聖霊降臨後第18主日
〇リンドウにわれもこう、小菊をねじめにして今日も秋満開の一活けです。りんどうは丸ごと秋!という印象を与えるのに、秋の七草の中には入っていないというのが、昔からの私の大きな疑問というか、不満というか。りんどうはどう考えても秋を代表する花ですよね。活けた人・NAさん。
〇今日の礼拝堂説教は重富牧師でした。説教題は「此岸と彼岸」。聖書の箇所は有名な「金持ちとラザロ」(ルカ書16:19-31)。
牧師は開口一番「人生とは不公平なものです」と語られ始めました。いつも、不公平だ不公平だと呟いている私は、思わず身を乗り出して聞き入りました。しかし牧師の説教は、人生はそれでいいのか?というイエスさまの問いかけへと発展していきました。そして、次に大きな展開を迎えます。
金持ちが強欲な人で、極貧のラザロが清貧の人だったとは聖書は語っていません。展開された場面は二人の登場人物の彼岸での目覚めです。辛い人生を生き抜いたラザロ、時には本当に神はいるのか・・という懐疑の中で苦しんだことでしょう。そのラザロが目覚めたところは天使たちに伴われた天の宴席でした。理不尽な苦しみはそのままでは終わらない。労われ、共感してくださる主を信じることの勝利がここに示されています。
反対に金持ちの方は、焼き尽くす地獄の炎・炎の裁きの中で目覚めます。金持ちの罪とはいったいなんだったのでしょう。お金をもっていたことが悪いのではない。そのお金を他者のために使うという気持ちをもたなかったこと・為すべきことを「しなかった」ことが罪に定められています。
では、この二つの埋めることのできない「淵」・・・そこに悔い改める機会はないのか?
天国と地獄の断絶・彼岸と此岸の断絶・・これが死です。しかし、その死の価する地獄の底まで主がいてくださったということが、今日の福音だと牧師は結びました。
〇現実の生活の果てしない苦悩の中にある私たちにとって、さまざまな呟きが生まれるし、激しい問いと叫びも生まれるように思います。
でも、重富牧師は揺るぎなく断言しました。「信じようよ。信じなさいといわれているんだから、素直に信じようよ」・・・・この「我ここに立つ」人の強い信仰によって語り伝えられる説教には、理屈を捏ねる隙を与えない強さを感じます。・・・うん、そうしよう。うん、信じよう・・・と。
牧師の説教をもっと読みたい方は「重富牧師説教集」をごらんください。
http://sermon.nonomichi.com/
〇今日は珍しいお客さまをお迎えして賑やかな礼拝堂です。まだ80代の半ばの方ですが、お身体の調子がよくなくて、しばらく礼拝堂にいらっしゃれない方のご家族が、揃って礼拝にお見えになりました。息子さんご夫婦とお孫さんに囲まれてTTさんのお顔色も晴れやかでした。
その息子さんが「私はこの教会初めてなんですが、いつもブログでみなさんのお顔や教会の様子を見ているので、初めての感じがしません。」
うわーっ!かれこれ5年以上続けているブログに、こんな「お言葉」を頂戴したのは初めてでした。そして、やっと、私が目指したブログづくりの目的が、遠く離れた知らないところで少しずつ成長しているのを知って嬉しい出会いでした。「成長させてくださる神さま」に信頼して、これからも力の続く限り投げ出さないで続けていこうと、改めて勇気づけられました。
〇「暑けりゃ暑い」と文句を言い、涼しくなれば「寒い」と文句を言う・・・と、ネパールのドクターに叱られましたが、涼しくするのにも段階ってものがあるでしょう。一晩のうちに10度の温度差はやっぱ意地悪ですよ・・と、私はまけじと応戦しましたが、ほんとにこの急激な温度の変化に年寄りはついていけません。これには医学的な根拠があって、暑いと不必要になるある物質があって、それが体内に減っているところに寒さがくると、調整が利かないで免疫のない弱者がやられるのだそうです。
何とかうまく調整をして、この変化を乗り切りましょう。ナナカマドの実もオレンジ色になってきました。間違いなく・・・秋がきています。
〇裏庭の草木も名残の秋を咲いています。これは「草葉のかげ(?)」を撮ったものです。
一輪、二輪でも「わたしはここにいますよ・・」と、最後の力を振り絞って咲いてくれているやさしい野の花たちです。
聖霊降臨後第18主日説教 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
「越えてくる愛」
今日の物語は、金持ちとラザロという人物が登場する三幕からなるドラマとして考えることが出来ます。先ず、第一幕の19-21節。ここでは現世に見るこの世の情景が描かれています。
続いて第二幕の22-26節。場面は一転して死後の世界に変わります。死んだ金持ちが陰府でさいなまれながら目をあげると、天使たちによって宴席にいるアブラハムの直ぐそばに連れて行かれたラザロが目に入ります。位置が逆転しています。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、とにかく僅かな水でも得たいと願い、アブラハムに向かってラザロを自分のもとへと遣わしてくれるようにと頼みます。しかし、答えは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちのほうへわたろうとしても出来ないし、そこから私たちの方に越えてくることもできない」という厳しいものでした。
もしも物語が、この二幕だけで終わっていたならば、現世と来世の対比を説く、ユダヤ教にも共通するたとえ話として、聞き流されていたかもしれません。
しかし、ルカによるこのたとえ話の核心は、27節から始まる第三幕にあります。そう、主は当時の人々が思い描いていた死後の世界観を用いながら、「今、どのようにいきるべきか」と私たちの生き方について教えてくださっているのです。
アブラハムの断固だる拒絶の言葉を聞いた金持ちは、自分に水が与えられないのであれば、せめてまだ現世にいる自分の五人の兄弟たちが、自分と同じ苦しい目に遭わないように、ラザロを遣わして警告してほしいと懇願しますが、この願いも聞き入れられることはありませんでした。
主は、ここであぶらはむを通し「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言う事を聞き入れはしないだろう」と言われます。人々は「モーセと預言者」つまり神のことばとしての聖書を通して、この世においてどのように生きるべきか、は十分に知らされ、教えられているから、それ以上のことを伝える必要はないと言うのです。
信仰と悔い改めに導くものは、ただ神の言葉だけです。すなわちそれは、モーセを通して示された神の意思を掲示する律法と、その時々の情況の中で律法の生きた言葉を語り示した預言者たちを通して示された神の言葉です。そして、聖書全体は律法と預言者を通して神の啓示の完成である、主イエス・キリストを証し、指し示しています。
私たちは罪によって神さまとの断絶、越えることの出来ない深い淵によってわけられている存在でした。しかし、主イエスは愛によってその淵を越えて、私たちのもとへと来てくださいました。愛を知らされ、愛に生きるものとされた私たちは、神と人を愛する生き方へと、み言葉を通して常に導かれているのです。