わせの会がもたれました。ミニバザーの売り上げをどこに献金するかなど、こまかいことを話し合いました。
この後、道央圏の「墓前礼拝」が行なわれるために、会議は簡潔にまとめられました。

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「日本福音ルーテル道央圏墓前礼拝」  於:平岸霊園

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司式・西川晶子牧師、聖書朗読・岡田薫牧師、説教・重富克彦牧師

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〇秋のお彼岸に合わせて、年に一度の墓前礼拝です。先に召された方々と顔を向き合わせて礼拝が出来る「同窓会」のような嬉しい日です。
午前中は雨模様だった空が抜けるような青空になって、爽やかな秋風の吹き抜けるなかで様々な思いをかみ締めながら、野外礼拝の喜びを味わいました。

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聖霊降臨後第17主日説教           重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「豊かな矛盾」

不正を賞賛される主イエス。受け入れがたいと思うかも知れません。主イエスのたとえ話しに登場するのは、主人から信頼されて、全財産の管理を任されている執事です。けれど彼は、主人の信頼をいいことに秘かに裏切っています。けれど密告する人がいて、不正が発覚しそうになります。不正の内容は、無駄遣いといわれているだけですが、放漫経営や横領、際限のない公私混同があったのでしょう。

情況は絶望的です。そこで彼は、クビになっても生きていけるようにと必死に思案し、思いついたのが、主人から借金している人の証文を書き換えて、その額を軽くしてやることです。こうして恩を売っておけば、いざというときには助けてくれるだろうと考えたのです。明らかに「私文書偽造」です。ところが主イエスはこの譬の締めくくりを「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた」と結ばれているのです。不可解です。

さてここで少し立ち止まって考えてみます。「不正な管理人」とは誰のことでしょうか。じつはわたしたち一人一人のことなのです。人類のことなのです。この世に命を預けられて、生かされている私たち一人一人が、審判をうけるために主の前に立たされ、「あなたの会計報告を出しなさい」と告知されたとき、どれほど辻褄のあう会計報告をだせるでしょうか。その収支を一つ一つ問いただされるとしたら、私たちに逃れる道はあるでしょうか。

注目すべきは、不正な管理人の、助かりたいがための必死さです。この必死さに注目させられます。「不正にまみれた富で友だちをつくりなさい」と主は言われます。「不正にまみれた富」とはなんでしょうか。わたしたちの信仰がそうです。生まれながら罪深く、汚れに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しつつ、助かりたいと願う、この信仰がそうです。信仰の中にもエゴイズムがあり、自己保身があります。信仰だけが純粋なことはありません。裁きを受けるのが恐ろしいから、キリストにおすがりするのです。滅ぼされるのが恐ろしいから、イエス・キリストにおすがりするのです。清も濁も動員して、キリストに救いを求めるのです。

「ともだち」とは誰でしょうか。イエス・キリストのことです。もちろん、主イエスのために借金を棒引きしてやったなどということはありえません。焦点は、助かりたいと願う必死さです。その思いを、主イエスは祝福して、友だちとして受け入れてくださるといわれるのです。受け止めて、永遠の住まいに迎えてくださるといわれるのです。

私たちは、純粋無垢ではありません。存在自体が「不正にまみれた富」です。けれども、神に救いをもとめるか、富に救いを求めるか、それに二つの道はあります。助かるためには、自分が「不正にまみれた富」であることを重々承知のうえで、罪の赦しと永遠の命を与えてくださるイエス・キリストに救いを求める道しかありません。その道を行くのです。そうするのは、私という存在が、「不正にまみれた富」のまま、すでにキリストに捕らえられ、赦され、永遠の命に生かされているからです。

〇説教の全文をお読みになりたい方は以下のサイトでごらんください。
http://sermon.nonomichi.com/


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9月12日「今日の礼拝堂」

2010年09月12日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第16主日

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〇やっと、やっと、記録的な酷暑から北国らしい爽やかな秋風を、頬に感じるようになり
ました。今日のお花はまさに秋の先取り、秋が満載の一活けです。待ちわびた秋の香り
を胸いっぱいに吸い込んでください。
りんどう、コスモス、桔梗、シュウメイギク・・・みんな秋の花です。
今日は重富牧師の「見い出されし者」という説教を聞きました。「あなた一人のために神
さまがいる」「わたし一人のために神さまがいる」・・・このたくさんの秋の花の一本、一本
をも神さまが見守り育て支えてくださっている。
そのことを、この花たちは疑いもなく素直に知っているのでしょう。だから美しい。だから
強い。だから力みがない。だから調和する・・・・。活けた人・NAさんです。

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〇ネパールでの医療活動をライフワークとして、ご奉仕していらっしゃる楢戸健次郎先生
の帰国を待ちかねて、新札幌礼拝堂での「報告会」をお願いしました。
先生が新札幌礼拝堂の会員でいらっしゃることを、教会員は大きな誇りと喜びをもって、
年に一度のご帰国を待ちわびて取り囲みます。
先生は写真の専門家が撮ってくださったという、ネパールの景色や医療活動、キラキラと
美しい瞳をもった子どもたちの写真を、にわか作りの
スクリーンにプロジェクターで映し出してユーモアたっぷりにお話をしてくださいます。
先生のお話しは、この種の話しにありがちな悲壮感や誇張がなくて、ご自分が現地での
活動をどんなにか楽しく、心に余裕をもってしていらっしゃるかが伝わってきて、聞くもの
の心に「神さま」の愛と存在を極々自然に注ぎ込んでくださいます。
先生のご健康が守られますように、
私たちが常に貧困に喘ぐ人々の存在を忘れないで祈ることができますように・・・・・

〇話はがらっと変わりますが、札幌市の街路樹にはどのくらいの種類があるのでしょう。
イチョウ、ライラック、イチイなどなど・・・どうやら40種くらいあるらしいのですが、私の住
んでいる清田区にはプラタナスが多いようです。
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春の間は無骨な枝があるだけで、街路樹とはいえないような感じですが、これがなんと
夏を迎えるころには、大きな大きな葉っぱが天をつくように生い茂ります。
そして、秋を迎える今頃になると、「剪定」のためにトラックが何台も連なって、荷台にい
っぱい枝葉を積んでいきます。
作業をする人は、電線に絡みつくように生い茂っている枝葉を切るのですから、大変な
作業です。私はなんでプラタナスなんか植えたんだろうと、ずっと思っていました。
ところが先日お買い物に行った帰りに、その街路樹の根元に気になるものを見つけて
もう一度戻って拾ってみました。それがこの写真の「実」です。ついでに、この実がつい
ているところの写真もゲットしました。

そして・・・このプラタナスという樹は「鈴懸の木」(スズカケノキ)という、なんともたおやか
な、雅やかな名前のあることを知りました。興味のある方は下のサイトをご覧ください。
http://elekitel.jp/elekitel/nature/2006/nt_52_platanus.htm

見かけだけで何でも一刀両断に判断してしまう自分を恥じた一日でした。
そして、美しい名前をもつ街路樹の傍に住んでいることを、心から嬉しく思った日です。

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聖霊降臨後第16主日説教       重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「見い出されし者」

現在の世界の総人口は約68億人です。わたしという存在は68億分の一です。しかし、地
球とは不思議なものです。68億分の一人一人が、丸い地球の表面の中心にいます。
端っこにいる人は、誰もいないのです。神さまの愛に似ています。

「徴税人は罪人」が、イエスと共に食卓についています。当時の良識人には受け入れがた
い光景です。そこでイエスのたとえ話です。迷子の羊の譬えと無くした銀貨の譬えが語られ
ています。

どちらの譬えも、大切な者を見失ったときの必死な思いと、見つけたときの喜びを語ってい
ます。「99匹を野原に残して」とは、99匹よりも、失われた一匹の方が大切ということです。
不合理です。この不合理が愛なのです。

神さまにとっては、徴税人、売春婦、ホームレス、エリート、これらの横の比較は何の関係
もありません。一人一人が、地球という広がりのその真ん中にいるように、神さまの愛の真
ん中に立たされています。他の者よりも大切です。

一匹狼というのは、群れに背を向けた孤高の狼のことではありません。群れから追放され
距離をおいてトボトボついていく元ボスの狼です。

バウリンガルという犬の声の翻訳機を応用して、あるテレビ番組が、一匹狼の声を収録翻
訳したことがあります。その声は「俺は、どこにいるのか」という悲しい声でした。

「どこにいるのか」、これは神さまが人間に最初に問いかけられた問いです。それ以来、こ
の問いは、私たち自身の内なる声となりました。動物はきっと、群れの中にいれば、その
問いを解消できるのでしょう。けれど人間は、群れの中にいるときも、ひとりのときも、いつ
もこの問いを抱えています。魂はいつも一匹狼、迷子の羊なのです。

ほんとうに、この問いに答えが与えられるのは、永遠の愛を体験させていただくときです。
自分は自分。68億分の一なのに、68億何千何百何十何万何千7百何十人の中で、誰
とも入れ替えることも取り替えることも取り除くこともできない、独自で一回限りの自分、そ
の自分のために神さまはイエス・キリストを送ってくださった。その自分が地獄で亡びない
ために、イエス・キリストは十字架にかかり、地獄にいき、そして蘇ってくださった。

「わたしはどこにいるか」、その答えはこの絶対愛の体験のなかにあるのです。

私たちが、自分の愚かさ、弱さを、罪深さを思うとき、まるで自分一人が愚かで、弱く、罪
深いと感じます。自分のような偽善者は他にはいないのではないかと思います。神さまは
わたしたちをそう思わせて、自分に向わせられるのです。キリストの愛が、自分一人のた
めにこそあることを知らしめるためです。

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、身よ、あなたは、そこ
にいます。曙の翼を駆って海の彼方に行き着こうとも、あなたはそこにいまし、
御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(詩編139:8-10)
キリストの愛はわたし一人のため、一人一人が、そう思うように促されています。

あなたは世界の中心、愛の中心にいるのです。

〇説教全文をお読みになりたい方は下のアドレスをおひらきください。
http://sermon.nonomichi.com/


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9月5日「今日の礼拝堂」

2010年09月05日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第15主日  音楽礼拝

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                                          〇初めの歌  「神の国と神の義を」

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         神の国と 神の義を まず求めなさい   そうすれば みな与えられる 

         ハレルヤ ハレルヤ


                                      〇罪の告白と赦し 「主に罪を赦され

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          1.主に罪を ゆるされ 神の子の めぐみに 満たされた喜び

    心から 歌おう わがいのち わがうた とこしえに 主をほめ 

      わがいのち わがうた 救い主 キリスト

         

   2.主に全て  ゆだねて 平安にみたされ  朝夕に感謝し

     

      主のみ名を たたえる

               

      わがいのち わがうた 救い主 キリスト

            


                       ・〇みことばの歌  「ガリラヤの風かおる丘で」

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  1.ガリラヤの風かおる丘で 人々をさとされた めぐみのみことばを

      わたしにも聞かせてください

  

   2.あらしの日 波たける湖(うみ)で 弟子たちを諭された ちからのみことばを

    

     わたしにも聞かせてください

   

   3.ゴルゴダの十字架の上で つみびとを招かれた 救いのみことばを

     

     わたしにも聞かせてください

   

   4.夕ぐれのエマオへの道で 弟子たちに告げられた いのちのみことばを

       

     わたしにも聞かせてください

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〇説教  岡田薫牧師 (週報掲載説教要旨)


「私の神」

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「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子では有り得ない」この言葉は、私たちに重く響きます。みことばに耳を傾けることだけでも大変なことなのに、その呼びかけに応え、自分の十字架を背負って主に従うという決断はなかなか出来るものではない・・と諦めてしまう人もいるかもしれません。


しかし主はここで、従おうとする者たちに選ぶ自由を残しておられます。それが「悔い改め」です。古い自分を脱ぎ捨て、救われた喜びに生きる者としての新しいいのちへと進むか否かはあなた次第と言われるのです。なぜなら、主に従うとは主イエスが歩まれた道に従うということ。つまり主が捨てられ、苦しみを受け、十字架を背負われたように、従おうとする者たちにもそれぞれの十字架があるからです。十字架を担うには、大きな勇気と決断が必要です。しかし、この十字架を自分で何とかしよう、自分の力でやり遂げよう、そのように考えてゆくならば、おそらくその決断は自己満足や自己顕示で終わってしまうでしょう。


なぜなら、十字架とは本来担いたくないもの。自らが担うといよりは、担わせられるものだからです。主イエスも十字架を担われたとき、ここにご自分を支え導びかれる父の存在を感じておられました。

十字架こそが父のみ心であり、その先にある栄光の復活を見据えながら、主は全てを信頼のうちに成し遂げられました。ここに私たちが学ぶ信仰の姿があります。

ところが私たちは、目に見えず、触れて確認もできないものをなかなか信じることができません。しかし、それにも関わらず、主は「自分の十字架を背負って」従うようにと私たちを招いておられます。


十字架は、主イエスが私たち一人ひとりをこよなく愛して、共に在ろうとされた生き方の延長上にたっています。ですから十字架において、私たちが注目すべきは、その悲惨な死に方ではなくて、十字架を負うに至らざるを得なかった主イエスの生き方です。十字架は罪のための犠牲であるゆえに、身代わりであるというよりは、罪への徹底した寄り添いのゆえにある身代わりです。

「あなたにはわたしが寄り添っている」という約束が先にあります。だからこそ、私たちは自分の十字架を知り、それを担うことが出来るのです。





      〇感謝の歌 「スピリットソング」

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1.聖霊と愛とが あなたをつつむとき 心も魂も 満たされて 

 

 あなたの心に 主がともに住み 古い自分は過ぎ去る

2 あなたの悲しみ その目の涙も すべてを 主にゆだねて

  

  喜びの歌をともに歌おう あふれながれる 恵みを

   
(くりかえし)


      ジ―ザス おお ジ―ザス あなたの愛で

      ジ―ザス おお ジ―ザス 心を満たして


                   〇奉献の歌  「ひとりの小さな手」

               
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1. ひとりの小さな手なにも出来ないけど それでもみんなの手と手を合わせれば 
    なにか出来る 何か出来る

2.ひとりの小さな目なにも見えないけど それでもみんなの瞳でみつめれば

    なにか見える なにか見える

3.ひとりの小さな声なにも言えないけど それでもみんなの声があつまれば

    なにか言える なにか言える

4.ひとりの人間はとても弱いけど それでもみんなが集まれば

    強くなれる 強くなれる

5.ひとつの主のからだ 枝枝ちがうけど それでもみんなが一つに結ばれて

    強く生きる 強く生きる

     〇派遣の歌 神さまの祝福があなたにありますように

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   1.天使があなたの道を みまもっている    神の祝福 ありますように

  2.父はこどもをまもり 平和をくださる 神の祝福 ありますように

  3.もしもあなたの道を苦しみが襲っても 神の祝福 ありますように

  4.どんなときにも主は あなたのそばに 神の祝福 ありますように


            〇終わりの歌 「シャローム」

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シャローム シャローム また会う日まで シャローム シャローム 神のみ恵み

シャローム シャローム また会う日まで  シャローム シャローム

        ゆたかに、ゆたかに ゆたかに・・・・・

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〇第二部「楽しかったね、良かったね、またやろうね・・・のお茶の会」

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〇ミニ・ミニ・バザーもしました。
この益金は恵み野教会の補修工事のために
お捧げします。このバザーは常設ですので、ときたま思いがけない掘り出し物
がありますので、どうぞお楽しみに。全部、手作りのものなので、とても暖か
い作品です。アスターのかわいいお花もご披露しましょう。秋になって、この
アスターが色鮮やかになってきました。秋の空によく映える花です。

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